活字の匂いは、人の嘘をよく吸う。
朝一番の工場に満ちる湿し水の酸味、色を重ねるたびに重くなる油の鈍い甘さ、乾く前の特色インキの金属めいた青。印刷所で十年、私はその匂いで時計を合わせてきた。
職種は「刷版・検版」。営業とデザイナーがやり取りしたデータを、印刷機が読める版に変換し、刷り上がりを目と鼻と指先で検める。見当(けんとう)が合っているか、トラッピングの噛み合わせは適正か、紙目は割付に逆らっていないか。
数字は嘘をつかない——とよく言われるけど、数字を並べるのは人間だ。だから私は、数字の外側にあるもの——匂い、手触り、微かな音——を頼りにする。それは、目盛りで覆えない領域にある真実で、誤魔化そうとすると一番先に崩れる。
六月の終わり、梅雨の晴れ間の月曜、朝四時半の工場は、いつもより静かだった。
輪転機の起動を待つ間、私は特色棚の前で、昨夜使ったパンタグラフの洗浄具を片づけていた。インキ缶の蓋に「PANTONE 2995C」と油性ペンで走り書きがある。水色の広告。乾きが遅いので、最後に刷らないと他の色が汚れる。
そこへ、フロアの奥から悲鳴が上がった。断裁機の方だ。
駆け寄ると、製本課の根岸が青い顔で立ち尽くしていた。その視線の先、断裁台の脇に、人が横たわっている。
うちの社長——宗像重信。六十。創業からの職人で、年に似合わず現場に出てくる。
額から血が滲み、白い紙の切り屑が赤く染まっていた。脈は、弱い。というより、もうないに等しい。
誰かが救急車を呼び、私は脳の奥が冷えるのを感じながら、断裁機のセーフティーライトとフットペダルに目をやった。どちらもオフにはなっていない。事故——に見せかけるなら、もっと雑にやるはず。いや、事故の可能性もある。早朝の現場は眠い。足元の紙束につまずくことだってある。
五分後に警察が来て、規制テープが張られた。
眠たげな声で指示を飛ばす刑事がいる。御子柴だ。中学の同級生で、この街の事件が彼の前を通り過ぎるとき、私はよくそれを嗅ぐ役になる。
「またおまえか」
「いつもあなたが来る」
「社長、頭部打撲。断裁機の角にぶつけたか、引き倒されたか。死亡推定は三時半から四時。発見は四時三十五分。製本課の根岸が来て見つけた。監視カメラは、ちょうど断裁台の真上が死角」
「アリバイは」
「容疑者は三人。営業の沢渡、デザイナーの早乙女、そして製本外注の根本。三人とも、今朝の三時台に工場か事務所にいた。沢渡は客先への『朝イチ検品』の準備をフロントで。早乙女はデータの最終入稿でデスクに。根本は搬入の立ち会い。——三人とも、自分の“現場での記録”を持っている。フロントの入退室カード、PCの操作ログ、搬入伝票。それぞれの時間が“合っている”」
「合っているものほど、ズレる」
「さすが印刷屋」
私は頷き、断裁台の周りを見た。
紙屑が不自然に「丸い」。断裁屑は普通、細長い帯になる。ここに散っているのは、三角や楕円の小片。しかも、表面に青の点が浮いている。
特色 2995C の青だ。刷り順は昨夜、K→C→M→Yのはずだった。C(シアン)の乾きは遅い。触れれば指に付く。
私は屑の一片を指に取り、鼻に近づけた。薄い金属の匂い。乾燥促進剤を混ぜたな。匂いだけで、誰が混ぜたかまでは特定できないけれど、「急ぎ」の現場でよくやる手だ。
断裁機の台の端に、見えにくい筋がある。布で拭き取った跡。血を拭いたか、インキを拭いたか。
宗像の足元の靴の裏に、紙粉がびっしり付いていた。紙粉は、紙目(繊維の流れ)に沿って集まる。靴底の溝に沿って、流れは明らかに「横目」。
昨夜刷ったチラシは四六判の横目を使っている。断裁は縦に入れるから、台の前に立つと靴底の向きと紙目の粉の付き方に“癖”が出る。社長がこの向きで倒れているのは、自然。
だけど、床に落ちた血の広がり方が、紙目の広がりと逆だ。
紙は繊維に沿って水分が伸びやすい。床に敷いた見当紙に染みた血の楕円は、繊維に沿って長くのびるはず。——横に長い楕円。
けれど、楕円は前後に長い。
——誰かが、紙を「あとから回した」。
御子柴に近づき、低く言う。
「事故なら、紙は動かない。人が倒れて、血が落ちて、それを見て人が慌てる。そんなとき、紙束を九十度回す余裕はない。これは“回された”」
御子柴は顔をしかめ、手帳に書く。
「何のために」
「見当をごまかすために。事故の時間と、“刷りのタイミング”の矛盾を」
「……印刷屋の言うことは、時々、禅問答だな」
私は笑わず、特色棚に視線をやった。2995C の缶に、昨夜付けたはずの蓋の外側に“指の腹の半月”が二つ。乾いていない青が、指に触って残る時刻は限られる。
——三時台に誰かが触っている。
三人の事情聴取が始まった。
営業の沢渡は、早口に言い訳を並べる男だ。
「朝イチで客先に色校を出す必要があってね。社長も『お前に任せた』って。四時にはフロントのラウンジで検品を……」
「その検品用の色校はどこから?」と私は尋ねた。
「昨夜、早乙女くんから上がってきたPDFをプリントして」
「PDF? オンデマンドの出力?」
「そう。最近はそれで足りることも多いから」
「客先は、オフの刷りとオンデマンドの違いに気づく?」
沢渡は口角を上げた。
「気づかないよ。時間がないときはね」
御子柴が割って入る。
「宗像社長とは」
「仲は良かった。——いや、口うるさかったけどね。昨日も特色の件で。『乾きが遅いから最後にしろ』って。早乙女のデータが遅れたから、順番を入れ替えようとしたら怒鳴られた。俺は営業だ。段取りは俺が——」
沢渡の声は、滑る。
私は、その“滑り”の表面張力に、薄い不快を覚えた。
デザイナーの早乙女は、誠実そうな目をしている。
「昨日は納期を詰められて、夜十時までデスクで。三時半にPDF/Xの書き出し直しをして、サーバに上げました。ログが残っています」
「特色の指定は?」
「PANTONE 2995C を特色プレートで。CMYK置換はしていません。宗像さんの指示通り、最後に刷る前提で」
早乙女は、指先にうっすらと青を残していた。昨夜の仕事の名残。
「宗像さんとは揉めてましたか?」
「いいえ。ただ、営業の沢渡さんと、製本の根本さんとは、宗像さんが最近よく言い合っていました。コストと工程のことで」
早乙女は小さく付け加えた。
「宗像さんは、手間を削る話が嫌いでした。『仕上がりがすべて』って」
製本外注の根本は、無口で、こちらを睨むように見つめた。
「三時に搬入。断裁はうちの機械じゃなくて、御社の断裁を使えと言われた。宗像さんがそう言った。『最後の刃を自分で見たい』って」
「搬入伝票は三時に切ってある。立ち会いの間、どこにいた?」と御子柴。
「フォークリフトの横」
「宗像さんと話した?」
「手短に。刃物代の値上げの話をした。宗像さんは渋い顔をした。『刃は命だから』って。——それが最後だ」
三人とも、言葉のつじつまは合っている。
けれど、工場の「匂い」は違うことを言っていた。
私は検版台に、昨夜刷った色校を並べた。
K、C、M、Y の順番。四色重ね。
見当合わせのクロスに、肉眼ではわからないほどのズレ。ルーペを当てる。
黒の網点の角度、シアンの網点の形状、トラッピングの厚み。乾燥が早まった部分と遅い部分で、光の反射が異なる。
——乾燥促進剤は、均一に混ざっていない。
これは、現場の誰かが「缶の上から」追い足した結果だ。
缶の縁に付いた青の半月。二つ。
缶を開けた指の形。
社内でこの癖があるのは、沢渡だ。営業のくせに現場に口を出す。嬉々として蓋を開ける。職人は缶の縁に触れない。指を汚すのを嫌うのではない。指に付いたインキで紙を汚すのを嫌う。
沢渡のデスクの端にも、青い指の跡が二つ、白い書類の縁に半月を残していた。
でも、まだ「殺し」には届かない。
私は色校のスラッグ(罫外)に目を止めた。そこには PDF/X-4 の出力時間が自動で入るようにしてある。
「03:37:12」。
早乙女の言う時間と合う。
ただ、その右に、RIP(ラスター化)のログが小さく入るようにしているのは私だけが知っている。
「RIP: 03:42:50」。
——RIP は、刷版機にデータが入った時刻だ。
断裁機の事故の推定時刻の五分前。
見当紙に残る血の楕円の向きと、刷り上がりの乾き方を合わせると、RIPの後すぐに C 版が回っている。
誰が、誰の指示で。
私は御子柴に言った。
「沢渡は、特色を先に回したかった。急いでいたから。宗像はそれを嫌がった。特色は最後。
でも、RIP のログは三時四十二分。宗像が現場にいる時間に、C 版が回った。
乾燥促進剤が均一でないことが示すのは、現場の人間ではない誰かが、缶の上から混ぜたということ。——沢渡だ」
御子柴は頷く。
「動機は」
「客先への“朝イチ検品”。オンデマンドの出力でごまかせる案件でも、特色が絡むとバレる。でも、その特色を先に刷って乾かせれば、朝に間に合う。宗像の『最後』を無視する理由」
「殺意は」
「事故に見せかける。断裁の周囲で揉め、宗像が倒れた。
ただし、沢渡は“紙を回した”。血の楕円の向きを、紙目の向きに“合っているように”見せかけようとして。——見当違いだけれど」
御子柴は吹き出した。
「見当違いね」
「紙目は、紙を触る人間には体に入っている。触らない人間は、知らない」
沢渡は、最初、笑っていた。
「なんだい、そんな細かいことを。俺は営業だよ。缶だのRIPだの、わからない」
私は色校のスラッグを指差した。
「これは、あなたの“朝イチ検品”のために、あなたが押したボタンの時間です。宗像さんは『最後に』と言った。あなたは『先に』やった。
缶の縁の青は、あなたの指。デスクの書類に同じ半月が二つ。
そして、断裁台の紙は、あなたが回した。紙目の方向を、あなたは知らない。だから、血の楕円と紙目の流れが逆になった」
沢渡は笑いを硬くし、「それで、俺が殺したって?」と肩を上げた。
御子柴が言う。
「宗像と口論になった。おまえが特色を先に入れたのがバレた。宗像は『台無しだ』と怒鳴った。おまえは突き飛ばした。宗像は断裁台の角に頭を打った。
事故だ。だが、おまえは紙を回した。見当——合わせを誤魔化すためにな」
沢渡は椅子の背に体を投げ、天井を見た。
「——事故だ」
「なら、救急車を呼べば良かった」
「呼んだだろ」
「最初に押されたのは工場内の内線じゃない。フロントからだ。おまえは“時間を作ろうとした”。紙を回し、床を拭いた。その時間が、宗像の“息”を消した」
「……やめてくれよ」
沢渡の声が、初めて濁った。
事件は、法の言葉に置き換えられていった。
沢渡は業務上過失致死で送致。
早乙女は関与なし。
根本も、値上げの口論はあったが、朝の立ち会いだけで帰った。
宗像は、最後まで「仕上がりがすべて」を言い、死んだ。
工場は一週間止まり、私は機械の周りに薄く積もった紙粉を、ひとつひとつ掬い、ゴミ箱に落とした。
再稼働の日、私は工場のルールをいくつか書き換えた。
——特色は、最後。
——RIP のログを工場全員の端末に表示。
——営業は缶に触らない。
白い紙に黒い文字で書くと、どれも当たり前のことだ。
当たり前のことは、いつも人の都合に負ける。
だから私は、匂いで見張る。
御子柴が、携帯の短いメッセージを送ってきた。
「おまえの“紙目の鼻”に助けられた」
私は片手でスマホを持ち、もう片方の手で紙束の背を軽く叩いた。
紙は、叩くと、流れに沿ってわずかに鳴る。
トン、ト、トン。
その音で、今日が乾いていく速度がわかる。
「見当は、合っているふりが一番ずれる」
そう返して、私は輪転機の横に立った。
ローラーが動き、湿し水がうっすらと光り、網点が紙の上に浮かび上がる。
CMYK の四つの色が、わずかな遅れで重なっていく。
見当が合うと、たった今が、正しい厚みで立ち上がる。
人の言葉は、そこに、あとから乗る。
間違った言葉が、きれいに重なることもある。
でも、匂いは嘘を吸う。
私は、今日の匂いを胸いっぱいに吸い込み、吐いた。
青の乾きは遅い。
焦るほど、ズレる。
焦らないほど、刷りは合う。
宗像の「最後に」を守ることは、ただの頑固ではない。
見当が合えば、誰の目にも、嘘は目立つ。
それだけの話だ。
昼過ぎ、搬出口に、根本が顔を出した。
「刃の件、宗像さんの言葉、受け継ぎます」
私は頷き、刃物台の前で一礼した。
刃は命。紙は呼吸。
匂いは時計。
そして私は、また、匂いで見張る。
見当違いを、見落とさないように。
この工場の呼吸が、人の都合でずれないように。
今日、刷り上がった青が、乾くべき時間に、まっすぐ乾くように。
朝一番の工場に満ちる湿し水の酸味、色を重ねるたびに重くなる油の鈍い甘さ、乾く前の特色インキの金属めいた青。印刷所で十年、私はその匂いで時計を合わせてきた。
職種は「刷版・検版」。営業とデザイナーがやり取りしたデータを、印刷機が読める版に変換し、刷り上がりを目と鼻と指先で検める。見当(けんとう)が合っているか、トラッピングの噛み合わせは適正か、紙目は割付に逆らっていないか。
数字は嘘をつかない——とよく言われるけど、数字を並べるのは人間だ。だから私は、数字の外側にあるもの——匂い、手触り、微かな音——を頼りにする。それは、目盛りで覆えない領域にある真実で、誤魔化そうとすると一番先に崩れる。
六月の終わり、梅雨の晴れ間の月曜、朝四時半の工場は、いつもより静かだった。
輪転機の起動を待つ間、私は特色棚の前で、昨夜使ったパンタグラフの洗浄具を片づけていた。インキ缶の蓋に「PANTONE 2995C」と油性ペンで走り書きがある。水色の広告。乾きが遅いので、最後に刷らないと他の色が汚れる。
そこへ、フロアの奥から悲鳴が上がった。断裁機の方だ。
駆け寄ると、製本課の根岸が青い顔で立ち尽くしていた。その視線の先、断裁台の脇に、人が横たわっている。
うちの社長——宗像重信。六十。創業からの職人で、年に似合わず現場に出てくる。
額から血が滲み、白い紙の切り屑が赤く染まっていた。脈は、弱い。というより、もうないに等しい。
誰かが救急車を呼び、私は脳の奥が冷えるのを感じながら、断裁機のセーフティーライトとフットペダルに目をやった。どちらもオフにはなっていない。事故——に見せかけるなら、もっと雑にやるはず。いや、事故の可能性もある。早朝の現場は眠い。足元の紙束につまずくことだってある。
五分後に警察が来て、規制テープが張られた。
眠たげな声で指示を飛ばす刑事がいる。御子柴だ。中学の同級生で、この街の事件が彼の前を通り過ぎるとき、私はよくそれを嗅ぐ役になる。
「またおまえか」
「いつもあなたが来る」
「社長、頭部打撲。断裁機の角にぶつけたか、引き倒されたか。死亡推定は三時半から四時。発見は四時三十五分。製本課の根岸が来て見つけた。監視カメラは、ちょうど断裁台の真上が死角」
「アリバイは」
「容疑者は三人。営業の沢渡、デザイナーの早乙女、そして製本外注の根本。三人とも、今朝の三時台に工場か事務所にいた。沢渡は客先への『朝イチ検品』の準備をフロントで。早乙女はデータの最終入稿でデスクに。根本は搬入の立ち会い。——三人とも、自分の“現場での記録”を持っている。フロントの入退室カード、PCの操作ログ、搬入伝票。それぞれの時間が“合っている”」
「合っているものほど、ズレる」
「さすが印刷屋」
私は頷き、断裁台の周りを見た。
紙屑が不自然に「丸い」。断裁屑は普通、細長い帯になる。ここに散っているのは、三角や楕円の小片。しかも、表面に青の点が浮いている。
特色 2995C の青だ。刷り順は昨夜、K→C→M→Yのはずだった。C(シアン)の乾きは遅い。触れれば指に付く。
私は屑の一片を指に取り、鼻に近づけた。薄い金属の匂い。乾燥促進剤を混ぜたな。匂いだけで、誰が混ぜたかまでは特定できないけれど、「急ぎ」の現場でよくやる手だ。
断裁機の台の端に、見えにくい筋がある。布で拭き取った跡。血を拭いたか、インキを拭いたか。
宗像の足元の靴の裏に、紙粉がびっしり付いていた。紙粉は、紙目(繊維の流れ)に沿って集まる。靴底の溝に沿って、流れは明らかに「横目」。
昨夜刷ったチラシは四六判の横目を使っている。断裁は縦に入れるから、台の前に立つと靴底の向きと紙目の粉の付き方に“癖”が出る。社長がこの向きで倒れているのは、自然。
だけど、床に落ちた血の広がり方が、紙目の広がりと逆だ。
紙は繊維に沿って水分が伸びやすい。床に敷いた見当紙に染みた血の楕円は、繊維に沿って長くのびるはず。——横に長い楕円。
けれど、楕円は前後に長い。
——誰かが、紙を「あとから回した」。
御子柴に近づき、低く言う。
「事故なら、紙は動かない。人が倒れて、血が落ちて、それを見て人が慌てる。そんなとき、紙束を九十度回す余裕はない。これは“回された”」
御子柴は顔をしかめ、手帳に書く。
「何のために」
「見当をごまかすために。事故の時間と、“刷りのタイミング”の矛盾を」
「……印刷屋の言うことは、時々、禅問答だな」
私は笑わず、特色棚に視線をやった。2995C の缶に、昨夜付けたはずの蓋の外側に“指の腹の半月”が二つ。乾いていない青が、指に触って残る時刻は限られる。
——三時台に誰かが触っている。
三人の事情聴取が始まった。
営業の沢渡は、早口に言い訳を並べる男だ。
「朝イチで客先に色校を出す必要があってね。社長も『お前に任せた』って。四時にはフロントのラウンジで検品を……」
「その検品用の色校はどこから?」と私は尋ねた。
「昨夜、早乙女くんから上がってきたPDFをプリントして」
「PDF? オンデマンドの出力?」
「そう。最近はそれで足りることも多いから」
「客先は、オフの刷りとオンデマンドの違いに気づく?」
沢渡は口角を上げた。
「気づかないよ。時間がないときはね」
御子柴が割って入る。
「宗像社長とは」
「仲は良かった。——いや、口うるさかったけどね。昨日も特色の件で。『乾きが遅いから最後にしろ』って。早乙女のデータが遅れたから、順番を入れ替えようとしたら怒鳴られた。俺は営業だ。段取りは俺が——」
沢渡の声は、滑る。
私は、その“滑り”の表面張力に、薄い不快を覚えた。
デザイナーの早乙女は、誠実そうな目をしている。
「昨日は納期を詰められて、夜十時までデスクで。三時半にPDF/Xの書き出し直しをして、サーバに上げました。ログが残っています」
「特色の指定は?」
「PANTONE 2995C を特色プレートで。CMYK置換はしていません。宗像さんの指示通り、最後に刷る前提で」
早乙女は、指先にうっすらと青を残していた。昨夜の仕事の名残。
「宗像さんとは揉めてましたか?」
「いいえ。ただ、営業の沢渡さんと、製本の根本さんとは、宗像さんが最近よく言い合っていました。コストと工程のことで」
早乙女は小さく付け加えた。
「宗像さんは、手間を削る話が嫌いでした。『仕上がりがすべて』って」
製本外注の根本は、無口で、こちらを睨むように見つめた。
「三時に搬入。断裁はうちの機械じゃなくて、御社の断裁を使えと言われた。宗像さんがそう言った。『最後の刃を自分で見たい』って」
「搬入伝票は三時に切ってある。立ち会いの間、どこにいた?」と御子柴。
「フォークリフトの横」
「宗像さんと話した?」
「手短に。刃物代の値上げの話をした。宗像さんは渋い顔をした。『刃は命だから』って。——それが最後だ」
三人とも、言葉のつじつまは合っている。
けれど、工場の「匂い」は違うことを言っていた。
私は検版台に、昨夜刷った色校を並べた。
K、C、M、Y の順番。四色重ね。
見当合わせのクロスに、肉眼ではわからないほどのズレ。ルーペを当てる。
黒の網点の角度、シアンの網点の形状、トラッピングの厚み。乾燥が早まった部分と遅い部分で、光の反射が異なる。
——乾燥促進剤は、均一に混ざっていない。
これは、現場の誰かが「缶の上から」追い足した結果だ。
缶の縁に付いた青の半月。二つ。
缶を開けた指の形。
社内でこの癖があるのは、沢渡だ。営業のくせに現場に口を出す。嬉々として蓋を開ける。職人は缶の縁に触れない。指を汚すのを嫌うのではない。指に付いたインキで紙を汚すのを嫌う。
沢渡のデスクの端にも、青い指の跡が二つ、白い書類の縁に半月を残していた。
でも、まだ「殺し」には届かない。
私は色校のスラッグ(罫外)に目を止めた。そこには PDF/X-4 の出力時間が自動で入るようにしてある。
「03:37:12」。
早乙女の言う時間と合う。
ただ、その右に、RIP(ラスター化)のログが小さく入るようにしているのは私だけが知っている。
「RIP: 03:42:50」。
——RIP は、刷版機にデータが入った時刻だ。
断裁機の事故の推定時刻の五分前。
見当紙に残る血の楕円の向きと、刷り上がりの乾き方を合わせると、RIPの後すぐに C 版が回っている。
誰が、誰の指示で。
私は御子柴に言った。
「沢渡は、特色を先に回したかった。急いでいたから。宗像はそれを嫌がった。特色は最後。
でも、RIP のログは三時四十二分。宗像が現場にいる時間に、C 版が回った。
乾燥促進剤が均一でないことが示すのは、現場の人間ではない誰かが、缶の上から混ぜたということ。——沢渡だ」
御子柴は頷く。
「動機は」
「客先への“朝イチ検品”。オンデマンドの出力でごまかせる案件でも、特色が絡むとバレる。でも、その特色を先に刷って乾かせれば、朝に間に合う。宗像の『最後』を無視する理由」
「殺意は」
「事故に見せかける。断裁の周囲で揉め、宗像が倒れた。
ただし、沢渡は“紙を回した”。血の楕円の向きを、紙目の向きに“合っているように”見せかけようとして。——見当違いだけれど」
御子柴は吹き出した。
「見当違いね」
「紙目は、紙を触る人間には体に入っている。触らない人間は、知らない」
沢渡は、最初、笑っていた。
「なんだい、そんな細かいことを。俺は営業だよ。缶だのRIPだの、わからない」
私は色校のスラッグを指差した。
「これは、あなたの“朝イチ検品”のために、あなたが押したボタンの時間です。宗像さんは『最後に』と言った。あなたは『先に』やった。
缶の縁の青は、あなたの指。デスクの書類に同じ半月が二つ。
そして、断裁台の紙は、あなたが回した。紙目の方向を、あなたは知らない。だから、血の楕円と紙目の流れが逆になった」
沢渡は笑いを硬くし、「それで、俺が殺したって?」と肩を上げた。
御子柴が言う。
「宗像と口論になった。おまえが特色を先に入れたのがバレた。宗像は『台無しだ』と怒鳴った。おまえは突き飛ばした。宗像は断裁台の角に頭を打った。
事故だ。だが、おまえは紙を回した。見当——合わせを誤魔化すためにな」
沢渡は椅子の背に体を投げ、天井を見た。
「——事故だ」
「なら、救急車を呼べば良かった」
「呼んだだろ」
「最初に押されたのは工場内の内線じゃない。フロントからだ。おまえは“時間を作ろうとした”。紙を回し、床を拭いた。その時間が、宗像の“息”を消した」
「……やめてくれよ」
沢渡の声が、初めて濁った。
事件は、法の言葉に置き換えられていった。
沢渡は業務上過失致死で送致。
早乙女は関与なし。
根本も、値上げの口論はあったが、朝の立ち会いだけで帰った。
宗像は、最後まで「仕上がりがすべて」を言い、死んだ。
工場は一週間止まり、私は機械の周りに薄く積もった紙粉を、ひとつひとつ掬い、ゴミ箱に落とした。
再稼働の日、私は工場のルールをいくつか書き換えた。
——特色は、最後。
——RIP のログを工場全員の端末に表示。
——営業は缶に触らない。
白い紙に黒い文字で書くと、どれも当たり前のことだ。
当たり前のことは、いつも人の都合に負ける。
だから私は、匂いで見張る。
御子柴が、携帯の短いメッセージを送ってきた。
「おまえの“紙目の鼻”に助けられた」
私は片手でスマホを持ち、もう片方の手で紙束の背を軽く叩いた。
紙は、叩くと、流れに沿ってわずかに鳴る。
トン、ト、トン。
その音で、今日が乾いていく速度がわかる。
「見当は、合っているふりが一番ずれる」
そう返して、私は輪転機の横に立った。
ローラーが動き、湿し水がうっすらと光り、網点が紙の上に浮かび上がる。
CMYK の四つの色が、わずかな遅れで重なっていく。
見当が合うと、たった今が、正しい厚みで立ち上がる。
人の言葉は、そこに、あとから乗る。
間違った言葉が、きれいに重なることもある。
でも、匂いは嘘を吸う。
私は、今日の匂いを胸いっぱいに吸い込み、吐いた。
青の乾きは遅い。
焦るほど、ズレる。
焦らないほど、刷りは合う。
宗像の「最後に」を守ることは、ただの頑固ではない。
見当が合えば、誰の目にも、嘘は目立つ。
それだけの話だ。
昼過ぎ、搬出口に、根本が顔を出した。
「刃の件、宗像さんの言葉、受け継ぎます」
私は頷き、刃物台の前で一礼した。
刃は命。紙は呼吸。
匂いは時計。
そして私は、また、匂いで見張る。
見当違いを、見落とさないように。
この工場の呼吸が、人の都合でずれないように。
今日、刷り上がった青が、乾くべき時間に、まっすぐ乾くように。



