雨音が、心臓のリズムを乱すメトロノームのように、旧校舎の窓を叩いていた。
1 雨の合図
放課後。
傘を忘れた生徒たちが昇降口でざわめいている。
灰色の雨脚は途切れず、地面を白く叩き続ける。
俺はポケットの中で指を軽く動かす。
——コツ、コツ。
机を叩くときと同じリズム。
隣で傘を差し出す湊も、小さく指を二度動かした。
「届いてる」
「……うん」
二人で一本の傘を差し、校庭を横切る。
雨粒が透明な膜になり、外界の音を遠ざける。
ただ、心臓の音と、湊の呼吸だけが近い。
「旧校舎裏だろ」
「……ああ」
「俺が先に行く。君は見える場所から、合図」
「了解」
短い会話で、準備は整った。
“半分こ”のルール通りに。
2 旧校舎の影
旧校舎は、昼でも薄暗い。
木の窓枠は雨を吸い、黒く濡れている。
裏手は人の気配がなく、雨だまりが広がっていた。
湊は俺を木陰に残し、自分は傘を閉じて進む。
靴底が水を踏む音が響く。
俺は呼吸を潜めて見守る。
「呼んだのは、お前か」
湊の声が、雨に溶けた。
その向こう、雨だまりを挟んだ場所に、傘も差さずに立つ人影がある。
顔は見えない。
スマホを片手に掲げている。
「……証拠なら、出せばいい」
湊の声が硬くなる。
「ただし、その前に聞け。
それで救われるやつがいるのか。
誰かの生き延びを奪わないって、言えるか」
影は笑ったように肩を揺らし、スマホをポケットに戻した。
そして、こちらを一瞬だけ振り返る。
目が合った気がした。
その視線は冷たく、でもどこか楽しんでいる。
俺の指が震える。
机を叩く代わりに、木陰で——コツ、コツ。
合図。
湊がすぐに反応する。
こちらへ後退しながら、視線は影から逸らさない。
影は追ってこない。
ただ、立ち尽くしたまま雨に溶けていく。
3 逃げ道
俺と湊は校舎の角を曲がり、駆け足で昇降口へ戻る。
雨で冷えた空気が肺を焼く。
安全圏に入ったところで、湊が小さく笑った。
「……合図、役立ったな」
「うん。俺も、怖くなかった」
「“無事”」
「……“半分こ”」
二人だけに通じる言葉が、心臓を整えていく。
4 音楽室での呼吸合わせ
翌日。
俺たちは再び音楽室に集まった。
昨日の雨の残り香が廊下に漂っていた。
「録音、されてたかもしれない」
俺は小声で切り出す。
「でも、匿名のままだ。……まだ、名前も顔も出ていない」
「大丈夫。俺がそばにいる」
湊はピアノ椅子に座り、鍵盤に手を置いた。
拙い指で、ゆっくりと和音を重ねる。
昨日より安定している。
俺の呼吸も、自然とそのテンポに合わせて深くなる。
「音はさ、嘘つけない」
「うん」
「だから君の声は、仮面じゃなくて、もう本物」
「……」
「俺はそれを、ずっと信じる」
言葉の重さが、音楽室に沈む。
俺は頷くしかできなかった。
5 最後の引き
下校の時間。
廊下の掲示板に、また一枚の紙が貼られていた。
インクジェットで印刷された文字。
【“ユナ”の声の正体。次は公開する】
教室がざわつく前に、俺と湊は目を合わせた。
彼の瞳は、恐怖を呑み込んでいた。
そして小さく、唇が動く。
——「無事」
俺も、机を指で二度叩く。
——コツ、コツ。
秘密は揺らぎ始めた。
でも、俺たちの合図は確かに繋がっている。
雨に濡れた影はまだ輪郭しか見せない。
けれど、その影を照らす灯火は、もうふたりの手の中にあった。
1 雨の合図
放課後。
傘を忘れた生徒たちが昇降口でざわめいている。
灰色の雨脚は途切れず、地面を白く叩き続ける。
俺はポケットの中で指を軽く動かす。
——コツ、コツ。
机を叩くときと同じリズム。
隣で傘を差し出す湊も、小さく指を二度動かした。
「届いてる」
「……うん」
二人で一本の傘を差し、校庭を横切る。
雨粒が透明な膜になり、外界の音を遠ざける。
ただ、心臓の音と、湊の呼吸だけが近い。
「旧校舎裏だろ」
「……ああ」
「俺が先に行く。君は見える場所から、合図」
「了解」
短い会話で、準備は整った。
“半分こ”のルール通りに。
2 旧校舎の影
旧校舎は、昼でも薄暗い。
木の窓枠は雨を吸い、黒く濡れている。
裏手は人の気配がなく、雨だまりが広がっていた。
湊は俺を木陰に残し、自分は傘を閉じて進む。
靴底が水を踏む音が響く。
俺は呼吸を潜めて見守る。
「呼んだのは、お前か」
湊の声が、雨に溶けた。
その向こう、雨だまりを挟んだ場所に、傘も差さずに立つ人影がある。
顔は見えない。
スマホを片手に掲げている。
「……証拠なら、出せばいい」
湊の声が硬くなる。
「ただし、その前に聞け。
それで救われるやつがいるのか。
誰かの生き延びを奪わないって、言えるか」
影は笑ったように肩を揺らし、スマホをポケットに戻した。
そして、こちらを一瞬だけ振り返る。
目が合った気がした。
その視線は冷たく、でもどこか楽しんでいる。
俺の指が震える。
机を叩く代わりに、木陰で——コツ、コツ。
合図。
湊がすぐに反応する。
こちらへ後退しながら、視線は影から逸らさない。
影は追ってこない。
ただ、立ち尽くしたまま雨に溶けていく。
3 逃げ道
俺と湊は校舎の角を曲がり、駆け足で昇降口へ戻る。
雨で冷えた空気が肺を焼く。
安全圏に入ったところで、湊が小さく笑った。
「……合図、役立ったな」
「うん。俺も、怖くなかった」
「“無事”」
「……“半分こ”」
二人だけに通じる言葉が、心臓を整えていく。
4 音楽室での呼吸合わせ
翌日。
俺たちは再び音楽室に集まった。
昨日の雨の残り香が廊下に漂っていた。
「録音、されてたかもしれない」
俺は小声で切り出す。
「でも、匿名のままだ。……まだ、名前も顔も出ていない」
「大丈夫。俺がそばにいる」
湊はピアノ椅子に座り、鍵盤に手を置いた。
拙い指で、ゆっくりと和音を重ねる。
昨日より安定している。
俺の呼吸も、自然とそのテンポに合わせて深くなる。
「音はさ、嘘つけない」
「うん」
「だから君の声は、仮面じゃなくて、もう本物」
「……」
「俺はそれを、ずっと信じる」
言葉の重さが、音楽室に沈む。
俺は頷くしかできなかった。
5 最後の引き
下校の時間。
廊下の掲示板に、また一枚の紙が貼られていた。
インクジェットで印刷された文字。
【“ユナ”の声の正体。次は公開する】
教室がざわつく前に、俺と湊は目を合わせた。
彼の瞳は、恐怖を呑み込んでいた。
そして小さく、唇が動く。
——「無事」
俺も、机を指で二度叩く。
——コツ、コツ。
秘密は揺らぎ始めた。
でも、俺たちの合図は確かに繋がっている。
雨に濡れた影はまだ輪郭しか見せない。
けれど、その影を照らす灯火は、もうふたりの手の中にあった。



