雨が続くと、うちの古本屋は紙の湿気でうねる。ページの波打ちを伸ばすコツは、乾いた夜に薄く新聞を挟んで重しをすること——なんて呑気な話をしていられたのは、先月までのことだ。
駅前のコインランドリー「まるまる洗い」の店主、真弓さんが、乾燥機の中で死んだと知らされた朝から、乾くという言葉は、私にとって別の温度を持つようになった。
私は商店街の角で古本屋を営む佐伯直斗、三十五歳。真弓さんは隣の店で二十五年、黙々と洗濯槽を磨き続けてきた人だ。スイッチを押す指の形が細くて、洗剤の匂いより湯気の匂いが似合う。息子の淳は高校生で、よくうちに文庫を物色しに来た。彼がいなくなってから——つまり、家を出て行ってから——真弓さんの笑い皺は、少しだけ深くなった。
事故だ、と誰もが言った。閉店後、誤って乾燥機のドアを開けたまま足を滑らせ、上半身から突っ込み、回転が始まって気を失ったのだろう、と。大型乾燥機は回転が荒い。衣類の塊に締め付けられて、気道が塞がれば致命的だ。
ただ一人、そう言わなかったのが、巡査部長の鬼塚だった。
「事故にしては、乾燥が行き過ぎてる」
現場検証帰りに彼は、うちのカウンターで言った。雨の日の客の少なさに助けられて、店内は静かだった。
「行き過ぎ?」
「衣類がカリカリだ。あの店は普段、最後に“クールダウン”を一分つけて止めるのが癖だろ。ドアを開けたら熱気が“ふっ”と逃げる。だが昨夜は、庫内が熱いまま放置されていた」
私は思わず笑ってしまった。
「巡査部長、ランドリー通ですね」
「うち、単身赴任が長くてな。乾燥機は相棒だ。——で、事故なら止めに行く。本能的に。『熱い』は危険信号だからな」
鬼塚は、ポケットから小さな紙片を出した。灰色の綿ぼこりだった。乾燥機のフィルターにつく、あの細かいやつだ。紙片に乗せた灰色を、鬼塚は爪で弾いた。
「フィルターが掃除されていた。しかも異様に丁寧に。いつもより。事故で慌てて倒れた人間が、先にフィルターを掃除するか?」
私は首を振った。
真弓さんは、確かに几帳面だった。でも、順番がある。閉店間際にやることは、釣銭の集計、床のモップがけ、洗剤投入口の拭き取り。フィルターは最後——乾燥機が完全に止まってから、熱が引いてからやる。
なのに、その夜はフィルターの枠までピカピカだった、と鬼塚は言う。誰かが、そこに手を入れている。
「犯人は、何を消したかったんでしょうね」
私の問いに、鬼塚は曖昧に首を傾げた。
「指紋……と言いたいが、あの樹脂は熱で模様が伸びる。消すなら別のものだ。例えば、時間だ」
時間。乾燥は時間で作られる。四十分なら四十分の“乾き”がある。
鬼塚は立ち上がった。
「佐伯。お前は目の前で見ていたろ。店が閉まるまで」
私は頷いた。あの夜、私は棚の文庫を入れ替えながら、まるまる洗いのガラス越しに、店内の人影が動くのを見ていた。十九時半、仕事帰りの主婦が三人。二十時、学生の男の子が一人。二十時十五分、タオルの山を抱えたスポーツクラブの男——後で知ったが、彼は向かいのフィットネスジムのインストラクターで、名前は鶴田。二十時三十分、彼が両替機に千円札を入れて、小銭をかき集めた。そのとき、両替機が「ピッ、ピッ」と取り忘れのアラームを鳴らした。あの音は、死ぬほど耳に残る。
二十一時、シャッターが半分下りて、真弓さんが「今日はもう終わり」と手で合図をした。私は会釈し、看板を片付けた。
それが、最後の元気な姿だった。
*
葬式の翌日、私は淳を見た。駅前の公園のベンチで、コンビニのコーヒーを手にしていた。声をかけると、彼は一瞬驚いて、それから素直に頭を下げた。
「母のことで、お世話になりました」
「何か、気になることは?」
「ないです」
即答だった。目を伏せる速度が、少しだけ速い。
私は中学の頃の淳を思い出した。国語の宿題で、感想文を一行も書かずに持ってきて、「読み終わってしまうのが怖くて、最後のページを開けないままでした」とだけ言った少年。終わりを先延ばしにする癖は、今も残っているらしい。
その夜、鬼塚から電話が来た。
「監視カメラが死んでた。曇り。乾燥機の熱でガラスが曇るんだとよ。で、鶴田の証言が、どうにも腑に落ちない」
「ジムのインストラクター?」
「ああ。『二十時半にタオルを入れて四十分コース。そのあとシャワーを浴びて、二十一時十五分に取りに戻ったらシャッターが下りていた。だから、あの日は取り損ねた』と言う」
「四十分コースなら二十一時十分に止まる。五分前にシャッターは下りていた、と」
「そう。まるで、ぴたりと合ってるように言う。だが、ランドリーの乾燥機は“残り時間”が飛ぶ。重さや湿り具合で、機械が勝手に加減するだろ?」
私は頷いた。
まるまる洗いの乾燥機は、残り時間表示がけっこう嘘つきだ。七分のところで急に「1」に飛ぶときもある。クールダウンをつければ一分延びるが、それも衣類の温度で伸び縮みする。ピタリと四十分で止まるなど、あり得ない。
それに、私はあの夜を見ている。二十時三十分に両替機が鳴ってから、二十一時まで、鶴田は店内を行ったり来たりしていた。シャワーを浴びるなら、ジムに戻るはずだが、彼はしばらく店の外の自販機の前でスマホを触っていた。
私は鬼塚に言った。
「彼、四十分コースを入れたと言うけど、二十時三十分に千円入れて、小銭を十二枚持っていった。四十分は三百円。お釣りは——」
「百円八枚、十円二十枚のはずだな。両替機の記録を取った。千円投入、一回。五百円投入、一回。五百円は誰だか不明だが、千円は鶴田の時間に合う。だが、十円玉が最後に一枚だけ戻されている。取り忘れアラームが鳴ったのはそのせいだ」
「十円を一枚だけ残す人がいるか?」
「偶然だと言えば、そうだ。が、両替機のアラーム音と、乾燥機の終了音が同じメーカーで同じ音だ」
私は目を見開いた。あの店の音——「ピッ、ピッ」。両替機も、終了も、取り忘れも、全部同じ。
鶴田は、時間をごまかす鍵に「音」を使ったのだろうか。
*
三日後、鬼塚は私を現場に連れていった。
まるまる洗いは、遺影の写真に挟まれて静かだった。壁には色あせた注意書き。乾燥機のドアに頭を突っ込むな、と図で描いてある。誰がそんなことをするか、と思う図だが、現実は斜め上を行く。
鬼塚は、床を指さした。
「この店、床の一角だけワックスが新しい。二台目と三台目の乾燥機の前。滑る」
私は滑ってみた。確かに他よりつるつるしている。
鬼塚はさらに、二台目の乾燥機のドアのパッキンを指でめくった。そこに、薄い紙片が挟まっている。色はわずかに桃色。
「柔軟シートだ。桜の香り。——桜、今の季節じゃない」
「香りは一年中、売ってます」
「そうだな。だが、このシートは、海外製のやつだ。輸入食品の店のラベルがついてる。商店街にあるのは——」
「ジムの向かいの輸入食材店」
鶴田がよくプロテインをまとめ買いしている店だ。彼は匂いに敏感で、汗の匂いを消すため柔軟シートを使うとジムで話しているのを聞いたことがある。
鬼塚は、レジ横の両替機の上面を手で拭った。薄い白い粉が指についた。
「炭酸マグネシウム。チョークの粉だ。ジムのトレーニング用。両替機の上に置かれる理由は一つ。誰かが、そこで何かに印をつけた」
私は店内を見渡した。甘い桜の匂い。新しいワックス。曇るガラス。
鬼塚が、スイッチを押してみせた。空の乾燥機が回り、残り時間表示が適当に数字を踊らせる。三十九、三十八、三十六——突然、二十五。最後は「1」のあと「End」に切り替わる。止まると、あの音が鳴る。「ピッ、ピッ」。
両替機の取り忘れアラームを試すと、やはり同じ音が鳴った。「ピッ、ピッ」。
私は、鶴田の二十時三十分を思い出した。千円札。取り忘れの「ピッ、ピッ」。その直後、彼はスマホで何かを打ち込み、ジムに電話した。
時間を作る。音で。——それが浮かんで、私は背筋が冷えた。
「鬼塚さん。『四十分』という言葉のほうが嘘なんじゃないですか。彼、『四十分コース』を押したと証言している。でも、押したのは『二十分』を二回。二十と二十で四十分、と。だが、この機械は連結できない。二十を二回押すと、表示は『20』のまま伸びる。終わると一回だけ“ピッ、ピッ”。計二回鳴らない」
「だが、彼は二十一時十五分に取りに行ったと言ってる」
「時間を聞いたのは“音”で、見たのは“シャッター”です。両替機の取り忘れを、わざと鳴らし、まるで乾燥終了の音のように“私たちに聞かせた”。二十一時過ぎ、シャッターは閉まりかける。彼は外から店内をのぞき込み、『止まった』と自分に言い聞かせる。実際はまだ回っている。——その間が、犯行時間」
鬼塚は、両替機の下の床を指した。ワックスで滑る床。
犯行の想像が、私の中で乾いていく。
鶴田は、店が混んでいる時間帯に「四十分」と口にした上で、実際は二十を入れ、音を合わせるため、両替機のアラームを鳴らす。周囲の耳に「終わった音」を刷り込む。実際の乾燥はまだ終わっていない。彼はシャワーを口実に店を出て、裏口から戻る。ワックスを塗ったのは、足音や靴跡の輪郭をぼかすため。柔軟シートをパッキンに挟み、庫内の温度上昇をわずかに遅らせ、回転の摩擦で窒息のタイミングを“調整”する。
真弓さんは、その時刻に「点検」をする。クールダウンを押すため、扉を開ける——そこを後ろから押されれば、上半身から落ちる。
鶴田は、フィルターを掃除して、衣類の繊維の“時刻”を消す。乾燥中に繊維の量は増える。掃除した直後なら、推定“何分前”ができなくなる。
そして、アリバイを仕上げるため、最後にも一度、両替機のアラームを鳴らす。
私の喉が乾いた。
鬼塚は、鼻で笑った。
「ランドリー殺人講座だな。だが、動機は? なぜ、店主を殺す」
私は、淳の伏せた目を思い出した。終わりを延ばす少年。
真弓さんは、先週から“自動釣銭機”を導入する計画を話していた。小銭の数が合わないことが増えたから、と。
私の店にも、釣銭の相談をしに来た。自動機は高いが、両替機の古さも危ない、と。
鶴田は、ジムの会費で苦しんでいた。固定客が減って、歩合が落ち、サプリの仕入れでカードが限度額に達していた。
そして——両替機の中の小銭。誰も数えない時間帯があることに、彼は気づいていたのだろう。
「小銭を抜いていた」
鬼塚が低く言った。
「真弓さんが自動機に変えたら、終わりだ。両替機の精算は日報と合う。だから、変える前に——」
「事故に見せかけて、止めた」
空の乾燥機が、勝手に「1」に跳ねて、止まった。
「ピッ、ピッ」。
私は、音が嫌いになりそうだった。
*
鶴田は最初、否認した。「四十分コースだ」と繰り返した。
だが、鬼塚が両替機の硬貨投入口の奥から、チョークの粉と桜のシートの微繊維を採取し、ジムのチョークと一致したこと、シートの香りが彼のロッカーからも検出されたこと、さらに、乾燥機の基板に残っていた「コース押下ログ」が二十→二十の順序で記録されていたことを突きつけられると、彼は視線を落とし、唇を噛んだ。
「俺は……時間が欲しかっただけだ」
薄い言葉だった。彼は、終わりの時刻を先延ばしにするために、「音」で時間を作り、「滑る床」で足跡を消し、「柔軟シート」で熱を騙した。
だが、時間は乾燥機の中では縮む。衣類は小さくなり、繊維はもろくなる。嘘も、同じだ。
真弓さんの死は、鶴田の思惑どおり“事故”として商店街を駆け抜け、やがて、彼に跳ね返った。チョークは指を滑らせるが、真実までは滑らない。
取り調べの途中、鬼塚は、ふとこんなことを言った。
「お前、シャッターの“音”で時間を測ったろ。シャッターの鍵の“ガチャン”が二十一時の合図だとな。あの夜に限って、真弓さんは五分早く下ろしてる。——雨の日は、洗濯物の持ち出しが難しいから、早めに閉めて、裾野のタオルを畳む時間を取る。お前の“音時計”は、最初から遅れてたんだよ」
鶴田はうつむいたまま、こめかみを押さえた。音で作ったアリバイは、音で崩れた。
*
事件が終わったあと、淳が店に来た。両手に、大きな袋を持って。
袋の中身は、母の作業服と、広口瓶。それから、シールの台紙が数枚。
彼は瓶の蓋を開け、私に匂いを嗅がせた。わずかに甘い——でも桜ではない。
「母の柔軟剤です。ラベンダー。いつもこれ。——桜の匂いは、嘘だった」
「君は気づいていた?」
「事件の翌朝、店に入ったとき。匂いが違う。——でも、言えなかった。僕は、母が『自動釣銭機』に変えるって話を、鶴田さんにぽろっと言ったから」
淳の目が、ようやく私を見た。
彼は、終わらせた。自分の中の“終わりの先延ばし”を、ここで断ち切ったのだろう。
私は台紙をめくった。シールには、丸いスタンプの印が印刷されている。「洗濯ありがとう」「また来てね」。真弓さんが、常連の子どもたちに配っていたものだ。
「佐伯さん」
淳が呼んだ。
「僕、店を手伝います。学校が終わったら。——乾燥機のクールダウン、忘れずに押せるように」
私は笑った。
鬼塚が出入り口で無言で頷くのが見えた。彼は、相棒の乾燥機に一礼して帰っていった。
雨は、三日後に上がった。
私は、夜の古本に新聞紙を挟むとき、いつもより薄めにした。湿気が抜けるのに、時間がかかることを知っているからだ。
まるまる洗いの看板は、新しい。淳が選んだ青い書体が、意外に明るい。
乾くまでの時間は、嘘をつく。短く見えたり、長く感じたりする。でも、最後に残る手触りは、正直だ。
私は、両替機の前で立ち止まり、十円玉を一枚だけ、わざと取り忘れてみた。
「ピッ、ピッ」。
あの音は、もう私を騙さない。私はすぐに十円玉を拾い上げ、ポケットに入れた。
乾いた空気の中で、真弓さんの笑い皺を思い出す。洗濯槽を拭く、強くも優しい手。
私たちは、今日も店を開ける。クールダウンを、一分だけ長く。
熱すぎるものを、少し冷ますために。
駅前のコインランドリー「まるまる洗い」の店主、真弓さんが、乾燥機の中で死んだと知らされた朝から、乾くという言葉は、私にとって別の温度を持つようになった。
私は商店街の角で古本屋を営む佐伯直斗、三十五歳。真弓さんは隣の店で二十五年、黙々と洗濯槽を磨き続けてきた人だ。スイッチを押す指の形が細くて、洗剤の匂いより湯気の匂いが似合う。息子の淳は高校生で、よくうちに文庫を物色しに来た。彼がいなくなってから——つまり、家を出て行ってから——真弓さんの笑い皺は、少しだけ深くなった。
事故だ、と誰もが言った。閉店後、誤って乾燥機のドアを開けたまま足を滑らせ、上半身から突っ込み、回転が始まって気を失ったのだろう、と。大型乾燥機は回転が荒い。衣類の塊に締め付けられて、気道が塞がれば致命的だ。
ただ一人、そう言わなかったのが、巡査部長の鬼塚だった。
「事故にしては、乾燥が行き過ぎてる」
現場検証帰りに彼は、うちのカウンターで言った。雨の日の客の少なさに助けられて、店内は静かだった。
「行き過ぎ?」
「衣類がカリカリだ。あの店は普段、最後に“クールダウン”を一分つけて止めるのが癖だろ。ドアを開けたら熱気が“ふっ”と逃げる。だが昨夜は、庫内が熱いまま放置されていた」
私は思わず笑ってしまった。
「巡査部長、ランドリー通ですね」
「うち、単身赴任が長くてな。乾燥機は相棒だ。——で、事故なら止めに行く。本能的に。『熱い』は危険信号だからな」
鬼塚は、ポケットから小さな紙片を出した。灰色の綿ぼこりだった。乾燥機のフィルターにつく、あの細かいやつだ。紙片に乗せた灰色を、鬼塚は爪で弾いた。
「フィルターが掃除されていた。しかも異様に丁寧に。いつもより。事故で慌てて倒れた人間が、先にフィルターを掃除するか?」
私は首を振った。
真弓さんは、確かに几帳面だった。でも、順番がある。閉店間際にやることは、釣銭の集計、床のモップがけ、洗剤投入口の拭き取り。フィルターは最後——乾燥機が完全に止まってから、熱が引いてからやる。
なのに、その夜はフィルターの枠までピカピカだった、と鬼塚は言う。誰かが、そこに手を入れている。
「犯人は、何を消したかったんでしょうね」
私の問いに、鬼塚は曖昧に首を傾げた。
「指紋……と言いたいが、あの樹脂は熱で模様が伸びる。消すなら別のものだ。例えば、時間だ」
時間。乾燥は時間で作られる。四十分なら四十分の“乾き”がある。
鬼塚は立ち上がった。
「佐伯。お前は目の前で見ていたろ。店が閉まるまで」
私は頷いた。あの夜、私は棚の文庫を入れ替えながら、まるまる洗いのガラス越しに、店内の人影が動くのを見ていた。十九時半、仕事帰りの主婦が三人。二十時、学生の男の子が一人。二十時十五分、タオルの山を抱えたスポーツクラブの男——後で知ったが、彼は向かいのフィットネスジムのインストラクターで、名前は鶴田。二十時三十分、彼が両替機に千円札を入れて、小銭をかき集めた。そのとき、両替機が「ピッ、ピッ」と取り忘れのアラームを鳴らした。あの音は、死ぬほど耳に残る。
二十一時、シャッターが半分下りて、真弓さんが「今日はもう終わり」と手で合図をした。私は会釈し、看板を片付けた。
それが、最後の元気な姿だった。
*
葬式の翌日、私は淳を見た。駅前の公園のベンチで、コンビニのコーヒーを手にしていた。声をかけると、彼は一瞬驚いて、それから素直に頭を下げた。
「母のことで、お世話になりました」
「何か、気になることは?」
「ないです」
即答だった。目を伏せる速度が、少しだけ速い。
私は中学の頃の淳を思い出した。国語の宿題で、感想文を一行も書かずに持ってきて、「読み終わってしまうのが怖くて、最後のページを開けないままでした」とだけ言った少年。終わりを先延ばしにする癖は、今も残っているらしい。
その夜、鬼塚から電話が来た。
「監視カメラが死んでた。曇り。乾燥機の熱でガラスが曇るんだとよ。で、鶴田の証言が、どうにも腑に落ちない」
「ジムのインストラクター?」
「ああ。『二十時半にタオルを入れて四十分コース。そのあとシャワーを浴びて、二十一時十五分に取りに戻ったらシャッターが下りていた。だから、あの日は取り損ねた』と言う」
「四十分コースなら二十一時十分に止まる。五分前にシャッターは下りていた、と」
「そう。まるで、ぴたりと合ってるように言う。だが、ランドリーの乾燥機は“残り時間”が飛ぶ。重さや湿り具合で、機械が勝手に加減するだろ?」
私は頷いた。
まるまる洗いの乾燥機は、残り時間表示がけっこう嘘つきだ。七分のところで急に「1」に飛ぶときもある。クールダウンをつければ一分延びるが、それも衣類の温度で伸び縮みする。ピタリと四十分で止まるなど、あり得ない。
それに、私はあの夜を見ている。二十時三十分に両替機が鳴ってから、二十一時まで、鶴田は店内を行ったり来たりしていた。シャワーを浴びるなら、ジムに戻るはずだが、彼はしばらく店の外の自販機の前でスマホを触っていた。
私は鬼塚に言った。
「彼、四十分コースを入れたと言うけど、二十時三十分に千円入れて、小銭を十二枚持っていった。四十分は三百円。お釣りは——」
「百円八枚、十円二十枚のはずだな。両替機の記録を取った。千円投入、一回。五百円投入、一回。五百円は誰だか不明だが、千円は鶴田の時間に合う。だが、十円玉が最後に一枚だけ戻されている。取り忘れアラームが鳴ったのはそのせいだ」
「十円を一枚だけ残す人がいるか?」
「偶然だと言えば、そうだ。が、両替機のアラーム音と、乾燥機の終了音が同じメーカーで同じ音だ」
私は目を見開いた。あの店の音——「ピッ、ピッ」。両替機も、終了も、取り忘れも、全部同じ。
鶴田は、時間をごまかす鍵に「音」を使ったのだろうか。
*
三日後、鬼塚は私を現場に連れていった。
まるまる洗いは、遺影の写真に挟まれて静かだった。壁には色あせた注意書き。乾燥機のドアに頭を突っ込むな、と図で描いてある。誰がそんなことをするか、と思う図だが、現実は斜め上を行く。
鬼塚は、床を指さした。
「この店、床の一角だけワックスが新しい。二台目と三台目の乾燥機の前。滑る」
私は滑ってみた。確かに他よりつるつるしている。
鬼塚はさらに、二台目の乾燥機のドアのパッキンを指でめくった。そこに、薄い紙片が挟まっている。色はわずかに桃色。
「柔軟シートだ。桜の香り。——桜、今の季節じゃない」
「香りは一年中、売ってます」
「そうだな。だが、このシートは、海外製のやつだ。輸入食品の店のラベルがついてる。商店街にあるのは——」
「ジムの向かいの輸入食材店」
鶴田がよくプロテインをまとめ買いしている店だ。彼は匂いに敏感で、汗の匂いを消すため柔軟シートを使うとジムで話しているのを聞いたことがある。
鬼塚は、レジ横の両替機の上面を手で拭った。薄い白い粉が指についた。
「炭酸マグネシウム。チョークの粉だ。ジムのトレーニング用。両替機の上に置かれる理由は一つ。誰かが、そこで何かに印をつけた」
私は店内を見渡した。甘い桜の匂い。新しいワックス。曇るガラス。
鬼塚が、スイッチを押してみせた。空の乾燥機が回り、残り時間表示が適当に数字を踊らせる。三十九、三十八、三十六——突然、二十五。最後は「1」のあと「End」に切り替わる。止まると、あの音が鳴る。「ピッ、ピッ」。
両替機の取り忘れアラームを試すと、やはり同じ音が鳴った。「ピッ、ピッ」。
私は、鶴田の二十時三十分を思い出した。千円札。取り忘れの「ピッ、ピッ」。その直後、彼はスマホで何かを打ち込み、ジムに電話した。
時間を作る。音で。——それが浮かんで、私は背筋が冷えた。
「鬼塚さん。『四十分』という言葉のほうが嘘なんじゃないですか。彼、『四十分コース』を押したと証言している。でも、押したのは『二十分』を二回。二十と二十で四十分、と。だが、この機械は連結できない。二十を二回押すと、表示は『20』のまま伸びる。終わると一回だけ“ピッ、ピッ”。計二回鳴らない」
「だが、彼は二十一時十五分に取りに行ったと言ってる」
「時間を聞いたのは“音”で、見たのは“シャッター”です。両替機の取り忘れを、わざと鳴らし、まるで乾燥終了の音のように“私たちに聞かせた”。二十一時過ぎ、シャッターは閉まりかける。彼は外から店内をのぞき込み、『止まった』と自分に言い聞かせる。実際はまだ回っている。——その間が、犯行時間」
鬼塚は、両替機の下の床を指した。ワックスで滑る床。
犯行の想像が、私の中で乾いていく。
鶴田は、店が混んでいる時間帯に「四十分」と口にした上で、実際は二十を入れ、音を合わせるため、両替機のアラームを鳴らす。周囲の耳に「終わった音」を刷り込む。実際の乾燥はまだ終わっていない。彼はシャワーを口実に店を出て、裏口から戻る。ワックスを塗ったのは、足音や靴跡の輪郭をぼかすため。柔軟シートをパッキンに挟み、庫内の温度上昇をわずかに遅らせ、回転の摩擦で窒息のタイミングを“調整”する。
真弓さんは、その時刻に「点検」をする。クールダウンを押すため、扉を開ける——そこを後ろから押されれば、上半身から落ちる。
鶴田は、フィルターを掃除して、衣類の繊維の“時刻”を消す。乾燥中に繊維の量は増える。掃除した直後なら、推定“何分前”ができなくなる。
そして、アリバイを仕上げるため、最後にも一度、両替機のアラームを鳴らす。
私の喉が乾いた。
鬼塚は、鼻で笑った。
「ランドリー殺人講座だな。だが、動機は? なぜ、店主を殺す」
私は、淳の伏せた目を思い出した。終わりを延ばす少年。
真弓さんは、先週から“自動釣銭機”を導入する計画を話していた。小銭の数が合わないことが増えたから、と。
私の店にも、釣銭の相談をしに来た。自動機は高いが、両替機の古さも危ない、と。
鶴田は、ジムの会費で苦しんでいた。固定客が減って、歩合が落ち、サプリの仕入れでカードが限度額に達していた。
そして——両替機の中の小銭。誰も数えない時間帯があることに、彼は気づいていたのだろう。
「小銭を抜いていた」
鬼塚が低く言った。
「真弓さんが自動機に変えたら、終わりだ。両替機の精算は日報と合う。だから、変える前に——」
「事故に見せかけて、止めた」
空の乾燥機が、勝手に「1」に跳ねて、止まった。
「ピッ、ピッ」。
私は、音が嫌いになりそうだった。
*
鶴田は最初、否認した。「四十分コースだ」と繰り返した。
だが、鬼塚が両替機の硬貨投入口の奥から、チョークの粉と桜のシートの微繊維を採取し、ジムのチョークと一致したこと、シートの香りが彼のロッカーからも検出されたこと、さらに、乾燥機の基板に残っていた「コース押下ログ」が二十→二十の順序で記録されていたことを突きつけられると、彼は視線を落とし、唇を噛んだ。
「俺は……時間が欲しかっただけだ」
薄い言葉だった。彼は、終わりの時刻を先延ばしにするために、「音」で時間を作り、「滑る床」で足跡を消し、「柔軟シート」で熱を騙した。
だが、時間は乾燥機の中では縮む。衣類は小さくなり、繊維はもろくなる。嘘も、同じだ。
真弓さんの死は、鶴田の思惑どおり“事故”として商店街を駆け抜け、やがて、彼に跳ね返った。チョークは指を滑らせるが、真実までは滑らない。
取り調べの途中、鬼塚は、ふとこんなことを言った。
「お前、シャッターの“音”で時間を測ったろ。シャッターの鍵の“ガチャン”が二十一時の合図だとな。あの夜に限って、真弓さんは五分早く下ろしてる。——雨の日は、洗濯物の持ち出しが難しいから、早めに閉めて、裾野のタオルを畳む時間を取る。お前の“音時計”は、最初から遅れてたんだよ」
鶴田はうつむいたまま、こめかみを押さえた。音で作ったアリバイは、音で崩れた。
*
事件が終わったあと、淳が店に来た。両手に、大きな袋を持って。
袋の中身は、母の作業服と、広口瓶。それから、シールの台紙が数枚。
彼は瓶の蓋を開け、私に匂いを嗅がせた。わずかに甘い——でも桜ではない。
「母の柔軟剤です。ラベンダー。いつもこれ。——桜の匂いは、嘘だった」
「君は気づいていた?」
「事件の翌朝、店に入ったとき。匂いが違う。——でも、言えなかった。僕は、母が『自動釣銭機』に変えるって話を、鶴田さんにぽろっと言ったから」
淳の目が、ようやく私を見た。
彼は、終わらせた。自分の中の“終わりの先延ばし”を、ここで断ち切ったのだろう。
私は台紙をめくった。シールには、丸いスタンプの印が印刷されている。「洗濯ありがとう」「また来てね」。真弓さんが、常連の子どもたちに配っていたものだ。
「佐伯さん」
淳が呼んだ。
「僕、店を手伝います。学校が終わったら。——乾燥機のクールダウン、忘れずに押せるように」
私は笑った。
鬼塚が出入り口で無言で頷くのが見えた。彼は、相棒の乾燥機に一礼して帰っていった。
雨は、三日後に上がった。
私は、夜の古本に新聞紙を挟むとき、いつもより薄めにした。湿気が抜けるのに、時間がかかることを知っているからだ。
まるまる洗いの看板は、新しい。淳が選んだ青い書体が、意外に明るい。
乾くまでの時間は、嘘をつく。短く見えたり、長く感じたりする。でも、最後に残る手触りは、正直だ。
私は、両替機の前で立ち止まり、十円玉を一枚だけ、わざと取り忘れてみた。
「ピッ、ピッ」。
あの音は、もう私を騙さない。私はすぐに十円玉を拾い上げ、ポケットに入れた。
乾いた空気の中で、真弓さんの笑い皺を思い出す。洗濯槽を拭く、強くも優しい手。
私たちは、今日も店を開ける。クールダウンを、一分だけ長く。
熱すぎるものを、少し冷ますために。



