パンの匂いは、時間の地図だ。
粉と水が出会ってから発酵が止むまでのあいだに、酵母は二酸化炭素とアルコールを吐き、グルテンはそれを抱きとめ、熱はタンパク質を固めて香りを引き出す。どの瞬間にどれくらいの匂いが立つか、私の鼻はだいたい覚えている。
私はその地図を読む係だ。正式な肩書は「品質管理」。夜のベーカリーで一次発酵、ベンチタイム、成形、最終発酵(ホイロ)、焼成——それぞれの温湿度記録をモニターし、異常がないか確かめる。酵母は嘘をつかない。機械は時々、つく。
事故が起きたのは、六月の二十七日の夜—いや、日付の上では二十八日の午前二時だった。
工場の奥で、冷蔵ホイロのアラームが鳴った。温度逸脱。慣れた音だが、今夜は鳴るはずがない時刻だ。私は記録用の端末を片手に扉へ駆け寄り、覗き窓を覗き込んだ。
中に、人影。
鍵は閉まってはいない。扉を引くと、冷気が肌に噛みついた。ステンの床に、うつ伏せの男。白いコックコート、胸元の刺繍「MUNEMOTO」。うちのオーナー、宗本浩一(むねもと・こういち)だ。
肩に触れる。冷たい。脈はない。頬に貼りついた霜が、指先に崩れた。冷蔵ホイロの表示は「3℃」。湿度は「85%」。棚板に並ぶ丸パンの生地は、過発酵も低温停止もしていない。——誰かが短い時間、ここへ人間を閉じ込めた。
私は叫ぶことより先に吸い込んだ空気の匂いを数えた。
発酵の酸、わずかなアルコール、低温の金気。そこに、不自然な“消毒用アルコール”の尖りが混じっている。清掃で使う濃度でない。
背後で駆け寄る足音、警報に集まった職人たち。コック帽の白が視界を縁取り、誰かが救急を呼んだ。私は冷蔵ホイロのログを手元の端末で開き、温度曲線の折れを見つけた。
01:58——扉開。
02:07——扉閉。
02:08——温度急降下。
——アラーム発報時刻は02:12。
僅かな間。人が冷えるには十分だ。
警察が来た。眠たげな声が、冷気の中を渡ってくる。
「またおまえか」
御子柴だ。中学の同級生で、今は所轄の刑事。
「御子柴、宗本は——」
「死亡だ。低体温と窒息の併発。冷蔵ホイロは内側にラッチがあるから、普通は閉じ込められない。だが、ラッチの根元に『養生テープ』が巻かれていた。内側からは力がかからないように。テープには清掃用アルコールの匂い。
——で、容疑者は三人。共同経営者の春海(はるみ)、シェフブーランジェの才田(さいだ)、配送主任の柿沼(かきぬま)。三人とも、この時間帯、工場かオフィスにいた。三人ともアリバイを主張だ」
私は頷き、壁の掲示板に貼られた今夜の工程表に目を走らせた。
21:00 ポーリッシュ種仕込み
22:00 一次発酵開始
23:30 ベンチ
00:15 成形
01:00 最終発酵(冷蔵ホイロ)
02:30 焼成——バゲット、カンパーニュ
宗本が倒れたのは焼成の少し前。パンの匂いはまだ“夜の匂い”の中程にいる。
御子柴が、三人の“言い分”を手短に伝えた。
「春海は二階の事務所で棚卸のエクセル。オフィスの監視カメラが二時ちょうどに彼女の姿を捉えてる。
才田は『レシピの生配信』を厨房脇のスタジオでやってた。録画あり、コメントあり。
柿沼はトラックのGPSで一時半に港北のコンビニ、二時十分に戻り。『胃薬を買いに出た』と言っている。——三人とも、時間に“記録”が付いてる」
私は生地の棚に目を向けた。
バゲットの生地は天板に並び、薄く乾いている。クープ前の肌。触ると指にわずかに張り付く——含水率68%の感触。
カンパーニュは籠(バヌトン)の中、表面の粉がところどころ“魚の目(フィッシュアイ)”のように泡立ち、薄い気泡が皮膜に透けている。冷えた生地を温度の高いところに戻した時によく出る。
私は匂いを嗅いだ。乳酸がわずかに勝っている。低温長時間の合図。
工程表の予定より“遅い”。
冷蔵ホイロの温度曲線に指を滑らせる。曲線はなめらかだ。だが、なめらかすぎる。扉の開閉の痕跡は二つしかない。成形入れと、アラームの直前。
でも、天板(デッキオーブン)の蓄熱曲線のログは、別のことを言っている。
02:00の直前、扉の開閉回数カウンタが「+3」。
誰かが焼成ではない用件でオーブンを三度開け閉めした。——冷蔵ホイロのログにはその時刻、何もない。
矛盾は、いつもここから匂う。
事情聴取に私は付き添った。
春海は、落ち着いていた。四十手前、元金融の数字の人。
「棚卸の締めです。月末は在庫の数を合わせます。二時のカメラ映像は間違いありません。トイレに立ったのは一時十五分と二時十五分。廊下のセンサーにも残っています」
「宗本さんとは揉めていた?」御子柴が訊く。
春海は一瞬の間を置いた。
「経営に『感情』が混ざりすぎる、と言ったことはあります。職人としてのこだわりは尊重しますが、赤字のラインを超える案件にはブレーキをかける必要がある。宗本さんは『出せばわかる』と。——それが最後の口論でした」
私は春海の机の上にある“在庫表”のプリントに目を落とした。粉袋のロット番号、バターの残量、イーストの使用量。
イースト(生)の使用量が、Excel上で「0.8ケース」と端数になっている。生イーストは通常“1ケース(500g×20)”単位の出庫で、端数は冷蔵庫の秤の数値が差異になる——が、今夜の配合なら端数は「0.6」になるはずだ。工程表の仕込み総量と合わない。
春海のExcelにだけ、酵母は経済の数字に従っている。
才田は、白いコックコートの襟を整えながら言った。
「生配信、見てました? 『家庭でできる低温長時間発酵』。一時ちょうどから三十分。視聴者のコメントも、スパチャも入ってます。厨房のスタジオから動いていません」
「配信のバックに置いたバゲット、あれは今夜の生地じゃないですね」と私は言った。
才田が眉を動かした。
「どうして」
「クープの縁が白く縁取りされていた。ガス抜きが弱く、グルテンが乾いた縁を作っている。今夜の生地は湿りが強く、その縁はできない。昨日の昼焼いたデモ用だと匂いも言っている」
才田は笑って肩をすくめた。
「映像映えのためですよ。生配信は“絵”が大事なので」
柿沼は、寝不足の目をこすった。
「胃が痛くて。コンビニのレシートあります。二時六分、胃薬と缶コーヒー」
「戻ってきた二時十分以降、あなたの靴底から“打粉”が落ちていない」と私は言った。
柿沼はきょとんとした顔になる。
「配送の人間が工場に入ると、足元にどうしても粉が付く。戻って廊下のグレーに白い粉の足跡が少し伸びる。二時十分から二時二十七分の間、足跡が途切れている。——誰かの足跡を拭いたか、そこにいなかった」
「拭きました。衛生の指導で」
「あなたが拭いたのは二時三十五分。ホイロのアラーム後です」
アリバイはどれも、機械や紙が裏書きをしている。
だが、酵母は、嘘の余白を嫌う。
私はパンを見た。
これは私の仕事の全部だ。
バゲットのクープ(三本)。角度は35度、深さは生地厚の三分の一。焼成で**“耳(エグリュート)”が立っている。耳の縁に光沢(シーニュ)が出ているのはスチームのタイミングが良い証拠。——だが、耳の先端が欠けている。“フライングルーフ”**の兆し。焼成時に過発酵気味の生地が、オーブンの熱に耐え切れず屋根が浮いて落ちる現象。
フライングルーフは、最終発酵の終わりかけにオーブンに入れた時によく出る。予定より“遅く”ホイロを出した。
工程表は「01:00 ホイロ入り→02:30 焼成」。90分の最終発酵。
今夜の生地温だと、90分でここまで過発酵はしない。120分に近い。
——どこかで、時間が伸びている。
カンパーニュは、焼成後のクラックの“花”が大きい。中心から四方に裂ける線の幅が広いのは、焼成中の内部ガス発生が強かった時。つまり、オーブンに入れた時点ではやや若かった(アンダープルーフ)。
バゲットは遅く、カンパーニュは早い。
同じホイロに同じ時刻に入ったなら、こんなねじれは生じにくい。
誰かが、途中でカンパーニュだけ出し、戻し、温度をいじった。
冷蔵ホイロの棚のバヌトンの縁に、白い粉が一筋、外側に弧を描いて落ちていた。棚から素早く引っ張り出して戻した時の癖。
さらに、発酵器内の湿度センサーのグラフが02:03に一瞬だけ乾燥側へ跳ねる。扉開閉のログはないのに。
——ログが改ざんされたか、あるいは別の扉。
冷蔵ホイロの背面には、メンテナンス用の小扉がある。鍵は係が持っている。春海が在庫で使う“鍵束”の中に、その鍵も付いている。
私は、自分でメンテ扉を開け、センサーのそばに手をかざしてみた。
湿度曲線の跳ねと今のグラフの反応速度は一致する。
02:03。
春海の“二時ちょうどにカメラに映っている”映像の三分後。彼女が廊下を出た記録は「二時十五分」。その間にオフィスを離れて冷蔵室に行き、背面から扉を開け、カンパーニュだけを出し入れし、そこに——宗本を。
私は御子柴に言った。
「春海だと思う。動機は『数字』。宗本は今日、春海の棚卸の不正を指摘した。イーストの端数は虚偽だ。ぶどうの酵母は数字に従わない。彼女はイーストを“節約”して利益にした。宗本がそれに気づき、やめさせようとして揉めた。
春海は冷蔵ホイロの背面から出入りし、扉のログを残さずカンパーニュを若く戻し、宗本を中へ誘い、ラッチにテープを巻いた。アルコールで巻きつけを滑らせ、短時間で固定できる。
——証拠は、パンに出ている。バゲットの耳の欠けと、カンパーニュの花の大きさのねじれが、02:00〜02:08のあいだに別々の温度帯に置かれたことを示している」
御子柴は筆圧を少し強めて手帳に書き、「決め手が要る」と言った。
私は頷き、冷蔵ホイロの扉のパッキンに鼻を近づけた。
薄いレモン様の香り。
うちの清掃はエタノールだが、春海は在庫で余っていた“消臭用イソプロピルアルコール”を持っている。イソプロはわずかにアセトン様の甘みを連れてくる。鼻には違いがわかる。
さらに、春海のExcelのセルに残る手入力の「=0.8」。オート計算ではなく、手で上書きした。監査ログが残っている。修正は01:56。
01:58——扉開。
時計は、数字より正直だ。
取り調べ室で、春海は最初、否定した。
「宗本さんは勝手に冷蔵ホイロに入って倒れたのかもしれません。私は関与していません」
御子柴が、扉のパッキンから採取した揮発成分の分析結果を置いた。
「イソプロピルアルコールのピーク。オフィスの在庫表で、今夜『消費』が記録されていたのはあなたの端末だ。
それから、Excelの監査履歴。01:56に手動で0.8に上書きしている。宗本に『ごまかすな』と言われて、02:00前に背面扉から冷蔵ホイロに近づき、——宗本を閉じ込めた」
春海の目が、わずかに泳いだ。
私は、パンの写真を出した。
バゲットの耳の欠けと、カンパーニュの花。
「これは“数字”じゃない。焼きの物理です。オーブンの蓄熱曲線が02:00直前に三度開閉を示し、冷蔵ホイロの湿度が02:03に跳ね、扉ログは空白。——その三分間に、あなたはパンの時間をいじった。酵母の時差は、あなたの嘘の時差だ」
春海は、ゆっくりと目を閉じ、開けた。
「……宗本さんは、私に『パンは待ってくれない』と言った。
数字は待てる。締めを一時間遅らせても紙は怒らない。でもパンは、待てない。
だからこそ、経営の側が“待ってもらう”を担うべきだと、私は思っていました」
「それが、人を閉じ込める理由にはならない」
「私は、計算が合ってほしかった。原料の価格が上がり、電気代が跳ね、宗本さんは『値上げはしたくない』と言う。誰かの“頑固”の代金は、誰かが払う。
宗本さんは、私のExcelのセルに『=0.8』と入っているのを見て、私の手を叩き、言った。『酵母を数字にするな』と。
私は、背面扉を知っていた。備えつけのラッチの構造も。中からは簡単に開くが、外からテープで押さえれば——数分は、待ってくれる。
その数分の間に、私はカンパーニュを若く戻し、バゲットの耳を立たせるためにスチームのタイミングを調整し、それから扉を開けるつもりだった。
——戻った時、宗本さんは、倒れていた」
御子柴は、短く息を吐いた。
「数分は、誰かの生き死ににとって、永い」
春海は、頷かなかった。頷く力が、もう残っていないように見えた。
事件は、法の言葉に置き換えられ、行き場を決められていった。
春海は逮捕され、送致された。
才田の“生配信アリバイ”は時刻のすり替えが露呈し、軽い業務規律違反で処分。
柿沼は無関係だった。ただ、足元の粉の話をしたら、翌日から真面目にマットを掃除するようになった。
工場は三日止まった。私はその間、冷蔵ホイロのラッチを内側からも外側からも人がいれば必ず開く仕組みに交換し、背面扉には二重のセンサーを取り付け、ログの改ざんができないようにデータを外部にリアルタイムで送る設定に変えた。
工程表の左上に、新しい一行を書き足した。
——人を入れない。
当たり前すぎるルール。だが、当たり前は、いつも数字に負ける。だから、匂いで守る。
再開の夜、私はうちの一番古いレシピ——塩、粉、水、酵母だけのバゲットを、宗本のやり方で仕込んだ。
ポーリッシュ種の泡の音。ミキサーの螺旋の唸り。一次発酵の「ぱちぱち」。ベンチで生地に張りを出す手のひらの抵抗。ホイロの中で眠るときの、酸の匂い。
オーブンの扉を開ける。熱の波が顔を撫で、耳が立ち、クレーム(クラック)の歌が始まる。
冷却ラックに乗せると、パンは、歌う。
「パンは待たない」は真実だ。
だから、人が、パンに間に合うしかない。
御子柴から、短いメッセージが来た。
「おまえの“酵母の鼻”に助けられた」
私は笑いも泣きもしない顔で、短く返した。
「酵母は、数字を嫌う。だけど、数字は守るためにある。両方、裏切らない」
送信して、私はオーブンのガラスに映る自分の顔を見た。
夜の工場の空気は、少しだけ軽くなっていた。
宗本の「出せばわかる」は時々乱暴だったが、出してわかる世界は、嘘を嫌う。
今夜のバゲットは、耳がよく立ち、フライングルーフは出なかった。
時間が合っているからだ。
私はラックの一番上に手を伸ばし、一本だけ、そっと胸に抱いた。
まだ暖かい。
人のための温度。
人のための匂い。
人のための時。
それを守るのが、私の仕事だ。
そして、誰かがその時をずらしたなら、私はまた、酵母の地図を読む。
数字と匂いの境目で、時差を探す。
その仕事は、たぶん、きっと、ここで続いていく。
粉と水が出会ってから発酵が止むまでのあいだに、酵母は二酸化炭素とアルコールを吐き、グルテンはそれを抱きとめ、熱はタンパク質を固めて香りを引き出す。どの瞬間にどれくらいの匂いが立つか、私の鼻はだいたい覚えている。
私はその地図を読む係だ。正式な肩書は「品質管理」。夜のベーカリーで一次発酵、ベンチタイム、成形、最終発酵(ホイロ)、焼成——それぞれの温湿度記録をモニターし、異常がないか確かめる。酵母は嘘をつかない。機械は時々、つく。
事故が起きたのは、六月の二十七日の夜—いや、日付の上では二十八日の午前二時だった。
工場の奥で、冷蔵ホイロのアラームが鳴った。温度逸脱。慣れた音だが、今夜は鳴るはずがない時刻だ。私は記録用の端末を片手に扉へ駆け寄り、覗き窓を覗き込んだ。
中に、人影。
鍵は閉まってはいない。扉を引くと、冷気が肌に噛みついた。ステンの床に、うつ伏せの男。白いコックコート、胸元の刺繍「MUNEMOTO」。うちのオーナー、宗本浩一(むねもと・こういち)だ。
肩に触れる。冷たい。脈はない。頬に貼りついた霜が、指先に崩れた。冷蔵ホイロの表示は「3℃」。湿度は「85%」。棚板に並ぶ丸パンの生地は、過発酵も低温停止もしていない。——誰かが短い時間、ここへ人間を閉じ込めた。
私は叫ぶことより先に吸い込んだ空気の匂いを数えた。
発酵の酸、わずかなアルコール、低温の金気。そこに、不自然な“消毒用アルコール”の尖りが混じっている。清掃で使う濃度でない。
背後で駆け寄る足音、警報に集まった職人たち。コック帽の白が視界を縁取り、誰かが救急を呼んだ。私は冷蔵ホイロのログを手元の端末で開き、温度曲線の折れを見つけた。
01:58——扉開。
02:07——扉閉。
02:08——温度急降下。
——アラーム発報時刻は02:12。
僅かな間。人が冷えるには十分だ。
警察が来た。眠たげな声が、冷気の中を渡ってくる。
「またおまえか」
御子柴だ。中学の同級生で、今は所轄の刑事。
「御子柴、宗本は——」
「死亡だ。低体温と窒息の併発。冷蔵ホイロは内側にラッチがあるから、普通は閉じ込められない。だが、ラッチの根元に『養生テープ』が巻かれていた。内側からは力がかからないように。テープには清掃用アルコールの匂い。
——で、容疑者は三人。共同経営者の春海(はるみ)、シェフブーランジェの才田(さいだ)、配送主任の柿沼(かきぬま)。三人とも、この時間帯、工場かオフィスにいた。三人ともアリバイを主張だ」
私は頷き、壁の掲示板に貼られた今夜の工程表に目を走らせた。
21:00 ポーリッシュ種仕込み
22:00 一次発酵開始
23:30 ベンチ
00:15 成形
01:00 最終発酵(冷蔵ホイロ)
02:30 焼成——バゲット、カンパーニュ
宗本が倒れたのは焼成の少し前。パンの匂いはまだ“夜の匂い”の中程にいる。
御子柴が、三人の“言い分”を手短に伝えた。
「春海は二階の事務所で棚卸のエクセル。オフィスの監視カメラが二時ちょうどに彼女の姿を捉えてる。
才田は『レシピの生配信』を厨房脇のスタジオでやってた。録画あり、コメントあり。
柿沼はトラックのGPSで一時半に港北のコンビニ、二時十分に戻り。『胃薬を買いに出た』と言っている。——三人とも、時間に“記録”が付いてる」
私は生地の棚に目を向けた。
バゲットの生地は天板に並び、薄く乾いている。クープ前の肌。触ると指にわずかに張り付く——含水率68%の感触。
カンパーニュは籠(バヌトン)の中、表面の粉がところどころ“魚の目(フィッシュアイ)”のように泡立ち、薄い気泡が皮膜に透けている。冷えた生地を温度の高いところに戻した時によく出る。
私は匂いを嗅いだ。乳酸がわずかに勝っている。低温長時間の合図。
工程表の予定より“遅い”。
冷蔵ホイロの温度曲線に指を滑らせる。曲線はなめらかだ。だが、なめらかすぎる。扉の開閉の痕跡は二つしかない。成形入れと、アラームの直前。
でも、天板(デッキオーブン)の蓄熱曲線のログは、別のことを言っている。
02:00の直前、扉の開閉回数カウンタが「+3」。
誰かが焼成ではない用件でオーブンを三度開け閉めした。——冷蔵ホイロのログにはその時刻、何もない。
矛盾は、いつもここから匂う。
事情聴取に私は付き添った。
春海は、落ち着いていた。四十手前、元金融の数字の人。
「棚卸の締めです。月末は在庫の数を合わせます。二時のカメラ映像は間違いありません。トイレに立ったのは一時十五分と二時十五分。廊下のセンサーにも残っています」
「宗本さんとは揉めていた?」御子柴が訊く。
春海は一瞬の間を置いた。
「経営に『感情』が混ざりすぎる、と言ったことはあります。職人としてのこだわりは尊重しますが、赤字のラインを超える案件にはブレーキをかける必要がある。宗本さんは『出せばわかる』と。——それが最後の口論でした」
私は春海の机の上にある“在庫表”のプリントに目を落とした。粉袋のロット番号、バターの残量、イーストの使用量。
イースト(生)の使用量が、Excel上で「0.8ケース」と端数になっている。生イーストは通常“1ケース(500g×20)”単位の出庫で、端数は冷蔵庫の秤の数値が差異になる——が、今夜の配合なら端数は「0.6」になるはずだ。工程表の仕込み総量と合わない。
春海のExcelにだけ、酵母は経済の数字に従っている。
才田は、白いコックコートの襟を整えながら言った。
「生配信、見てました? 『家庭でできる低温長時間発酵』。一時ちょうどから三十分。視聴者のコメントも、スパチャも入ってます。厨房のスタジオから動いていません」
「配信のバックに置いたバゲット、あれは今夜の生地じゃないですね」と私は言った。
才田が眉を動かした。
「どうして」
「クープの縁が白く縁取りされていた。ガス抜きが弱く、グルテンが乾いた縁を作っている。今夜の生地は湿りが強く、その縁はできない。昨日の昼焼いたデモ用だと匂いも言っている」
才田は笑って肩をすくめた。
「映像映えのためですよ。生配信は“絵”が大事なので」
柿沼は、寝不足の目をこすった。
「胃が痛くて。コンビニのレシートあります。二時六分、胃薬と缶コーヒー」
「戻ってきた二時十分以降、あなたの靴底から“打粉”が落ちていない」と私は言った。
柿沼はきょとんとした顔になる。
「配送の人間が工場に入ると、足元にどうしても粉が付く。戻って廊下のグレーに白い粉の足跡が少し伸びる。二時十分から二時二十七分の間、足跡が途切れている。——誰かの足跡を拭いたか、そこにいなかった」
「拭きました。衛生の指導で」
「あなたが拭いたのは二時三十五分。ホイロのアラーム後です」
アリバイはどれも、機械や紙が裏書きをしている。
だが、酵母は、嘘の余白を嫌う。
私はパンを見た。
これは私の仕事の全部だ。
バゲットのクープ(三本)。角度は35度、深さは生地厚の三分の一。焼成で**“耳(エグリュート)”が立っている。耳の縁に光沢(シーニュ)が出ているのはスチームのタイミングが良い証拠。——だが、耳の先端が欠けている。“フライングルーフ”**の兆し。焼成時に過発酵気味の生地が、オーブンの熱に耐え切れず屋根が浮いて落ちる現象。
フライングルーフは、最終発酵の終わりかけにオーブンに入れた時によく出る。予定より“遅く”ホイロを出した。
工程表は「01:00 ホイロ入り→02:30 焼成」。90分の最終発酵。
今夜の生地温だと、90分でここまで過発酵はしない。120分に近い。
——どこかで、時間が伸びている。
カンパーニュは、焼成後のクラックの“花”が大きい。中心から四方に裂ける線の幅が広いのは、焼成中の内部ガス発生が強かった時。つまり、オーブンに入れた時点ではやや若かった(アンダープルーフ)。
バゲットは遅く、カンパーニュは早い。
同じホイロに同じ時刻に入ったなら、こんなねじれは生じにくい。
誰かが、途中でカンパーニュだけ出し、戻し、温度をいじった。
冷蔵ホイロの棚のバヌトンの縁に、白い粉が一筋、外側に弧を描いて落ちていた。棚から素早く引っ張り出して戻した時の癖。
さらに、発酵器内の湿度センサーのグラフが02:03に一瞬だけ乾燥側へ跳ねる。扉開閉のログはないのに。
——ログが改ざんされたか、あるいは別の扉。
冷蔵ホイロの背面には、メンテナンス用の小扉がある。鍵は係が持っている。春海が在庫で使う“鍵束”の中に、その鍵も付いている。
私は、自分でメンテ扉を開け、センサーのそばに手をかざしてみた。
湿度曲線の跳ねと今のグラフの反応速度は一致する。
02:03。
春海の“二時ちょうどにカメラに映っている”映像の三分後。彼女が廊下を出た記録は「二時十五分」。その間にオフィスを離れて冷蔵室に行き、背面から扉を開け、カンパーニュだけを出し入れし、そこに——宗本を。
私は御子柴に言った。
「春海だと思う。動機は『数字』。宗本は今日、春海の棚卸の不正を指摘した。イーストの端数は虚偽だ。ぶどうの酵母は数字に従わない。彼女はイーストを“節約”して利益にした。宗本がそれに気づき、やめさせようとして揉めた。
春海は冷蔵ホイロの背面から出入りし、扉のログを残さずカンパーニュを若く戻し、宗本を中へ誘い、ラッチにテープを巻いた。アルコールで巻きつけを滑らせ、短時間で固定できる。
——証拠は、パンに出ている。バゲットの耳の欠けと、カンパーニュの花の大きさのねじれが、02:00〜02:08のあいだに別々の温度帯に置かれたことを示している」
御子柴は筆圧を少し強めて手帳に書き、「決め手が要る」と言った。
私は頷き、冷蔵ホイロの扉のパッキンに鼻を近づけた。
薄いレモン様の香り。
うちの清掃はエタノールだが、春海は在庫で余っていた“消臭用イソプロピルアルコール”を持っている。イソプロはわずかにアセトン様の甘みを連れてくる。鼻には違いがわかる。
さらに、春海のExcelのセルに残る手入力の「=0.8」。オート計算ではなく、手で上書きした。監査ログが残っている。修正は01:56。
01:58——扉開。
時計は、数字より正直だ。
取り調べ室で、春海は最初、否定した。
「宗本さんは勝手に冷蔵ホイロに入って倒れたのかもしれません。私は関与していません」
御子柴が、扉のパッキンから採取した揮発成分の分析結果を置いた。
「イソプロピルアルコールのピーク。オフィスの在庫表で、今夜『消費』が記録されていたのはあなたの端末だ。
それから、Excelの監査履歴。01:56に手動で0.8に上書きしている。宗本に『ごまかすな』と言われて、02:00前に背面扉から冷蔵ホイロに近づき、——宗本を閉じ込めた」
春海の目が、わずかに泳いだ。
私は、パンの写真を出した。
バゲットの耳の欠けと、カンパーニュの花。
「これは“数字”じゃない。焼きの物理です。オーブンの蓄熱曲線が02:00直前に三度開閉を示し、冷蔵ホイロの湿度が02:03に跳ね、扉ログは空白。——その三分間に、あなたはパンの時間をいじった。酵母の時差は、あなたの嘘の時差だ」
春海は、ゆっくりと目を閉じ、開けた。
「……宗本さんは、私に『パンは待ってくれない』と言った。
数字は待てる。締めを一時間遅らせても紙は怒らない。でもパンは、待てない。
だからこそ、経営の側が“待ってもらう”を担うべきだと、私は思っていました」
「それが、人を閉じ込める理由にはならない」
「私は、計算が合ってほしかった。原料の価格が上がり、電気代が跳ね、宗本さんは『値上げはしたくない』と言う。誰かの“頑固”の代金は、誰かが払う。
宗本さんは、私のExcelのセルに『=0.8』と入っているのを見て、私の手を叩き、言った。『酵母を数字にするな』と。
私は、背面扉を知っていた。備えつけのラッチの構造も。中からは簡単に開くが、外からテープで押さえれば——数分は、待ってくれる。
その数分の間に、私はカンパーニュを若く戻し、バゲットの耳を立たせるためにスチームのタイミングを調整し、それから扉を開けるつもりだった。
——戻った時、宗本さんは、倒れていた」
御子柴は、短く息を吐いた。
「数分は、誰かの生き死ににとって、永い」
春海は、頷かなかった。頷く力が、もう残っていないように見えた。
事件は、法の言葉に置き換えられ、行き場を決められていった。
春海は逮捕され、送致された。
才田の“生配信アリバイ”は時刻のすり替えが露呈し、軽い業務規律違反で処分。
柿沼は無関係だった。ただ、足元の粉の話をしたら、翌日から真面目にマットを掃除するようになった。
工場は三日止まった。私はその間、冷蔵ホイロのラッチを内側からも外側からも人がいれば必ず開く仕組みに交換し、背面扉には二重のセンサーを取り付け、ログの改ざんができないようにデータを外部にリアルタイムで送る設定に変えた。
工程表の左上に、新しい一行を書き足した。
——人を入れない。
当たり前すぎるルール。だが、当たり前は、いつも数字に負ける。だから、匂いで守る。
再開の夜、私はうちの一番古いレシピ——塩、粉、水、酵母だけのバゲットを、宗本のやり方で仕込んだ。
ポーリッシュ種の泡の音。ミキサーの螺旋の唸り。一次発酵の「ぱちぱち」。ベンチで生地に張りを出す手のひらの抵抗。ホイロの中で眠るときの、酸の匂い。
オーブンの扉を開ける。熱の波が顔を撫で、耳が立ち、クレーム(クラック)の歌が始まる。
冷却ラックに乗せると、パンは、歌う。
「パンは待たない」は真実だ。
だから、人が、パンに間に合うしかない。
御子柴から、短いメッセージが来た。
「おまえの“酵母の鼻”に助けられた」
私は笑いも泣きもしない顔で、短く返した。
「酵母は、数字を嫌う。だけど、数字は守るためにある。両方、裏切らない」
送信して、私はオーブンのガラスに映る自分の顔を見た。
夜の工場の空気は、少しだけ軽くなっていた。
宗本の「出せばわかる」は時々乱暴だったが、出してわかる世界は、嘘を嫌う。
今夜のバゲットは、耳がよく立ち、フライングルーフは出なかった。
時間が合っているからだ。
私はラックの一番上に手を伸ばし、一本だけ、そっと胸に抱いた。
まだ暖かい。
人のための温度。
人のための匂い。
人のための時。
それを守るのが、私の仕事だ。
そして、誰かがその時をずらしたなら、私はまた、酵母の地図を読む。
数字と匂いの境目で、時差を探す。
その仕事は、たぶん、きっと、ここで続いていく。



