夜の市役所は、いつもより明るかった。
危機管理課の臨時会議で、私が最後に押した送信は「停電情報・第3報」。地図上に赤い四角が三つ、時刻は21時05分から21時17分。配電盤の系統番号と、復旧見込み。
仕事を終え、椅子から立ち上がると、スマホが震えた。画面に「御子柴」の名前。昔からの友人で、いまは所轄の刑事だ。
「灯子(とうこ)? 停電マップ、見た」
「うちの課が出したんだもの。何」
「今夜の21時10分前後、例の停電エリアで死体が見つかった。転落。他殺の可能性濃厚。で――言いにくいが、おまえの“地図”が犯人のアリバイに絡みそうなんだよ」
私はパソコンの電源を落とし、折り畳み傘をバッグに仕舞った。外はまだ、細かい雨だ。
「行く。現場はどこ」
「南谷(みなみだに)三丁目、マンション“ヴェイル南谷”の前。香取(かとり)悠人、三十四。広告の仕事を自宅でやってた男だ」
私の足は自然と早歩きになった。
停電の地図は、誰かの夜を照らすためにある。けれど、その四角が、別の誰かの嘘を照らすことだってある。
マンション前の駐車スペースに、白いテープが貼られていた。雨に濡れたアスファルトに、傘の影が揺れる。
御子柴は当然のように私の袖を引き、テープの外から見える範囲の説明を始めた。
「被害者は三階のベランダから落下。頭部強打。靴は履いていない。ベランダの柵に擦過痕。室内に争った形跡は薄い。時刻はおおよそ21時10分から15分の間」
「停電と重なる」
「ああ。で、容疑者は三人。ビジネスパートナーの女性・霧島、元恋人の男子・木暮、隣室のピアノ講師・中本。三人とも“その時間”の動きを主張してる」
「アリバイ?」
「霧島は“リモート商談”の録画がある。木暮は“生配信でギター弾いてた”と。中本は“オンラインレッスン中”。どれも画面とチャットログがある」
私は、ぬかるんだ地面を見た。足跡は薄く、雨が均した。
ベランダの上を見る。三階、手すりの内側に、白いバスタオルがぶら下がっている。タオルの端から、水滴がまっすぐ落ちる。その規則正しさに、私の鼻の奥がきゅっとする。
変だ、と体が言った。雨の滴りはもっと乱暴だ。そこにだけ、雨のノイズがない。
「タオルの滴り、変だね」
「そこに拘るの、まさにおまえらしい。鑑識も同じこと言ってた。“シャワーの水みたいに落ちる”ってな。実際、室内の浴室が使われた形跡がある。排水口に髪、床は拭き取り済み」
「誰かがバスタオルを濡らして、ベランダに掛けた。残り香は」
「柔軟剤の香り。被害者の部屋から出てきたボトルと一致。まあ、そこは中立だ。自殺偽装の可能性もある」
私は頷いた。
けれど、タオルの逆さの雨が頭の片隅に残る。
御子柴は、三人の供述を手短に続けた。
「霧島は“19時半から22時までクライアントと商談のビデオ通話”。録画がある。木暮は“20時半から21時半まで生配信”。録画とチャットが残ってる。中本は“21時から21時40分までオンラインレッスン”。これも生徒側の画面録画あり。しかも三人とも、配信の背景に“時刻の入った何か”が映っている」
「たとえば」
「霧島の画面には電子レンジの時計が“21:12”。木暮の配信には壁掛けの電波時計。中本はPCのタスクバーの時刻が“21:23”。――どれも、停電時間に“動いている”。だからこそ、奴らは声をそろえて言う。『停電してなかった。ニュースは間違い』ってな」
私は息を吸い、吐いた。
ニュースは間違いではない。少なくとも、私たちの地図は、配電会社のスマートメーターの集計から出している。一本一本の系統が“逆潮流”で光る瞬間まで含めたデータだ。
「その三人の住所は」
「霧島は南谷二丁目。停電エリア内。木暮は北大通り沿い。エリア外。中本は被害者の隣、当然エリア内」
「じゃあ、少なくとも霧島と中本の“時刻表示”はおかしい可能性がある。停電中なら、電子レンジの時計は点滅する。PCの時刻は、バッテリーが持てば動くけど、ルーターが死ねば接続が切れてオンラインレッスンは不安定になる」
御子柴が顎をさすり、「見てほしいものがある」と言った。
私は現場に面した通りの向こう側にあるカフェに移動し、ノートPCを開いた。御子柴がUSBメモリを差し込み、三人の“映像”を並べる。
まず霧島。白いキッチン、清潔な調味料ラック。電子レンジの液晶には「21:12」。青い光があまりに安定している。
木暮。ギターの音、コメント欄には「停電大丈夫?」という文字もある。彼は「うちは平気」と笑い、時計は21:09を指す。
中本。ピアノの音はやけにクリアで、対面する生徒の画面には数式が並ぶ。ピアノの脇のノートPCの右下、21:23。
私は、映像を止めた。
まず霧島の電子レンジにズームする。液晶の横に、誰も使わない「オーブン温度」ダイヤル。古いタイプだ。電源が落ちれば時計は「0:00」点滅、復旧後は点滅が止まらない限り時刻表示は戻らない。
なのに、21:12。点滅の痕跡もない。
加えて、霧島のキッチンの隅に、黒い電源タップ。差し込まれたプラグのうち、ひとつだけ青いLEDが“ゆっくりと”点滅している。――あの点滅周期は、停電復旧後に“通電確認”で五分間だけ点くタイプだ。停電直後なら点滅するが、21:12にそれが点いているのは復旧から数分以内。つまり、停電を前提とする映像の時間軸と矛盾する。
私は首を傾げ、さらに別のものに気づいた。
霧島の背後、冷蔵庫の上に積まれたスーパーのレジ袋。その口が固く結ばれているのに、袋は“膨らんで”いない。冷蔵庫の上は温かく、置いたばかりなら袋は湿気でふくらむ。――些末に見えるが、時間の手がかりだ。
木暮の配信に移る。壁の電波時計。秒針が滑る音が微かに拾われている。チャット欄には「街灯消えた」「暗い」。彼は曲の間で外を覗き、「こっちは普通」と言う。
私は彼の配信を一時停止し、壁のポスターに目を凝らす。ライブハウスの告知、日付は来週金曜。新しい。つまり、映像は最近のものだ。疑義なし。
中本に移る。ピアノの音が綺麗すぎる。ルームリバーブがない。指の離鍵の音も小さい。マイクの位置が良すぎるのか、あるいは“録音”か。
彼女のPCの右下の時刻「21:23」。その右に、小さなアイコンが並ぶ。Wi-Fiの電波マークは満タン。しかし、その横の雲のアイコン――“OneDriveは更新済み”の緑のチェック。停電でルーターが落ちて再接続した直後なら、クラウドは“更新中”の丸矢印が回るはずだ。
さらに、彼女のPCのタスクバーには、外部ディスクのアイコン。USBの取り外し安全。青いLEDが映像にちらつく。停電で電源が切れたら、外部ディスクは“安全な取り外し手順なく”切れる。次に挿したとき、エラーメッセージが出る。――映像には、何も出ていない。
私は、三つの映像をもう一度、頭から見直した。
そして、決め手を見つけたのは、またしても“音”だった。
霧島の商談の途中、遠くで「プン」と短いビープ音がする。私は思わず音量を上げた。
御子柴が「何だ」と囁く。
私は笑わずに説明した。
「うちの停電情報に付けてる“音声配信”の区切り音。第2報を出すとき、私が入れてるビープ。二十時四十九分に出したやつ。たった一度しか鳴らさない。――霧島の商談は“その音の後”に収録されている。彼女の家が停電エリアなら、その音の時間帯は既に真っ暗で通信も不安定のはず。なのに、映像は明るく安定してる」
御子柴が身を乗り出す。
「つまり、霧島の“商談”は、停電のない場所で録った。配信時間だけ“今に合わせて”流した」
「そう。木暮はおそらく本当に生配信だった。中本は……録音したピアノ音源を“合わせて”使っている。音が綺麗すぎる。停電中にWi-Fiが無事でも、相手側の画面にたまにラグが出るはず。生徒の画面は滑らかすぎる」
私は、現場のバスタオルを思い出し、筋道を繋いだ。
「トリックはこう。犯人はまず浴室でバスタオルを濡らし、ベランダに掛け、雨音を“複製”した。不自然な直線の滴りは、雨の再現の下手さ。停電中で外灯が落ち、視界が暗い時間に、被害者をベランダに呼び出して――押した。
問題は、誰がその時間に自由に動けたか。木暮は生配信の最中で、部屋の背景に“窓に映る街灯”があった。エリア外の明るさと一致。彼は白だろう。
残る二人。霧島はエリア内のはずなのに映像は明るい。違う場所で撮って“商談中”を作った。中本は隣の住人で、映像は録音の可能性がある。二人とも、停電の瞬間、自由だった」
御子柴は深く息をつき、手帳に何かを書きつけた。
「どっちだと思う」
「霧島」
私は即答した。
根拠は、霧島の“キッチン”の細部。壁に取り付けられた磁石のスパイスラック。そこに並ぶ瓶のラベルが、左から「塩」「胡椒」「七味」。瓶は同じメーカーで、ラベルは同一書体。だが、塩だけラベルの下辺がほんの少し“斜め”。
このズレを、私は知っている。南谷二丁目の貸しスタジオ「コモン・キッチン」の備品だ。私たち危機管理課は、避難所の炊き出し訓練にそこを借りたことがある。
霧島は“自宅のキッチン”と言いながら、避難訓練で使った“貸しキッチン”で商談を録画した。停電エリア外で。
「霧島は“偽装商談”を録り、停電時間に合わせて流した。被害者のマンションには徒歩五分。21時05分の消灯を見てから、暗闇に乗じて三階に。エントランスのオートロックは、被害者の呼び出しで開けた。彼女が香取の仕事相手なら不自然じゃない」
「動機は」
「香取が広告の不正な“水増し”をやめると言い出し、霧島の大口契約が飛ぶ寸前だった、って筋書き。配信の商談相手もたぶん“仕込み”。――でも、決定打は別にある」
私は、霧島の電子レンジの時計にもう一度ズームした。
液晶の右上。微かな点。
電子レンジの古い機種は、時刻の“コロン(:)”が一秒ごとに点滅する。
霧島の映像では、コロンが“偶数秒で点灯”。一方、彼女の口の動きのリップシンクと、画面上の商談アプリの経過時間は“奇数秒で区切れている”。――つまり、映像は二重に合成されている。キッチンの映像に、商談画面を“はめ込んで”いる。
わざわざそんな手間をかけるのは、自宅ではない場所だから。背景に余計な物が映るのを避けたい。自宅の証拠を消したい。
だが、点滅周期までは欺けない。
「極めつきは、電子レンジの型番。映像の端に“NR-B320”。コモン・キッチンの備品リストに同じ型がある」
「そこまで出るか、おまえの目は」
御子柴は笑って、もう笑わなかった。
その夜のうちに、霧島の身柄は確保された。
取り調べ室の窓は、雨にぼやけていた。
霧島は、白いブラウスの襟を少しだけ崩し、静かに座っている。目は疲れて、唇だけが強い。
「霧島さん。あなたは21時前に“コモン・キッチン”で商談の録画を行い、その映像を21時10分ごろに流しました。停電エリア外です。商談相手は実在しますが、やり取りは“編集”で作った。背景に映る電子レンジのコロン点滅、電源タップの通電ランプ、ビープ音――どれも、私たちの地図と矛盾する」
「……そんな奇跡みたいなこと、よく気づきましたね」
霧島は薄く笑い、すぐに笑いを消した。
「でも、あの夜、私は香取さんの部屋には行っていません。彼とは契約のことで言い争ってはいたけれど」
「あなたはタオルを濡らした。浴室の排水の髪は、あなたのものだ。DNA鑑定の結果が出ている。――香取の部屋に入る鍵は?」
「知りません」
「合鍵は無くても、彼はあなたのインターホンに応じる。仕事相手には甘かったから」
霧島の肩が、目に見えないほどわずかに前へ落ちた。
沈黙の間を、雨が埋める。
やがて彼女は、ひと呼吸分だけ軽く笑い、口を開いた。
「……点滅、なんですね」
「え?」
「電子レンジのコロン。そこまで、見る人がいるなんて。私、広告の仕事をしていて、いつも“一秒”を伸ばしたり縮めたりして、誰かの注意をずらしていた。――でも、点滅だけは、編集で揺れない。馬鹿みたい」
「あなたの仕事の腕は認める。けれど、香取さんは落ちた。あなたが押したんだ」
「押してません」
即答だった。
私は、トリックの最後をまだ言っていなかったことに気づいた。
「……あなたは“押してはいない”。でも“引いた”。バスタオルだ」
霧島のまぶたが、初めて大きく揺れた。
私は続けた。
「ベランダの手すりに掛けた濡れタオルに、見えない細い糸を通した。階下の物干しから釣り上げられる、釣り糸の太さ。香取さんがベランダに出て手すりに触れた瞬間、あなたは廊下からそのタオルを“引き落とした”。濡れた重みでタオルは落ち、手すりは濡れ、香取さんの足元は滑る。押すより“事故”に見える。あなたは廊下に糸を回し、合図を見て引いた。――廊下の監視カメラが一瞬暗転したのは、停電のせいじゃない。あなたが目の前を通した傘のせい。レンズに水滴がついた」
御子柴が、小さく頷いた。廊下のカメラの前を横切る黒い影。雨粒のレンズフレア。
霧島は、そのまま沈黙した。
やがて、彼女は首をゆるく振った。
「……私は、誰かに押されていたのかも。数字に。クライアントの怒りに。全員が言ったの。“前の月の数字、越えられますか”って。越えられなきゃ死ぬ。死にたくないから、水増しして、編集して、点滅を消して。
香取は、やめようって言った。正しいのは彼。でも、彼は簡単に言った。“やめればいいだけだ”って。――“だけ”じゃなかった」
彼女の声は、最初から最後まで穏やかだった。
事件が片付いた翌朝、私は出勤の電車で、吊り広告を眺めた。
明るすぎる色。決められた笑顔。秒刻みの窓。
車両ドアの上のモニターには、天気のアイコンが並び、その右に“緊急情報なし”の緑の帯。
何も起きていない朝の色は、たしかに眩しい。
市役所に着くと、私は停電マップの“履歴”ページを開いた。昨夜の21:05–21:17、三つの四角が点滅するアニメーション。
そこに、メモを追加する。「復旧時点の地図スクリーンショットを保存」。
点滅は、記憶のためにある。嘘にも偶然にも、後から触れられるように。
御子柴から短いメッセージがきた。
「おまえの“点滅の目”に救われた」
私は返した。
「点滅は消せない。だから公平」
送信して、窓の外を見た。
雨の気配はなく、街は乾いていた。
私は机の上の時計を見た。秒のコロンが、規則正しく瞬く。
そして、昨夜の現場で見た、ぶら下がるタオルの真下、絵のように真っ直ぐ落ちる滴を思い出し、胸の奥がひやりとした。
あれは、雨の匂いがしなかった。
雨には雑味がある。土の匂い、アスファルトの熱、遠い油。
濡れタオルの水は、ただの水道水だ。匂いのない水は、真っ直ぐに落ちる。
私はその差を、きっとこれからも忘れない。
点滅は、世界の呼吸だ。
次に誰かが、点滅をなかったことにしようとしたら――私はまた、地図に小さな四角を灯すだろう。
公平であることは、冷たいだけのことじゃない。
誰かの夜を、見える形にすることだ。
危機管理課の臨時会議で、私が最後に押した送信は「停電情報・第3報」。地図上に赤い四角が三つ、時刻は21時05分から21時17分。配電盤の系統番号と、復旧見込み。
仕事を終え、椅子から立ち上がると、スマホが震えた。画面に「御子柴」の名前。昔からの友人で、いまは所轄の刑事だ。
「灯子(とうこ)? 停電マップ、見た」
「うちの課が出したんだもの。何」
「今夜の21時10分前後、例の停電エリアで死体が見つかった。転落。他殺の可能性濃厚。で――言いにくいが、おまえの“地図”が犯人のアリバイに絡みそうなんだよ」
私はパソコンの電源を落とし、折り畳み傘をバッグに仕舞った。外はまだ、細かい雨だ。
「行く。現場はどこ」
「南谷(みなみだに)三丁目、マンション“ヴェイル南谷”の前。香取(かとり)悠人、三十四。広告の仕事を自宅でやってた男だ」
私の足は自然と早歩きになった。
停電の地図は、誰かの夜を照らすためにある。けれど、その四角が、別の誰かの嘘を照らすことだってある。
マンション前の駐車スペースに、白いテープが貼られていた。雨に濡れたアスファルトに、傘の影が揺れる。
御子柴は当然のように私の袖を引き、テープの外から見える範囲の説明を始めた。
「被害者は三階のベランダから落下。頭部強打。靴は履いていない。ベランダの柵に擦過痕。室内に争った形跡は薄い。時刻はおおよそ21時10分から15分の間」
「停電と重なる」
「ああ。で、容疑者は三人。ビジネスパートナーの女性・霧島、元恋人の男子・木暮、隣室のピアノ講師・中本。三人とも“その時間”の動きを主張してる」
「アリバイ?」
「霧島は“リモート商談”の録画がある。木暮は“生配信でギター弾いてた”と。中本は“オンラインレッスン中”。どれも画面とチャットログがある」
私は、ぬかるんだ地面を見た。足跡は薄く、雨が均した。
ベランダの上を見る。三階、手すりの内側に、白いバスタオルがぶら下がっている。タオルの端から、水滴がまっすぐ落ちる。その規則正しさに、私の鼻の奥がきゅっとする。
変だ、と体が言った。雨の滴りはもっと乱暴だ。そこにだけ、雨のノイズがない。
「タオルの滴り、変だね」
「そこに拘るの、まさにおまえらしい。鑑識も同じこと言ってた。“シャワーの水みたいに落ちる”ってな。実際、室内の浴室が使われた形跡がある。排水口に髪、床は拭き取り済み」
「誰かがバスタオルを濡らして、ベランダに掛けた。残り香は」
「柔軟剤の香り。被害者の部屋から出てきたボトルと一致。まあ、そこは中立だ。自殺偽装の可能性もある」
私は頷いた。
けれど、タオルの逆さの雨が頭の片隅に残る。
御子柴は、三人の供述を手短に続けた。
「霧島は“19時半から22時までクライアントと商談のビデオ通話”。録画がある。木暮は“20時半から21時半まで生配信”。録画とチャットが残ってる。中本は“21時から21時40分までオンラインレッスン”。これも生徒側の画面録画あり。しかも三人とも、配信の背景に“時刻の入った何か”が映っている」
「たとえば」
「霧島の画面には電子レンジの時計が“21:12”。木暮の配信には壁掛けの電波時計。中本はPCのタスクバーの時刻が“21:23”。――どれも、停電時間に“動いている”。だからこそ、奴らは声をそろえて言う。『停電してなかった。ニュースは間違い』ってな」
私は息を吸い、吐いた。
ニュースは間違いではない。少なくとも、私たちの地図は、配電会社のスマートメーターの集計から出している。一本一本の系統が“逆潮流”で光る瞬間まで含めたデータだ。
「その三人の住所は」
「霧島は南谷二丁目。停電エリア内。木暮は北大通り沿い。エリア外。中本は被害者の隣、当然エリア内」
「じゃあ、少なくとも霧島と中本の“時刻表示”はおかしい可能性がある。停電中なら、電子レンジの時計は点滅する。PCの時刻は、バッテリーが持てば動くけど、ルーターが死ねば接続が切れてオンラインレッスンは不安定になる」
御子柴が顎をさすり、「見てほしいものがある」と言った。
私は現場に面した通りの向こう側にあるカフェに移動し、ノートPCを開いた。御子柴がUSBメモリを差し込み、三人の“映像”を並べる。
まず霧島。白いキッチン、清潔な調味料ラック。電子レンジの液晶には「21:12」。青い光があまりに安定している。
木暮。ギターの音、コメント欄には「停電大丈夫?」という文字もある。彼は「うちは平気」と笑い、時計は21:09を指す。
中本。ピアノの音はやけにクリアで、対面する生徒の画面には数式が並ぶ。ピアノの脇のノートPCの右下、21:23。
私は、映像を止めた。
まず霧島の電子レンジにズームする。液晶の横に、誰も使わない「オーブン温度」ダイヤル。古いタイプだ。電源が落ちれば時計は「0:00」点滅、復旧後は点滅が止まらない限り時刻表示は戻らない。
なのに、21:12。点滅の痕跡もない。
加えて、霧島のキッチンの隅に、黒い電源タップ。差し込まれたプラグのうち、ひとつだけ青いLEDが“ゆっくりと”点滅している。――あの点滅周期は、停電復旧後に“通電確認”で五分間だけ点くタイプだ。停電直後なら点滅するが、21:12にそれが点いているのは復旧から数分以内。つまり、停電を前提とする映像の時間軸と矛盾する。
私は首を傾げ、さらに別のものに気づいた。
霧島の背後、冷蔵庫の上に積まれたスーパーのレジ袋。その口が固く結ばれているのに、袋は“膨らんで”いない。冷蔵庫の上は温かく、置いたばかりなら袋は湿気でふくらむ。――些末に見えるが、時間の手がかりだ。
木暮の配信に移る。壁の電波時計。秒針が滑る音が微かに拾われている。チャット欄には「街灯消えた」「暗い」。彼は曲の間で外を覗き、「こっちは普通」と言う。
私は彼の配信を一時停止し、壁のポスターに目を凝らす。ライブハウスの告知、日付は来週金曜。新しい。つまり、映像は最近のものだ。疑義なし。
中本に移る。ピアノの音が綺麗すぎる。ルームリバーブがない。指の離鍵の音も小さい。マイクの位置が良すぎるのか、あるいは“録音”か。
彼女のPCの右下の時刻「21:23」。その右に、小さなアイコンが並ぶ。Wi-Fiの電波マークは満タン。しかし、その横の雲のアイコン――“OneDriveは更新済み”の緑のチェック。停電でルーターが落ちて再接続した直後なら、クラウドは“更新中”の丸矢印が回るはずだ。
さらに、彼女のPCのタスクバーには、外部ディスクのアイコン。USBの取り外し安全。青いLEDが映像にちらつく。停電で電源が切れたら、外部ディスクは“安全な取り外し手順なく”切れる。次に挿したとき、エラーメッセージが出る。――映像には、何も出ていない。
私は、三つの映像をもう一度、頭から見直した。
そして、決め手を見つけたのは、またしても“音”だった。
霧島の商談の途中、遠くで「プン」と短いビープ音がする。私は思わず音量を上げた。
御子柴が「何だ」と囁く。
私は笑わずに説明した。
「うちの停電情報に付けてる“音声配信”の区切り音。第2報を出すとき、私が入れてるビープ。二十時四十九分に出したやつ。たった一度しか鳴らさない。――霧島の商談は“その音の後”に収録されている。彼女の家が停電エリアなら、その音の時間帯は既に真っ暗で通信も不安定のはず。なのに、映像は明るく安定してる」
御子柴が身を乗り出す。
「つまり、霧島の“商談”は、停電のない場所で録った。配信時間だけ“今に合わせて”流した」
「そう。木暮はおそらく本当に生配信だった。中本は……録音したピアノ音源を“合わせて”使っている。音が綺麗すぎる。停電中にWi-Fiが無事でも、相手側の画面にたまにラグが出るはず。生徒の画面は滑らかすぎる」
私は、現場のバスタオルを思い出し、筋道を繋いだ。
「トリックはこう。犯人はまず浴室でバスタオルを濡らし、ベランダに掛け、雨音を“複製”した。不自然な直線の滴りは、雨の再現の下手さ。停電中で外灯が落ち、視界が暗い時間に、被害者をベランダに呼び出して――押した。
問題は、誰がその時間に自由に動けたか。木暮は生配信の最中で、部屋の背景に“窓に映る街灯”があった。エリア外の明るさと一致。彼は白だろう。
残る二人。霧島はエリア内のはずなのに映像は明るい。違う場所で撮って“商談中”を作った。中本は隣の住人で、映像は録音の可能性がある。二人とも、停電の瞬間、自由だった」
御子柴は深く息をつき、手帳に何かを書きつけた。
「どっちだと思う」
「霧島」
私は即答した。
根拠は、霧島の“キッチン”の細部。壁に取り付けられた磁石のスパイスラック。そこに並ぶ瓶のラベルが、左から「塩」「胡椒」「七味」。瓶は同じメーカーで、ラベルは同一書体。だが、塩だけラベルの下辺がほんの少し“斜め”。
このズレを、私は知っている。南谷二丁目の貸しスタジオ「コモン・キッチン」の備品だ。私たち危機管理課は、避難所の炊き出し訓練にそこを借りたことがある。
霧島は“自宅のキッチン”と言いながら、避難訓練で使った“貸しキッチン”で商談を録画した。停電エリア外で。
「霧島は“偽装商談”を録り、停電時間に合わせて流した。被害者のマンションには徒歩五分。21時05分の消灯を見てから、暗闇に乗じて三階に。エントランスのオートロックは、被害者の呼び出しで開けた。彼女が香取の仕事相手なら不自然じゃない」
「動機は」
「香取が広告の不正な“水増し”をやめると言い出し、霧島の大口契約が飛ぶ寸前だった、って筋書き。配信の商談相手もたぶん“仕込み”。――でも、決定打は別にある」
私は、霧島の電子レンジの時計にもう一度ズームした。
液晶の右上。微かな点。
電子レンジの古い機種は、時刻の“コロン(:)”が一秒ごとに点滅する。
霧島の映像では、コロンが“偶数秒で点灯”。一方、彼女の口の動きのリップシンクと、画面上の商談アプリの経過時間は“奇数秒で区切れている”。――つまり、映像は二重に合成されている。キッチンの映像に、商談画面を“はめ込んで”いる。
わざわざそんな手間をかけるのは、自宅ではない場所だから。背景に余計な物が映るのを避けたい。自宅の証拠を消したい。
だが、点滅周期までは欺けない。
「極めつきは、電子レンジの型番。映像の端に“NR-B320”。コモン・キッチンの備品リストに同じ型がある」
「そこまで出るか、おまえの目は」
御子柴は笑って、もう笑わなかった。
その夜のうちに、霧島の身柄は確保された。
取り調べ室の窓は、雨にぼやけていた。
霧島は、白いブラウスの襟を少しだけ崩し、静かに座っている。目は疲れて、唇だけが強い。
「霧島さん。あなたは21時前に“コモン・キッチン”で商談の録画を行い、その映像を21時10分ごろに流しました。停電エリア外です。商談相手は実在しますが、やり取りは“編集”で作った。背景に映る電子レンジのコロン点滅、電源タップの通電ランプ、ビープ音――どれも、私たちの地図と矛盾する」
「……そんな奇跡みたいなこと、よく気づきましたね」
霧島は薄く笑い、すぐに笑いを消した。
「でも、あの夜、私は香取さんの部屋には行っていません。彼とは契約のことで言い争ってはいたけれど」
「あなたはタオルを濡らした。浴室の排水の髪は、あなたのものだ。DNA鑑定の結果が出ている。――香取の部屋に入る鍵は?」
「知りません」
「合鍵は無くても、彼はあなたのインターホンに応じる。仕事相手には甘かったから」
霧島の肩が、目に見えないほどわずかに前へ落ちた。
沈黙の間を、雨が埋める。
やがて彼女は、ひと呼吸分だけ軽く笑い、口を開いた。
「……点滅、なんですね」
「え?」
「電子レンジのコロン。そこまで、見る人がいるなんて。私、広告の仕事をしていて、いつも“一秒”を伸ばしたり縮めたりして、誰かの注意をずらしていた。――でも、点滅だけは、編集で揺れない。馬鹿みたい」
「あなたの仕事の腕は認める。けれど、香取さんは落ちた。あなたが押したんだ」
「押してません」
即答だった。
私は、トリックの最後をまだ言っていなかったことに気づいた。
「……あなたは“押してはいない”。でも“引いた”。バスタオルだ」
霧島のまぶたが、初めて大きく揺れた。
私は続けた。
「ベランダの手すりに掛けた濡れタオルに、見えない細い糸を通した。階下の物干しから釣り上げられる、釣り糸の太さ。香取さんがベランダに出て手すりに触れた瞬間、あなたは廊下からそのタオルを“引き落とした”。濡れた重みでタオルは落ち、手すりは濡れ、香取さんの足元は滑る。押すより“事故”に見える。あなたは廊下に糸を回し、合図を見て引いた。――廊下の監視カメラが一瞬暗転したのは、停電のせいじゃない。あなたが目の前を通した傘のせい。レンズに水滴がついた」
御子柴が、小さく頷いた。廊下のカメラの前を横切る黒い影。雨粒のレンズフレア。
霧島は、そのまま沈黙した。
やがて、彼女は首をゆるく振った。
「……私は、誰かに押されていたのかも。数字に。クライアントの怒りに。全員が言ったの。“前の月の数字、越えられますか”って。越えられなきゃ死ぬ。死にたくないから、水増しして、編集して、点滅を消して。
香取は、やめようって言った。正しいのは彼。でも、彼は簡単に言った。“やめればいいだけだ”って。――“だけ”じゃなかった」
彼女の声は、最初から最後まで穏やかだった。
事件が片付いた翌朝、私は出勤の電車で、吊り広告を眺めた。
明るすぎる色。決められた笑顔。秒刻みの窓。
車両ドアの上のモニターには、天気のアイコンが並び、その右に“緊急情報なし”の緑の帯。
何も起きていない朝の色は、たしかに眩しい。
市役所に着くと、私は停電マップの“履歴”ページを開いた。昨夜の21:05–21:17、三つの四角が点滅するアニメーション。
そこに、メモを追加する。「復旧時点の地図スクリーンショットを保存」。
点滅は、記憶のためにある。嘘にも偶然にも、後から触れられるように。
御子柴から短いメッセージがきた。
「おまえの“点滅の目”に救われた」
私は返した。
「点滅は消せない。だから公平」
送信して、窓の外を見た。
雨の気配はなく、街は乾いていた。
私は机の上の時計を見た。秒のコロンが、規則正しく瞬く。
そして、昨夜の現場で見た、ぶら下がるタオルの真下、絵のように真っ直ぐ落ちる滴を思い出し、胸の奥がひやりとした。
あれは、雨の匂いがしなかった。
雨には雑味がある。土の匂い、アスファルトの熱、遠い油。
濡れタオルの水は、ただの水道水だ。匂いのない水は、真っ直ぐに落ちる。
私はその差を、きっとこれからも忘れない。
点滅は、世界の呼吸だ。
次に誰かが、点滅をなかったことにしようとしたら――私はまた、地図に小さな四角を灯すだろう。
公平であることは、冷たいだけのことじゃない。
誰かの夜を、見える形にすることだ。



