当選メールの光は、祝福の白ではなく、俺たちの境界線を照らす手術灯みたいにまぶしかった。
1 当選
「――当たった」
昼休みのざわめきの中、朝霧湊はスマホを胸の前で止め、ほっと息を吐いた。
周りの歓声が一気に弾ける。「すげえ」「ガチで持ってる」――お祭りみたいな反応。
本人は浮かれない。嬉しさは瞳の奥にしまい、唇だけが静かにほころぶ。そういうところが、みんなをさらに惹きつけるのだろう。
(やっぱり、当てるんだな……)
教室の端で弁当箱を閉じながら、俺――佐倉陽は、胃のあたりをぎゅっと掴まれた感覚に息を詰めた。
彼が会いに行く相手は、画面の向こうのユナ。そして、その正体は俺。
彼の「ありがとう」はユナに、つまり俺に届く。でも、届け方を間違えれば、すべてが壊れる。
「佐倉」
名前を呼ばれて顔を上げると、湊がこちらへ歩いてくる。
混雑した通路で人の波が自然と割れる。彼はそういう人だ。
スマホ画面を伏せ、俺だけに向けた声で言う。
「……直接、礼を言える。俺、あの声に、何度も助けられたから」
声に“あの声”と置く。名前は呼ばない。推測や詮索の匂いを一切混ぜない。
(ずるい)
優しさが、ずるい。逃げる口実が減っていく。
「……よかったな」
それだけしか言えなかった。
言葉を増やせば増やすほど、バレるのは“喉”だ。俺の武器であり、正体の鍵でもある。
放課後。
文化祭準備の教室は、刷毛の音と笑い声で満ちていた。
ピンクに灰を一滴落とす――湊が「寄りかかれる色」と呼ぶトーン。
俺はそれをパレットの上で何度も作り直す。
作業の合間、彼は備品リストを整え、誰かの足りない刷毛を自然に補充し、ゴミ袋の口を結ぶ。誰に見られていなくても、きちんとやる。
「佐倉、これ。テープ幅、細いほうがよくない?」
「……ああ、ありがと」
手が触れる。
小指が軽く当たっただけなのに、心臓は誇張気味な反応を返してくる。
湊は気づかないふりをした。気づかないふりが、上手い。
休憩時間。
委員長が差し入れを配る。甘いクッキーと紙パック。
湊は無言で俺の分も手元へ。
「観察」と彼は笑う。
前にも言われた言葉だ。彼の観察は、刺さるところだけ正確に刺す。
「……当たったんだな、ほんとに」
言ってから、余計だったかと思った。
湊は頷く。「うん」
そして、前を向いたまま、小さく続ける。
「“ありがとう”を、言えるときに言いたい。言いたい相手に。言える形で」
(“形で”、か)
顔を出さず、距離を守って、声だけで、ありがとうを渡す。
それは俺が毎晩“あなた”たちにしていることだ。
湊は、その“形”を尊重すると言った。
それなのに俺のどこかは、欲を出す。“形”を超えてしまいたい、と。
夜。
部屋の簡易ブース。
吸音材の黒に囲まれて、マイクが一本、中央に立つ。
タイトルは《【ささやき】当選おめでとう/来られない人も一緒だよ》。
配信が始まると、コメントは川の水位みたいに一気に上がる。
《通知助かる》
《当選した!》《落ちたけど聴けるからいい》
《ユナの声が今日も生き延びさせる》
混ざって流れてくる“生き延びる”という単語に、胸の奥が静かに熱を持つ。
そして、定位置の名前。
“minato_”:
《ユナ。俺、当たった》
喉がきゅっと縮む。
ユナの声で、やわらかく笑う。
「そうなんだ。おめでとう。……でも、無理はしないでね。
来られない夜も、聴ける夜も、同じように“あなた”だから」
《無理、しない。約束》
《直接、ありがとう言う。距離は、守る》
“距離は守る”。
彼が言うと、約束は約束になる。
マイクを握る指の力が、知らないうちに抜けていた。
2 準備
イベント前日。
スタジオの下見。
個室ブースの暗幕は床まで長く、すき間風が入らないようにマグネットで留める仕様。
観客用の椅子は背もたれが高く、視線は全部、仕切りに遮られる。
こちらからは、ブース番号のランプと、足先の影だけが見える。
友人スタッフの迅(じん)が、チェックリストを読み上げる。
「マイクの予備は二本。録音は二重。導線は搬入口から一直線。……佐倉、そのストラップは外していけ」
「わかってる。封筒にしまった」
「念のため。俺が当日も確認する」
封筒の角が皮膚に触れる感覚を、胸ポケット越しに確かめる。
購買のチャームは、静かな重さになって、引き出しの奥で眠っている。
思い出は、外ではなく、内側に持ち歩く。
(それで十分。……十分、のはずだ)
帰り道、迅がぽんと背中を叩く。
「“ありがとう”を言われる仕事は、いい。でも、欲張るな」
「……わかってる」
“欲張るな”。
それは恋の話にも、プロの話にも、等しく効く忠告だった。
家で台本を整える。
一人当たり二分――短い。でも、短いからこそ密度を上げられる。
「来てくれてありがとう」
「あなたの“無事”、受け取ったよ」
「帰り道、足元に気をつけて」
それぞれの“あなた”に合わせ、語尾の角を調整する。
息を入れる位置、間の長さ、笑うか、笑わないか。
湊の番は――最後。
一番最後に、最高の集中で臨むために、あえてそうした。
メッセージが震える。
《湊: 明日、行く。緊張してる。手が汗ばむ》
《陽: 手汗は正直》
《湊: 正直なまま、行く》
短い言葉で安心させる技術はユナで覚えた。
でも、湊には、ユナの言葉のまま返せない。
“君にだけは”素で返したい気持ちが、時々、ユナを邪魔する。
3 開幕
当日。
スタジオに早入りし、音響をチェック。
水の温度を喉に合わせ、湿度計の数字を確認する。
心拍がやや高い。
呼気法で下げる。
“自分の声の最初の一音は、聴き手の心拍から借りる”――いつもどおり。
受付が開き、番号順に案内が始まる。
ブースのランプが点く。足音が近づく。
一人目。二人目。三人目――
「来てくれて、ありがとう」
「あなたの『がんばった』、ちゃんと見えたよ」
仕切り越しの呼吸が、目に見えるものみたいに伝わる。
泣いている人もいる。笑っている人もいる。
皆、同じ温度で「ありがとう」を返してくれる。
俺はユナとして、それぞれの“あなた”をそっと抱え、順に送り出す。
(きっと、湊も。
同じように“あなた”でいてくれる)
やがて、ランプが最後の番号に変わる。
“17”。
足音。
ドアが閉まる小さな音。
椅子に沈む気配。
呼吸の仕方で、わかる。昼休みに、相合い傘の下で、何度も同期させてきた呼吸。
――湊。
喉は自然に、その人の心拍へチューニングされる。
ユナの声で、囁く。
「こんばんは。来てくれて、ありがとう」
少しの沈黙。
向こう側で、息が静かに震える。
「……ユナ」
いつもより低い。
けれど、迷いはない。
「俺は、君の“ありがとう”に、何度も助けられた。
君が『無事でいて』って言うたびに、無事でいようと思えた。
だから――直接、言いたかった。
ありがとう」
台本はここで「あなたもありがとう」と返して終わる。
でも、台本は紙で、今は生身の声だ。
喉の奥で、陽がうなずく。
「……私も。
あなたががんばる背中、好きだよ」
言ってから、はっとする。
“あなた”の“好き”は、プロの言葉だ。
けれど、今の“好き”は、語尾の温度が一度だけ上がった。
湊の呼吸がわずかに詰まって、すぐ、やわらぐ。
「……そっか。
……ああ、来てよかった」
短い時間はあっという間に終わる。
でも、最後の一拍を捨てない。
「帰り道、気をつけて。……君の無事は、私の元気になるから」
「わかった。
……ユナ」
名を呼ばれて、返事が喉まで上がる。
だめだ。ここで“うん”と返すのは、危ない。
代わりに、わずかに笑う。
仕切りの向こうで、誰かが笑い返す音がした。
二人の笑い声は、暗幕に吸い込まれ、そこに残った。
終演。
拍手。
アナウンス。
「本日のイベントはすべて終了いたしました――」
表舞台の音がゆっくりと遠ざかる中、俺は搬入口へ機材を運び出す。
キャップを目深に、マスク、視線は落とす。
迅が前を歩き、必要な時だけ振り返って合図を出す。
廊下の角を曲がったところで、人影。
立ち止まる前に、彼はすっと道を開け、小声で言った。
「……会えた」
湊。
声は、夕方の川面みたいに静かだった。
視線は俺ではなく、俺の鞄に落ちる。
――チャームは、ない。
けれどカラビナの輪っかに残る擦れ跡を、彼は見逃さない。
「気をつけて。帰り道」
それだけ言って、追いすがらない。
俺の“形”を守るやり方で、そっと背中を押す。
胸の中で、いろんな“ありがとう”が同時に騒いだ。
(ありがとう。
……でも、怖い。
“見つけられる優しさ”に、俺は弱い)
4 影
帰宅して椅子に沈むと、スマホが鳴る。
通知。
差出人不明。ひとこと。
《“ユナ”の背中、撮った。次は“佐倉陽”の番》
添付された写真のサムネイル。スタジオ裏口、電灯の下、黒いキャップ――俺の後ろ姿。
喉がひゅっと鳴る。
恐怖は、音になると幼くなる。
保存。未返信。スクショ。時刻。位置情報。
迅の教えどおり、手順で心を落ち着ける。
同時に、別の通知。
《湊: 今日の声、少しだけ震えてた。……大丈夫?》
《湊: 無理するな。俺が守る》
刃と抱擁が、同じ夜に届く。
「守る」という言葉は、軽く言えば甘く、重く言えば嘘くさい。
湊が言うと、ただの約束になる。
俺は“ありがとう”の返事を打たず、代わりに、深呼吸のメッセージを送った。
《吸って、吐いて。大丈夫。生き延びる》
“ユナ”の言い回し。
でも、宛先は“湊”。
二つの線が交差して、胸の真ん中で結び目になる。
翌朝。
いつもより少し早く学校に着く。
昇降口のガラス戸を開けた瞬間、小さな音が走った。
――カシャ。
反射的に振り向く。
電柱の影に人影。
フード、マスク、スマホ。
目が合った、気がした。
次の瞬間、足音が走る。
身体は先に動いていた。
「待て!」
追いかける。廊下を曲がり、非常階段を駆け下り、校庭の脇へ。
心臓が喉を叩く。追いつかない。
その時、角からもう一つの影。
「そこ、止まれ」
湊。
低い声が空気を切る。
影は怯んでスマホを落とし、踵を返して逃げる。
湊は追わない。
拾い上げたスマホの画面がまだ点いているのを確認し、眉を寄せる。
「……ロック、かかってない」
「開く?」
「開く」
写真フォルダ。
スタジオ裏口。校門。俺の後ろ姿。夜景。――昨夜の画像と一致する構図と色。
湊は短く息を吐き、俺のほうに顔を向ける。
「終わらせる。今日」
その言い方は、他人事じゃない人のものだった。
俺の膝が少し笑う。けれど、怖さは、不思議と薄い。
「……頼む」
声に出した瞬間、喉の奥が軽くなる。
“頼る”は、苦手だ。
でも、頼っていい人を、今、握っている。
放課後。
迅と合流し、三人で証拠を整理する。
DM、メール、時間、位置、Exif、ログイン記録――淡々と積み上げていく。
怒りは、作業の邪魔になる。
湊は怒らない。
その代わり、正確に動く。
必要な時だけ、俺の手の甲に指を触れ、呼吸を合わせる。
(それ、やめろ。集中が切れる)
(でも、やめないで。落ち着く)
矛盾は、半分ずつ持てばいい。
“二人で”持てば、ちょうどいい重さになる。
提出を終え、校舎の外に出る。
夕焼けは、オレンジから紫へ。
横断幕の端が、風にさらさらと鳴る。
湊がこちらを見る。
真面目な顔。逃げ場のない目。
「……佐倉。ひとつ片づいた」
「うん」
「じゃあ、約束。
“これが終わったら、一つ聞かせて”」
喉の奥が熱くなる。
はい、とも、待って、とも言えない。
湊は一歩だけ近づいた。
手を伸ばすみたいに、でも触れない距離で、静かに問いかける。
「君は――ユナなの?」
時間が、音を失う。
夕風だけが、横断幕の端を鳴らす。
逃げ道は、やさしく塞がれていた。
優しさで塞がれた逃げ道は、怖い。
でも、進める。
俺は、息を吸う。
長く、深く。
自分の声の最初の一音を、目の前の彼の心拍から借りるように。
「……俺は――」
世界の輪郭が、やわらかく滲んだ。
「俺は――」の続きは、まだ言わない。
けれど、彼の瞳が“信じる準備”で満ちているのを見て、俺は初めて、自分の声で正直に生きたいと思った。
・・・
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1 当選
「――当たった」
昼休みのざわめきの中、朝霧湊はスマホを胸の前で止め、ほっと息を吐いた。
周りの歓声が一気に弾ける。「すげえ」「ガチで持ってる」――お祭りみたいな反応。
本人は浮かれない。嬉しさは瞳の奥にしまい、唇だけが静かにほころぶ。そういうところが、みんなをさらに惹きつけるのだろう。
(やっぱり、当てるんだな……)
教室の端で弁当箱を閉じながら、俺――佐倉陽は、胃のあたりをぎゅっと掴まれた感覚に息を詰めた。
彼が会いに行く相手は、画面の向こうのユナ。そして、その正体は俺。
彼の「ありがとう」はユナに、つまり俺に届く。でも、届け方を間違えれば、すべてが壊れる。
「佐倉」
名前を呼ばれて顔を上げると、湊がこちらへ歩いてくる。
混雑した通路で人の波が自然と割れる。彼はそういう人だ。
スマホ画面を伏せ、俺だけに向けた声で言う。
「……直接、礼を言える。俺、あの声に、何度も助けられたから」
声に“あの声”と置く。名前は呼ばない。推測や詮索の匂いを一切混ぜない。
(ずるい)
優しさが、ずるい。逃げる口実が減っていく。
「……よかったな」
それだけしか言えなかった。
言葉を増やせば増やすほど、バレるのは“喉”だ。俺の武器であり、正体の鍵でもある。
放課後。
文化祭準備の教室は、刷毛の音と笑い声で満ちていた。
ピンクに灰を一滴落とす――湊が「寄りかかれる色」と呼ぶトーン。
俺はそれをパレットの上で何度も作り直す。
作業の合間、彼は備品リストを整え、誰かの足りない刷毛を自然に補充し、ゴミ袋の口を結ぶ。誰に見られていなくても、きちんとやる。
「佐倉、これ。テープ幅、細いほうがよくない?」
「……ああ、ありがと」
手が触れる。
小指が軽く当たっただけなのに、心臓は誇張気味な反応を返してくる。
湊は気づかないふりをした。気づかないふりが、上手い。
休憩時間。
委員長が差し入れを配る。甘いクッキーと紙パック。
湊は無言で俺の分も手元へ。
「観察」と彼は笑う。
前にも言われた言葉だ。彼の観察は、刺さるところだけ正確に刺す。
「……当たったんだな、ほんとに」
言ってから、余計だったかと思った。
湊は頷く。「うん」
そして、前を向いたまま、小さく続ける。
「“ありがとう”を、言えるときに言いたい。言いたい相手に。言える形で」
(“形で”、か)
顔を出さず、距離を守って、声だけで、ありがとうを渡す。
それは俺が毎晩“あなた”たちにしていることだ。
湊は、その“形”を尊重すると言った。
それなのに俺のどこかは、欲を出す。“形”を超えてしまいたい、と。
夜。
部屋の簡易ブース。
吸音材の黒に囲まれて、マイクが一本、中央に立つ。
タイトルは《【ささやき】当選おめでとう/来られない人も一緒だよ》。
配信が始まると、コメントは川の水位みたいに一気に上がる。
《通知助かる》
《当選した!》《落ちたけど聴けるからいい》
《ユナの声が今日も生き延びさせる》
混ざって流れてくる“生き延びる”という単語に、胸の奥が静かに熱を持つ。
そして、定位置の名前。
“minato_”:
《ユナ。俺、当たった》
喉がきゅっと縮む。
ユナの声で、やわらかく笑う。
「そうなんだ。おめでとう。……でも、無理はしないでね。
来られない夜も、聴ける夜も、同じように“あなた”だから」
《無理、しない。約束》
《直接、ありがとう言う。距離は、守る》
“距離は守る”。
彼が言うと、約束は約束になる。
マイクを握る指の力が、知らないうちに抜けていた。
2 準備
イベント前日。
スタジオの下見。
個室ブースの暗幕は床まで長く、すき間風が入らないようにマグネットで留める仕様。
観客用の椅子は背もたれが高く、視線は全部、仕切りに遮られる。
こちらからは、ブース番号のランプと、足先の影だけが見える。
友人スタッフの迅(じん)が、チェックリストを読み上げる。
「マイクの予備は二本。録音は二重。導線は搬入口から一直線。……佐倉、そのストラップは外していけ」
「わかってる。封筒にしまった」
「念のため。俺が当日も確認する」
封筒の角が皮膚に触れる感覚を、胸ポケット越しに確かめる。
購買のチャームは、静かな重さになって、引き出しの奥で眠っている。
思い出は、外ではなく、内側に持ち歩く。
(それで十分。……十分、のはずだ)
帰り道、迅がぽんと背中を叩く。
「“ありがとう”を言われる仕事は、いい。でも、欲張るな」
「……わかってる」
“欲張るな”。
それは恋の話にも、プロの話にも、等しく効く忠告だった。
家で台本を整える。
一人当たり二分――短い。でも、短いからこそ密度を上げられる。
「来てくれてありがとう」
「あなたの“無事”、受け取ったよ」
「帰り道、足元に気をつけて」
それぞれの“あなた”に合わせ、語尾の角を調整する。
息を入れる位置、間の長さ、笑うか、笑わないか。
湊の番は――最後。
一番最後に、最高の集中で臨むために、あえてそうした。
メッセージが震える。
《湊: 明日、行く。緊張してる。手が汗ばむ》
《陽: 手汗は正直》
《湊: 正直なまま、行く》
短い言葉で安心させる技術はユナで覚えた。
でも、湊には、ユナの言葉のまま返せない。
“君にだけは”素で返したい気持ちが、時々、ユナを邪魔する。
3 開幕
当日。
スタジオに早入りし、音響をチェック。
水の温度を喉に合わせ、湿度計の数字を確認する。
心拍がやや高い。
呼気法で下げる。
“自分の声の最初の一音は、聴き手の心拍から借りる”――いつもどおり。
受付が開き、番号順に案内が始まる。
ブースのランプが点く。足音が近づく。
一人目。二人目。三人目――
「来てくれて、ありがとう」
「あなたの『がんばった』、ちゃんと見えたよ」
仕切り越しの呼吸が、目に見えるものみたいに伝わる。
泣いている人もいる。笑っている人もいる。
皆、同じ温度で「ありがとう」を返してくれる。
俺はユナとして、それぞれの“あなた”をそっと抱え、順に送り出す。
(きっと、湊も。
同じように“あなた”でいてくれる)
やがて、ランプが最後の番号に変わる。
“17”。
足音。
ドアが閉まる小さな音。
椅子に沈む気配。
呼吸の仕方で、わかる。昼休みに、相合い傘の下で、何度も同期させてきた呼吸。
――湊。
喉は自然に、その人の心拍へチューニングされる。
ユナの声で、囁く。
「こんばんは。来てくれて、ありがとう」
少しの沈黙。
向こう側で、息が静かに震える。
「……ユナ」
いつもより低い。
けれど、迷いはない。
「俺は、君の“ありがとう”に、何度も助けられた。
君が『無事でいて』って言うたびに、無事でいようと思えた。
だから――直接、言いたかった。
ありがとう」
台本はここで「あなたもありがとう」と返して終わる。
でも、台本は紙で、今は生身の声だ。
喉の奥で、陽がうなずく。
「……私も。
あなたががんばる背中、好きだよ」
言ってから、はっとする。
“あなた”の“好き”は、プロの言葉だ。
けれど、今の“好き”は、語尾の温度が一度だけ上がった。
湊の呼吸がわずかに詰まって、すぐ、やわらぐ。
「……そっか。
……ああ、来てよかった」
短い時間はあっという間に終わる。
でも、最後の一拍を捨てない。
「帰り道、気をつけて。……君の無事は、私の元気になるから」
「わかった。
……ユナ」
名を呼ばれて、返事が喉まで上がる。
だめだ。ここで“うん”と返すのは、危ない。
代わりに、わずかに笑う。
仕切りの向こうで、誰かが笑い返す音がした。
二人の笑い声は、暗幕に吸い込まれ、そこに残った。
終演。
拍手。
アナウンス。
「本日のイベントはすべて終了いたしました――」
表舞台の音がゆっくりと遠ざかる中、俺は搬入口へ機材を運び出す。
キャップを目深に、マスク、視線は落とす。
迅が前を歩き、必要な時だけ振り返って合図を出す。
廊下の角を曲がったところで、人影。
立ち止まる前に、彼はすっと道を開け、小声で言った。
「……会えた」
湊。
声は、夕方の川面みたいに静かだった。
視線は俺ではなく、俺の鞄に落ちる。
――チャームは、ない。
けれどカラビナの輪っかに残る擦れ跡を、彼は見逃さない。
「気をつけて。帰り道」
それだけ言って、追いすがらない。
俺の“形”を守るやり方で、そっと背中を押す。
胸の中で、いろんな“ありがとう”が同時に騒いだ。
(ありがとう。
……でも、怖い。
“見つけられる優しさ”に、俺は弱い)
4 影
帰宅して椅子に沈むと、スマホが鳴る。
通知。
差出人不明。ひとこと。
《“ユナ”の背中、撮った。次は“佐倉陽”の番》
添付された写真のサムネイル。スタジオ裏口、電灯の下、黒いキャップ――俺の後ろ姿。
喉がひゅっと鳴る。
恐怖は、音になると幼くなる。
保存。未返信。スクショ。時刻。位置情報。
迅の教えどおり、手順で心を落ち着ける。
同時に、別の通知。
《湊: 今日の声、少しだけ震えてた。……大丈夫?》
《湊: 無理するな。俺が守る》
刃と抱擁が、同じ夜に届く。
「守る」という言葉は、軽く言えば甘く、重く言えば嘘くさい。
湊が言うと、ただの約束になる。
俺は“ありがとう”の返事を打たず、代わりに、深呼吸のメッセージを送った。
《吸って、吐いて。大丈夫。生き延びる》
“ユナ”の言い回し。
でも、宛先は“湊”。
二つの線が交差して、胸の真ん中で結び目になる。
翌朝。
いつもより少し早く学校に着く。
昇降口のガラス戸を開けた瞬間、小さな音が走った。
――カシャ。
反射的に振り向く。
電柱の影に人影。
フード、マスク、スマホ。
目が合った、気がした。
次の瞬間、足音が走る。
身体は先に動いていた。
「待て!」
追いかける。廊下を曲がり、非常階段を駆け下り、校庭の脇へ。
心臓が喉を叩く。追いつかない。
その時、角からもう一つの影。
「そこ、止まれ」
湊。
低い声が空気を切る。
影は怯んでスマホを落とし、踵を返して逃げる。
湊は追わない。
拾い上げたスマホの画面がまだ点いているのを確認し、眉を寄せる。
「……ロック、かかってない」
「開く?」
「開く」
写真フォルダ。
スタジオ裏口。校門。俺の後ろ姿。夜景。――昨夜の画像と一致する構図と色。
湊は短く息を吐き、俺のほうに顔を向ける。
「終わらせる。今日」
その言い方は、他人事じゃない人のものだった。
俺の膝が少し笑う。けれど、怖さは、不思議と薄い。
「……頼む」
声に出した瞬間、喉の奥が軽くなる。
“頼る”は、苦手だ。
でも、頼っていい人を、今、握っている。
放課後。
迅と合流し、三人で証拠を整理する。
DM、メール、時間、位置、Exif、ログイン記録――淡々と積み上げていく。
怒りは、作業の邪魔になる。
湊は怒らない。
その代わり、正確に動く。
必要な時だけ、俺の手の甲に指を触れ、呼吸を合わせる。
(それ、やめろ。集中が切れる)
(でも、やめないで。落ち着く)
矛盾は、半分ずつ持てばいい。
“二人で”持てば、ちょうどいい重さになる。
提出を終え、校舎の外に出る。
夕焼けは、オレンジから紫へ。
横断幕の端が、風にさらさらと鳴る。
湊がこちらを見る。
真面目な顔。逃げ場のない目。
「……佐倉。ひとつ片づいた」
「うん」
「じゃあ、約束。
“これが終わったら、一つ聞かせて”」
喉の奥が熱くなる。
はい、とも、待って、とも言えない。
湊は一歩だけ近づいた。
手を伸ばすみたいに、でも触れない距離で、静かに問いかける。
「君は――ユナなの?」
時間が、音を失う。
夕風だけが、横断幕の端を鳴らす。
逃げ道は、やさしく塞がれていた。
優しさで塞がれた逃げ道は、怖い。
でも、進める。
俺は、息を吸う。
長く、深く。
自分の声の最初の一音を、目の前の彼の心拍から借りるように。
「……俺は――」
世界の輪郭が、やわらかく滲んだ。
「俺は――」の続きは、まだ言わない。
けれど、彼の瞳が“信じる準備”で満ちているのを見て、俺は初めて、自分の声で正直に生きたいと思った。
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