その夜、私は配信をやめた。
非常勤の物理講師と、理屈の好きな性分が、ひと月に一度だけ顔を出す小さな動画チャンネル。受験生向けの波動の話を十五分でまとめるつもりだったのに、指先がキーボードの上で止まったのは、画面の端に躍ったニュースの速報のせいだ。
「私立橘予備校講師・成宮崇さん(34)転落死 校舎隣接マンション」
校舎の名は見覚えがある。私は去年の冬だけ、そこで代講をした。理数の実力者が多く、講師室には白い蛍光灯と赤いマーカーの匂いが混ざっていた。
指は動画編集のタブを閉じ、私はアプリのメモ欄に短く「チャイムの音」と打った。理由は自分でもわからない。ただ、橘予備校で耳に残っているのは、生徒のざわめきよりあの硬いチャイムの音だった。
翌朝、職場に向かう途中で背後から声をかけられた。
「篠原先生、ですよね」
振り返ると、グレーのスーツに眠たげな目の男――御子柴だ。高校の同級生で、今は所轄の刑事になっている。ネクタイは相変わらずゆるい。
「ニュース、見た?」
「見た。橘予備校で」
「おまえ、去年いたよな。ちょっと、耳を貸せ」
喫茶店の奥の席で、御子柴は手帳を開いた。
「亡くなった成宮の転落は昨夜十九時三十五分ごろ。校舎の屋上から、隣のマンションの駐車スペースへ。即死だ。屋上はカードキーで施錠されてる。成宮はそのカードを持ってた」
「自殺?」
「遺書は無し。揉め事の目撃も無し。だがな、講師仲間との間で、『内部告発を匂わせていた』って証言がちらほら出てる。点数改竄だの、模試のやらせだの……現段階では噂だが」
「容疑者は?」
「三人。事務の青井、英語の江口、情報科の久我。三人とも昨夜校舎にいた。ただ、三人ともアリバイがある。困ったことにな」
御子柴は一本ずつ指を折った。
「青井はコインランドリーのアプリ履歴。十九時十五分から四十五分まで乾燥機を回して、その間は店内にいたって監視カメラで映ってる」
「なるほど」
「江口は学内の美術準備室。画材の搬入が十九時半に来て、配送業者の受け取りサインもある。しかも彼女は搬入を一人で受けた。記録に残ってる」
「そして久我?」
「情報科の久我は“オンライン自習室”のライブ配信をしてた。十九時から二十分枠。録画も残っているし、チャットでの生徒の質問に答えている。顔も声もバッチリ。つまり、三人とも“その時刻は別の場所”だ」
私はコーヒーに口をつけ、湯気越しに御子柴の目を見た。
「おまえ、俺に何を求めてる?」
「橘の構造や音のことを知ってるって聞いた。特に――」
「チャイムの音、か」
御子柴は笑った。
「察しがいい。あそこのチャイム、妙に耳に残るんだよ。理由は知らんが、昨日、久我の配信録画を見てたら、遠くで一瞬だけ、あのチャイムが鳴った気がした。十九時の半端なタイミングでだ。気のせいかもしれん。けど、気のせいじゃない気もする」
私はメモに「チャイム:時刻規則」と書いた。橘予備校のチャイムは、六時に一度だけ鳴る。生徒の帰宅を促すための合図。十九時には鳴らない。十九時半にも鳴らない。あの校舎の設計を知る者なら皆、知っている。
「配信の録画、見せてもらえる?」
「もちろん」
警察署の会議室で、私はノートPCに流れる画面をじっと見つめた。
久我のライブ配信――と言われたものは、教室の後方に立てたスマホで撮られている。彼はホワイトボードに「関数の増減と極値」と書き、板書を始める。チャット欄には「こんばんは」「今日の宿題教えてください」などと流れている。久我は時折画面を覗き、質問に答える。
画面の右上には教室番号を示すプレートが映り込んでいる。白いプラスチックの板に、黒い数字。私はそれを見た瞬間、違和感を覚えた。数字の下に薄い青いラインが引かれている。前期は緑、後期は青。昨日は、まだ前期だったはずだ。
秒針のように、頭の中で何かが動き出す。
久我が板書を終え、黒いマーカーの蓋を閉じた。画面の外から、かすかな鐘の音がした。ひと打ち、鉄を叩くような音。私は思わず再生バーを戻し、音量を上げ、もう一度聴いた。御子柴が身を乗り出す。
「聞こえたか?」
「聞こえた。……六時のチャイムだ」
録画のタイムスタンプは十九時〇八分。だが、橘のチャイムが鳴るのは十八時ちょうどに一回だけ。録画に入り込んだのが“六時の音”なら、その映像は六時頃に撮られた可能性が高い。
私はさらに映像を止め、ホワイトボードの隅に目を寄せた。日付が書いてある。「6/14(火)」。御子柴が手帳をめくる。
「昨日は……六月十六日、木曜だ。二日前の板書をそのままにして撮ったのか?」
「いや、久我の癖は授業のたびに日付を書き替える。映像の彼は、それに従っている。つまり、映像は十四日に撮影されている。火曜の十八時ごろ。昨日の十九時に“ライブ配信”として流したが、中身は録画だ」
御子柴は眉をひそめた。
「でもチャットにリアルタイムで答えてるぞ?」
「ルーティンの質問に、汎用的な返答で。『そこは後で解説する』『宿題はプリントの一番下』――どれも時間に依らない。チャットに“今日の”と書かれていても、返答には日付が入っていない。しかも、チャット欄の時間は“視聴者の端末のローカル時刻”だ。配信者の映像が録画でも矛盾は生まれない」
私は指先で再生バーを滑らせ、ある瞬間で止めた。久我がホワイトボードの前で腕を組み、説明を切り替える時、シャツの袖口から覗く腕時計の針が見えた。針は十時十分を指したまま動かない――絵柄の入った安物のファッションウォッチ。飾りだ。秒針がない。
録画であることの決定打にはならないが、彼が「時間を見ている」という演技が形だけだ、と示すには十分だ。
「御子柴。録画を“ライブ配信”に見せかける方法はありふれてる。YouTubeのプレミア公開でも、社内動画プラットフォームでもできる。橘の『オンライン自習室』は独自のシステムだろうが、スケジュール公開機能とコメント機能があれば再現可能だ」
「じゃあ、久我は十九時のその二十分、配信を『流しておき』、屋上で成宮を――」
「突き落とす時間を作れた」
会議室の空気が少し冷えて、私は自分の声が硬くなるのを感じた。
ただ、論理はまだ完成ではない。アリバイが崩れるだけでは、動機も経路も弱い。
「動機はあるのか?」
「ある」
御子柴は手帳を閉じた。
「これはまだ噂レベルだが、久我が模試データを“整えていた”らしい。校内順位を持ち上げて、広告に使う。成宮はそれに気づき、公開を匂わせた。久我は“やっていない”と言い張ってるが、事務の青井が『フォームの編集履歴が変』だと証言した。
加えて、事故現場の駐車スペースに“滑り跡”がある。屋上から落ちた成宮が、地面で少し引きずられて位置が変わったと鑑識は見ている。つまり、誰かが落下地点を“調整”した。隣のマンションの監視カメラ死角を狙ってな」
私は目を閉じ、橘の屋上を思い浮かべた。風の強い場所。鉄柵と、固定された観葉植物用のプランター。それから――角にある、消えかけた黄色いペンキの三角。校舎の影を測る古い印。
目を開けると、言葉が滑り出た。
「屋上の“黄色い三角”を見たい。もう一つ、久我の配信の音声データをくれ。波形で、チャイムの瞬間を見たい」
現場検証に同行すると、屋上は想像よりもきれいだった。雨上がりで、鉄の匂いが濃い。
角の床に、薄くなった黄色の三角形が確かにあった。「影の三角」と呼ばれているのを聞いたことがある。夏至の午後六時に、校舎の影の先端がちょうど三角の頂点をかすめるという。設計者の遊び心だろう。
私は三角の頂点にしゃがみ込み、視線を下に落とした。真下にあるのは隣のマンションの駐車スペース。昨夜、白いチョークで囲われた成宮の輪郭が、午前の光で薄れている。
「篠原、これが何になる?」
「ただの確認。……御子柴、録画の音声、借りるよ」
署に戻ると、私は音声編集ソフトを立ち上げ、波形の山を見つけた。チャイムの瞬間には、一般的な正弦波だけではない、あの橘独特の“きしみ”が重なっている。鐘の内部のバネが、鳴らしたときに短く鳴るノイズだ。
その後に続くのは、教室の空調の低い唸り、蛍光灯のハム、遠くを走るバスの振動。
私はもう一箇所、波形の端に小さなビープ音を見つけ、拡大した。電子レンジの終了音に似ていたが、音色が違う。
御子柴が覗き込み、首を傾げた。
「それ、なんだ?」
「……橘の自販機だ。古い型で、紙幣の投入を拒んだときに“ピー”と鳴る。十八時に帰り支度をする生徒がよくイライラしていた。音は体育館側の廊下の方向から来る。つまり、この録画は、教室のドアを少し開けて撮っている。十八時の帰りの流れの中で、誰も不審に思わないタイミングで」
私は思考の端で、もう一つの違和感を撫でた。
録画の久我は、板書を消すときに右手でイレーザーを扱っていた。彼は左利きだ。実習の時、いつも左でペンを持っていた。左利きの彼が、録画では右で。
演技だ。計算された演技がある。左利きを隠す必要があると彼が考えたのは、「監視カメラに映る別の自分」と整合を取るためか。
昨夜、屋上に向かう姿を見られた可能性を、彼は恐れたのだ。だから録画の中の自分の“利き手”を揺らし、証言にブレを混ぜた。
「御子柴。屋上の扉のカードキー記録は?」
「二枚。成宮のカードが十九時二十八分に入場、十九時三十八分に開放。久我のカードは記録無し」
「成宮のカードを奪えばいい。落下後にカードをふたたび扉の内側のセンサーにかざし、内側から開けて、扉を閉める。十九時三十八分の“開放”は、久我が帰るために内側から開けた痕跡だ」
御子柴はテーブルに拳を置いた。
「だが、どうやって無人の屋上に成宮を呼んだ?」
「内部告発の話題なら、屋上は都合がいい。誰にも聞かれない。『話がある。チャットではなく、十五分だけでいいから屋上に』――とメッセージを送ればいい。久我の端末からの送信ログが残っているはずだ」
私は、最後に残った小さな引っかかりを、指で転がした。
成宮は理科畑でも数学畑でもない。英語だ。物理が得意なわけでもない彼が、屋上の縁に立って、簡単に足場を失うだろうか。
現場写真を思い出す。柵の近くに、黒いキャップが落ちていた。ペンのキャップ。久我は、あのキャップを“落とした”。拾わせるために。
夕方、私たちは橘予備校の講師室にいた。窓の外は雨。御子柴は久我の正面に座り、私は斜め後ろからボールペンを転がした。
久我は痩せた顔立ちで、黒縁の眼鏡がよく似合う。何度も画面で見た顔だ。
「ライブ配信の録画、拝見しました」私が言うと、久我は肩をすくめて笑った。
「録画じゃありません。ライブです」
「橘のチャイムは十八時にしか鳴りません。あなたの配信では、十九時八分に遠くで鳴っている。これは録画で、しかも十四日の、十八時ごろに撮ったものです。日付の板書がそう教えてくれました。教室番号のプレートは青いライン――後期の色に替わっている。昨日はまだ前期です。映像の背景は“未来”よりも“過去”に近い」
「それは――」
「それから、音声に自販機のビープ音が入っている。あの音は十八時に集中する。生徒が帰りがけに両替をしないから。十九時には静かだ。あなたは『いつでも使い回せるバッファ映像』を作るつもりが、チャイムと自販機のおかげで“時間”を刻み込んでしまった」
御子柴が、机の上に小さな透明の袋を置いた。黒いペンのキャップが入っている。
「屋上で見つけたものだ。おまえのだろう?」
「ペンなんて、誰のでも――」
「キャップに、白いペンキがついていた。屋上の“黄色い三角”の端に重なる位置に、薄く塗り直した白い線がある。おまえはそこでキャップを落として、成宮に拾わせた。屈んだ瞬間、背中に手を当てれば、体は前に出る。そこから三歩の距離で、駐車スペースの“影”に落ちる。影は昨日の十九時半には三角の内側に入りかけていた。おまえはそれを知っていた。何度も屋上に出て、影の動きを見ていたから」
久我は眼鏡を押し上げ、息を吸った。
眼鏡のレンズに、窓の外の雨脚が逆さまに映る。沈黙が雨の音に継がれて、私は自分の喉が乾くのを感じた。
「――動機は?」久我が先に口を開いた。「それが、あなた方にとっては肝なんでしょう。僕はやっていない。成宮は、僕を陥れようとしたんです。模試のデータ? 僕は現実を見える形に整理しただけだ。生徒のために」
「現実を“上”に持ち上げることが、見える形ですか」
「広告が必要なんです。予備校は、きれいな数字がなければ生き残れない。僕は、会社に求められたことを――」
御子柴の拳が机に落ちる音が、雨より大きかった。
「人を突き落とすことが求められたのか?」
「違う! あれは――」
久我の声が震え、次の瞬間には小さくなった。
「……あれは、事故だ。押したつもりはない。背中に触れただけだ。彼が後ろを振り向いた時、足元が……滑った。雨で濡れていて――」
「昨日の十九時半、雨はまだ降っていない。気象庁の観測では、最初の雨滴は二十分後だ。現場の地面が濡れていたのは、おまえがホースで水を撒いたからだ。監視カメラの死角をつくるために」
久我の視線が、私の手元のレコーダーに吸い寄せられた。彼の肩が落ちた。
「……成宮が、僕に言ったんです。『数字に“尾ひれ”を付ける人間は、いつか誰かを落とす』って。きれいごとを。
彼だって、告発を餌に僕を脅してきた。『僕の言う指導法を採用しないなら、校内の掲示板に投稿する』。僕は――僕は、疲れていた。四月からずっと。数字を整え、噂を整え、笑顔を整え、次の“きれいな月”をつくるために」
御子柴が立ち上がる。手錠の冷たい銀色が、雨雲の光を溶かした。
「録画の件は技術の問題だ。だが、おまえの胸の中は映像じゃごまかせない」
久我はうなだれ、こちらを見上げなかった。
夜、私は机に向かった。
画面の中で、波動の解説用に描いた正弦波が白く波打っている。あの波は、純粋だ。何も足していない。
人間は、波の上に数字を乗せる。きれいな月次のために、棒グラフの影を伸ばす。影は長いほど見栄えがいい。しかし、伸ばした影の先に、人が立っていることを忘れると、いつかその影が人を飲み込む。
私は録音用のマイクに向かい、小さく息を吸った。
「こんばんは。篠原です。今夜は、波の“尾”の話をします。見かけの美しさと、実体の違い。尾ひれは、波を美しく見せることもあるけれど、時に、飲み込みます」
録音を始める直前、私はふと、窓の外を見た。
橘予備校の屋上で見た“黄色い三角”を思い出す。夏至の光の遊び心。
あの三角は、設計者の悪意ではない。ただの遊びだ。でも、人はそれを足場に、誰かの背中を押すことができる。そうさせないために、私はたぶん、物理をやっている。嘘と偶然を、音の波形と影の角度でほどくために。
御子柴から届いた短いメッセージを、私はもう一度読み返した。
「おまえの“チャイムの耳”に助けられたよ」
録音ボタンを押す。
私の耳が拾ったのは、外の雨と、部屋の時計の秒針の音、それから遠くで鳴る町内の時報。
十九時。橘のチャイムは鳴らない時刻だ。
私は安心して、声を響かせた。
「――つまり、尾ひれを見分けるには、まず“本来鳴るべき音”を知っておくことです」
話し終えると、私はファイル名をつけた。「逆さのチャイム」。
あの録画の中で、十八時の音は、十九時のふりをしていた。
音は嘘をつかない。ただ、置き場所を変えれば、別の時刻に聞こえるだけだ。
私は送信ボタンを押し、机の上のペンを立てて、キャップをしっかりはめた。
キャップは、落とさない。
数日後、御子柴からもう一枚、短いメッセージが来た。
「青井の“編集履歴”はクロだった。久我に頼まれて書き換えてた。江口の搬入は白。三角の塗り直しは、去年の夏に工事の業者。おまえの影の話、鑑識が“たまには理科が役に立つ”って言って笑ってた」
私は、苦笑しながら短く返した。
「理科は、たまにじゃない。いつも役に立つ」
画面を閉じ、窓を開ける。
雨は上がり、路面に薄い光が張り付いていた。
校舎もマンションもない、この街角にも、見えない三角はある。影の角度が、きっと私の足元にも置かれている。
私はそこを避けるように、一歩だけ、横にずれて歩き出した。
尾ひれがついた波ではなく、静かな水面に、さざ波を立てないように。
非常勤の物理講師と、理屈の好きな性分が、ひと月に一度だけ顔を出す小さな動画チャンネル。受験生向けの波動の話を十五分でまとめるつもりだったのに、指先がキーボードの上で止まったのは、画面の端に躍ったニュースの速報のせいだ。
「私立橘予備校講師・成宮崇さん(34)転落死 校舎隣接マンション」
校舎の名は見覚えがある。私は去年の冬だけ、そこで代講をした。理数の実力者が多く、講師室には白い蛍光灯と赤いマーカーの匂いが混ざっていた。
指は動画編集のタブを閉じ、私はアプリのメモ欄に短く「チャイムの音」と打った。理由は自分でもわからない。ただ、橘予備校で耳に残っているのは、生徒のざわめきよりあの硬いチャイムの音だった。
翌朝、職場に向かう途中で背後から声をかけられた。
「篠原先生、ですよね」
振り返ると、グレーのスーツに眠たげな目の男――御子柴だ。高校の同級生で、今は所轄の刑事になっている。ネクタイは相変わらずゆるい。
「ニュース、見た?」
「見た。橘予備校で」
「おまえ、去年いたよな。ちょっと、耳を貸せ」
喫茶店の奥の席で、御子柴は手帳を開いた。
「亡くなった成宮の転落は昨夜十九時三十五分ごろ。校舎の屋上から、隣のマンションの駐車スペースへ。即死だ。屋上はカードキーで施錠されてる。成宮はそのカードを持ってた」
「自殺?」
「遺書は無し。揉め事の目撃も無し。だがな、講師仲間との間で、『内部告発を匂わせていた』って証言がちらほら出てる。点数改竄だの、模試のやらせだの……現段階では噂だが」
「容疑者は?」
「三人。事務の青井、英語の江口、情報科の久我。三人とも昨夜校舎にいた。ただ、三人ともアリバイがある。困ったことにな」
御子柴は一本ずつ指を折った。
「青井はコインランドリーのアプリ履歴。十九時十五分から四十五分まで乾燥機を回して、その間は店内にいたって監視カメラで映ってる」
「なるほど」
「江口は学内の美術準備室。画材の搬入が十九時半に来て、配送業者の受け取りサインもある。しかも彼女は搬入を一人で受けた。記録に残ってる」
「そして久我?」
「情報科の久我は“オンライン自習室”のライブ配信をしてた。十九時から二十分枠。録画も残っているし、チャットでの生徒の質問に答えている。顔も声もバッチリ。つまり、三人とも“その時刻は別の場所”だ」
私はコーヒーに口をつけ、湯気越しに御子柴の目を見た。
「おまえ、俺に何を求めてる?」
「橘の構造や音のことを知ってるって聞いた。特に――」
「チャイムの音、か」
御子柴は笑った。
「察しがいい。あそこのチャイム、妙に耳に残るんだよ。理由は知らんが、昨日、久我の配信録画を見てたら、遠くで一瞬だけ、あのチャイムが鳴った気がした。十九時の半端なタイミングでだ。気のせいかもしれん。けど、気のせいじゃない気もする」
私はメモに「チャイム:時刻規則」と書いた。橘予備校のチャイムは、六時に一度だけ鳴る。生徒の帰宅を促すための合図。十九時には鳴らない。十九時半にも鳴らない。あの校舎の設計を知る者なら皆、知っている。
「配信の録画、見せてもらえる?」
「もちろん」
警察署の会議室で、私はノートPCに流れる画面をじっと見つめた。
久我のライブ配信――と言われたものは、教室の後方に立てたスマホで撮られている。彼はホワイトボードに「関数の増減と極値」と書き、板書を始める。チャット欄には「こんばんは」「今日の宿題教えてください」などと流れている。久我は時折画面を覗き、質問に答える。
画面の右上には教室番号を示すプレートが映り込んでいる。白いプラスチックの板に、黒い数字。私はそれを見た瞬間、違和感を覚えた。数字の下に薄い青いラインが引かれている。前期は緑、後期は青。昨日は、まだ前期だったはずだ。
秒針のように、頭の中で何かが動き出す。
久我が板書を終え、黒いマーカーの蓋を閉じた。画面の外から、かすかな鐘の音がした。ひと打ち、鉄を叩くような音。私は思わず再生バーを戻し、音量を上げ、もう一度聴いた。御子柴が身を乗り出す。
「聞こえたか?」
「聞こえた。……六時のチャイムだ」
録画のタイムスタンプは十九時〇八分。だが、橘のチャイムが鳴るのは十八時ちょうどに一回だけ。録画に入り込んだのが“六時の音”なら、その映像は六時頃に撮られた可能性が高い。
私はさらに映像を止め、ホワイトボードの隅に目を寄せた。日付が書いてある。「6/14(火)」。御子柴が手帳をめくる。
「昨日は……六月十六日、木曜だ。二日前の板書をそのままにして撮ったのか?」
「いや、久我の癖は授業のたびに日付を書き替える。映像の彼は、それに従っている。つまり、映像は十四日に撮影されている。火曜の十八時ごろ。昨日の十九時に“ライブ配信”として流したが、中身は録画だ」
御子柴は眉をひそめた。
「でもチャットにリアルタイムで答えてるぞ?」
「ルーティンの質問に、汎用的な返答で。『そこは後で解説する』『宿題はプリントの一番下』――どれも時間に依らない。チャットに“今日の”と書かれていても、返答には日付が入っていない。しかも、チャット欄の時間は“視聴者の端末のローカル時刻”だ。配信者の映像が録画でも矛盾は生まれない」
私は指先で再生バーを滑らせ、ある瞬間で止めた。久我がホワイトボードの前で腕を組み、説明を切り替える時、シャツの袖口から覗く腕時計の針が見えた。針は十時十分を指したまま動かない――絵柄の入った安物のファッションウォッチ。飾りだ。秒針がない。
録画であることの決定打にはならないが、彼が「時間を見ている」という演技が形だけだ、と示すには十分だ。
「御子柴。録画を“ライブ配信”に見せかける方法はありふれてる。YouTubeのプレミア公開でも、社内動画プラットフォームでもできる。橘の『オンライン自習室』は独自のシステムだろうが、スケジュール公開機能とコメント機能があれば再現可能だ」
「じゃあ、久我は十九時のその二十分、配信を『流しておき』、屋上で成宮を――」
「突き落とす時間を作れた」
会議室の空気が少し冷えて、私は自分の声が硬くなるのを感じた。
ただ、論理はまだ完成ではない。アリバイが崩れるだけでは、動機も経路も弱い。
「動機はあるのか?」
「ある」
御子柴は手帳を閉じた。
「これはまだ噂レベルだが、久我が模試データを“整えていた”らしい。校内順位を持ち上げて、広告に使う。成宮はそれに気づき、公開を匂わせた。久我は“やっていない”と言い張ってるが、事務の青井が『フォームの編集履歴が変』だと証言した。
加えて、事故現場の駐車スペースに“滑り跡”がある。屋上から落ちた成宮が、地面で少し引きずられて位置が変わったと鑑識は見ている。つまり、誰かが落下地点を“調整”した。隣のマンションの監視カメラ死角を狙ってな」
私は目を閉じ、橘の屋上を思い浮かべた。風の強い場所。鉄柵と、固定された観葉植物用のプランター。それから――角にある、消えかけた黄色いペンキの三角。校舎の影を測る古い印。
目を開けると、言葉が滑り出た。
「屋上の“黄色い三角”を見たい。もう一つ、久我の配信の音声データをくれ。波形で、チャイムの瞬間を見たい」
現場検証に同行すると、屋上は想像よりもきれいだった。雨上がりで、鉄の匂いが濃い。
角の床に、薄くなった黄色の三角形が確かにあった。「影の三角」と呼ばれているのを聞いたことがある。夏至の午後六時に、校舎の影の先端がちょうど三角の頂点をかすめるという。設計者の遊び心だろう。
私は三角の頂点にしゃがみ込み、視線を下に落とした。真下にあるのは隣のマンションの駐車スペース。昨夜、白いチョークで囲われた成宮の輪郭が、午前の光で薄れている。
「篠原、これが何になる?」
「ただの確認。……御子柴、録画の音声、借りるよ」
署に戻ると、私は音声編集ソフトを立ち上げ、波形の山を見つけた。チャイムの瞬間には、一般的な正弦波だけではない、あの橘独特の“きしみ”が重なっている。鐘の内部のバネが、鳴らしたときに短く鳴るノイズだ。
その後に続くのは、教室の空調の低い唸り、蛍光灯のハム、遠くを走るバスの振動。
私はもう一箇所、波形の端に小さなビープ音を見つけ、拡大した。電子レンジの終了音に似ていたが、音色が違う。
御子柴が覗き込み、首を傾げた。
「それ、なんだ?」
「……橘の自販機だ。古い型で、紙幣の投入を拒んだときに“ピー”と鳴る。十八時に帰り支度をする生徒がよくイライラしていた。音は体育館側の廊下の方向から来る。つまり、この録画は、教室のドアを少し開けて撮っている。十八時の帰りの流れの中で、誰も不審に思わないタイミングで」
私は思考の端で、もう一つの違和感を撫でた。
録画の久我は、板書を消すときに右手でイレーザーを扱っていた。彼は左利きだ。実習の時、いつも左でペンを持っていた。左利きの彼が、録画では右で。
演技だ。計算された演技がある。左利きを隠す必要があると彼が考えたのは、「監視カメラに映る別の自分」と整合を取るためか。
昨夜、屋上に向かう姿を見られた可能性を、彼は恐れたのだ。だから録画の中の自分の“利き手”を揺らし、証言にブレを混ぜた。
「御子柴。屋上の扉のカードキー記録は?」
「二枚。成宮のカードが十九時二十八分に入場、十九時三十八分に開放。久我のカードは記録無し」
「成宮のカードを奪えばいい。落下後にカードをふたたび扉の内側のセンサーにかざし、内側から開けて、扉を閉める。十九時三十八分の“開放”は、久我が帰るために内側から開けた痕跡だ」
御子柴はテーブルに拳を置いた。
「だが、どうやって無人の屋上に成宮を呼んだ?」
「内部告発の話題なら、屋上は都合がいい。誰にも聞かれない。『話がある。チャットではなく、十五分だけでいいから屋上に』――とメッセージを送ればいい。久我の端末からの送信ログが残っているはずだ」
私は、最後に残った小さな引っかかりを、指で転がした。
成宮は理科畑でも数学畑でもない。英語だ。物理が得意なわけでもない彼が、屋上の縁に立って、簡単に足場を失うだろうか。
現場写真を思い出す。柵の近くに、黒いキャップが落ちていた。ペンのキャップ。久我は、あのキャップを“落とした”。拾わせるために。
夕方、私たちは橘予備校の講師室にいた。窓の外は雨。御子柴は久我の正面に座り、私は斜め後ろからボールペンを転がした。
久我は痩せた顔立ちで、黒縁の眼鏡がよく似合う。何度も画面で見た顔だ。
「ライブ配信の録画、拝見しました」私が言うと、久我は肩をすくめて笑った。
「録画じゃありません。ライブです」
「橘のチャイムは十八時にしか鳴りません。あなたの配信では、十九時八分に遠くで鳴っている。これは録画で、しかも十四日の、十八時ごろに撮ったものです。日付の板書がそう教えてくれました。教室番号のプレートは青いライン――後期の色に替わっている。昨日はまだ前期です。映像の背景は“未来”よりも“過去”に近い」
「それは――」
「それから、音声に自販機のビープ音が入っている。あの音は十八時に集中する。生徒が帰りがけに両替をしないから。十九時には静かだ。あなたは『いつでも使い回せるバッファ映像』を作るつもりが、チャイムと自販機のおかげで“時間”を刻み込んでしまった」
御子柴が、机の上に小さな透明の袋を置いた。黒いペンのキャップが入っている。
「屋上で見つけたものだ。おまえのだろう?」
「ペンなんて、誰のでも――」
「キャップに、白いペンキがついていた。屋上の“黄色い三角”の端に重なる位置に、薄く塗り直した白い線がある。おまえはそこでキャップを落として、成宮に拾わせた。屈んだ瞬間、背中に手を当てれば、体は前に出る。そこから三歩の距離で、駐車スペースの“影”に落ちる。影は昨日の十九時半には三角の内側に入りかけていた。おまえはそれを知っていた。何度も屋上に出て、影の動きを見ていたから」
久我は眼鏡を押し上げ、息を吸った。
眼鏡のレンズに、窓の外の雨脚が逆さまに映る。沈黙が雨の音に継がれて、私は自分の喉が乾くのを感じた。
「――動機は?」久我が先に口を開いた。「それが、あなた方にとっては肝なんでしょう。僕はやっていない。成宮は、僕を陥れようとしたんです。模試のデータ? 僕は現実を見える形に整理しただけだ。生徒のために」
「現実を“上”に持ち上げることが、見える形ですか」
「広告が必要なんです。予備校は、きれいな数字がなければ生き残れない。僕は、会社に求められたことを――」
御子柴の拳が机に落ちる音が、雨より大きかった。
「人を突き落とすことが求められたのか?」
「違う! あれは――」
久我の声が震え、次の瞬間には小さくなった。
「……あれは、事故だ。押したつもりはない。背中に触れただけだ。彼が後ろを振り向いた時、足元が……滑った。雨で濡れていて――」
「昨日の十九時半、雨はまだ降っていない。気象庁の観測では、最初の雨滴は二十分後だ。現場の地面が濡れていたのは、おまえがホースで水を撒いたからだ。監視カメラの死角をつくるために」
久我の視線が、私の手元のレコーダーに吸い寄せられた。彼の肩が落ちた。
「……成宮が、僕に言ったんです。『数字に“尾ひれ”を付ける人間は、いつか誰かを落とす』って。きれいごとを。
彼だって、告発を餌に僕を脅してきた。『僕の言う指導法を採用しないなら、校内の掲示板に投稿する』。僕は――僕は、疲れていた。四月からずっと。数字を整え、噂を整え、笑顔を整え、次の“きれいな月”をつくるために」
御子柴が立ち上がる。手錠の冷たい銀色が、雨雲の光を溶かした。
「録画の件は技術の問題だ。だが、おまえの胸の中は映像じゃごまかせない」
久我はうなだれ、こちらを見上げなかった。
夜、私は机に向かった。
画面の中で、波動の解説用に描いた正弦波が白く波打っている。あの波は、純粋だ。何も足していない。
人間は、波の上に数字を乗せる。きれいな月次のために、棒グラフの影を伸ばす。影は長いほど見栄えがいい。しかし、伸ばした影の先に、人が立っていることを忘れると、いつかその影が人を飲み込む。
私は録音用のマイクに向かい、小さく息を吸った。
「こんばんは。篠原です。今夜は、波の“尾”の話をします。見かけの美しさと、実体の違い。尾ひれは、波を美しく見せることもあるけれど、時に、飲み込みます」
録音を始める直前、私はふと、窓の外を見た。
橘予備校の屋上で見た“黄色い三角”を思い出す。夏至の光の遊び心。
あの三角は、設計者の悪意ではない。ただの遊びだ。でも、人はそれを足場に、誰かの背中を押すことができる。そうさせないために、私はたぶん、物理をやっている。嘘と偶然を、音の波形と影の角度でほどくために。
御子柴から届いた短いメッセージを、私はもう一度読み返した。
「おまえの“チャイムの耳”に助けられたよ」
録音ボタンを押す。
私の耳が拾ったのは、外の雨と、部屋の時計の秒針の音、それから遠くで鳴る町内の時報。
十九時。橘のチャイムは鳴らない時刻だ。
私は安心して、声を響かせた。
「――つまり、尾ひれを見分けるには、まず“本来鳴るべき音”を知っておくことです」
話し終えると、私はファイル名をつけた。「逆さのチャイム」。
あの録画の中で、十八時の音は、十九時のふりをしていた。
音は嘘をつかない。ただ、置き場所を変えれば、別の時刻に聞こえるだけだ。
私は送信ボタンを押し、机の上のペンを立てて、キャップをしっかりはめた。
キャップは、落とさない。
数日後、御子柴からもう一枚、短いメッセージが来た。
「青井の“編集履歴”はクロだった。久我に頼まれて書き換えてた。江口の搬入は白。三角の塗り直しは、去年の夏に工事の業者。おまえの影の話、鑑識が“たまには理科が役に立つ”って言って笑ってた」
私は、苦笑しながら短く返した。
「理科は、たまにじゃない。いつも役に立つ」
画面を閉じ、窓を開ける。
雨は上がり、路面に薄い光が張り付いていた。
校舎もマンションもない、この街角にも、見えない三角はある。影の角度が、きっと私の足元にも置かれている。
私はそこを避けるように、一歩だけ、横にずれて歩き出した。
尾ひれがついた波ではなく、静かな水面に、さざ波を立てないように。



