アーケードの天井に吊られた蛍光灯は、深夜になると一部だけが星のように残る。消えた灯りの間に点々と白が浮き、商店街は宇宙の模型みたいに静かだった。
私はその宇宙を毎晩一巡する。名札には〈夜間見回り員・三枝〉。商店会と警備会社の半分ずつが出す薄給に、缶コーヒー二本分の責任感を上乗せしたのが、私の仕事の全てだ。
その夜、星の下で最初に異変に気づいたのは、コインパーキングの精算機だった。緑の「使用中」ランプが滅灯し、赤色の「故障」が点きっぱなし。操作パネルには、ガムテープで雑に貼られた紙切れ――〈管理会社へ連絡済〉。筆圧が強く、最後の「み」だけがやけに太い。私は紙をめくって裏を見る。真っ白だ。管理会社から貼られたものでなく、誰かがここにあるもので間に合わせた。
柵の向こう、車室には白い軽ワゴン、茶のコンパクトカー、シルバーのセダン。地面の輪止めはどれも上がっている。
私は詰所に戻り、管理会社の夜間窓口に電話した。若い声が、眠たい相槌を打つ。
「すみません、〇〇商店街のパーキング、精算機が故障ランプ点灯。貼り紙は……自作ぽいです」
「え、貼り紙? うちが出したのは昼。すぐ撤去してますけど」
「じゃあこれは、誰かの“演出”ですね」
私は故障の旨を引き継ぎながら、自分の手帳に時刻を書いた。午前一時十四分。
その直後、詰所の扉が荒く開き、弾む息とともに男が飛び込んできた。青いポロシャツに濡れた髪、肩に掛けた斜めのショルダーバッグ。鮮魚店の息子、涼だ。昼は元気が売りだが、今は目に少し熱がある。
「三枝さん、やばい。パーキング、やられたかも。さっき、精算機の前に集金袋が二つ出てて、誰かが……いや、俺じゃない。慌てて警察呼んだ」
「落ち着け。いつから君はそこにいた」
「一時五分。友達を送って戻ってきて、精算しようとしたら故障。貼り紙に『現金は袋に入れて』って書いてあったから、危ないと思って、袋を抱えて店に持って……」
「持ってきたのか」
「いや、その時はまだ置いたまま。誰もいなかったし。でも、十秒後に黒いキャップの男が来て、袋を一つ持って走って……俺、追いかけたけど見失った」
私は眉を上げた。貼り紙にそんな文言はない。さっき見た紙は「連絡済」だけだ。
涼は気づかず、早口で続けた。
「走ってったのは喫茶パロットの裏。マスターの外階段の方へ。あの人、遅くまで焙煎してるから、見てないかなって……」
喫茶「パロット」のマスター、古市。腕組みと口元の苦笑が似合う人だ。夜中に豆を煎るのが趣味で、時々煙の通報を受ける。
私は心の中で三人の顔を並べた。涼。古市。そして、夜はよく見る配達の軽バンの男。アーケードの端で停めて、深夜便を降ろしていく。私は彼の名前をまだ知らない。
十分後。パトカーが来て、鑑識のライトが精算機の前に斜めの白を落とした。集金袋は一つ残っていた。封印シールは剥がされていない。もう一つは持ち去られた。
警官は貼り紙を剥がし、粉をまぶしながら言った。
「どこの紙?」
「パーキングのレシート用ロールの切れ端だな」と古市が口を挟む。「うちの店にも予備ある。同じ幅だ」
「レシートにガムテープ……店側の資材が使われてる」私は呟いた。「三階の共有物置からも持ち出せる」
そのとき、白い軽バンがアーケードの端を走り抜けた。私は手を上げたが、彼は気づかない。車体の側面にはコンビニチェーンのロゴ。深夜便だ。
警官は周辺の店に確認するという。私は巡回を続けながら、自分の胸の中で点を打つ。貼り紙の文字。濡れた髪。故障ランプの点灯時刻。現金袋の封印。
そして、精算機のパネル。私は昼間にもここを何百回も見ている。そこには「領収書」のボタンがあり、押すと熱転写の紙に日時と「¥」の印字が出る。深夜料金の単価に切り替わる午前一時を境に、レシートの表記が少し変わる。英数モードに入るタイミングで、「¥」のフォントが妙に細くなるのだ。私はそれにいつも小さな違和感を持っていた。
涼の言葉が耳に残る。「貼り紙に『現金は袋に入れて』」。……それ、本当に見たのか?
◇
翌朝。商店街の役員が集まる前に、私は一人でパーキングの現場に立った。露が乾きかけ、路面に薄い白粉が浮いている。
輪止めの隙間に、黒い粒子が溜まっているのを見つけた。炭の粉? 撫でると指が灰色になる。心当たりがある。古市のコーヒー豆。深煎り。焙煎後の微粉は軽く、風で飛んで、商店街の床に黒い星をつくる。パロットの前にはいつも少し溜まっている。だが、精算機の基礎の隙間に固まっているのは珍しい。誰かの靴底にまとわりついて、ここに落ちた?
私はしゃがんだまま薄い青のガムテープの痕を見つめた。微かな糊の光沢が、紙の周りに長方形の跡を残している。貼り紙はさっき剥がされたが、痕跡は嘘をつかない。テープは三辺貼られていた。上と左右。下は貼られていない。
下だけ貼らない貼り方は、夜間の風に強い。だが、この場所で風はほぼない。上だけで充分だ。丁寧な人の癖か、あるいは、下を開けて「差し替え」を容易にするためか。
私はパロットの裏階段を登った。背後の厨房から低いゴロゴロというファンの音が聞こえる。古市が端の窓を開け、顔を出した。
「昨日は災難だったな」
「災難を呼ぶ豆の匂いは、昨夜も濃かったです」
「そいつは悪かった。警察に『煙じゃない』って説明するのに慣れたよ」
私は窓際の棚を見る。メモ用紙、レシートロール、青いガムテープ。ロールの端は切り取られ、ギザギザが残っている。店の備品だ。古市が貼り紙を作った?
彼は先に言った。
「夜中の貼り紙なら、私が貼ったよ。管理会社から電話で『貼っておいてくれ』と頼まれてな。昼の貼り紙は雨にやられてボロボロだったから、夜に新しく、レシート紙で」
私は眉を上げる。
「それ、何時です?」
「一時ちょい前。焙煎の合間に。『連絡済』と書いて、精算機の上に三辺ガムテープ。下は見やすいように開けておいた。風、ないだろここ」
「文面は『連絡済』だけ?」
「それだけだ。だいたい、現金は機械以外に入れちゃいけない。うちの客にも言う」
古市の声は静かだった。嘘の厚みは薄い。私は頷き、テーブルの上の紙袋を指さした。
「今日の粉、少しもらっていいです?」
「好きにしな。星を撒くのは俺の悪癖だ」
私は微粉をビニール袋に入れ、階段を下りた。
駐車場の精算機の前に戻ると、警察が残していったチョークの線を避け、パネルの周りを指でなぞった。わずかに甘い匂いがした。柚子のハンドクリーム。誰の手だろう。涼の家は魚屋だ。手は魚と氷の匂い。古市はコーヒーと煙。残るは、あの白い軽バン。コンビニ配達の男。
私は昼にそのコンビニに入り、店長に尋ねた。
「夜中の配送の方、どなたです?」
「中條くん。三十代。真面目だけど、金の話になると渋いな」
「昨夜、一時過ぎにこの通りを通った?」
「毎日通る。納品は一時半だ」
私はレジ横のハンドクリームを見る。柚子。値札が「特」と赤い。食材の匂いを消すため、夜勤の子がよく使う、と店長が言った。
◇
翌晩。私は星をまたいで歩いた。精算機の「故障」はもう直っている。貼り紙の痕はまだ薄く残っていた。
私はその上に、同じような紙を同じように貼った。上と左右だけテープ。文面は短い。「故障中。連絡済」。古市の字を真似て、少しだけ最後の字を太くした。
午前零時五十七分、白い軽バンが通りかかり、減速した。運転席の男が貼り紙を見て、少し首を傾げ、走り去る。
午前一時二分、涼が自転車でやってくる。貼り紙を見て、肩をすくめ、スマホで何かを撮る。
午前一時七分、古市が裏階段から降りてくる。手に青いガムテープ。貼り紙を見て、テープの端を撫で、「私の字じゃない」と小声で言った。
私は路地の影から見ていた。
午前一時十一分。白い軽バンが戻ってきた。今度は停まり、男が降りる。キャップのつば、柚子の匂い。彼は貼り紙の下辺に指をかけ、ひょいと持ち上げる。差し替えに慣れた手つき。胸ポケットから別の紙片を出し、上書きするように差し込んだ。文面は――〈故障のため現金は袋に入れて〉。
私は飛び出した。
「待て」
男は驚いて紙を落とし、駆け出した。私は追い、輪止めで足をぶつけ、転びかけた。涼が横から飛び出し、男の腕を掴んだ。柚子の匂いが濃くなる。
男――中條は抵抗し、貼り紙を蹴った。紙が舞い、落ちた場所に黒い粉が星のように散った。
◇
事情聴取は詰所で行われた。涼は汗を拭き、古市はコーヒーを入れ、警官は淡々と紙を折った。
中條は、最初は「知らない貼り紙だ」と言っていたが、ポケットから出てきた三枚の紙には、私の見た文面が印刷されていた。フォントはコンビニのラベル印字と同じ。切り口はレシートロールのギザギザ。差し替え用に準備していたのだ。
私は、静かに話を組み立てた。
「あなたは、パーキングの精算機前に貼り紙がある夜を狙っていた。『故障』という言葉に、人は財布の紐を緩める。集金袋が出ているなら尚更。――昨夜、一つの袋は持ち去られた」
「俺じゃない」
「あなたじゃない。あなたが動いたのは、“二晩前”だ」
中條の目が一瞬泳いだ。
私は、ポケットから二種類のレシートを出した。コインパーキングの領収書。ひとつは昨日のもので、もうひとつは二日前の深夜一時半のもの。
二日前のレシートの「¥」は太い。昨日の「¥」は細い。私は指で示した。
「この精算機は、深夜一時にレートが切り替わり、同時に印字のコードが切り替わる。あなたは『一時十五分に通った』と言ったが、あなたが貼り紙を差し替えて現金袋を誘導したのは一時前だ。だから、人の証言と、あなたの『見た』フォントが噛み合わない」
「フォント?」
「また、あなたは『貼り紙に“袋に入れて”とあった』と涼に言った。あの文言は、あなたが作ったものにしかない。古市さんの貼り紙にはない。――差し替えたのはあなたの指だ」
古市が、微粉の入った袋を机に置いた。中條の靴底から採取されたそれと、香りも粒子の大きさも一致する。
中條は黙り込んだ。涼が身を乗り出す。
「なんで、そんなことするんだよ」
「……集金袋は、店側が一旦出していた。管理会社に渡すため。置きっぱなしは危ない。だから、俺が“預かる”ふりを……」
言い訳はガスのように薄い。警官は筆を止め、中條を見た。
「あなたの手は柚子の匂いがする。これは証拠にもならないかもしれないが、あなたが“落とし物の現金袋”を触る前に『匂いを消す』ことを習慣にしていることは示す。貼り紙を差し替える手つきの慣れも、今日見せたとおりだ」
中條は肩を落とした。
「……二日前、集金袋は二つあった。一つは持ち去られ、もう一つは俺が“預かった”。昨夜は、故障の貼り紙が出てたから、同じことができると思って……」
そこで涼が咳払いした。
私は、涼に向き直った。
「君も少し、嘘をついたな」
「は?」
「『十秒後に黒いキャップの男が』と。――十秒じゃない。二十秒だ。故障ランプが点灯した時刻は一時十四分。君が詰所に飛び込んできたのが一時十五分二十秒。その間に追いかけて戻るには、十秒では無理だ。――そして、何より」
私は、例のガムテープ痕を指でなぞる仕草をした。
「君は『貼り紙に“袋に入れて”とあった』と言った。見てもいない文面を。“誰かがそうする”と知っていたからだ。――二日前、現場にいたな?」
涼は目を見開き、唇を噛んだ。それから、ゆっくりと頷いた。
「……ごめん。俺、集金袋を一回、持ち上げた。重さを確かめた。どのくらい入ってるかって、好奇心で。すぐ置いたけど。その時、“袋に入れて”の紙を見た。だから昨夜も、同じだと思って……」
古市が小さくため息をついた。
「好奇心が、物語を作る。だが、物語は現実に勝てない」
涼は俯き、拳を握った。
私は彼の肘に軽く触れた。子どもの頃、祭りで露店の光を追いかけて転んだ時の涼を思い出す。傷は膝よりも,目の奥にできる。
◇
事件は、意外なほど早く片付いた。二日前に消えた集金袋は、アーケード端の空き店舗裏から見つかった。鍵を持っているのは保全会社と一部の店主だけ。中條が納品時に開けられることも確認された。
昨夜の袋は、涼の証言どおり一人の男が持ち去ったが、彼は別件の常習犯で、監視カメラの別角度に映っていた。中條とは無関係。二つの事件が、同じ「貼り紙」という道具で重なったのだ。
私は家に帰ってから、缶コーヒーを一本開け、机にレシートを並べた。駐車場のそれ、コンビニのそれ、喫茶のそれ。フォントの「¥」だけを拡大し、違いを並べる。太いもの、細いもの、上の棒が短いもの。
東野圭吾の小説に出てくるような、華麗な一発逆転は私にはできない。けれど、細部は嘘をつかない、ということだけは、身体で知っている。
貼り紙のガムテープの貼り方。柚子の匂い。粉の星。フォントの癖。――そのすべてが、夜の宇宙で微かに光っていた。
◇
数日後。商店街の星は、いつも通りに戻っていた。喫茶パロットの前を通ると、古市が外に出て、豆を冷ましていた。
「三枝さん、見回りの星に名前をつけたらどうだ」
「名前?」
「君が毎晩見つける“小さな違和感”。それが見つかった場所に、星座みたいに名前を」
「じゃあ、あそこは『¥座』で」
私は笑って精算機を指さし、古市も笑った。
涼は魚屋の前で氷をかいていた。目の奥の傷は、見えない。だが、氷の手触りは正直だ。彼は手を止め、こちらを見る。
「この前は……」
「誰にでも、十秒の嘘はある。次は、十秒の勇気で埋めればいい」
涼は、少しだけ笑って頷いた。
夜。私はまた宇宙を一巡する。蛍光灯の星は、今日もいくつか消え、いくつか灯る。
精算機のパネルには、新しい薄い保護フィルムが貼られた。角が浮き、そこに粉が少し溜まっている。私は指先で払った。
無数の細部が、私の前に道を描いていく。音も匂いも字体も、手触りも。
そして、私は思う。
嘘は乾く。乾くと、テープの痕が現れる。粉も残る。匂いも薄い膜になる。
閉店後の星は、その痕を照らすためにあるのかもしれない。
私は一歩進み、また一つ、灯りの下をくぐった。
私はその宇宙を毎晩一巡する。名札には〈夜間見回り員・三枝〉。商店会と警備会社の半分ずつが出す薄給に、缶コーヒー二本分の責任感を上乗せしたのが、私の仕事の全てだ。
その夜、星の下で最初に異変に気づいたのは、コインパーキングの精算機だった。緑の「使用中」ランプが滅灯し、赤色の「故障」が点きっぱなし。操作パネルには、ガムテープで雑に貼られた紙切れ――〈管理会社へ連絡済〉。筆圧が強く、最後の「み」だけがやけに太い。私は紙をめくって裏を見る。真っ白だ。管理会社から貼られたものでなく、誰かがここにあるもので間に合わせた。
柵の向こう、車室には白い軽ワゴン、茶のコンパクトカー、シルバーのセダン。地面の輪止めはどれも上がっている。
私は詰所に戻り、管理会社の夜間窓口に電話した。若い声が、眠たい相槌を打つ。
「すみません、〇〇商店街のパーキング、精算機が故障ランプ点灯。貼り紙は……自作ぽいです」
「え、貼り紙? うちが出したのは昼。すぐ撤去してますけど」
「じゃあこれは、誰かの“演出”ですね」
私は故障の旨を引き継ぎながら、自分の手帳に時刻を書いた。午前一時十四分。
その直後、詰所の扉が荒く開き、弾む息とともに男が飛び込んできた。青いポロシャツに濡れた髪、肩に掛けた斜めのショルダーバッグ。鮮魚店の息子、涼だ。昼は元気が売りだが、今は目に少し熱がある。
「三枝さん、やばい。パーキング、やられたかも。さっき、精算機の前に集金袋が二つ出てて、誰かが……いや、俺じゃない。慌てて警察呼んだ」
「落ち着け。いつから君はそこにいた」
「一時五分。友達を送って戻ってきて、精算しようとしたら故障。貼り紙に『現金は袋に入れて』って書いてあったから、危ないと思って、袋を抱えて店に持って……」
「持ってきたのか」
「いや、その時はまだ置いたまま。誰もいなかったし。でも、十秒後に黒いキャップの男が来て、袋を一つ持って走って……俺、追いかけたけど見失った」
私は眉を上げた。貼り紙にそんな文言はない。さっき見た紙は「連絡済」だけだ。
涼は気づかず、早口で続けた。
「走ってったのは喫茶パロットの裏。マスターの外階段の方へ。あの人、遅くまで焙煎してるから、見てないかなって……」
喫茶「パロット」のマスター、古市。腕組みと口元の苦笑が似合う人だ。夜中に豆を煎るのが趣味で、時々煙の通報を受ける。
私は心の中で三人の顔を並べた。涼。古市。そして、夜はよく見る配達の軽バンの男。アーケードの端で停めて、深夜便を降ろしていく。私は彼の名前をまだ知らない。
十分後。パトカーが来て、鑑識のライトが精算機の前に斜めの白を落とした。集金袋は一つ残っていた。封印シールは剥がされていない。もう一つは持ち去られた。
警官は貼り紙を剥がし、粉をまぶしながら言った。
「どこの紙?」
「パーキングのレシート用ロールの切れ端だな」と古市が口を挟む。「うちの店にも予備ある。同じ幅だ」
「レシートにガムテープ……店側の資材が使われてる」私は呟いた。「三階の共有物置からも持ち出せる」
そのとき、白い軽バンがアーケードの端を走り抜けた。私は手を上げたが、彼は気づかない。車体の側面にはコンビニチェーンのロゴ。深夜便だ。
警官は周辺の店に確認するという。私は巡回を続けながら、自分の胸の中で点を打つ。貼り紙の文字。濡れた髪。故障ランプの点灯時刻。現金袋の封印。
そして、精算機のパネル。私は昼間にもここを何百回も見ている。そこには「領収書」のボタンがあり、押すと熱転写の紙に日時と「¥」の印字が出る。深夜料金の単価に切り替わる午前一時を境に、レシートの表記が少し変わる。英数モードに入るタイミングで、「¥」のフォントが妙に細くなるのだ。私はそれにいつも小さな違和感を持っていた。
涼の言葉が耳に残る。「貼り紙に『現金は袋に入れて』」。……それ、本当に見たのか?
◇
翌朝。商店街の役員が集まる前に、私は一人でパーキングの現場に立った。露が乾きかけ、路面に薄い白粉が浮いている。
輪止めの隙間に、黒い粒子が溜まっているのを見つけた。炭の粉? 撫でると指が灰色になる。心当たりがある。古市のコーヒー豆。深煎り。焙煎後の微粉は軽く、風で飛んで、商店街の床に黒い星をつくる。パロットの前にはいつも少し溜まっている。だが、精算機の基礎の隙間に固まっているのは珍しい。誰かの靴底にまとわりついて、ここに落ちた?
私はしゃがんだまま薄い青のガムテープの痕を見つめた。微かな糊の光沢が、紙の周りに長方形の跡を残している。貼り紙はさっき剥がされたが、痕跡は嘘をつかない。テープは三辺貼られていた。上と左右。下は貼られていない。
下だけ貼らない貼り方は、夜間の風に強い。だが、この場所で風はほぼない。上だけで充分だ。丁寧な人の癖か、あるいは、下を開けて「差し替え」を容易にするためか。
私はパロットの裏階段を登った。背後の厨房から低いゴロゴロというファンの音が聞こえる。古市が端の窓を開け、顔を出した。
「昨日は災難だったな」
「災難を呼ぶ豆の匂いは、昨夜も濃かったです」
「そいつは悪かった。警察に『煙じゃない』って説明するのに慣れたよ」
私は窓際の棚を見る。メモ用紙、レシートロール、青いガムテープ。ロールの端は切り取られ、ギザギザが残っている。店の備品だ。古市が貼り紙を作った?
彼は先に言った。
「夜中の貼り紙なら、私が貼ったよ。管理会社から電話で『貼っておいてくれ』と頼まれてな。昼の貼り紙は雨にやられてボロボロだったから、夜に新しく、レシート紙で」
私は眉を上げる。
「それ、何時です?」
「一時ちょい前。焙煎の合間に。『連絡済』と書いて、精算機の上に三辺ガムテープ。下は見やすいように開けておいた。風、ないだろここ」
「文面は『連絡済』だけ?」
「それだけだ。だいたい、現金は機械以外に入れちゃいけない。うちの客にも言う」
古市の声は静かだった。嘘の厚みは薄い。私は頷き、テーブルの上の紙袋を指さした。
「今日の粉、少しもらっていいです?」
「好きにしな。星を撒くのは俺の悪癖だ」
私は微粉をビニール袋に入れ、階段を下りた。
駐車場の精算機の前に戻ると、警察が残していったチョークの線を避け、パネルの周りを指でなぞった。わずかに甘い匂いがした。柚子のハンドクリーム。誰の手だろう。涼の家は魚屋だ。手は魚と氷の匂い。古市はコーヒーと煙。残るは、あの白い軽バン。コンビニ配達の男。
私は昼にそのコンビニに入り、店長に尋ねた。
「夜中の配送の方、どなたです?」
「中條くん。三十代。真面目だけど、金の話になると渋いな」
「昨夜、一時過ぎにこの通りを通った?」
「毎日通る。納品は一時半だ」
私はレジ横のハンドクリームを見る。柚子。値札が「特」と赤い。食材の匂いを消すため、夜勤の子がよく使う、と店長が言った。
◇
翌晩。私は星をまたいで歩いた。精算機の「故障」はもう直っている。貼り紙の痕はまだ薄く残っていた。
私はその上に、同じような紙を同じように貼った。上と左右だけテープ。文面は短い。「故障中。連絡済」。古市の字を真似て、少しだけ最後の字を太くした。
午前零時五十七分、白い軽バンが通りかかり、減速した。運転席の男が貼り紙を見て、少し首を傾げ、走り去る。
午前一時二分、涼が自転車でやってくる。貼り紙を見て、肩をすくめ、スマホで何かを撮る。
午前一時七分、古市が裏階段から降りてくる。手に青いガムテープ。貼り紙を見て、テープの端を撫で、「私の字じゃない」と小声で言った。
私は路地の影から見ていた。
午前一時十一分。白い軽バンが戻ってきた。今度は停まり、男が降りる。キャップのつば、柚子の匂い。彼は貼り紙の下辺に指をかけ、ひょいと持ち上げる。差し替えに慣れた手つき。胸ポケットから別の紙片を出し、上書きするように差し込んだ。文面は――〈故障のため現金は袋に入れて〉。
私は飛び出した。
「待て」
男は驚いて紙を落とし、駆け出した。私は追い、輪止めで足をぶつけ、転びかけた。涼が横から飛び出し、男の腕を掴んだ。柚子の匂いが濃くなる。
男――中條は抵抗し、貼り紙を蹴った。紙が舞い、落ちた場所に黒い粉が星のように散った。
◇
事情聴取は詰所で行われた。涼は汗を拭き、古市はコーヒーを入れ、警官は淡々と紙を折った。
中條は、最初は「知らない貼り紙だ」と言っていたが、ポケットから出てきた三枚の紙には、私の見た文面が印刷されていた。フォントはコンビニのラベル印字と同じ。切り口はレシートロールのギザギザ。差し替え用に準備していたのだ。
私は、静かに話を組み立てた。
「あなたは、パーキングの精算機前に貼り紙がある夜を狙っていた。『故障』という言葉に、人は財布の紐を緩める。集金袋が出ているなら尚更。――昨夜、一つの袋は持ち去られた」
「俺じゃない」
「あなたじゃない。あなたが動いたのは、“二晩前”だ」
中條の目が一瞬泳いだ。
私は、ポケットから二種類のレシートを出した。コインパーキングの領収書。ひとつは昨日のもので、もうひとつは二日前の深夜一時半のもの。
二日前のレシートの「¥」は太い。昨日の「¥」は細い。私は指で示した。
「この精算機は、深夜一時にレートが切り替わり、同時に印字のコードが切り替わる。あなたは『一時十五分に通った』と言ったが、あなたが貼り紙を差し替えて現金袋を誘導したのは一時前だ。だから、人の証言と、あなたの『見た』フォントが噛み合わない」
「フォント?」
「また、あなたは『貼り紙に“袋に入れて”とあった』と涼に言った。あの文言は、あなたが作ったものにしかない。古市さんの貼り紙にはない。――差し替えたのはあなたの指だ」
古市が、微粉の入った袋を机に置いた。中條の靴底から採取されたそれと、香りも粒子の大きさも一致する。
中條は黙り込んだ。涼が身を乗り出す。
「なんで、そんなことするんだよ」
「……集金袋は、店側が一旦出していた。管理会社に渡すため。置きっぱなしは危ない。だから、俺が“預かる”ふりを……」
言い訳はガスのように薄い。警官は筆を止め、中條を見た。
「あなたの手は柚子の匂いがする。これは証拠にもならないかもしれないが、あなたが“落とし物の現金袋”を触る前に『匂いを消す』ことを習慣にしていることは示す。貼り紙を差し替える手つきの慣れも、今日見せたとおりだ」
中條は肩を落とした。
「……二日前、集金袋は二つあった。一つは持ち去られ、もう一つは俺が“預かった”。昨夜は、故障の貼り紙が出てたから、同じことができると思って……」
そこで涼が咳払いした。
私は、涼に向き直った。
「君も少し、嘘をついたな」
「は?」
「『十秒後に黒いキャップの男が』と。――十秒じゃない。二十秒だ。故障ランプが点灯した時刻は一時十四分。君が詰所に飛び込んできたのが一時十五分二十秒。その間に追いかけて戻るには、十秒では無理だ。――そして、何より」
私は、例のガムテープ痕を指でなぞる仕草をした。
「君は『貼り紙に“袋に入れて”とあった』と言った。見てもいない文面を。“誰かがそうする”と知っていたからだ。――二日前、現場にいたな?」
涼は目を見開き、唇を噛んだ。それから、ゆっくりと頷いた。
「……ごめん。俺、集金袋を一回、持ち上げた。重さを確かめた。どのくらい入ってるかって、好奇心で。すぐ置いたけど。その時、“袋に入れて”の紙を見た。だから昨夜も、同じだと思って……」
古市が小さくため息をついた。
「好奇心が、物語を作る。だが、物語は現実に勝てない」
涼は俯き、拳を握った。
私は彼の肘に軽く触れた。子どもの頃、祭りで露店の光を追いかけて転んだ時の涼を思い出す。傷は膝よりも,目の奥にできる。
◇
事件は、意外なほど早く片付いた。二日前に消えた集金袋は、アーケード端の空き店舗裏から見つかった。鍵を持っているのは保全会社と一部の店主だけ。中條が納品時に開けられることも確認された。
昨夜の袋は、涼の証言どおり一人の男が持ち去ったが、彼は別件の常習犯で、監視カメラの別角度に映っていた。中條とは無関係。二つの事件が、同じ「貼り紙」という道具で重なったのだ。
私は家に帰ってから、缶コーヒーを一本開け、机にレシートを並べた。駐車場のそれ、コンビニのそれ、喫茶のそれ。フォントの「¥」だけを拡大し、違いを並べる。太いもの、細いもの、上の棒が短いもの。
東野圭吾の小説に出てくるような、華麗な一発逆転は私にはできない。けれど、細部は嘘をつかない、ということだけは、身体で知っている。
貼り紙のガムテープの貼り方。柚子の匂い。粉の星。フォントの癖。――そのすべてが、夜の宇宙で微かに光っていた。
◇
数日後。商店街の星は、いつも通りに戻っていた。喫茶パロットの前を通ると、古市が外に出て、豆を冷ましていた。
「三枝さん、見回りの星に名前をつけたらどうだ」
「名前?」
「君が毎晩見つける“小さな違和感”。それが見つかった場所に、星座みたいに名前を」
「じゃあ、あそこは『¥座』で」
私は笑って精算機を指さし、古市も笑った。
涼は魚屋の前で氷をかいていた。目の奥の傷は、見えない。だが、氷の手触りは正直だ。彼は手を止め、こちらを見る。
「この前は……」
「誰にでも、十秒の嘘はある。次は、十秒の勇気で埋めればいい」
涼は、少しだけ笑って頷いた。
夜。私はまた宇宙を一巡する。蛍光灯の星は、今日もいくつか消え、いくつか灯る。
精算機のパネルには、新しい薄い保護フィルムが貼られた。角が浮き、そこに粉が少し溜まっている。私は指先で払った。
無数の細部が、私の前に道を描いていく。音も匂いも字体も、手触りも。
そして、私は思う。
嘘は乾く。乾くと、テープの痕が現れる。粉も残る。匂いも薄い膜になる。
閉店後の星は、その痕を照らすためにあるのかもしれない。
私は一歩進み、また一つ、灯りの下をくぐった。



