昼休みの教室は、ざわめきと弁当の匂いで満ちていた。
友人同士の笑い声、カレーうどんのスープの匂い、廊下から聞こえる部活の勧誘。
その真ん中で、クラスの王子様――朝霧湊は、真剣そのものの顔でノートにペンを走らせていた。
「……これ、アクリルスタンドにしたら絶対売れる」
「いや、むしろボイス台本だな。“あなた、今日も頑張ったね”って入れて……」
隣で弁当をつついていた友人が呆れる。
「おい湊、昼から何ひとりで盛り上がってんだよ」
「いや、推し活。大事だろ」
笑顔で言い切る湊のノートには、びっしりと書き込まれた案。
【限定ボイス】【抱きしめシチュ】【寝落ち配信】――どれも俺の“ユナ”活動に直結する内容で、心臓が跳ねた。
……やめろ、それは俺の企画会議ノートだ。
なんで俺の隣の席で堂々とやってるんだ。
「へえ、湊ってV好きなんだ」
別の女子が覗き込む。
「誰推し?」
「ユナ。新進気鋭のVtuber。……マジでやばい」
「やばいって、何が?」
「声。俺、あの声にガチ恋した」
……やめてくれ。
昼間の教室で、そんなストレートに言うな。
周りの生徒たちが笑って「またまたー」と囃す。
けど湊は、真剣な目でノートを閉じた。
「本気で言ってる。ユナの“あなた”って囁き……俺の生きる理由」
その横顔が、あまりに綺麗で。
俺は箸を持ったまま、呼吸を忘れていた。
放課後。
文化祭準備の教室は、絵の具と段ボールの匂いが混じっている。
横断幕を塗る作業で、俺は赤と白を混ぜて淡いピンクを作っていた。
その色合いを見た湊が「お、ユナカラーっぽいな」と笑う。
「ユ……?」
「いや、横断幕ユニフォームの色に似てるなって」
ごまかす声が少し不自然。でも誰も気づかない。
湊は俺の手元をじっと見ていた。
「佐倉、色作るの上手いよな。……優しい色だ」
胸がちくりと痛む。
その言葉は、配信者として一番欲しかった評価だから。
“ユナ”の世界では「優しい色」を意識して、声のトーンもデザインも作っている。
でもここでは、それを“佐倉陽”が褒められている。
「ありがと」
短く返すと、湊は少し微笑んで――その笑顔にまた、心臓が跳ねた。
夕方。
校舎を出ると、空は一面の灰色に覆われていた。
やがて雨粒が落ちてきて、あっという間に土砂降りになる。
「傘、持ってる?」
湊が俺の手元を見て尋ねる。
「……ない」
「だと思った。ほら」
折り畳み傘を広げ、当然のように差し出してくる。
逃げ場はない。俺は小さくうなずき、柄を持った。
二人の肩が触れ合う。傘の下、湿った空気の中で心臓の鼓動だけがうるさい。
「佐倉ってさ」
「ん」
「声、落ち着くよな」
「……そうかな」
「図書室で“どうぞ”って言った時の声とか。……ああいうの、好きだ」
やめろ。そんな観察、正確すぎる。
息の震えがバレそうで、思わず下を向いた。
「俺、誰かを守るために強くなりたいんだ」
湊が、ぽつりと言った。
「その誰かが無理してたら、俺が支えたい。……だから、ユナの声に救われた」
雨音が強まる。
その告白を、俺はただ黙って聞いていた。
夜。
マイクの前に座る。
タイトルは《【ASMR】雨の日、無理しないで眠ろう》。
配信を始めると、チャット欄が次々に流れる。
「今日も来たよ!」
「雨の日はユナの声で浄化される」
そして、“minato_”の名前。
《ユナ。今日、寄りかかってもいい?》
喉が熱くなる。
湊だ。きっと、昼間のあの会話の続き。
俺はユナの声で、優しく囁いた。
「もちろん。寄りかかって。……大丈夫。あなたが不器用でも、私は受け止めるから」
数秒の間。
チャット欄に一言。
《ありがとう。助かる》
胸の奥で、世界が重なっていく音がした。
ラスト。
翌朝、教室で湊は笑顔で言った。
「ファンミ、絶対当てる。……直接、ありがとう言いたいから」
――俺の平穏は、完全に揺らぎ始めていた。
文化祭準備の二日目。
教室の後ろ半分は、もはや美術室になっていた。
床にはブルーシート、机の上にはアクリル絵の具、ガムテープ、刷毛、謎のボンド。
静かに作業する班、わちゃわちゃ騒ぐ班、そして――
「佐倉、その色もうちょいだけ落ち着かせたい。…ほら、ここ」
湊は、相変わらず俺の“色”にやたら詳しかった。
彼の指先が示すのは、目立たない一角。
ピンクにほんの少し灰色を混ぜて、息を吐くみたいにトーンを下げる。
「ここが柔らかいと、全体が“寄りかかれる感じ”になる」
“寄りかかれる感じ”。
(言うなよそれ…俺の口癖だから)
心の中で突っ込みながら、パレット上で色を作る。
湊がすぐ横で覗き込んで――
「うん、これ。……優しい」
なんでもないように言うその“優しい”が、どうしてこんなに刺さるのか。
この世界で“優しさ”は、俺にとって作り物の演出であり、同時に、唯一の本心だ。
嘘と本当が混ざって固まった色。そこへ湊は、迷いなく指を入れてくる。
「朝霧って、そういうセンスどこで身につけたの?」
口に出してしまってから、しまった、と思う。
逆質問が返ってくる未来が、鮮やかに見えたからだ。
「……好きな人の、影響」
不意打ちだった。
刷毛を握る手が止まる。
「好きな人?」
「うん。声が、優しい人」
「ふーん」
(それ俺なんだけど)
喉の奥で笑い声がへたって、消えた。
クラスの進行役・委員長が、前で拍手を鳴らした。
「休憩入れまーす。水分補給して。差し入れ置いとくよ」
机の上に並ぶ、個包装のクッキーと紙パックジュース。
「やった!」と駆ける声。
湊は俺の分までさりげなく取って、手の届く位置に置いた。
「砂糖、いる?」
「ありがと」
「佐倉、甘いの好きそう」
「どういう偏見」
「偏見じゃなくて観察」
「観察?」
「お前、ブラックコーヒー飲んでるの見たことない」
(見られてるな、思った以上に)
ちょっと居心地がむず痒い。だけど、悪くない。
自分の小さな癖を“知ってもらえる”感覚は、思っていたより温かかった。
「――あのさ」
湊が少しだけ声を落とす。
教室のざわめきの中で、二人の音量だけが周波数を合わせた。
「この前の“屋上の話”、覚えてる?」
「……“もし身近な人が匿名で活動してたら”のやつ?」
「うん。あれ、結構考えた。答えは変わらないよ。
秘密は、相手のタイミングでいい。でも――俺は、信じたい」
ゆっくり、確かに、押してくる言葉。
断定じゃない。でも、逃げ道を塞がない圧。
そういうのが、いちばん効く。
俺は、紙パックのストローを噛んで、曖昧にうなずいた。
「ねえ朝霧くん」
休憩終わり際、クラスの女子が湊を呼んだ。
「ユナってさ、本当に女の子なの?」
「声、どう聞いても女の子だろ」
「でもバ美肉とかあるじゃん? 中の人、おじさんだったらどうする?」
「いや、でも“あなた”の言い方、ガチで彼女じゃん」
「顔出しNGって怪しくない?」
好き放題に飛び交うワード。
何気ない雑談のつもりなのはわかる。
ただ、胸の奥で警報が鳴る。
何気ないナイフは、時々いちばん深いところまで刺さる。
湊は少しだけ笑って、肩をすくめた。
「中の人が誰だろうと、俺は“声に救われた事実”のほうが大事かな」
「出た~王子様発言!」
「でもさ、もし男だったらガチ恋ってどうなるの?」
「“ガチ恋”って言葉、軽いノリで使うなよ」
湊の声が、わずかに低くなった。
空気が、揺れる。
「本気なんだ。だから、茶化さないでくれると助かる」
一瞬、女子たちの顔が真面目になって、すぐに笑みに戻った。
「ごめんごめん! 茶化すつもりじゃないけど、気をつける」
「そうして」
湊は柔らかく返して、俺のほうを見た。
目が合う。
そこに、“俺の秘密まで守る”という意思が、確かにあった。
(やめろ。そんなんされたら、もう逃げられない)
放課後、第二ラウンド。
横断幕の下地が乾くまで、ロゴのラフを詰める。
俺はスマホに入れておいた簡易カラーチャートを取り出して、見開きに差し込んだ。
湊が興味津々で覗き込む。
「それ、どこで作った?」
「……趣味」
「趣味でこの精度?」
「うん」
「なんの?」
「色……かな」
(配信サムネ用の配色セット、とは言えない)
「なあ」
「ん」
「“ここ、座っていいよ”って空席、ほんとに得意だよな」
湊は言って、自分の椅子を少し俺に寄せた。
「俺、そこに座るから。空けとけ」
「……勝手に座れよ」
「座る。勝手に」
笑いながら、彼は本当に椅子をくっつける。
それは、ふざけた仕草のくせに、やたら真面目な宣言に聞こえた。
夕暮れ頃、委員長がプリントを配った。
「文化祭SNSのアカウント、明日から更新開始。
アイコンは佐倉、ヘッダーは美術部。
投稿文の案は、ここに書いて提出よろしく」
A4の紙に印刷された“運用ガイド”には、無難なテンプレが並ぶ。
「#文化祭まであと○日」「#今日の準備」。
俺はペンでさらさらと書き込みながら、ふと別の提案を書いてみた。
――“今日も生き延びた人、えらい。文化祭まで、いっしょに。”
(やりすぎか? いや、ギリギリ通る)
提出トレイに紙を置こうとしたところで、横から湊の手が伸びた。
「いいじゃん、それ。委員長、これ採用で」
「え、勝手に決めるなよ朝霧」
「責任は俺が取る。炎上したら土下座する」
「炎上するほど読まれねえって」
笑いが起きて、委員長が頷く。
「じゃあ、その一文でいくか。柔らかくて、いい」
紙がトレイに吸い込まれていく。
俺はちいさく息を吐いた。
“ユナ”の言葉が、“佐倉”として校内に出る。
名前は違っても、届けたいものは同じだ。
帰り際。
昇降口で靴を履き替えていると、後ろから肩を叩かれた。
「佐倉、今日のツイ文、良かったな」
湊だ。
「まだ出してないけど」
「出してないけど、もう良かった」
「なにその言い方」
「未来に先回りして褒めてる。…で、今日このあと、空いてる?」
「え」
「横断幕の色、もう一段階だけ詰めたくて。…あ、いや、無理ならいい」
「いや、いいけど」
「助かる」
助かる。
彼の口から出るその二文字は、どれも重い。
俺は頷いて、校門を出た。
校舎を離れて少し歩くと、空は薄い藍色に変わっていった。
風が強い。
住宅街の角を曲がったあたりで、湊が急に足を止めた。
「……つけられてる」
「え」
「さっきから、スマホのカメラ音、した」
背中が冷たくなる。
(まさか)
振り返ると、電柱の影でスマホを持つ人影が見えた。
フード。マスク。
視線がすぐ逸らされたから、確信はない。
けれど、“気配”は残った。
湊はため息を押し殺して、俺の前に一歩出る。
「大丈夫。コンビニに入る。明るい場所に出れば、引く」
「……わかった」
コンビニで少し時間を潰し、出ると、影はもうなかった。
湊はコーヒーとホットティーを二つ買って、俺に渡す。
「こっちが甘いほう」
「なんでわかった」
「観察」
またそれだ、と笑う。
紙コップを手に、俺は息を吐いた。
甘い。ちゃんと甘い。
体の隅まで、ゆっくり戻ってくる。
「佐倉」
「ん」
「困ったら、すぐ言え。……それができないなら、俺が聞く」
その言い方は、放課後のメモと同じだった。
強引じゃない。だけど退路はない。
「うん」
やっと言えた返事は、思っていたより小さかった。
その夜。
配信の準備をしていると、通知が重なる。
《【問い合わせ】素顔インタビューについて》
《【匿名】“公開したくなければ話がある”》
(来た)
胃が縮こまるのを自覚しながら、ファイルをフォルダに整理する。
証拠は溜める。感情はメモらない。
湊に教えられた“守り方”を、そのまま手順にする。
配信タイトルは、《【ささやき】がんばり方の角、今日は少し丸くしよう》。
ライブ開始。
チャットの波。
“minato_”の名前が流れ込む。
《今日も寄りかかっていい?》
(いつでも来い)
ユナの声で、俺は囁く。
「もちろん。
ほら、ここ――肩。…ふふ、固い。
息、合わせよう。すー……はー……
うん、上手。
あなたがうまく甘えられなくても、私が“甘えさせる側”になれるからね」
《強い言葉だな》
《でも、それが必要な夜ってある》
《助かる》
“minato_”の文字が、ゆっくりと線を描く。
その線は、俺の胸の真ん中を通る。
(守る。絶対に、守る)
誰を? “あなた”を。
そして、湊を。
同じことを、二度誓う。
配信後。
証拠フォルダにスクショを追加し、DMの時刻とIPの断片をメモする。
やるべきことをやった、はずなのに、落ち着かない。
ベッドにひっくり返る。天井を見上げる。
スマホが震えた。
《湊: 明日、例の件まとめよう。時系列、俺がテンプレ作る》
《湊: あと、文化祭SNS、初投稿な。》
《湊: “今日も生き延びた人、えらい”。…いい言葉だ》
指が勝手に動く。
《陽: ありがと》
すぐ既読。
すぐ返事。
《湊: おやすみ。生き延びろ》
(はい)
胸の中で返事をして、目を閉じた。
翌日。
文化祭SNSの初投稿が、朝のホームルーム前に公開された。
【今日も生き延びた人、えらい。文化祭まで、いっしょに。】
いいねが少しずつ増える。
「なんか、やさしい文だな」
「このアカ、雰囲気いい」
教室でそんな声が聞こえて、俺は知らん顔で筆箱を開けた。
「佐倉、バズってる」
湊がスマホを見せてくる。
“引用”に、他クラスのアカや先生のアカが並んでいた。
「“生き延びた人、えらい”。これ、流行るぞ」
「流行らせる言葉じゃない」
「でも、必要とされる言葉だ」
必要とされる。
その言葉は、俺の弱点であり、燃料だ。
湊が、俺を必要としている。
“ユナ”として。
“陽”として。
同時に。
授業が終わるたび、準備に戻るルーティン。
午後の光が白く傾き始めたころ、委員長が手を叩いた。
「よし、横断幕は今日で完成させるぞー!」
歓声。
仕上げの文字入れは、俺と湊の担当になった。
細い筆、吸い込むような黒。
緊張で手が震えそうになると、湊が横からささやく。
「大丈夫。俺が支える」
えっ、と思う間もなく、湊は俺の手首をそっと押さえ、筆圧を整えてきた。
体温が移る。
線が、まっすぐ引ける。
(ずるい。そういうの、ずるい)
仕上がった最終ラインを見て、教室から歓声が上がる。
「すげー!」「プロじゃん!」
委員長が親指を立てる。
「完璧! インスタ映えする!」
湊が、俺の耳もとで小さく言った。
「――お疲れ、優しい人」
心臓が、ほんとに跳ねた。
「はい、撤収!」
道具を片付け、机を元の位置に戻す。
クラスメイトがぞろぞろ帰って、教室は二人きりになった。
夕焼けの横顔で、湊が笑う。
「なあ、ちょっと散歩しない?」
「散歩?」
「近くの神社。噂で、“願い事を一つ叶えるベンチ”があるって」
バカみたいだ、と思ったけど、行くことにした。
俺たちは並んで歩いた。
住宅街の夕方は、洗濯物の柔軟剤の匂いがした。
神社の石段を上がる。風鈴が鳴る。
境内は誰もいない。
噂のベンチは、古びた木の長椅子で、鳥居が正面に見えた。
「願い、叶えてくれるらしい」
「誰が?」
「風とか」
「あいまいだな」
「いいんだよ、曖昧で。……座ろ」
俺たちは肩を並べて座った。
沈む陽が、鳥居の向こうに押し込まれていく。
しばらく黙ってから、湊が言った。
「願い、ひとつだけ」
「うん」
「“無事”」
「……」
「それしかない。俺の、君の、みんなの。……無事」
それは、俺が毎晩“あなた”へ言っている言葉だった。
願いであり、祈りであり、呪文。
俺は、胸の中で同じことを願った。
(無事。…無事でいてくれ)
「佐倉」
「ん」
「俺、ファンミ、絶対当てるから」
来た。
真正面から来た。
「直接、ありがとう言いたい」
「……そっか」
「迷惑?」
「迷惑じゃない」
「よかった」
湊は笑った。その笑顔は、救いでもあり、刃でもある。
俺は、呼吸の仕方を思い出すのに、数秒かかった。
「帰ろっか」
「うん」
立ち上がると、風鈴がまた鳴った。
神社を出ると、空は藍色に変わっていた。
長椅子の上に、ちいさな影だけが残った気がした。
家に戻ると、デスクに置いてあったノートの上にメモが一枚。
《スタジオ側、ブース調整完了。搬入口の導線見直し。ストラップ外す》
友人スタッフからの置き手紙だ。
ストラップ――購買のやつ。
(捨てるの、ちょっと寂しいけど)
そのまま封筒に入れて、引き出しの奥にしまう。
思い出は、外ではなく、内側で持ち歩けばいい。
PCを開いて、台本に追記する。
――“あなた”が今日も無事なら、それだけで十分。
――“ありがとう”は、受け取れる形で受け取る。
――境界線は、守るために引く。
保存。
そのとき、窓の外でバイクの音がした。
低く長い、嫌な音。
胸騒ぎ、というより、体が先に固まった。
スマホが震える。
《匿名: “ユナ”に会った。次は“君”に会う。》
文章の末尾に、俺の家の近くで撮られたであろう夜景の切れ端。
(やばい)
背中が冷たい。
同時に、別の通知。
《湊: 明日、朝早めに学校行く。相談の続き、やろう。…おやすみ》
二つのメッセージの温度差に、頭がくらくらした。
(怖い、より先に――)
(守らなきゃ、が来た)
自分でも驚くほど、真っ先に浮かんだのは湊のほうだった。
――俺は、誰も傷つけさせない。
――“あなた”にも、湊にも。
画面を消し、拳を握る。
折れないための“声”がここにある。
震えは、あとでいい。
今は、準備をする。
翌朝。
俺はいつもより早く学校に着いた。
昇降口で靴に履き替えていると、背後から気配。
反射的に振り向く。
――カシャ。
乾いたシャッター音。
電光石火でスマホを掲げる影。
一瞬遅れて、足が勝手に動く。
「待て!」
追いかける。
影は踵を返し、廊下を駆ける。
角を曲がる。
非常階段を降りる。
外へ出る。
(追いつかない…!)
息が上がる。
その時、角から逆サイドの影が飛び出した。
「そこ、止まれ」
湊。
足音の刃が、相手の退路を断つ。
影は握っていたスマホを落とし、舌打ちして逃げた。
湊は追わない。
落ちたスマホを拾って、眉を寄せた。
「……ロック、外れてる」
「開く?」
「開く」
画面に並ぶ写真アイコン。
スタジオ裏口、電柱の影、校門、俺の後ろ姿――そして、見覚えのある夜景。
湊は深呼吸して、俺に画面を見せた。
「――終わらせよう。今日」
喉が、震えた。
それは、勇気の震えだった。
その日の放課後、俺たちは、証拠一式をまとめて持っていった。
時間、場所、相手のハンドル、ログイン記録、Exif、脅迫文。
淡々と、必要なことだけを言う。
湊は横で、必要な時だけ補足し、必要な時だけ手を握った。
(握るな…集中切れる…)
でも握ってほしい。
矛盾した気持ちは、ふたりで半分ずつ持てばいい。
全てが終わって、外に出ると、夕焼けはオレンジから群青へ移り変わっていた。
湊が口を開く。
「……佐倉」
「ん」
「これで、ひとつ片づいた」
「うん」
「じゃあ、約束」
「約束?」
「“これが終わったら、一つ聞かせて”」
心臓が鳴る。
逃げ道は、もうない。
湊の瞳はまっすぐで、どこにも刃はないのに、俺の喉元で光って見えた。
「君は――ユナなの?」
夕風が、横断幕の端をさらさら揺らす音を連れてきた。
俺は、息を吸う。
長く、深く。
(嘘をやめるために、言う)
夕暮れの風が、横断幕の端をふわりと揺らす。
その前で、湊の問いが宙に残っていた。
「君は――ユナなの?」
息を飲んだまま、俺は答えられない。
嘘をつけば、壊れる。
本当を言えば、もっと壊れる。
どちらも怖い。
けれど湊は、静かに微笑んだ。
「今は答えなくていい。……でも、俺は信じたい」
その笑みは、まるで「逃げ道ごと抱きしめる」みたいで、胸がぎゅっと痛くなる。
帰り道。
暮れかけの空の下、俺と湊は並んで歩いていた。
沈黙が気まずいわけじゃない。ただ、鼓動が近すぎる。
アスファルトに濡れた雨粒が光って、街灯がともり始める。
ふいに湊が、俺の手から傘を取り上げた。
「ほら、ちゃんと真ん中に入れ。濡れる」
「……俺、大丈夫だから」
「大丈夫じゃない」
きっぱりと言って、肩ごと引き寄せられる。
温度が近い。
傘の下にできた小さな世界で、湊の横顔はやけに近かった。
「……こうしてたら、俺が守れる気がする」
「……なんでそこまで」
「理由なんかいらないだろ。好きだから」
一拍置いて、心臓が跳ねる。
(今、好きって言ったよな!?)
声に出せず、耳まで熱くなる。
湊は悪びれもせず、まっすぐ前を見て歩いている。
その自然さが、逆に刺さる。
夜。
パソコンの前でマイクに向かう。
《【ささやき】寄りかかって眠ろう》
タイトルを読み上げると、チャット欄が一気に流れる。
“minato_”:
《今日も寄りかかっていい?》
(……まただ)
昼間と同じ言葉。
俺は“ユナ”の声で微笑みを混ぜて囁いた。
「もちろん。不器用でも、甘えていいんだよ。私は受け止めるから」
コメントが止まり、数秒後に一言。
《……ありがとう。俺、ほんとに助かってる》
胸がいっぱいになる。
昼間の雨の匂いと、湊の体温と、このコメントが重なって、俺は一瞬、本当に泣きそうになった。
配信を終えると、机の上のスマホが震えた。
湊からのメッセージ。
《佐倉。今日もありがとう。……俺、やっぱりユナに会いたい》
《ファンミ、当てるから。直接、言いたいんだ。“ありがとう”って》
手が震えた。
もう逃げられない。
けれど同時に、心の奥で小さな期待が火を灯す。
彼に“ありがとう”をもらえるなら――それは俺にとって最高の報酬だ。
「ファンミ、絶対当てる」――その宣言は、恋と秘密を同時に暴き出す刃だった。
次に会う時、俺はもう仮面だけではいられない。
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