音楽室の鍵が回る音は、秘密の部屋へ沈む心拍のリズムに、よく似ていた。

1 音楽室の窓

チャイムが遠のいたあと、校舎のいちばん奥にある音楽室の扉を開ける。
木の床はほどよく乾いて、チョークとワックスの混じった匂いがした。
窓の外、夕陽が斜めに差して、グランドピアノの黒い天板に長い光の線を引く。

「——来た」

朝霧湊が、ピアノ椅子の端に腰掛けていた。
制服のネクタイをゆるく外し、胸ポケットに指を差し入れて呼吸を整えている。
俺を見ると、柔らかく目尻がほどけた。

「待った?」
「待ってた。けど、ちょうど良い時間」

ドアを閉め、鍵を回す。
カチ、と小さな金属音。
それだけで、世界の密度が一段階変わった気がした。
逃げ道は、やさしく塞がれている。
——でも、進める。

「……話そう」

湊は頷き、ピアノ椅子を半分空けてくれた。
座ると、肩が触れそうで触れない距離になる。
グランドピアノの黒が夕陽を抱き込んで、部屋の空気を温めていた。

「昨日の、続き」

湊は、フェンス越しの夕風みたいな声で言った。
「君は、ユナなの?」

心臓が一度だけ跳ね、落ち着いた。
ここで「はい」と言えば、全部、近道になる。
だけど、近道は、ときに橋を落とす。

「……答える代わりに、約束の話をしていい?」
「うん」
「俺が“言えるときに言う”ための、約束」

湊はわずかに目を細め、笑った。
「君らしい」

2 境界線の地図

ピアノの譜面台に、俺はポケットから取り出したメモを広げる。
一行ずつ、丁寧に書いた線。
“言葉のルール”“距離のルール”“外の世界のルール”。

「まず、“言葉”」
俺は指で行をなぞる。
「“好き”は、軽く言わない。
 でも、“助かる”“無事”“ありがとう”は、いつでも言っていい。
 この三つは、命綱だから」

湊は真剣に聞く。
「次、“距離”」
「……」
「人前で触れない。二人のとき、必要なときだけ“支える”はOK。
 支えられるのが俺、支えるのが君、という役割を固定しない。半分こ」

湊の喉ぼとけが、静かに上下する。
「最後、“外の世界”」
「うん」
「俺は匿名で声の仕事をしてる“かもしれない”。
 その“かもしれない”を、君は守る。
 ——証拠を積んでも、確証にしないで、待つ」

言いながら、喉の奥が熱くなる。
ずるい。俺のルールは、君に“待って”と言い続けるための地図だ。
それでも湊は、頷いた。

「全部、守れる」
「ほんとに?」
「うん。だって、それを守った先の“君”が、俺は欲しい」

“欲しい”。
短くて重い、欲望の文法。
けれど、下品さは一切なく、まっすぐで、清潔だ。
俺は、譜面台のメモの余白に一本の線を引く。
“半分こ”の矢印。
湊の指が、その余白にそっと触れた。

「……俺からも、ひとつ」
「なに」
「“好き”は、いつか君が受け取れる形で、ちゃんと言う。
 今日じゃなくていい。君の“言える時”に合わせる。
 でも、その時が来るまで、俺の態度で示す」

態度。
それは、俺がいちばん信じられる証拠だ。
言葉より先に、救ってきたもの。

「……ありがとう」

声に出すと、胸骨の裏で何かがゆっくりほどけた。
同時に、スマホが震える。
現実は、タイミングを選ばない。

3 混線

画面に、見慣れないアカウント名。
《匿名: “文化祭アカの文体=ユナの台本”。一致率、出してみたら?》
続いて、画像。
文化祭SNSの初投稿と、ユナの過去ポストからの抜粋。
「今日も生き延びた人、えらい」
同じフレーズ。
(——やばい。やばい、けど、正面からは来ない)

湊が覗き込まないよう、目だけで「大丈夫」を送る。
彼は俺の顔色を読むのが上手い。
「……外?」
「うん。脅しに近い“忠告”」
「対処は?」
「スクショ、時刻、URL。迅に投げて、警察窓口の記録に追加」

言いながら、手は正確に動く。
湊は、俺の左手甲にそっと指を置く。
“支える”のジェスチャー。
(やめろ。落ち着く)
(落ち着くけど、落ち着きたくなる)

「……続けよう」

譜面台のメモに視線を戻す。
“言葉”“距離”“外の世界”。
その全部を守ったうえで、君と“次”へ進む方法。

俺は、笑ってみせる。
「次——“合図”を作ろう」

「合図?」
「無言で“助けて”を伝えるサイン。
 指先二回、机を“コツ、コツ”。
 これを聞いた方が、先に動く。
 過剰防衛しない。逃げる練習をする」

湊は、指でピアノの脇を軽く叩く。
コツ、コツ。
練習なのに、心臓がそれに合わせて少しゆっくりになった。

「それと——“秘密の合言葉”。
 誰でも言いそうで、君しか言わない言い方。
 俺は『半分こ』にする」

湊が笑う。
「じゃあ、俺は『無事』」
「短いね」
「短いほうが助かる」

フレーズは短く、意味は重く。
俺たちのやり方だ。

4 “仮面”のピアノ

「……弾いてもいい?」
湊がふいに訊く。
「ピアノ」
「弾けるの?」
「下手だけど。君が息を整える間、音を整える」

“音を整える”。
好きな言い方だ。
湊は拙い指で「きらきら星」を弾き始める。
つっかえつっかえ、でも真面目なリズム。
俺は数拍で呼吸を合わせ、“間”をピアノに預けた。
心拍が落ちる。
視界の縁が、やっと静かになる。

「……ありがと」
「半分こ」

鍵盤の白と黒。
ユナと陽。
仮面と素顔。
どちらが“偽物”でどちらが“本物”かは、もう重要じゃない。
二つが交代で支え合えばいい。

「俺は、仮面をやめるために仮面をつけたんだと思う」
思わず漏れた独白に、湊は鍵盤から目を離して、こちらを見る。
「どういうこと?」
「素顔のままだと、言えない言葉があった。
 “無事でいて”も、“生き延びろ”も、
 本当は俺が自分に言いたくて、でも自分では言えなかったから、
 ユナに言わせた。……そしたら、いつのまにか“本気”になった」

湊は、無言で最後の和音を押さえた。
濁りのない音が、夕陽の残光に溶ける。

「——本気の仮面、いいじゃん」
「いいの?」
「うん。君が君でいられるなら、なんでもいい。
 俺は、君の仮面も素顔も、同じくらい好きだ」

好き、がまた出た。
でも今度は、不思議と怖くない。
音楽室の壁にぶつからず、胸の中でじっと灯る。

5 雨の予報

二人で鍵を返しに行く廊下、掲示板の端の天気予報に目が止まる。
明日、雨。
湊が小さく笑った。

「雨の日は、傘、俺が持つ」
「俺も持つ」
「半分こで」
「半分こ」

校舎の出口で別れる前、湊が少し迷ってから言った。
「……“好き”は、まだ言わない。
 でも、態度で言う」
「うん」
「明日も生き延びよう」
「うん」

短い相槌。
それだけで、今日の重さが軽くなる。

——帰ろう。
——声を整えよう。
——“ありがとう”を、受け取れる形で受け取ろう。

6 配信の手前で

夜。
デスクのランプを落とし、マイクの前に座る。
タイトルを打っては消す。
《【ささやき】秘密は、守るためにある》
違う。強い。
《【ささやき】今日は、寄りかかる練習》
ちがう。ぼやける。
《【ささやき】半分こ》
……これだ。短いほうが助かる。

配信開始。
コメントの波。
“minato_”のアイコンが、自然に視界へ入る。

《今日は、半分こで》
「うん。半分こで」
「がんばりの半分、ここに置いて。……残りは、明日に回そう」
《受け取った。ありがとう》
「ありがとう、は、こっちの言葉」
《じゃあ、無事》

心臓が跳ねる。
俺たちの合言葉。
ユナの配信に、陽と湊の秘密が、静かに縫い付けられていく。
誰にも見えない、でも確かにそこにある糸で。

「……おやすみ、あなた。明日も無事で」

配信を切る。
世界が一段、暗くなる。
でも、怖くない。
息が整っている。
指先が静かだ。

7 封筒

机の端に置いていたノートの下から、白い封筒が滑り落ちた。
宛名なし。差出人なし。
胸がきゅ、と縮む。
開く。
写真。
学校の非常階段の踊り場。
俺が、誰かを追いかけて曲がる直前の一瞬。
——例の影とぶつかる直前。
裏面に、インクのにじんだ文字。

【明日の放課後、旧校舎裏。
 来なければ、“ユナ”の声を、投稿する。】

喉が冷たくなる。
“投稿する”——加工されれば、ピッチをいくら細工しても、癖は残る。
音を武器にしてきた俺は、音で撃たれる。
最悪の筋書きが、いちばん現実的だ。

深呼吸。
スクショ。
Exif。
封筒の紙質。
指紋——は、期待しない。
迅へ投げ、警察窓口の記録を追記。
(ひとりで行かない。行くなら、合図を決める。逃げ道を確保する)

スマホが震える。
湊。
《明日、雨。傘、俺が持つ》
《あと、放課後、少しだけ時間ある?》

ある。
でも、旧校舎裏がある。
言うべきか。
言わないべきか。
ルール。
“言えるときに言うための約束”。
——いま、言うべきだ。

《陽: 相談。旧校舎裏に“呼び出し”。匿名》
送る。
ほとんど間を置かず、返事。
《湊: 了解。半分こ》
《湊: 俺が先に見に行く。君は明るい場所から合図。コツ、コツ》
《湊: 逃げ道は俺が確保する。君は“無事”だけ考えろ》

胸の奥の震えが、別の温度に変わる。
怖い、はもうそこにある。
でも、支える手順も、もう揃っている。

——明日、雨。
——傘は半分こ。
——合図はコツ、コツ。
——“無事”。

8 雨の音、合図の音

窓の外で、最初の雨粒がガラスを叩いた。
コツ。
もう一度。
コツ。

俺は無意識に、机を指で軽く叩き返す。
コツ、コツ。
合図は、届く。
明日、旧校舎裏で。
秘密を守るために。
“仮面の恋”を嘘にしないために。

——生き延びよう。
——“あなた”にも、“君”にも、同じ声で。