朝の路地は、新聞配達のバイクが引いた冷たい風の筋だけが残っていた。私はごみ収集課のオレンジ色ベストを着て、まだ灯りの残る家々を横目に、ゆっくり歩いた。水曜日は不燃ごみの日。燃えないもの、壊れた器、使い切ったスプレー缶、乾電池。袋の口を結ぶ手の強さが、そこまでの日々の強さを語る。そう思いながら、私はいつも最初の角で立ち止まる。角の先に、かならず一つ、結びが甘い袋があるのだ。
その朝もやはり、ひとつだけ結び目が斜めに歪んだ透明袋が、カラス避けネットの外側に出ていた。私はしゃがみこんで、ひと目でわかる異物を探した。可燃と混じった不燃があれば、回収できない。袋の外から読むと、インクの滲んだ油性マジックで「伊達」と記名がある。うちの区は、記名任意だが、近年は記名率が上がった。袋越しに見えた中身は、割れた陶器と、金属製の鍋つかみ、そして乾電池。乾電池の向きがやけに揃っている。私は袋の口を一度ほどき、空気を抜いて固く結び直す。手の中で、誰かの生活が一束になっていく感じが好きだった。
団地棟の二階、伊達の表札のある部屋の前には、青いサンダルが揃っていた。私は、前の週に見た若い男の顔を思い出していた。彼は引っ越してきたばかりで、私たちが収集に入った時、寝癖のまま出てきて「こういうの、どの袋ですか」と聞いた。「それは資源ごみですね」と答えた私に、男は恥ずかしそうに笑って「むずかしいな」と言った。名前は甲斐。表札の横のポストに、一度だけ彼の名字を見た。伊達は、同じ部屋に住む女の名字だろう。二人は同棲だ。窓辺の乾いた洗濯ばさみや、ベランダの植木鉢がそう教えた。
午前六時。いつもなら防災無線の試験放送が流れる時刻。だが、その週は流れなかった。先週の台風でスピーカーの配線が一部落ち、復旧作業が続いているからだ。私は課の掲示で知っていた。静かな朝は、いつもより音が硬い。ごみ収集車が角を曲がってくる低い唸りだけが、遠い雷のように響いてきた。
その収集が終わり、詰所に戻ったのは八時過ぎだった。アルミの長机の上に置かれた水筒の蓋をひねりながら、私は備品のノートに、今朝の気づきを走り書きした。乾電池の向きが揃っていたこと。透明袋の記名の書き方が、どこか変だったこと。丸が少し大きく、濁点が限りなく小さい。「伊達」の「達」の濁点が、虫の足のように薄い。書き慣れない字の書き慣れない濁点。私はそんなところに目がいく自分に苦笑した。収集課に入って三年、私は市役所の中でも、字を見て人となりを思う癖を持った少数派になっていた。
九時、電話が鳴った。詰所のスピーカーから、警察署の落ち着いた声が流れる。「西浜団地二丁目、二〇四号室で変死体。住人の伊達ゆかりさん、二十七歳。練炭による一酸化炭素中毒の疑い。収集の時間帯に近いので、何か気づいたことがあれば」
私の背中に冷たいものが落ちた。二〇四号室。あの透明袋の部屋だ。
昼過ぎ、課長の指示で私は署に向かった。応接室に通されると、刑事課の山崎が立っていた。年配だが目が若い。市役所から転じて嘱託でうちの課の安全講習を何度かしてくれたこともある。今日の彼は刑事側の顔だった。
「来てくれてありがとう、新名さん」
私は頭を下げ、今朝のことを話した。袋の結び、乾電池、記名の濁点。自分でも少し場違いな細かさだと感じながらも、口が勝手に動いた。山崎は遮らなかった。むしろ、前のめりに椅子から肘を浮かせ、断片を拾い上げるように聞いた。
「住人の彼氏が通報者だ。甲斐という。昨夜、言い争いをしたが、彼は出ていき、朝六時の防災無線で目覚めて戻ってきた、と言っている」
「防災無線、今週は止まっているはずです」
自分の声が少し高く跳ねた。山崎はうなずく。
「そう。だから彼の話は矛盾している。だが彼は、『スマートスピーカーに六時のチャイムを設定してある』と言い、実際に家の機械は朝六時きっかりに『ふるさと』を流していた。防災無線ではなく、家のスピーカーの音だ、と言い張っている」
私は甲斐の眠そうな笑顔と、今朝の袋の結びの甘さを思い出した。スマートスピーカーなら、防災無線が止まっていても、六時には鳴る。アリバイは再び、音で自己修復されたことになる。
「じゃあ、彼は本当に六時に起きたのかもしれない。でも——」
でも、何だ。私の頭の奥で、ごみ車の走行ルートが地図の上に浮かぶ。今日の不燃ごみは、西浜団地はいつ通った? 私は自分の腕時計を見た。八時五分に詰所に戻った。団地は最初のルートだ。六時半には、あの角にいた。乾電池の入った袋は、そのときすでにネットの外に出ていた。だとすれば、袋は六時以前に出されたことになる。
私は、現場の写真を見せてもらえないかと頼んだ。山崎は一瞬迷い、肖像の映る部分を外した広角の写真を数枚見せた。六畳の居室にこたつ、壁際にレンジ台、窓の近くに小さな練炭の火鉢。火は消えているが、白い灰が縁に固まり、その向こう、布団の上に女の姿。口元に吐瀉の跡はない。苦しまずに眠るように往ったのだろう。練炭の灰が「新しい」白さだ。床には、空気の通り道を作るためにドアの隙間に挟まれたスポンジが残っている。典型的な一酸化炭素中毒の現場写真。しかし私は、一枚の隅に目を止めた。
台所の隅、レンジ台の下のかご。透明袋が一つ。中には、使い切ったカセットボンベと、何本もの乾電池。袋の口はほどかれ、転がり出た電池が床で止まっている。乾電池の向き——あの路地角の袋と同じ、+側がひとつの方向に揃っている。
「袋を二つに分けたんですか?」
「何が?」
「不燃ごみの袋。台所の袋と、路地角にあった袋。同じ人がまとめた手つきです。向きを揃える癖はなかなか出ない。しかも、台所の袋は“資源”用の黄色が混じっている。資源袋は火曜。今日は水曜。不燃ごみ。混ぜています」
山崎は写真を拡大し、ふっと鼻から息をもらした。
「資源と不燃の取り違えか。だが、それと事件はどう繋がる」
「乾電池の回収は、第二と第四の水曜に限られます。今日は第一水曜。乾電池は出せない日です。なのに、路地角の袋には乾電池が入っていました。つまり——誰かは、乾電池を急いで外に出したかった」
私の声は次第に早口になった。甲斐の言葉がよみがえる。「むずかしいな」。難しいから、メモでも見たのだろう。それとも、誰かが急いで、出してしまったのだろうか。急いで、何を隠そうとした?
「練炭の灰の白さが“新しい”と感じたのは、換気の仕方が不自然だからかもしれません。火鉢のそばに、扇風機がある。冬に、扇風機」
写真の隅の立て札のような影を指し示すと、山崎は苦笑した。
「推理は嫌いじゃないが、扇風機の存在だけで何かは言えない」
「わかっています。ただ、乾電池です。あの揃えられた向きは、きっと甲斐さんの手。路地角の袋の記名『伊達』の濁点が小さすぎた。濁点は、書き慣れない人が小さく、控えめに打つ癖がある。女の『伊達』ではなく、男の『伊達』」
山崎は目を細めた。彼は、私の変な癖を以前から知っている。
「つまり、新名さんは、甲斐が朝六時以前に部屋にいて、不燃ごみの袋を出した、と見ている?」
「はい」
「しかし彼は、スマートスピーカーのアラームで六時に起き、六時二十分に部屋に戻って彼女を発見した、と言っている。部屋には彼の指紋もある。だが同棲なら当然だ。加えて、練炭の購入記録は彼女名義。行為の準備に彼の介在は見えない」
私は黙り込んだ。乾電池の向き、袋の結び、濁点。そういうものは状況を語るが、決め手にはならない。決めるのは、時刻。時間は嘘をつかない。嘘をつくのは、人だ。
「回収車のドラレコ、ありますよね」
言いながら、私は自分の指先が震えているのを見た。
「朝六時三十四分に、西浜団地の角で、私はあの袋を結び直した。ドラレコには、私がしゃがんでいる背中が映っているはずです。音も入る。遠くでチャイムが鳴ったら、それも入る。防災無線ではなく、家の中のチャイムなら——」
「路上にいた君の耳には届かない?」
「いえ、届きます。団地の廊下は外廊下で、窓も薄い。ただ、防災無線の『ふるさと』と、スマートスピーカーの『ふるさと』は、音色が違う。ドラレコは低音に強いマイクです。でも、聞き慣れていればわかる」
山崎は、勘定するように指を折った。
「ドラレコ、確認する価値はあるな。『六時に起きた』という甲斐の言葉が、自動の音によって成立しているのか、人の手で成立させられたのか。もうひとつ、新名さん——乾電池の件、どう決め手にする?」
「乾電池の回収日。第一水曜は不可。彼は“今日が乾電池の日だ”と勘違いしていたか、“今日に限って出さねばならない理由があったか”のどちらかです。前者なら単なる無知、後者なら操作の意図」
山崎は椅子から立ち上がった。
「ドラレコの映像と音、自治体の放送記録、そして——袋。現物は残っているか?」
「詰所に保管しています。結び直した袋は回収しましたが、乾電池が混じっているので、分類のために積み分けた場所に」
「それを押収させてくれ。記名の文字を筆跡鑑定に回す。濁点の話は面白い。警察は案外そういうところに盲目だ。新名さん、協力を頼む」
私は頷いた。人の生活の結び目に触れている者として、ほどくべき結びを見つける、その役目を引き受けるべきだと思った。
*
ドラレコの記録は、午後のうちに確認された。映像は、六時三十三分五十秒、西浜団地の角にゆっくり寄せる車体の揺れから始まる。助手の私が飛び降り、カラス避けネットをめくり、袋を一点確認して結び直す。六時三十四分十八秒、遠くから音楽が聞こえ始める。「ふるさと」。しかし、低音のベースが豊かで、最後の小節でエコーがかかる。防災無線のものではなく、スマートスピーカーの音色だ。鳴っている源は、道路に向いた開き戸の隙間から、微かに漏れている。団地二〇四号室の方向だ。
音は六時三十四分ちょうどに鳴り始め、約三十秒で止む。甲斐が言う「六時に起きた」は、六時三十四分に鳴った音に引きずられた可能性が高い。つまり、彼は六時以前に部屋に居たのだ。スマートスピーカーの時刻設定を間違えたのか。いや、もっと単純だ。甲斐は六時に目覚めたことにしなければならなかった。だから、わざと六時三十四分に鳴るように設定した。私たちが団地の角に来る時間に合わせて。車の音が近づき、私がしゃがむ時間帯に合わせて。「証人」の前でチャイムが鳴ることを狙って。
ならば、なぜ六時三十四分を知っていた? 答えは簡単だ。彼は、先週の水曜日にも、私たちの収集を見ている。引っ越してきたばかりで分別がわからず、路地角で話しかけてきた時、彼は腕時計を気にしていた。時間に神経質な人だ。先週のドラレコの記録も参照され、同じ時刻に車が角に差し掛かったことが確認された。収集ルートは工事や事故がない限り、数分単位で同じだ。
だが、もうひとつの問題、練炭のことが残る。購入記録が彼女名義なら、彼の直接の関与は弱くなる。山崎は調べを進め、すぐに一枚のレシートを持ってきた。コンビニのもの。三日前の夜、伊達ゆかりが単身で購入。だが、レシートには、彼女の電子マネーではなく、現金。いつもは電子マネーを使うのに、その日に限って現金。監視カメラでは、背後に甲斐がいる。商品を選ぶのは彼女だが、会計の直前に何か囁かれ、彼女は早口で頷く。甲斐の指は、商品のバーコードを指し示している。
動機は、借金。賃貸契約は彼女名義、カードローンは彼の借り入れ。彼女が同棲解消を言い出したという近所の証言も集まる。彼は、泣き出しそうな声で否定した。六時に起きた、と繰り返した。スマートスピーカーが証言してくれる、とも。
私は、押収された袋を見た。濁点はやはり小さい。乾電池は、すべて+側が右を向いている。私はふと、袋の内側を覗き込んだ。透明袋の内側に、薄い赤の影が反転して滲んでいる。「回収日 第二・第四水曜 乾電池」。袋の外側に印字された赤い注意書きが、湿気か何かで内側に転写してしまったらしい。転写は、どこか一点だけが濃い。私は、その濃い部分に指を当てた。ちょうど「第二」の「二」のあたり。内側に、小さな擦過傷のようなキズがある。電池の角で擦れてできたのだろう。乾電池を入れ、出し入れするうち、印字が内側に触れ、転写された。つまり——袋は、つい昨夜、濡れた手で触られたのだ。台所で水仕事をしたあと、急いで乾電池を詰めた手が、袋の内側まで少し湿らせてしまい、印字が移った。前からベランダに置かれていた袋なら、内側の転写はできない。内側が湿るのは、直近の作業。昨夜の遅い時間。第一水曜の前夜。
山崎にそれを伝えると、彼は顎に手を当てて笑った。
「新名さん、君は袋の法医学者だな」
「ごみの袋は、生活の皮膚です」
「ならば、袋は昨夜詰められた。乾電池は本来出せない日なのに外に出された。甲斐は、六時三十四分にチャイムが鳴ることを“見せた”。そして、濁点は小さい」
山崎は座っていた椅子を引き、立ち上がった。
「逮捕状を請求する。決め手は時間だ。六時の“見せかけの目覚め”は、六時三十四分の演出。演出家は犯人だ。練炭は彼女名義だが、扇風機のリモコンから彼の指紋が新しく出た。換気のために扇風機を回していた。練炭の火に酸素を送り、早く一酸化炭素濃度を高めるために」
私は目を伏せた。扇風機。冬に不自然な風。死を早める優しい風。扇風機は、夏には涼しい。冬には——冷たい。どちらにせよ、人は風を信じる。目に見えないものを信じる。音も、風も。
「ありがとう、新名さん。君の“濁点”が、点を打った」
「いえ。打たれたのは、誰かの生活の句点です」
私は、透明袋の結び目を思い出した。角の路地の、結びの甘さ。人の終わりかたには、いつもどこか、結びが甘いところがある。結び直したところで、ほどく力には勝てない。
けれど、ほどかれた結びを見つけるのが、きっと今の私の仕事だ。
*
翌朝、私はまた路地の角に立っていた。オレンジベストの胸に、昨日の息がまだ残っている気がした。カラス避けネットの向こうで、透明袋が風にわずかに鳴った。私はしゃがみ、結び目を解いて、ぎゅっと固く結び直した。袋越しに見える、割れた皿の縁が白く光る。乾電池は一本も入っていない。濁点は、大きく、くっきりしている。「鈴木」とはっきり書かれていた。書いた人は、自分の名をはっきりと、ここに出すことに、迷いがない。
遠くで、低い唸りがする。ごみ収集車が近づいてくる。朝は始まる。昨日も、今日も、明日も。私は結び目を指で確かめ、立ち上がった。そして、自分の胸の中の結び目に、そっと指をかけた。ほどけそうなところはないか。甘いところはないか。昨日の彼女の部屋の白い灰が、胸のどこかに薄く降り積もったように感じられたからだ。
車が止まり、運転手が私に目配せする。私は頷いた。袋を抱え、金属の口の中へ押し入れる。がらりと音がして、暮らしの欠片が飲み込まれる。私は残ったネットをかけ直し、路地を見渡す。風は、静かに通り抜けていく。
スマートスピーカーのチャイムはもう鳴らない。防災無線も今日はまだ止まっている。静けさは嘘をつかない。嘘をつくのは、音のほうだ。私はそう思いながら、次の角へと歩いた。
途中、小さな女の子が母親の手を引きながら、私の足もとに近づいてきた。女の子は、紙袋を胸に抱えている。折り紙で作った花が入っていた。彼女は恥ずかしそうに私を見上げた。
「これ、燃えるごみ?」
私は少し笑ってから、膝を折った。
「うん、燃えるごみ。でも、きれいだから、もう少しだけ、家に飾ってからでもいいよ」
女の子は目を丸くし、そして、花を見た。彼女の母は、黙って微笑んだ。私は立ち上がり、二人の背中を見送った。袋の結びも、花の形も、人の手が決める。人の手がほどく。人の手が、ある朝、結んだものが、ある夜、ほどけるかもしれない。けれど、その間の一日一日を、私は見ている。名前の濁点も、乾電池の向きも、扇風機の位置も。そういう細部で、人の嘘は破れる。あるいは、人の真実が残る。
詰所に戻ると、机の上に山崎からの封筒があった。薄い紙に、短い便り。「あの“濁点”は、決め手の一つになった。ありがとう」。便りはそれだけだった。私は封筒を裏返した。返送先の筆記体の「Y」は、濁点よりもずっと大きかった。私は笑い、封筒を引き出しにしまった。
昼、私は団地の近くの定食屋に入った。カウンター越しにおばちゃんが声をかける。
「今日も早いね、不燃?」
「はい。乾電池は第二と第四だけですよ」
「知ってるよ。あんたから聞いたんだから」
笑い合ったあと、私は味噌汁をすすった。湯気が、冬の扇風機の風を思い出させ、白い灰の色を薄めていく。人は、結び直せる。すべてではないけれど、いくつかは。
午後の巡回に出る前、私は備品のノートに、いつものように書き込む。「袋の結び、良好。乾電池、適正。記名『鈴木』、濁点くっきり」。書いたあと、ペン先を止めた。濁点、と書きながら、私は再び伊達の字を思い出す。小さな濁点。声を潜めるような濁点。あれは、ためらいの記号だったのかもしれない。名を晒すことへのためらい。自分がそこにいたことへのためらい。あるいは——自分がそこにいなかったと嘘をつくためらい。
ノートを閉じ、私はベストのファスナーを上げた。外に出ると、風は少し強くなっていた。風は、結び目を試す。甘い結びは、ほどける。固い結びは、形を変える。私は歩き出しながら、自分の胸の中の結びを固くした。ほどけないように。何かを見逃さないように。音に騙されないように。
遠くで、また低い唸りがした。私の一日は、もう一度、始まるところだった。
その朝もやはり、ひとつだけ結び目が斜めに歪んだ透明袋が、カラス避けネットの外側に出ていた。私はしゃがみこんで、ひと目でわかる異物を探した。可燃と混じった不燃があれば、回収できない。袋の外から読むと、インクの滲んだ油性マジックで「伊達」と記名がある。うちの区は、記名任意だが、近年は記名率が上がった。袋越しに見えた中身は、割れた陶器と、金属製の鍋つかみ、そして乾電池。乾電池の向きがやけに揃っている。私は袋の口を一度ほどき、空気を抜いて固く結び直す。手の中で、誰かの生活が一束になっていく感じが好きだった。
団地棟の二階、伊達の表札のある部屋の前には、青いサンダルが揃っていた。私は、前の週に見た若い男の顔を思い出していた。彼は引っ越してきたばかりで、私たちが収集に入った時、寝癖のまま出てきて「こういうの、どの袋ですか」と聞いた。「それは資源ごみですね」と答えた私に、男は恥ずかしそうに笑って「むずかしいな」と言った。名前は甲斐。表札の横のポストに、一度だけ彼の名字を見た。伊達は、同じ部屋に住む女の名字だろう。二人は同棲だ。窓辺の乾いた洗濯ばさみや、ベランダの植木鉢がそう教えた。
午前六時。いつもなら防災無線の試験放送が流れる時刻。だが、その週は流れなかった。先週の台風でスピーカーの配線が一部落ち、復旧作業が続いているからだ。私は課の掲示で知っていた。静かな朝は、いつもより音が硬い。ごみ収集車が角を曲がってくる低い唸りだけが、遠い雷のように響いてきた。
その収集が終わり、詰所に戻ったのは八時過ぎだった。アルミの長机の上に置かれた水筒の蓋をひねりながら、私は備品のノートに、今朝の気づきを走り書きした。乾電池の向きが揃っていたこと。透明袋の記名の書き方が、どこか変だったこと。丸が少し大きく、濁点が限りなく小さい。「伊達」の「達」の濁点が、虫の足のように薄い。書き慣れない字の書き慣れない濁点。私はそんなところに目がいく自分に苦笑した。収集課に入って三年、私は市役所の中でも、字を見て人となりを思う癖を持った少数派になっていた。
九時、電話が鳴った。詰所のスピーカーから、警察署の落ち着いた声が流れる。「西浜団地二丁目、二〇四号室で変死体。住人の伊達ゆかりさん、二十七歳。練炭による一酸化炭素中毒の疑い。収集の時間帯に近いので、何か気づいたことがあれば」
私の背中に冷たいものが落ちた。二〇四号室。あの透明袋の部屋だ。
昼過ぎ、課長の指示で私は署に向かった。応接室に通されると、刑事課の山崎が立っていた。年配だが目が若い。市役所から転じて嘱託でうちの課の安全講習を何度かしてくれたこともある。今日の彼は刑事側の顔だった。
「来てくれてありがとう、新名さん」
私は頭を下げ、今朝のことを話した。袋の結び、乾電池、記名の濁点。自分でも少し場違いな細かさだと感じながらも、口が勝手に動いた。山崎は遮らなかった。むしろ、前のめりに椅子から肘を浮かせ、断片を拾い上げるように聞いた。
「住人の彼氏が通報者だ。甲斐という。昨夜、言い争いをしたが、彼は出ていき、朝六時の防災無線で目覚めて戻ってきた、と言っている」
「防災無線、今週は止まっているはずです」
自分の声が少し高く跳ねた。山崎はうなずく。
「そう。だから彼の話は矛盾している。だが彼は、『スマートスピーカーに六時のチャイムを設定してある』と言い、実際に家の機械は朝六時きっかりに『ふるさと』を流していた。防災無線ではなく、家のスピーカーの音だ、と言い張っている」
私は甲斐の眠そうな笑顔と、今朝の袋の結びの甘さを思い出した。スマートスピーカーなら、防災無線が止まっていても、六時には鳴る。アリバイは再び、音で自己修復されたことになる。
「じゃあ、彼は本当に六時に起きたのかもしれない。でも——」
でも、何だ。私の頭の奥で、ごみ車の走行ルートが地図の上に浮かぶ。今日の不燃ごみは、西浜団地はいつ通った? 私は自分の腕時計を見た。八時五分に詰所に戻った。団地は最初のルートだ。六時半には、あの角にいた。乾電池の入った袋は、そのときすでにネットの外に出ていた。だとすれば、袋は六時以前に出されたことになる。
私は、現場の写真を見せてもらえないかと頼んだ。山崎は一瞬迷い、肖像の映る部分を外した広角の写真を数枚見せた。六畳の居室にこたつ、壁際にレンジ台、窓の近くに小さな練炭の火鉢。火は消えているが、白い灰が縁に固まり、その向こう、布団の上に女の姿。口元に吐瀉の跡はない。苦しまずに眠るように往ったのだろう。練炭の灰が「新しい」白さだ。床には、空気の通り道を作るためにドアの隙間に挟まれたスポンジが残っている。典型的な一酸化炭素中毒の現場写真。しかし私は、一枚の隅に目を止めた。
台所の隅、レンジ台の下のかご。透明袋が一つ。中には、使い切ったカセットボンベと、何本もの乾電池。袋の口はほどかれ、転がり出た電池が床で止まっている。乾電池の向き——あの路地角の袋と同じ、+側がひとつの方向に揃っている。
「袋を二つに分けたんですか?」
「何が?」
「不燃ごみの袋。台所の袋と、路地角にあった袋。同じ人がまとめた手つきです。向きを揃える癖はなかなか出ない。しかも、台所の袋は“資源”用の黄色が混じっている。資源袋は火曜。今日は水曜。不燃ごみ。混ぜています」
山崎は写真を拡大し、ふっと鼻から息をもらした。
「資源と不燃の取り違えか。だが、それと事件はどう繋がる」
「乾電池の回収は、第二と第四の水曜に限られます。今日は第一水曜。乾電池は出せない日です。なのに、路地角の袋には乾電池が入っていました。つまり——誰かは、乾電池を急いで外に出したかった」
私の声は次第に早口になった。甲斐の言葉がよみがえる。「むずかしいな」。難しいから、メモでも見たのだろう。それとも、誰かが急いで、出してしまったのだろうか。急いで、何を隠そうとした?
「練炭の灰の白さが“新しい”と感じたのは、換気の仕方が不自然だからかもしれません。火鉢のそばに、扇風機がある。冬に、扇風機」
写真の隅の立て札のような影を指し示すと、山崎は苦笑した。
「推理は嫌いじゃないが、扇風機の存在だけで何かは言えない」
「わかっています。ただ、乾電池です。あの揃えられた向きは、きっと甲斐さんの手。路地角の袋の記名『伊達』の濁点が小さすぎた。濁点は、書き慣れない人が小さく、控えめに打つ癖がある。女の『伊達』ではなく、男の『伊達』」
山崎は目を細めた。彼は、私の変な癖を以前から知っている。
「つまり、新名さんは、甲斐が朝六時以前に部屋にいて、不燃ごみの袋を出した、と見ている?」
「はい」
「しかし彼は、スマートスピーカーのアラームで六時に起き、六時二十分に部屋に戻って彼女を発見した、と言っている。部屋には彼の指紋もある。だが同棲なら当然だ。加えて、練炭の購入記録は彼女名義。行為の準備に彼の介在は見えない」
私は黙り込んだ。乾電池の向き、袋の結び、濁点。そういうものは状況を語るが、決め手にはならない。決めるのは、時刻。時間は嘘をつかない。嘘をつくのは、人だ。
「回収車のドラレコ、ありますよね」
言いながら、私は自分の指先が震えているのを見た。
「朝六時三十四分に、西浜団地の角で、私はあの袋を結び直した。ドラレコには、私がしゃがんでいる背中が映っているはずです。音も入る。遠くでチャイムが鳴ったら、それも入る。防災無線ではなく、家の中のチャイムなら——」
「路上にいた君の耳には届かない?」
「いえ、届きます。団地の廊下は外廊下で、窓も薄い。ただ、防災無線の『ふるさと』と、スマートスピーカーの『ふるさと』は、音色が違う。ドラレコは低音に強いマイクです。でも、聞き慣れていればわかる」
山崎は、勘定するように指を折った。
「ドラレコ、確認する価値はあるな。『六時に起きた』という甲斐の言葉が、自動の音によって成立しているのか、人の手で成立させられたのか。もうひとつ、新名さん——乾電池の件、どう決め手にする?」
「乾電池の回収日。第一水曜は不可。彼は“今日が乾電池の日だ”と勘違いしていたか、“今日に限って出さねばならない理由があったか”のどちらかです。前者なら単なる無知、後者なら操作の意図」
山崎は椅子から立ち上がった。
「ドラレコの映像と音、自治体の放送記録、そして——袋。現物は残っているか?」
「詰所に保管しています。結び直した袋は回収しましたが、乾電池が混じっているので、分類のために積み分けた場所に」
「それを押収させてくれ。記名の文字を筆跡鑑定に回す。濁点の話は面白い。警察は案外そういうところに盲目だ。新名さん、協力を頼む」
私は頷いた。人の生活の結び目に触れている者として、ほどくべき結びを見つける、その役目を引き受けるべきだと思った。
*
ドラレコの記録は、午後のうちに確認された。映像は、六時三十三分五十秒、西浜団地の角にゆっくり寄せる車体の揺れから始まる。助手の私が飛び降り、カラス避けネットをめくり、袋を一点確認して結び直す。六時三十四分十八秒、遠くから音楽が聞こえ始める。「ふるさと」。しかし、低音のベースが豊かで、最後の小節でエコーがかかる。防災無線のものではなく、スマートスピーカーの音色だ。鳴っている源は、道路に向いた開き戸の隙間から、微かに漏れている。団地二〇四号室の方向だ。
音は六時三十四分ちょうどに鳴り始め、約三十秒で止む。甲斐が言う「六時に起きた」は、六時三十四分に鳴った音に引きずられた可能性が高い。つまり、彼は六時以前に部屋に居たのだ。スマートスピーカーの時刻設定を間違えたのか。いや、もっと単純だ。甲斐は六時に目覚めたことにしなければならなかった。だから、わざと六時三十四分に鳴るように設定した。私たちが団地の角に来る時間に合わせて。車の音が近づき、私がしゃがむ時間帯に合わせて。「証人」の前でチャイムが鳴ることを狙って。
ならば、なぜ六時三十四分を知っていた? 答えは簡単だ。彼は、先週の水曜日にも、私たちの収集を見ている。引っ越してきたばかりで分別がわからず、路地角で話しかけてきた時、彼は腕時計を気にしていた。時間に神経質な人だ。先週のドラレコの記録も参照され、同じ時刻に車が角に差し掛かったことが確認された。収集ルートは工事や事故がない限り、数分単位で同じだ。
だが、もうひとつの問題、練炭のことが残る。購入記録が彼女名義なら、彼の直接の関与は弱くなる。山崎は調べを進め、すぐに一枚のレシートを持ってきた。コンビニのもの。三日前の夜、伊達ゆかりが単身で購入。だが、レシートには、彼女の電子マネーではなく、現金。いつもは電子マネーを使うのに、その日に限って現金。監視カメラでは、背後に甲斐がいる。商品を選ぶのは彼女だが、会計の直前に何か囁かれ、彼女は早口で頷く。甲斐の指は、商品のバーコードを指し示している。
動機は、借金。賃貸契約は彼女名義、カードローンは彼の借り入れ。彼女が同棲解消を言い出したという近所の証言も集まる。彼は、泣き出しそうな声で否定した。六時に起きた、と繰り返した。スマートスピーカーが証言してくれる、とも。
私は、押収された袋を見た。濁点はやはり小さい。乾電池は、すべて+側が右を向いている。私はふと、袋の内側を覗き込んだ。透明袋の内側に、薄い赤の影が反転して滲んでいる。「回収日 第二・第四水曜 乾電池」。袋の外側に印字された赤い注意書きが、湿気か何かで内側に転写してしまったらしい。転写は、どこか一点だけが濃い。私は、その濃い部分に指を当てた。ちょうど「第二」の「二」のあたり。内側に、小さな擦過傷のようなキズがある。電池の角で擦れてできたのだろう。乾電池を入れ、出し入れするうち、印字が内側に触れ、転写された。つまり——袋は、つい昨夜、濡れた手で触られたのだ。台所で水仕事をしたあと、急いで乾電池を詰めた手が、袋の内側まで少し湿らせてしまい、印字が移った。前からベランダに置かれていた袋なら、内側の転写はできない。内側が湿るのは、直近の作業。昨夜の遅い時間。第一水曜の前夜。
山崎にそれを伝えると、彼は顎に手を当てて笑った。
「新名さん、君は袋の法医学者だな」
「ごみの袋は、生活の皮膚です」
「ならば、袋は昨夜詰められた。乾電池は本来出せない日なのに外に出された。甲斐は、六時三十四分にチャイムが鳴ることを“見せた”。そして、濁点は小さい」
山崎は座っていた椅子を引き、立ち上がった。
「逮捕状を請求する。決め手は時間だ。六時の“見せかけの目覚め”は、六時三十四分の演出。演出家は犯人だ。練炭は彼女名義だが、扇風機のリモコンから彼の指紋が新しく出た。換気のために扇風機を回していた。練炭の火に酸素を送り、早く一酸化炭素濃度を高めるために」
私は目を伏せた。扇風機。冬に不自然な風。死を早める優しい風。扇風機は、夏には涼しい。冬には——冷たい。どちらにせよ、人は風を信じる。目に見えないものを信じる。音も、風も。
「ありがとう、新名さん。君の“濁点”が、点を打った」
「いえ。打たれたのは、誰かの生活の句点です」
私は、透明袋の結び目を思い出した。角の路地の、結びの甘さ。人の終わりかたには、いつもどこか、結びが甘いところがある。結び直したところで、ほどく力には勝てない。
けれど、ほどかれた結びを見つけるのが、きっと今の私の仕事だ。
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翌朝、私はまた路地の角に立っていた。オレンジベストの胸に、昨日の息がまだ残っている気がした。カラス避けネットの向こうで、透明袋が風にわずかに鳴った。私はしゃがみ、結び目を解いて、ぎゅっと固く結び直した。袋越しに見える、割れた皿の縁が白く光る。乾電池は一本も入っていない。濁点は、大きく、くっきりしている。「鈴木」とはっきり書かれていた。書いた人は、自分の名をはっきりと、ここに出すことに、迷いがない。
遠くで、低い唸りがする。ごみ収集車が近づいてくる。朝は始まる。昨日も、今日も、明日も。私は結び目を指で確かめ、立ち上がった。そして、自分の胸の中の結び目に、そっと指をかけた。ほどけそうなところはないか。甘いところはないか。昨日の彼女の部屋の白い灰が、胸のどこかに薄く降り積もったように感じられたからだ。
車が止まり、運転手が私に目配せする。私は頷いた。袋を抱え、金属の口の中へ押し入れる。がらりと音がして、暮らしの欠片が飲み込まれる。私は残ったネットをかけ直し、路地を見渡す。風は、静かに通り抜けていく。
スマートスピーカーのチャイムはもう鳴らない。防災無線も今日はまだ止まっている。静けさは嘘をつかない。嘘をつくのは、音のほうだ。私はそう思いながら、次の角へと歩いた。
途中、小さな女の子が母親の手を引きながら、私の足もとに近づいてきた。女の子は、紙袋を胸に抱えている。折り紙で作った花が入っていた。彼女は恥ずかしそうに私を見上げた。
「これ、燃えるごみ?」
私は少し笑ってから、膝を折った。
「うん、燃えるごみ。でも、きれいだから、もう少しだけ、家に飾ってからでもいいよ」
女の子は目を丸くし、そして、花を見た。彼女の母は、黙って微笑んだ。私は立ち上がり、二人の背中を見送った。袋の結びも、花の形も、人の手が決める。人の手がほどく。人の手が、ある朝、結んだものが、ある夜、ほどけるかもしれない。けれど、その間の一日一日を、私は見ている。名前の濁点も、乾電池の向きも、扇風機の位置も。そういう細部で、人の嘘は破れる。あるいは、人の真実が残る。
詰所に戻ると、机の上に山崎からの封筒があった。薄い紙に、短い便り。「あの“濁点”は、決め手の一つになった。ありがとう」。便りはそれだけだった。私は封筒を裏返した。返送先の筆記体の「Y」は、濁点よりもずっと大きかった。私は笑い、封筒を引き出しにしまった。
昼、私は団地の近くの定食屋に入った。カウンター越しにおばちゃんが声をかける。
「今日も早いね、不燃?」
「はい。乾電池は第二と第四だけですよ」
「知ってるよ。あんたから聞いたんだから」
笑い合ったあと、私は味噌汁をすすった。湯気が、冬の扇風機の風を思い出させ、白い灰の色を薄めていく。人は、結び直せる。すべてではないけれど、いくつかは。
午後の巡回に出る前、私は備品のノートに、いつものように書き込む。「袋の結び、良好。乾電池、適正。記名『鈴木』、濁点くっきり」。書いたあと、ペン先を止めた。濁点、と書きながら、私は再び伊達の字を思い出す。小さな濁点。声を潜めるような濁点。あれは、ためらいの記号だったのかもしれない。名を晒すことへのためらい。自分がそこにいたことへのためらい。あるいは——自分がそこにいなかったと嘘をつくためらい。
ノートを閉じ、私はベストのファスナーを上げた。外に出ると、風は少し強くなっていた。風は、結び目を試す。甘い結びは、ほどける。固い結びは、形を変える。私は歩き出しながら、自分の胸の中の結びを固くした。ほどけないように。何かを見逃さないように。音に騙されないように。
遠くで、また低い唸りがした。私の一日は、もう一度、始まるところだった。



