分館の鍵を開けると、紙の匂いに混じって微かな鉄の匂いがした。古いスタンドのネジが湿気で錆びると、朝いちばんにだけこうして鼻を刺す。私は匂いの来所を確かめるみたいに、閲覧室をひと巡りしてから、返却ポストの底板を外す。カタン、と軽い音がして、一冊だけ落ちてきた。

 『黒い万年筆』——来週、講演会で招く作家の代表作。帯には「直筆サイン入り初版本」と赤いラベル。背の上部に指をかけると、薄く汗がついた。昨夜遅くに返されたばかりらしい。レシート様の貸出票を見ると、貸出者名は「仙道優一」。地元紙の記者で、きのう閉館間際に蔵書の写真を撮っていた背の高い男だ。私はカウンターに戻り、貸出処理を取り消して棚に差し戻す準備をする。講演会で展示する予定があるから、通常棚には戻せない。

 そのとき、職員通用口の金属が鳴った。先輩の水野さんが、息を切らして入ってきた。いつもは七時五十五分に現れるのに、今日は既に七時台の半ばだ。

「おはよう。早いですね」
「おはよう。きのう、雨でね。家の前が泥だらけで……」

 言い訳の途中で、水野さんの目が私のカウンターの『黒い万年筆』に吸い寄せられた。ほんの一拍、目の白が多くなる。すぐに、いつもの表情に戻る。

「それ、返ってきたんだ」
「はい。返却ポストから。一冊だけ」

 水野さんは黙って、掲示板のポスターを真っ直ぐにし始めた。来週の講演会の案内、整理券の配布は今日からだ。「直筆サイン入り初版本展示」の文字が中央に踊る。私は、ポスターの下隅にある配布時間「9:00-12:00, 13:00-17:00」の印字の右に、極小の黒点があるのに気づいた。トナーが飛んだだけだろう。けれど、その「点」は今日の午後、私にとって別の「点」と線で繋がる。

 九時を回って、人が一気に来た。整理券の列、児童書コーナーの親子、新聞閲覧の老人。私は貸出と返却に追われた。午前の山が過ぎ、昼休みの直前、通用口のチャイムが鳴る。所轄の刑事が立っていた。名刺は見覚えのある名前——山川。

「桐生さん、少しお時間を。仙道優一さんをご存じですね」
「ええ。今朝、仙道さんの貸出本を返却ポストで見ました」
「その仙道さんが、今朝、裏の駐輪場で亡くなっているのが見つかりました。首を……」

 私は息を飲んだ。駐輪場は窓の向こう、塀に沿って細長くのびる細い屋根付きの通路。朝一番に掃除のパートさんが見回る場所だ。首を吊れるほどの高さの梁はない。あの屋根の鉄パイプに、と彼は言いかけて言葉を濁した。

「自殺と見られます。ただ、遺書のようなメモがありましてね」

 山川は、透明のファイルからメモを取り出した。白い細長い紙に、太いボールペンの字。「サイン本は俺が持ち出した。責任は俺にある」。紙の端は丸く、薄く青いグリッドが透けている。私は見た瞬間に、それが貸出票の用紙だとわかった。うちの分館で使っている感熱紙。端が丸いのは、切り傷を避けるための仕様。

「貸出票の裏に書かれていますね」
「そう、あなた方のものだ。昨夜、閉館間際に仙道さんがこれを……という筋書きになっている」

 “筋書きになっている”。山川の言い方は慎重だった。私は、今朝ポストに落ちてきた『黒い万年筆』を思い出す。サイン本は返ってきたのだ。つまり、メモは「持ち出した」ことを認めつつ、返却の事実も示すための“貸出票”。しかし——。

「その紙、うちのではありません」

 自分の口から出た言葉に、山川が目を瞬いた。水野さんも掲示板から顔を上げる。

「どういうことです?」
「分館と本館で、貸出票の用紙が違います。本館は端が四角。分館は丸。……いえ、逆です。本館が丸、分館は四角です。ここは分館ですから、丸い端の貸出票はあり得ません」

 言い直したとき、水野さんの視線が一瞬だけ私を斜めに切った。私は自分の舌のもつれを恥じたが、記憶は確かだ。用紙の供給業者が昨年変わり、そのときに端の仕様が館ごとに分かれたのだ。

「確認します」

 私は貸出票の束を引き出し、実際に見せた。角が四角に切り落とされている。それから、今朝の返却本『黒い万年筆』の貸出票を取り上げる。こちらも角は四角だ。山川は頷く。

「つまり、遺書に使われた貸出票は、本館のもの。昨夜、彼はどこにいた?」
「うちの閉館は二十時。本館は二十一時です」

 山川はメモをしまい、メモだけで判断するつもりはないと言った。だが、私は別の違和感に指を伸ばした。メモの字だ。太いボールペンの線が、感熱紙の裏に「沈んでいない」。感熱紙の裏は、表面がつるりとしているが、ボールペンで書くと微妙にインクがはじかれ、光にかざすと薄いブツブツが見える。しかし、目の前のメモには、それがない。つまり——これは感熱紙ではない。貸出票と寸法が近い白紙に、青いグリッド模様を印刷して「貸出票らしく」見せかけた可能性。

 昼休みが終わると同時に、私の胸の中で何かが形になった。『黒い万年筆』のサインを見ると、字が少し揺れている。前に展示したときと比べると、「黒」の右払いが短い。本のラベルの「直筆」の文字がやけに派手で、帯の裏の糊で紙がわずかに波打っている。そこへ、受付の電話が鳴った。本館からだ。

「そちら、返却ポストにサイン本ありませんでした?」
「あります。今朝一冊」
「こちらの展示棚のサイン本が、一冊、まるごとなくなって……」

 私は、受話器の向こうの声の震えで事態の重さを感じた。本館でも、同じ作家の初版本が消えている。つまり——遺書に「サイン本を持ち出した」と書かれ、うちで「返却された」のは、別の本。メモは本館の用紙「らしく」見せた偽物。返された本のサインは、もしかすると——。

「桐生さん?」

 山川の声で我に返った。私は『黒い万年筆』のサイン面を、机のLEDライトに斜めに当てて見た。インクの上に微細な凹凸。プリンターの網点。肉眼ではわからないレベルだが、光に当てると規則的な粒子が走る。サインは印刷で複製されている。本物ではない。

「これ、印刷です」

 口にした瞬間、閲覧室の空気が変わった。水野さんが、掲示板のピンを一本、曲げた。鋼の小さな悲鳴がした。

      ◇

 午後、私は本館に行った。事務室に通されると、館長と本館の司書、それに山川がいた。館長は額に汗を浮かべている。私は、分館の返却本のサインが印刷だと思われること、本館の消えたサイン本が真筆だった可能性、遺書の紙が偽造の疑いがあることを伝えた。山川は、黙ってメモを取っている。館長は声を荒げた。

「うちの展示のサインは、本物です! 作家本人に——」
「その“本人”のサインは、いつ、誰が受け取り、誰が帯に『直筆』と書いたんです?」

 私の口の調子がきつくなった。場数が足りない。だが、言葉は止まらない。

「少なくとも、うちに返された本は偽物です。そして、偽物を本物に入れ替えられるのは——展示・返却・貸出に自由に触れられる人」

 館長が、言葉に窮した。山川が咳払いする。

「桐生さん、言いにくければ僕から言います。職員。しかも、用紙や帯、掲示を自在に扱える人間」

 事務室の空気が、さらに固くなった。本館の司書が真っ青な顔で言った。

「昨日、本館の閉館後に、分館の水野さんがいらして……掲示物の予備を持っていかれて」

 水野。私は胸の奥で、その名前が石になるのを感じた。彼女は講演会の担当だ。作家とも連絡を取り合い、告知の文面も、展示の段取りも、帯の文言も彼女が決めた。「直筆サイン入り」のラベルを作ったのも水野さん。彼女は昔、この作家のファンクラブで活動していたと聞いた。もしかして——。

「仙道さんは、何を取材していた?」

 私は山川に尋ねた。山川は、かすかに眉を上げた。

「作家の高校時代の同級生としての証言と……ゴーストライター疑惑だ。本人は否定しているが、仙道さんは『サインの筆跡が近年変わりすぎている』と。記事を出せば講演会が荒れる。そこで、仙道さんはうち——図書館の展示のサインを比較対象にするつもりだった」

 図書館のサインが偽物なら、比較は意味を失う。もしくは、真筆の本館のサインが消え、偽物と入れ替わるなら——記事は裏付けを失う。

「仙道さんは、昨夜、本館の展示室で何かに気づいたのかもしれません。『直筆』のラベルが新しい糊で貼り直されていた、とか。あるいは、サインのインクの乗りが違う、とか。誰かと口論になり、……」

「それで首を吊る? 駐輪場で?」と館長。

「駐輪場のパイプは低い。足が地面につく高さです。普通は難しい。けれど、あそこに今日、脚立があった」

 本館の司書が震える声で言った。館長が彼女を叱責しようとしたので、私は手で制した。

「脚立があること自体は、講演準備で不自然ではありません。でも、脚立のキャスターに、泥が付いているはずです。水野さんの家の前が泥だらけで、今朝早く来たとおっしゃっていた。泥の種類と色は一致しますか?」

 言いながら、私は自分で自分に驚いた。推理が暴走している。でも、点と点はすでに線で繋がっている気がした。返却ポストで今朝、私が聞いた「コトン」という音もいつもと違って一回だった。通常、分厚いハードカバーが落ちると「コト、コ」と二拍になる。蓋が一度弾んで、二度目に落ち着くからだ。今日は一回。底板のネジの錆の匂い。誰かが昨夜、底板を外し、蓋のゴムを外して、音が一拍になるようにしていた。朝いちばんに私が「返却された」と認識するように。偽物のサイン本を返却した「演出」。

「山川さん。ネットワークのログを見てください。貸出延長は館内LANからしかできません。昨夜二十一時以降に、サイン本の貸出を延長したアクセスはないですか?」

 山川は頷いた。「調べておきます」と言って、電話をかける。待つ間、私たちは沈黙した。私の胸の中で、午前のポスターの極小黒点がまた浮かぶ。印刷トナーの点。サインの印刷の網点。貸出票のグリッドの偽装点。点、点、点。

 電話が切れて、山川が言う。

「二十一時三分。本館事務室のPCから、仙道優一名義の貸出中の『黒い万年筆』が、一度延長されている。閉館後だ。仙道さんはすでに帰宅していたと家族が証言している。アクセスは職員しかできない」

 水野さん。私は彼女の肩にかかっていた、布の図書館バッグを思い出した。昨夜、本館にいた彼女は、きっと延長を操作した。理由はひとつ——『黒い万年筆』が貸出中だと、展示の「返却」偽物工作に矛盾が生じる。延長しておけば、翌朝まで誰も棚を探さない。

「さらに、返却ポストの底板に、細い繊維が挟まっていた。ポスターの裏に使う両面テープの糸。昨夜、誰かが底板を外し、蓋のゴムを一時的に外している。これは、清掃員の証言と一致する」

 山川はメモをめくり、言った。

「桐生さん。あなたの言う“点”は、線になりつつある」

      ◇

 夕方、分館に戻ると、閲覧室に夕日のオレンジが斜めに落ちていた。水野さんが、カウンターに背中を向けて、チラシの束を整えていた。私は息を整え、言葉を選ぶ。

「水野さん。仙道さんは、あなたの高校の先輩でもありましたよね」

「ええ。優しい人でした」

「優しい、ですか。じゃあ、彼が図書館を困らせる記事を書こうとしたのは、優しさの延長?」

 水野さんの手が止まり、チラシの角が少しだけ揃っていないのが見えた。彼女は、ゆっくりと振り返った。

「仙道くんは、正しいと思ったことをする人でした。だからといって、全部、ここで言うべきことですか?」

「全部は言いません。でも、返却ポストの底板は、昨日の夜、外されていました。今朝の音は、一拍しか鳴りませんでしたから」

 水野さんの喉が、かすかに上下した。私は続けた。

「『黒い万年筆』のサインは印刷です。本館の展示が本物で、分館のそれが偽物。遺書も偽物。本館の用紙に似せて作られています。用紙の端の丸み、グリッドの色、すべてが少しずつ違う。分館の人間なら、本館の用紙の感触を知らないわけがない」

 彼女は笑った。自嘲の笑いだ。

「桐生さん、あなた、怖いですね」

「怖いのは、演出です。朝、私が返却を確認するタイミングで、音が一回。講演会の案内の『直筆』の大きな文字。ポスターの黒点。延長ログ。全部が“見せるため”に用意されている」

 水野さんは椅子に座った。背筋は伸びている。

「……彼は記事を出すと言っていました。作家のサインも、ゴーストも。私は、図書館の名誉を守りたかった。ここは、街の記憶の場所です。スキャンダルで、人が遠のくのを見たくなかった」

「だから、入れ替えた?」

「展示のサインは、私が昔、ファンイベントで手に入れた複製だ。本物みたいにきれい。だって、本人が書いた“あと”に、印刷所で作るから。筆跡も癖も、完璧に出る。私は、それを“借りて”置き換えた。本物は書庫に隠した。……仙道くんが、見つけてしまった。『水野さん、これは——』。あの声が、耳に残って離れない」

 彼女の目に水が浮かんだが、すぐに引っ込んだ。

「もみ合って、彼が転んで頭を打った。意識はあった。『記事は出す』と言った。だから……」

「だから、“自殺”に見せかけた?」

「彼は、自分で帯に『直筆』と大きく書いたラベルの前で『偽物だ』と叫んだの。誰もいない閉館後の展示室で。あの言葉が、私には耐えられなかった。図書館は嘘をつかない——そう信じる子どもたちの顔が浮かんだ。だから、遺書を作った。彼が“盗んで返した”ように見せるために」

「貸出票の偽造も、延長ログも、返却音の一拍も」

「全部、図書館の道具でできます。だから、私は——」

 そこで、通用口のチャイムが鳴った。山川が立っていた。彼は私に軽く会釈してから、静かに言う。

「水野さん。お話の続きは署で伺いましょう」

 彼女は頷いた。私のほうを一度も見なかった。背中だけが真っ直ぐだった。山川が手錠を出すことはなかった。水野さんは自分のカードキーと、透明な名札を外して、カウンターに置いた。名札のプラスチックに、朝の光がわずかに残っていた。

      ◇

 夜。私は貸出カウンターの端に座り、何度も貸出票の束を指で撫でた。端の四角が規則的に指先を叩く。本は、返ってくる。嘘も、返ってくる。返却期限の誤差は、延長ボタン一つで埋まるけれど、誤魔化した一日が、どこかに跡を残す。

 私は備品ノートに書き込んだ。「返却ポスト底板、要点検。音、一拍の件」。それからペンを止め、もう一行書いた。「点は、線になる」。書いた字の濁点を、私はひとつだけ意識して大きく打った。偽造の遺書の小さな濁点を思い出して。

 講演会は延期になった。ポスターは剥がされ、掲示板のコルクが露わになった。そこに、私は小さく一枚だけ紙を貼った。「本は、あなたを裏切らない。人が時々、裏切るだけだ」。

 翌朝も、私は鍵を開けた。鉄の匂いはしなかった。返却ポストは、いつも通り二拍で鳴った。コト、コ。私は底板のネジを指でなぞり、そっと微笑んだ。音が二つあるのは、世界が二度、自分の重さを確かめるからだ。落ちて、弾んで、落ち着く。人も、きっとそうだと信じたくて、私は開館の灯りをひとつひとつ点けていった。