体育祭準備の横断幕に落とした一滴の色は、俺と湊の境界線をにじませていく――ユナと陽、二つの影が重なる音がした。
1 布の上の色
九月の風はまだ夏の名残を抱いていて、校庭の空気は熱気と汗で曇っていた。
体育祭準備のため、クラスごとの横断幕が並べられ、俺たちはその一角に座り込んでいた。
白布の上に刷毛を走らせ、赤と青を混ぜて紫を作る。
その紫は、自分の配信でよく使う“ユナカラー”に似ていて――笑ってしまいそうになる。
「佐倉、その色いいな」
隣から声。振り向けば、朝霧湊が刷毛を持ったまま覗き込んでいた。
陽の光で髪が金色に透け、汗で額が少し濡れている。
彼の指先が、俺の刷毛の柄に重なった。
「ちょ、朝霧……」
「ほら、こうやって支えると、ブレない」
二人で一つの刷毛を握る。
柄の感触よりも、指先の温度のほうが鮮明に伝わる。
心臓が、塗料の跳ねる音と一緒に跳ねた。
「見ろよ。やっぱり線がきれいに出る」
湊は満足げに笑う。
俺は苦笑いして首を振った。
「……俺ひとりでも描けるって」
「でも、二人でやったほうがいい色になる」
(……そう言うな。そう言われると、もう言い返せない)
2 観察する瞳
休憩時間、体育館の陰に腰を下ろす。
紙コップの麦茶はぬるいけど、喉を通ればすっと体が楽になる。
湊も隣に腰を下ろし、無言でストローを咥えていた。
「……なんだよ」
視線を感じて問いかけると、彼はさらりと答えた。
「観察」
「またそれかよ」
「だって、俺、好きなものしかちゃんと観察できないから」
ドクン、と音が胸に響いた。
“好きなもの”。
言葉の中に自分が含まれているのかどうか、確かめる勇気はなかった。
「佐倉って、嘘つくとき、ちょっと眉が動くよな」
「……」
「今日も、さっき横断幕の色を褒められたとき、ほんとは嬉しかったのに“そうでもない”みたいな顔してた」
(……やめてくれ。そこまで見られると、隠せなくなる)
ストローを強く噛んでごまかす。
湊はにやりと笑った。
「俺、そういうの見抜くの得意なんだよ」
「……悪趣味」
「趣味じゃない。好きだから」
またその言葉。
短くて、逃げ場を塞ぐみたいな一言。
顔をそむけた俺の耳まで、熱が広がった。
3 机の中のメモ
放課後。
自分の席に戻ると、机の上に一枚のメモが置かれていた。
震える字で書かれた一文。
【ユナの声=陽?】
目の奥が一瞬で冷たくなる。
心臓は逆に熱く跳ねた。
誰が書いたのか。
……筆跡を見ればわかる。
湊。真面目に板書を取る彼のノートと同じ癖。
(……気づいてる?)
確証は持たないようにしているのかもしれない。
でも、問いかけの形で残すあたり――彼のやさしさだ。
メモを丸め、ポケットに突っ込む。
けれど、指先に残る紙の角は、胸の奥で刺さったままだった。
4 雨の帰り道
夕方。
校門を出たとき、ぽつりと雨粒が落ちてきた。
あっという間に強くなり、傘を忘れた俺は立ち尽くすしかなかった。
「……入れ」
背後から声。
振り返れば、湊が傘を差し出している。
「……悪い」
「悪くない」
二人で傘を持つと、肩が触れた。
彼は少し傘を傾け、俺が濡れないようにして自分が余分に濡れる。
「朝霧、お前濡れてんじゃん」
「俺は平気」
「なんで」
「……得してるから」
「得?」
「こうして、近くにいられる」
耳の奥が熱くなり、言葉が出なかった。
湊は笑って、前を見続ける。
「佐倉の声って、雨に合うな」
「……は?」
「落ち着く。雨音が強くても、隣で喋ってるだけで呼吸が楽になる」
胸が痛いほど熱くなる。
それは“ユナ”として欲しかった言葉。
でも今は、“佐倉”としてもらってしまった。
「……変なやつ」
やっと絞り出したのはそれだけ。
彼は笑い、傘を少し寄せた。
5 夜の囁き(雨のつづき)
部屋の簡易ブースに入る。
吸音材に囲まれた小さな空間は、世界でいちばん自分の声が素直になる場所だ。
マイクの位置をミリ単位で調整し、ポップガードを指先で軽く叩いて共鳴を確かめる。
喉の奥にまだ少し雨の冷たさが残っている。温かい白湯を一口、舌の上で転がし、飲み込む。
タイトルを打ち込む。
《【ASMR】雨の夜、傘の中のきみへ/寄りかかって眠ろう》
配信ボタンを押すと、文字の川がいっせいに満ちてくる。
「通知助かる」「雨で心が湿ってた」「傘の中に入れてください(土下座)」……にぎやかな波の合間に、いつもの定位置。
“minato_”:
《今日も隣にいてくれる?》
昼の相合い傘が、音もなくよみがえる。
ユナの声で、ふっと笑う。
「もちろん。
ほら、肩。……うん、ここ固い。すー……はー……って、息を合わせよう。
雨の音ってね、心臓の音と同じテンポにすると、静かに聞こえるの。
だから私が、あなたの鼓動を少し、ゆっくりにするね」
マイクへほんの少し息を落とし、喉の奥で微かに息を丸める。
コメントの流速が緩やかになっていく。
“minato_”:
《不器用に寄りかかっても、笑わない?》
「笑わないよ。むしろ、不器用なほうが抱きしめやすい」
《じゃあ、今日は甘える。……ありがとう》
胸骨の裏側が温かくしびれる。
(ありがとう、って言うのはいつも俺の役目なのに)
ユナとして、言葉を返す。
「あなたが明日も無事でいられるように。……眠ろ」
配信を畳むと、世界が一段静かになった。
机の上のスマホが震える。
《湊: 今日の“肩”の話、効いた。寝られる》
《陽: おやすみ。呼吸、ゆっくり》
《湊: 了解。……生き延びる》
三つ目の言葉に、目蓋の奥が熱くなる。
(うん。生き延びよう。明日も)
6 SNSの一文
翌朝。
文化祭/体育祭合同アカウントの運用初日だ。
教室に入る前、廊下の掲示板に貼られたQRからアカウントを開く。
俺が昨夜下書きしておいた一文を、委員長が送信してくれていた。
【今日も生き延びた人、えらい。行事準備、いっしょにゆっくり。】
タイムラインを更新するたび、♡が小さく増えていく。
「この文、誰が書いたんだろ」「優しい」「救われた」の引用がいくつも連なる。
教室の空気に、見えないが確かな柔らかさが混ざる。
「佐倉、これお前の文だろ」
湊が笑ってスマホを突き出す。
「違うし」
「今、眉が動いた」
「……」
「ナイス一文。勝手に引用しといた」
「勝手に、って」
「責任は俺が取る」
「何の?」
「土下座とか?」
「誰に?」
「世界に」
(世界に土下座って、お前は)
笑いを堪え切れずに吹くと、湊が少しだけ得意そうに目を細めた。
教室のざわめきの中、二人だけ周波数を合わせるように笑う。
7 さざ波(噂)
三限が終わった頃。
廊下のむこうで、ひそひそとした声が重なった。
「朝霧、Vのガチ恋らしいよ」「ユナ?」「あの“あなた”の?」
「えー、王子様がガチ恋勢ってエモくない?」「なんか尊い」
「けど相手が実は男だったらどうする?」「バ美肉勢とか現実にいるし」
何気ない会話の刃が、風に混ざって入ってくる。
俺はノートに視線を落としたまま、シャープペンの芯をひとつ折った。
湊は、といえば――
いつもと同じ顔でプリントを配り、質問に答え、笑っていた。
その笑顔はふわっとやさしいが、ときどき、鈍い刃のような静けさが差す。
「あのさ」と、湊が隣の席の男子に穏やかに言う。
「“ガチ恋”って単語、軽く投げないでくれると助かる。……俺のは、ちゃんと本気だから」
空気が変わる。
強くない。怒鳴らない。
けれど、言葉の芯がまっすぐ通っているせいで、誰も茶化さなかった。
「ごめん」「悪かった」と小さく戻る声。
湊は笑って、首を振る。
「気にしてない。ありがとう」
背筋のどこかが熱くなる。
(守ってくれる。俺のことを、配信の“形”もろとも、丁寧に)
嬉しい。
その嬉しさが、同じくらい怖い。
8 境内のベンチ(願い)
放課後。
道具の片付けを終えた教室には、絵の具の匂いがまだ浮かんでいた。
窓を閉め、消灯。
「——帰るか」と言いかけたとき、湊が小声で言う。
「ちょっと、寄り道しない?」
連れられてきたのは、学校の裏手にある小さな神社。
夕方の風鈴が、涼しげに鳴る。
鳥居をくぐると、苔むしたベンチが一つ。
“願いが一つ叶うベンチ”なんて噂がある。誰が言い出したのか、知らないけど。
「座ろ」
二人で腰を下ろす。
木の匂いと、乾きかけの土の匂い。
風が通って、汗が引いていく。
「願い、ひとつだけ」
湊が、夕焼けを見ながら言う。
「……何を願うの」
「“無事”」
「……」
「俺の。君の。ほんとうは、みんなの。
でも欲張るから、まずは“君の”」
胸の真ん中が、すこし痛い。
(俺も、それを願ってる)
言葉にすると、こぼれてしまいそうで、喉で止める。
湊はポケットから小さな紙を出した。
折り畳まれたメモ。
そこには、丸い文字でこう書いてあった。
【“無事”】
それをベンチの横板の隙間にそっと押し込む。
「叶うといいな」
「叶うよ」
気づけば、自然に口から出ていた。
(叶えたい。……俺が叶えたい)
9 色の整音(いろのおと)
体育祭の横断幕は、今日で仕上げだった。
最後の仕上げは黒のロゴ入れ。
細い筆で、布の目をなぞるように線を引く。
手が震えると、線はすぐに波打つ。
息を止める——集中。
「大丈夫。俺が支える」
横から手首をそっと包む感触。
湊の指が、手の甲に軽く添えられる。
温度が流れ込むと、筆圧が安定する。
線がまっすぐ進んだ。
「……ずるい」
「ずるい?」
「そうやって、“支える”って簡単に言うの、ずるい」
「簡単じゃないよ。練習した」
「何の練習」
「支える練習」
「どこで」
「君の隣で」
筆先がほんの少しだけ笑って、でも乱れなかった。
最後のはねを入れると、教室のあちこちから歓声が上がる。
委員長が親指を立てる。
「最高! これ、優勝あるぞ」
肩の力が抜けた瞬間、湊が小さな声で言う。
「お疲れ、優しい人」
耳の奥が熱くなる。
(その呼び方、やめろ。効く)
10 メッセージ(境界の揺れ)
帰宅後。
机に肘をついたまま、ふぅ、と長く息を吐いた。
スマホが震える。
《湊: 今日の“線”、世界一まっすぐだった》
《陽: 手、ありがとう。安定した》
《湊: いつでも支える》
《陽: ……期待する》
送ってから、しまった、と思う。
(“期待する”って、距離を縮める言葉だ)
でも、返事はすぐに来た。
《湊: うん。距離は守った上で、縮める》
(守った上で、縮める。わけが、ある?)
《陽: それ、器用だな》
《湊: 不器用に見せかけて器用。君のやり方の真似》
喉の奥がくすぐったい。
(俺がやってるのは、“守るための器用さ”だ)
(君は、それを“近づくための器用さ”に変える)
危険だ。でも、嫌じゃない。
11 校内のざわめき(きしみ)
翌日。
ホームルーム前、教室の後ろで二人の男子が小声で言い合っていた。
「朝霧ってさ、ほんとにユナにガチ恋してんの?」
「らしい。文化祭アカの“生き延びろ”も、朝霧が引用してたし」
「てかユナって女だよな? 声ガチで女だし」
「最近のVはわかんねーよ。男かも」
「じゃあ朝霧、BLじゃん。やべ」
「“やべ”って何だよ。普通に恋だろ」
「いや、でも——」
会話の続きは担任の声にかき消された。
(普通に、恋。……その言葉、誰の口から出た?)
誰が言ったとしても、俺の胸の奥で大事に置かれていく。
出席を取りながら担任が笑い話をして、教室の空気は元に戻る。
ただ、俺の中のきしみだけが残った。
(隠すこと。言わないこと。守ること)
(この三つのバランス、もう限界かもしれない)
12 放課後の屋上(光と影)
「——屋上、行ける?」
湊のメッセージは短かった。
「行ける」
夕方の屋上は、空気が薄くて、光がやわらかかった。
フェンス越しに見える街並みの輪郭が滲む。
湊はフェンスに背をあずけ、ほんの少しだけ息を整えるみたいに目を閉じて、それから俺を見る。
「……ありがとう。全部」
「何の」
「横断幕も、SNSの文も、雨の帰り道も。
“支えられてる感覚”って、こういうのなんだってわかった」
俺は、首を横に振る。
「支えてるのは、たぶん、半分だけ。もう半分は、俺が支えられてる」
「半分こ」
「そう」
「じゃあ、いいバランスだ」
風が、ふたりの間を通り抜ける。
湊は真っ直ぐな目で、言葉を落とす。
「俺、君に恋してる」
時間が一度だけ止まる。
心臓が、ゆっくり動きだす。
(ユナに? 陽に? どっちに?)
問いかけようとして、やめた。
答えはもう、わかっている。
「……ありがとう」
それしか言えなかった。
湊は頷いて、少し笑う。
「急かさない。君のタイミングで」
(ずるい。いちばん効く言い方を知ってる)
13 “色”がバレる瞬間(ささやき)
屋上から降りる階段の踊り場で、三年の女子二人がスマホを見ながら話していた。
「ねえ、これ見た? ユナのサムネの配色、うちの文化祭アカのヘッダーと似てない?」
「たしかに。ピンクの灰寄りのトーンとか」
「作ってる人、同じ人説」
「……へえ」
軽いおしゃべりが、鋭い。
(やば)
足音を殺して通り過ぎる。
湊は何も言わない。ただ、階段の手すりの内側に俺を誘導して、視線の矢からそっと隠す。
息が詰まる前に、助かる。
(守られてる。完全に)
14 夜のメトロノーム(混線)
夜。
配信タイトルは《【ささやき】君の鼓動を、一拍だけゆっくり》。
コメントの流れ、呼吸、間。
“minato_”の名前が、ちゃんとそこにある。
《今日も、隣にいて》
「いるよ」
《“半分こ”って、いい言葉だね》
「半分こ、しよう。
がんばりも、不安も、うれしいも。……全部、半分」
《……好き》
その一言は、コメント欄のなかで誰のものでもあり、でも、たしかに“彼”のものだった。
俺はユナとして、いつもの温度で返す。
けれど、喉の奥では陽がうなずいていた。
配信を終え、ヘッドホンを外すと、外界の音が一気に戻ってくる。
スマホが震える。
《匿名: “色”でバレる日も近い。気をつけて》
知らないアカウント。
忠告か、揶揄か、攪乱か。
わからない。けれど、胸の中で“限界”のゲージがわずかに赤へ傾く。
《湊: 明日、朝少し早めに。話したい》
《陽: 任せろ》
(話そう。逃げないで)
15 最後の色、最後の一文
翌日。
体育館での最終リハーサル。
横断幕はステージの袖で待機している。
照明が一度だけ当たり、紫がふっと濃く見える。
湊が横で小さく息を吸う音が聞こえた。
「準備、できてる?」
彼の言葉は、行事の確認にも、俺に対する確認にも聞こえた。
「うん」
「じゃ、行こう」
リハーサルが終わって戻ると、文化祭/体育祭アカに新しい通知。
【“無事”という願いは、声の形をしている】
——委員長が引用して掲載してくれていた。
俺はスマホを伏せる。
(そうだ。…“無事”は、声の形をしている。君の声も、俺の声も)
湊が、俺の肩を軽く叩く。
「——今日、放課後。屋上で、もう一度」
「わかった」
16 引き:色が重なる場所で
夕方の屋上。
昨日より少し風が強い。フェンスにかかった横断幕の端が、さらさらと鳴る。
湊は昨日と同じ位置に立ち、昨日と同じ順番で息を整え、昨日と違う深さで俺を見る。
「——君は」
一拍。
「ユナ、なの?」
逃げ道は、やさしく塞がれている。
でも、そのやさしさは、前へ進むための通路にもなる。
俺は、息を吸う。
自分の声の最初の一音を、目の前の彼の心拍から借りるように。
深く、しずかに。
「……俺は——」
言い切る直前。
階段の方から足音。
扉が開く音。
三年の女子二人が、横断幕を背景に自撮りをしながら上がってきた。
「え、誰かいる? ごめん、すぐ撮って帰るから!」
軽い声が風に混じる。
湊はふっと微笑んで、首を横に振った。
「大丈夫。——続きは、次の場所で」
どこ? と目で問うと、湊はポケットから小さな紙を出す。
あの神社のベンチに挟んだ【“無事”】のメモと同じ紙。
そこに書かれた場所は——
俺と彼が初めて“寄りかかる”を練習した、あの音楽室。
「待ってる」
「……行く」
風が、横断幕の紫をもう一段、深くした。
色が重なる。
声も、重なる。
そして、名前も——重なろうとしていた。
・・・
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1 布の上の色
九月の風はまだ夏の名残を抱いていて、校庭の空気は熱気と汗で曇っていた。
体育祭準備のため、クラスごとの横断幕が並べられ、俺たちはその一角に座り込んでいた。
白布の上に刷毛を走らせ、赤と青を混ぜて紫を作る。
その紫は、自分の配信でよく使う“ユナカラー”に似ていて――笑ってしまいそうになる。
「佐倉、その色いいな」
隣から声。振り向けば、朝霧湊が刷毛を持ったまま覗き込んでいた。
陽の光で髪が金色に透け、汗で額が少し濡れている。
彼の指先が、俺の刷毛の柄に重なった。
「ちょ、朝霧……」
「ほら、こうやって支えると、ブレない」
二人で一つの刷毛を握る。
柄の感触よりも、指先の温度のほうが鮮明に伝わる。
心臓が、塗料の跳ねる音と一緒に跳ねた。
「見ろよ。やっぱり線がきれいに出る」
湊は満足げに笑う。
俺は苦笑いして首を振った。
「……俺ひとりでも描けるって」
「でも、二人でやったほうがいい色になる」
(……そう言うな。そう言われると、もう言い返せない)
2 観察する瞳
休憩時間、体育館の陰に腰を下ろす。
紙コップの麦茶はぬるいけど、喉を通ればすっと体が楽になる。
湊も隣に腰を下ろし、無言でストローを咥えていた。
「……なんだよ」
視線を感じて問いかけると、彼はさらりと答えた。
「観察」
「またそれかよ」
「だって、俺、好きなものしかちゃんと観察できないから」
ドクン、と音が胸に響いた。
“好きなもの”。
言葉の中に自分が含まれているのかどうか、確かめる勇気はなかった。
「佐倉って、嘘つくとき、ちょっと眉が動くよな」
「……」
「今日も、さっき横断幕の色を褒められたとき、ほんとは嬉しかったのに“そうでもない”みたいな顔してた」
(……やめてくれ。そこまで見られると、隠せなくなる)
ストローを強く噛んでごまかす。
湊はにやりと笑った。
「俺、そういうの見抜くの得意なんだよ」
「……悪趣味」
「趣味じゃない。好きだから」
またその言葉。
短くて、逃げ場を塞ぐみたいな一言。
顔をそむけた俺の耳まで、熱が広がった。
3 机の中のメモ
放課後。
自分の席に戻ると、机の上に一枚のメモが置かれていた。
震える字で書かれた一文。
【ユナの声=陽?】
目の奥が一瞬で冷たくなる。
心臓は逆に熱く跳ねた。
誰が書いたのか。
……筆跡を見ればわかる。
湊。真面目に板書を取る彼のノートと同じ癖。
(……気づいてる?)
確証は持たないようにしているのかもしれない。
でも、問いかけの形で残すあたり――彼のやさしさだ。
メモを丸め、ポケットに突っ込む。
けれど、指先に残る紙の角は、胸の奥で刺さったままだった。
4 雨の帰り道
夕方。
校門を出たとき、ぽつりと雨粒が落ちてきた。
あっという間に強くなり、傘を忘れた俺は立ち尽くすしかなかった。
「……入れ」
背後から声。
振り返れば、湊が傘を差し出している。
「……悪い」
「悪くない」
二人で傘を持つと、肩が触れた。
彼は少し傘を傾け、俺が濡れないようにして自分が余分に濡れる。
「朝霧、お前濡れてんじゃん」
「俺は平気」
「なんで」
「……得してるから」
「得?」
「こうして、近くにいられる」
耳の奥が熱くなり、言葉が出なかった。
湊は笑って、前を見続ける。
「佐倉の声って、雨に合うな」
「……は?」
「落ち着く。雨音が強くても、隣で喋ってるだけで呼吸が楽になる」
胸が痛いほど熱くなる。
それは“ユナ”として欲しかった言葉。
でも今は、“佐倉”としてもらってしまった。
「……変なやつ」
やっと絞り出したのはそれだけ。
彼は笑い、傘を少し寄せた。
5 夜の囁き(雨のつづき)
部屋の簡易ブースに入る。
吸音材に囲まれた小さな空間は、世界でいちばん自分の声が素直になる場所だ。
マイクの位置をミリ単位で調整し、ポップガードを指先で軽く叩いて共鳴を確かめる。
喉の奥にまだ少し雨の冷たさが残っている。温かい白湯を一口、舌の上で転がし、飲み込む。
タイトルを打ち込む。
《【ASMR】雨の夜、傘の中のきみへ/寄りかかって眠ろう》
配信ボタンを押すと、文字の川がいっせいに満ちてくる。
「通知助かる」「雨で心が湿ってた」「傘の中に入れてください(土下座)」……にぎやかな波の合間に、いつもの定位置。
“minato_”:
《今日も隣にいてくれる?》
昼の相合い傘が、音もなくよみがえる。
ユナの声で、ふっと笑う。
「もちろん。
ほら、肩。……うん、ここ固い。すー……はー……って、息を合わせよう。
雨の音ってね、心臓の音と同じテンポにすると、静かに聞こえるの。
だから私が、あなたの鼓動を少し、ゆっくりにするね」
マイクへほんの少し息を落とし、喉の奥で微かに息を丸める。
コメントの流速が緩やかになっていく。
“minato_”:
《不器用に寄りかかっても、笑わない?》
「笑わないよ。むしろ、不器用なほうが抱きしめやすい」
《じゃあ、今日は甘える。……ありがとう》
胸骨の裏側が温かくしびれる。
(ありがとう、って言うのはいつも俺の役目なのに)
ユナとして、言葉を返す。
「あなたが明日も無事でいられるように。……眠ろ」
配信を畳むと、世界が一段静かになった。
机の上のスマホが震える。
《湊: 今日の“肩”の話、効いた。寝られる》
《陽: おやすみ。呼吸、ゆっくり》
《湊: 了解。……生き延びる》
三つ目の言葉に、目蓋の奥が熱くなる。
(うん。生き延びよう。明日も)
6 SNSの一文
翌朝。
文化祭/体育祭合同アカウントの運用初日だ。
教室に入る前、廊下の掲示板に貼られたQRからアカウントを開く。
俺が昨夜下書きしておいた一文を、委員長が送信してくれていた。
【今日も生き延びた人、えらい。行事準備、いっしょにゆっくり。】
タイムラインを更新するたび、♡が小さく増えていく。
「この文、誰が書いたんだろ」「優しい」「救われた」の引用がいくつも連なる。
教室の空気に、見えないが確かな柔らかさが混ざる。
「佐倉、これお前の文だろ」
湊が笑ってスマホを突き出す。
「違うし」
「今、眉が動いた」
「……」
「ナイス一文。勝手に引用しといた」
「勝手に、って」
「責任は俺が取る」
「何の?」
「土下座とか?」
「誰に?」
「世界に」
(世界に土下座って、お前は)
笑いを堪え切れずに吹くと、湊が少しだけ得意そうに目を細めた。
教室のざわめきの中、二人だけ周波数を合わせるように笑う。
7 さざ波(噂)
三限が終わった頃。
廊下のむこうで、ひそひそとした声が重なった。
「朝霧、Vのガチ恋らしいよ」「ユナ?」「あの“あなた”の?」
「えー、王子様がガチ恋勢ってエモくない?」「なんか尊い」
「けど相手が実は男だったらどうする?」「バ美肉勢とか現実にいるし」
何気ない会話の刃が、風に混ざって入ってくる。
俺はノートに視線を落としたまま、シャープペンの芯をひとつ折った。
湊は、といえば――
いつもと同じ顔でプリントを配り、質問に答え、笑っていた。
その笑顔はふわっとやさしいが、ときどき、鈍い刃のような静けさが差す。
「あのさ」と、湊が隣の席の男子に穏やかに言う。
「“ガチ恋”って単語、軽く投げないでくれると助かる。……俺のは、ちゃんと本気だから」
空気が変わる。
強くない。怒鳴らない。
けれど、言葉の芯がまっすぐ通っているせいで、誰も茶化さなかった。
「ごめん」「悪かった」と小さく戻る声。
湊は笑って、首を振る。
「気にしてない。ありがとう」
背筋のどこかが熱くなる。
(守ってくれる。俺のことを、配信の“形”もろとも、丁寧に)
嬉しい。
その嬉しさが、同じくらい怖い。
8 境内のベンチ(願い)
放課後。
道具の片付けを終えた教室には、絵の具の匂いがまだ浮かんでいた。
窓を閉め、消灯。
「——帰るか」と言いかけたとき、湊が小声で言う。
「ちょっと、寄り道しない?」
連れられてきたのは、学校の裏手にある小さな神社。
夕方の風鈴が、涼しげに鳴る。
鳥居をくぐると、苔むしたベンチが一つ。
“願いが一つ叶うベンチ”なんて噂がある。誰が言い出したのか、知らないけど。
「座ろ」
二人で腰を下ろす。
木の匂いと、乾きかけの土の匂い。
風が通って、汗が引いていく。
「願い、ひとつだけ」
湊が、夕焼けを見ながら言う。
「……何を願うの」
「“無事”」
「……」
「俺の。君の。ほんとうは、みんなの。
でも欲張るから、まずは“君の”」
胸の真ん中が、すこし痛い。
(俺も、それを願ってる)
言葉にすると、こぼれてしまいそうで、喉で止める。
湊はポケットから小さな紙を出した。
折り畳まれたメモ。
そこには、丸い文字でこう書いてあった。
【“無事”】
それをベンチの横板の隙間にそっと押し込む。
「叶うといいな」
「叶うよ」
気づけば、自然に口から出ていた。
(叶えたい。……俺が叶えたい)
9 色の整音(いろのおと)
体育祭の横断幕は、今日で仕上げだった。
最後の仕上げは黒のロゴ入れ。
細い筆で、布の目をなぞるように線を引く。
手が震えると、線はすぐに波打つ。
息を止める——集中。
「大丈夫。俺が支える」
横から手首をそっと包む感触。
湊の指が、手の甲に軽く添えられる。
温度が流れ込むと、筆圧が安定する。
線がまっすぐ進んだ。
「……ずるい」
「ずるい?」
「そうやって、“支える”って簡単に言うの、ずるい」
「簡単じゃないよ。練習した」
「何の練習」
「支える練習」
「どこで」
「君の隣で」
筆先がほんの少しだけ笑って、でも乱れなかった。
最後のはねを入れると、教室のあちこちから歓声が上がる。
委員長が親指を立てる。
「最高! これ、優勝あるぞ」
肩の力が抜けた瞬間、湊が小さな声で言う。
「お疲れ、優しい人」
耳の奥が熱くなる。
(その呼び方、やめろ。効く)
10 メッセージ(境界の揺れ)
帰宅後。
机に肘をついたまま、ふぅ、と長く息を吐いた。
スマホが震える。
《湊: 今日の“線”、世界一まっすぐだった》
《陽: 手、ありがとう。安定した》
《湊: いつでも支える》
《陽: ……期待する》
送ってから、しまった、と思う。
(“期待する”って、距離を縮める言葉だ)
でも、返事はすぐに来た。
《湊: うん。距離は守った上で、縮める》
(守った上で、縮める。わけが、ある?)
《陽: それ、器用だな》
《湊: 不器用に見せかけて器用。君のやり方の真似》
喉の奥がくすぐったい。
(俺がやってるのは、“守るための器用さ”だ)
(君は、それを“近づくための器用さ”に変える)
危険だ。でも、嫌じゃない。
11 校内のざわめき(きしみ)
翌日。
ホームルーム前、教室の後ろで二人の男子が小声で言い合っていた。
「朝霧ってさ、ほんとにユナにガチ恋してんの?」
「らしい。文化祭アカの“生き延びろ”も、朝霧が引用してたし」
「てかユナって女だよな? 声ガチで女だし」
「最近のVはわかんねーよ。男かも」
「じゃあ朝霧、BLじゃん。やべ」
「“やべ”って何だよ。普通に恋だろ」
「いや、でも——」
会話の続きは担任の声にかき消された。
(普通に、恋。……その言葉、誰の口から出た?)
誰が言ったとしても、俺の胸の奥で大事に置かれていく。
出席を取りながら担任が笑い話をして、教室の空気は元に戻る。
ただ、俺の中のきしみだけが残った。
(隠すこと。言わないこと。守ること)
(この三つのバランス、もう限界かもしれない)
12 放課後の屋上(光と影)
「——屋上、行ける?」
湊のメッセージは短かった。
「行ける」
夕方の屋上は、空気が薄くて、光がやわらかかった。
フェンス越しに見える街並みの輪郭が滲む。
湊はフェンスに背をあずけ、ほんの少しだけ息を整えるみたいに目を閉じて、それから俺を見る。
「……ありがとう。全部」
「何の」
「横断幕も、SNSの文も、雨の帰り道も。
“支えられてる感覚”って、こういうのなんだってわかった」
俺は、首を横に振る。
「支えてるのは、たぶん、半分だけ。もう半分は、俺が支えられてる」
「半分こ」
「そう」
「じゃあ、いいバランスだ」
風が、ふたりの間を通り抜ける。
湊は真っ直ぐな目で、言葉を落とす。
「俺、君に恋してる」
時間が一度だけ止まる。
心臓が、ゆっくり動きだす。
(ユナに? 陽に? どっちに?)
問いかけようとして、やめた。
答えはもう、わかっている。
「……ありがとう」
それしか言えなかった。
湊は頷いて、少し笑う。
「急かさない。君のタイミングで」
(ずるい。いちばん効く言い方を知ってる)
13 “色”がバレる瞬間(ささやき)
屋上から降りる階段の踊り場で、三年の女子二人がスマホを見ながら話していた。
「ねえ、これ見た? ユナのサムネの配色、うちの文化祭アカのヘッダーと似てない?」
「たしかに。ピンクの灰寄りのトーンとか」
「作ってる人、同じ人説」
「……へえ」
軽いおしゃべりが、鋭い。
(やば)
足音を殺して通り過ぎる。
湊は何も言わない。ただ、階段の手すりの内側に俺を誘導して、視線の矢からそっと隠す。
息が詰まる前に、助かる。
(守られてる。完全に)
14 夜のメトロノーム(混線)
夜。
配信タイトルは《【ささやき】君の鼓動を、一拍だけゆっくり》。
コメントの流れ、呼吸、間。
“minato_”の名前が、ちゃんとそこにある。
《今日も、隣にいて》
「いるよ」
《“半分こ”って、いい言葉だね》
「半分こ、しよう。
がんばりも、不安も、うれしいも。……全部、半分」
《……好き》
その一言は、コメント欄のなかで誰のものでもあり、でも、たしかに“彼”のものだった。
俺はユナとして、いつもの温度で返す。
けれど、喉の奥では陽がうなずいていた。
配信を終え、ヘッドホンを外すと、外界の音が一気に戻ってくる。
スマホが震える。
《匿名: “色”でバレる日も近い。気をつけて》
知らないアカウント。
忠告か、揶揄か、攪乱か。
わからない。けれど、胸の中で“限界”のゲージがわずかに赤へ傾く。
《湊: 明日、朝少し早めに。話したい》
《陽: 任せろ》
(話そう。逃げないで)
15 最後の色、最後の一文
翌日。
体育館での最終リハーサル。
横断幕はステージの袖で待機している。
照明が一度だけ当たり、紫がふっと濃く見える。
湊が横で小さく息を吸う音が聞こえた。
「準備、できてる?」
彼の言葉は、行事の確認にも、俺に対する確認にも聞こえた。
「うん」
「じゃ、行こう」
リハーサルが終わって戻ると、文化祭/体育祭アカに新しい通知。
【“無事”という願いは、声の形をしている】
——委員長が引用して掲載してくれていた。
俺はスマホを伏せる。
(そうだ。…“無事”は、声の形をしている。君の声も、俺の声も)
湊が、俺の肩を軽く叩く。
「——今日、放課後。屋上で、もう一度」
「わかった」
16 引き:色が重なる場所で
夕方の屋上。
昨日より少し風が強い。フェンスにかかった横断幕の端が、さらさらと鳴る。
湊は昨日と同じ位置に立ち、昨日と同じ順番で息を整え、昨日と違う深さで俺を見る。
「——君は」
一拍。
「ユナ、なの?」
逃げ道は、やさしく塞がれている。
でも、そのやさしさは、前へ進むための通路にもなる。
俺は、息を吸う。
自分の声の最初の一音を、目の前の彼の心拍から借りるように。
深く、しずかに。
「……俺は——」
言い切る直前。
階段の方から足音。
扉が開く音。
三年の女子二人が、横断幕を背景に自撮りをしながら上がってきた。
「え、誰かいる? ごめん、すぐ撮って帰るから!」
軽い声が風に混じる。
湊はふっと微笑んで、首を横に振った。
「大丈夫。——続きは、次の場所で」
どこ? と目で問うと、湊はポケットから小さな紙を出す。
あの神社のベンチに挟んだ【“無事”】のメモと同じ紙。
そこに書かれた場所は——
俺と彼が初めて“寄りかかる”を練習した、あの音楽室。
「待ってる」
「……行く」
風が、横断幕の紫をもう一段、深くした。
色が重なる。
声も、重なる。
そして、名前も——重なろうとしていた。
・・・
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