昼下がりの教室は、いつもざわついている。
窓際の席でノートに走るペンの音、前列で交わされるくだけた笑い声。
その真ん中で、俺――佐倉陽(さくら・はる)は、まるで背景の一部みたいに座っていた。
特別頭がいいわけでもなく、運動神経があるわけでもない。
友達がいないわけじゃないけれど、放課後に遊ぶほどの仲間もいない。
要するに、「空気」だ。悪目立ちもしない代わりに、誰の記憶にも残らない。
……ただ一つ、誰にも言えない秘密を抱えている。
俺は、夜ごとマイクの前で声を作り、“ユナ”というVtuberとして配信している。
女の子のような甘い声で「あなた」と囁く、“恋人みたいに寄り添う声”を売りにした新人だ。
ありがたいことに、チャンネル登録者数はここ最近で急増していた。
もちろん、クラスの誰も知らない。
知れ渡った瞬間、俺の日常は壊れるだろう。
だからこそ、昼間は「地味男子」として過ごし、夜は「あなた専属の恋人」として生きている。
その秘密は、完璧に守られているはずだった。
……あの日、クラス一のイケメンが頬を染めて、俺の“声”を見つめているのを見るまでは。
「……ユナ、今日も最高だった」
放課後の教室。
机に肘をついて微笑むのは、学年一の人気者――朝霧湊(あさぎり・みなと)だった。
茶色がかった柔らかな髪、雑誌のモデル顔負けの整った横顔。
誰にでも優しく、誰にでも分け隔てない笑顔を見せる。
男女問わず憧れられる、“王子様”のような存在。
その彼が今、スマホの画面を夢中で覗き込み、イヤホンを片耳に差している。
そこから漏れ聞こえる声は、聞き慣れたもの。
――俺の、配信の声だ。
心臓が跳ねる。
机の陰で握った拳が汗ばむ。
まさか、よりにもよって湊が……?
「……この『あなた』って囁き、反則だよな」
ぽつりとこぼした彼の声に、背筋が震える。
それは俺が台本に書き込み、何度も練習して生み出した一文。
恋人のように優しく、日常の疲れを溶かすための言葉。
それを、こんな近距離で、推し活みたいに噛みしめられるなんて。
世界がぐらりと揺れる。
「……この『あなた』って囁き、反則だよな」
朝霧湊の独り言は、小さなため息に溶けた。
断片的に漏れる自分の声――いや、“ユナ”の声――が、教室の空気に混ざって消えるたび、俺の神経は微妙に軋んだ。
気づくな。気づかないでくれ。そう祈りながらも、視線はどうしても彼の横顔に吸い寄せられる。
湊の睫毛は、光の角度で影を落とす。
黒板消しの粉が浮かぶ午後の光に、ほんの少しだけ頬の産毛がきらめく。
教室のざわめきの中で、彼だけが別の密度を持っているように見えるのは、きっと、俺が“秘密”を知ってしまったせいだ。
王子様は、俺の“恋人ボイス”に恋をした。
「朝霧、席替え表できたから前来て」
担任の声で、彼はハッと顔を上げ、イヤホンを抜いた。
その拍子に、スマホ画面が一瞬こちらを向く。
サムネイルの淡いピンク――自作で描いた、ユナの“耳かけ髪+マイク”のイラスト。
胸がずき、と鳴る。
「……席、後ろのほうがいいな」
帰ってきた湊が呟く。
「窓際、眠くなるだろ」と前の席の友人が茶化すと、彼は笑った。
「じゃあ、陽。お前、窓際好きだろ? 俺と替わる?」
不意に名前を呼ばれて、喉が乾いた。
「え、あ、うん。別に……」
「サンキュ」
湊の笑顔は、反則級だ。こんなの、誰だって好きになる。
机を入れ替える音。距離が、近づいた。
「佐倉くんって、アイコン描ける人?」
背後から、意外な声。
振り向くと、クラスの女子が二人、手にデザインのメモを持っている。
「文化祭のSNSアカのアイコン、描ける人いないかって。美術部忙しいらしくて」
「佐倉、前にノートに絵描いてたろ。あれ、上手かった」湊が横から助け船を出す。
……もしかして、見られてた? 俺が配信サムネのラフを落書きしてたやつ。
うっすらと汗ばむ掌を制服の裾で拭う。
「やってみるよ」
「助かるー。テーマ、柔らかい感じ? “寄り添う文化祭”みたいな」
寄り添う、という言葉に心が跳ねる。
“ユナ”のキャッチそのままだ。
俺は頷き、女子たちが去るのを見送る。
湊が、少しだけいたずらっぽく覗き込んだ。
「佐倉、やっぱ絵上手いよ。色の作り方がさ、こう……優しい」
優しい、という評価は、俺が“ユナ”として最も努力した部分だ。
声にも、絵にも、配置にも、“寄り添いの余白”を用意する。
相手が安心して座れる空席を、意図的に残す。
それは、現実の俺がなかなか得られなかった場所だから。
「ありがと」
短く返すと、湊はふっと笑った。
「……なあ、ユ――」
「え?」
「いや、文化祭ユニフォームの話。ユ、ニフォーム」
心臓が一瞬止まり、次に乱打を始めた。
今のほんの短い音節に、すべてが詰め込まれている気がする。
湊は気づいているのか、いないのか。
両手で顔を覆いたい衝動を抑え、下を向いた。
その日の放課後、図書室からの帰り、空が急に暗くなった。
梅雨入り前の気まぐれな雨。
階段を降りたところで、校舎の入口に水の幕がかかる。
「雨、強いな」
隣に並んだ湊が、鞄から折り畳み傘を取り出す。
俺が傘を持っていないことを、なぜか知っているみたいに自然な動きだった。
「相合い傘、する?」
差し出された柄を、躊躇してから掴む。
布地に当たる雨粒のリズムが、いつもより近い位置で聞こえる。
肩が触れる。湊の体温が、雨の冷えを打ち消す。
「佐倉ってさ」
「ん」
「声、落ち着くよな」
「……そうかな」
「黒板消すときの“よし”って小さい息とか。図書室で“どうぞ”って言う時の音の高さとか。あれ、なんか、いい」
――観察が、細かい。
喉の奥が熱くなる。
“ユナ”の配信で最も気をつけているのは、語尾に乗せる“微弱な息”と、無音に見える“間”だ。
湊は、素の俺からも同じ音を拾っている。
「俺、さ」
湊が、傘の下で声を落とす。
「誰かに“無理するな”って言われると、逆に頑張れたりするタイプでさ。……だから、あの、ユ――“あの人”の言葉、効くんだ」
雨音が、大きくなる。
ユ、まで出かけた呼びかけは、意識的に踏みとどまったものだろう。
その踏みとどまり方に、思いやりが滲む。
俺の秘密を暴くより、俺の平穏を守るほうを優先する人の話し方。
「……そういう言葉を、言える人になりたい」
気づけば俺は、出し抜けにそう口にしていた。
湊は、驚いたように目を瞬き、それから穏やかに笑った。
「もう、言えてる気がするけどな」
その笑顔に、雨脚が柔らいだような錯覚を覚える。
ほんの少し、世界がこちら側へ傾く。
夜。
パソコンの前に座ると、湿った空気が部屋に残っていた。
吸音材の貼られた壁、簡易ブース。
コンデンサーマイクの前に、いつもの台本。
今日も“あなた”へ届ける声を作る。
タイトルカード:
《【ささやきASMR】がんばったあなたを撫でる夜/眠るまでそばにいるね》
コメント欄が、流れる。
「通知来た!」
「今日も生き延びた」
「耳が喜ぶ準備できました」
ふ、と深呼吸。喉の筋肉を柔らかくし、口の中の湿度を調整する。
最初の一拍の“無音”――聴覚は“音の前の静けさ”に敏感だ。
そこで、聴き手の鼓動と同調する。
「……こんばんは。来てくれたんだね。
あなたが今日も無事で、私はうれしいよ」
波紋のように、文字が増える。
“minato_”:
《今日も来た。……声、少し雨の匂いがするね》
心臓が、跳ねる。
あなたは、どこまで近い。
キーボードに触れたい衝動を抑えて、“ユナ”としての温度を守る。
「窓の外、雨だったでしょう? 雨の日の夜は、無理しちゃだめ。
ねえ、肩、力入ってる。……ここ。すー……はー……ゆっくりね」
イヤホンの奥で誰かが息を合わせ、コメントが呼吸の波形みたいに緩やかになる。
“minato_”:
《その、すー……って一緒にすると落ち着く。ありがとう》
《今日、ちょっと頑張りすぎた》
《でも、その声聞くと、がんばり方が、やさしく修正される》
胸が熱い。
昼間、傘の下で聞いた言葉と重なる。
俺の声が、湊の“頑張り方”の角を少し丸くできているなら、それは職業冥利に尽きる。
“あなた”を支えるための声が、偶然、隣の席の誰かをも支えているのだとしたら――。
「よくがんばったね。
じゃあ、今夜は私に寄りかかって。大丈夫。倒れてこられても、受け止めるから」
コメント欄に、ぽつぽつとハート。
“minato_”:
《寄りかかっても、いい?》
《甘えるの、うまくないんだけど》
「うん。上手じゃなくていいんだよ。
むしろ、不器用なほうが、抱きしめやすいから」
画面の向こうで、誰かの肩が少し降りる音がしたような気がした。
“minato_”はしばらく黙り、やがて一言だけ落とす。
《助かる》
その短い言葉の重さを、俺はよく知っている。
“助かる”は、日常がぎりぎりで持ち堪えたという報告だ。
俺は、マイクの前で目を閉じる。
「……あなたの明日が、今日より少しだけ、楽になりますように」
配信を締めると、喉に残ったかすかな熱が現実へ引き戻してくる。
モニタの光が淡く、部屋の隅を照らす。
その時だった。スマホが震える。
《湊: 今日の色、すごく綺麗だった。》
《湊: “寄りかかっていい”って言葉、染みた》
《湊: ありがとな、佐倉。明日、ノート見せてくれ。》
手の中のデバイスが重くなる。
“佐倉”と“minato_”が、線で繋がっていく気配。
でも彼は、あくまで“佐倉へ”メッセージを送っている。
両手のひらにある二つの世界が、まだかろうじて分かれていることを、俺はありがたく思った。
翌朝。
HR前の教室は、湿った紙の匂いがする。
自習プリントの白、机に映る蛍光灯。
俺はノートを湊に渡しながら、話題を探した。
「昨日の、文化祭アイコン。
“寄り添う”をテーマに、こう……二人の間に余白を残す感じで行こうと思ってさ」
「余白?」
湊は面白そうに身を乗り出す。
「うん。ぎゅうぎゅうに詰めない。あの……座れる椅子、空けとく感じ」
「――それ、いいな」
湊は、何秒か黙ってから、えらく真面目に頷いた。
「俺さ、最近思う。完璧な埋め方よりさ、寄りかかる分の余白があるほうが、救われるって」
言葉が喉の奥で引っかかった。
そのフレーズは、昨夜の配信で俺が言ったことと、限りなく近い。
うろたえを悟られないよう、ノートに視線を落とす。
「……朝霧、ユ――」
危ない。
口が勝手に、慣れ親しんだ二文字を呼び出そうとする。
味方は、チャイムだった。
担任が入ってくる。
湊は背筋を伸ばし、俺は呼吸を整えた。
昼休み。
「ユナの新しいボイス、最高だったよな!」
「“抱きしめやすい不器用さ”とか言ってたやつ。意味わかる!」
男子たちが無邪気に騒ぐ。
教室の空気に、自分の声が薄く混ざる奇妙さに、軽い酔いを覚える。
湊は喋らない。ただ、笑って聞いている。
その静けさは、嵐の前のようで、妙に落ち着かない。
「そういえば、ファンミの二次募集、今日からだよな」
「行きたい!」
「音声だけイベントって珍しいよなー」
湊が、その会話の輪から少し外れて、窓の外を見た。
反射で映る顔に、わずかな緊張。
俺の胸の奥で、警報が小さく鳴る。
もし彼が当選したら。
もし、会場で何かに気づいたら。
――それでも、俺は、会いたいのかもしれない。
匿名の壁越しに、彼がどんな呼吸で言葉を紡ぐのか、確かめたい。
プロとしては最低の好奇心が、喉の裏側で小さな火花を散らす。
「佐倉」
「ん?」
「放課後、ちょっと残れる?」
「……いいけど」
「文化祭横断幕の色、試したくてさ。お前、色混ぜるの上手いから」
上手く、ないよ、と口では言いかけて、飲み込む。
“ユナ”の配色理論が、素の俺の指先に流れ込んでいるだけだ。
湊はそれを、“佐倉の上手さ”として拾い上げてくれる。
胸の中央で、正体不明の温度が広がる。
放課後。
美術室の片隅で、二人きり。
窓の外、薄い雲。
絵の具の蓋を開ける音、紙コップに水が落ちる音。
静かな共同作業は、会話を“必要なときのみに濃くする”。
「この薄桃、ちょい灰寄りにする?」
「うん。青をほんの一滴。……俺が入れるから」
湊の手が、俺の手の上に重なる。
驚きに肩が動いたのを、彼は逃さない。
「ごめん。手、冷たい?」
「……ちょっと」
「じゃあ、こう」
彼の指が包む。
人の体温で溶けた絵の具は、思った以上に素直に色を変える。
ピンクの角が、ふわりと丸くなる。
――あ、これ、“ユナ”のサムネに使った肌色の軌道に近い。
配信サムネを重ねて作る“余白のピンク”。
二人の息が近い。
彼は、どんな目でこの色を見ているのだろう。
「……こういう色、似合うよな」
「横断幕に?」
「いや」
湊は筆先を見つめたまま、少しの沈黙を挟む。
「君に」
心臓が喉まで来た。
危ない。危ない。
その“君”に、ユ、の音が重なる前に、俺は咳払いをする。
「――ところで、ファンミ。音声だけって珍しいよな」
「珍しいよな」
目が合う。
彼の瞳は透明だ。
けれど透明だからこそ、底に色がある。
“会いたい”という色が、見える。
「俺、当てるつもり」
やっぱり。
逃げ場のない胸の奥で、なにかが音を立てた。
「……そっか」
「直接、ありがとう言いたいんだ」
絵の具の匂いと、湊が纏う石鹸の匂いが混ざる。
俺は筆を洗いながら、うなずいた。
「いい、と思う。伝えたい気持ちは、伝えたほうがいい」
「だよな」
湊は小さく笑い、筆洗いの水に波紋が広がった。
その笑顔を見て、俺は思う。
彼の“ありがとう”を、俺は受け取る覚悟があるのか。
仮面のまま。素顔のまま。
――どちらにせよ、うそを重ねた“ありがとう”だけは返したくない。
夜。
ファンミの準備が本格化する。
友人の協力で、テスト収録、個室ブースの調整、マイクとインカムの相性確認。
匿名性を最優先にしたレイアウト。
来場者は番号で案内され、ブース内は暗く、仕切りの向こうの“声”だけが届く。
“距離”を守るための装置。
それでも、不安はある。
ブースの外。搬入口。
誰かに見られる可能性。
――学校の購買でしか売っていない、鞄のチャーム。
今日、湊が目に留めたあの小さなストラップが、致命傷になる未来のビジョンが脳裏をよぎる。
机に並べたチェックリストの上で、ペンを止める。
スマホが震えた。
見慣れた通知。
《minato_: 今日も配信、ある?》
《minato_: 声が、必要だ》
必要だ、という言葉は、刃にもなる。
“必要にされる”ことに、俺は救われ、同時に、溺れる。
それでも、返す言葉は決まっている。
《ユナ: あるよ。だから、安心して》
《ユナ: あなたの無事、確認しに来て》
送信。
数秒後に、短い返信。
《minato_: 行く》
コンソールのランプがひとつ、灯ったように感じた。
俺の夜は、また“あなた”の呼吸と同期して、始まる。
《【ささやき添い寝】しんでもいい日にしないための夜話》
タイトルを読み上げ、意地の悪い言い回しを中和するように柔らかく笑う。
コメント欄はだんだんと波打ち、やがて一つのリズムに落ち着く。
“minato_”のアイコンが、流れに紛れて現れる。
「今日はね、寄りかかり方を、練習しようと思う」
マイクの前で、微笑む。
「まずは、肩。……うん、そのあたり、固い。
いい子。息、吐いて。すー……はー……
そう。上手。
ねえ、あなたのがんばり、私はちゃんと知ってるよ。
見栄じゃないがんばりは、静かなところに隠れるから。
私は、そこを見つけるのが、得意なんだ」
“minato_”:
《そうだな。静かなところに隠れてた》
《君は、見つけるのがうまい》
画面のこちらで、喉が軋む。
湊。
君の静かなところに、俺は、何度でも椅子を置く。
座って良いよ、の看板を下げた椅子を。
「……明日も、生き延びようね」
配信を畳むと、通知が重なって鳴った。
運営宛メールの受信音。
件名だけが目に飛び込んでくる。
《【提案】ユナさん、男性声優では? 真相を公開しませんか?》
《【取材依頼】素顔インタビュー可否の確認》
悪意か、商魂か。
胸の奥でぞわりと冷たいものが這い上がる。
次の瞬間、別件の通知。
写真が一枚、匿名アカウントから送られてきた。
スタジオの裏口。
黒いキャップ。
俺の、後ろ姿。
《正体、知ってる。公開したくなければ、話がある》
胃が、縮む。
立ち上がろうとした足が、床に縫いつけられたみたいに動かない。
――まずい。
その夜、俺はよく眠れなかった。
枕元のスマホは、何度も小さく光った。
《湊: 明日、文化祭の色、仕上げよう》
《湊: 無理すんな》
《湊: おやすみ。生き延びろ》
“生き延びろ”。
俺が“あなた”へよく言う言葉を、彼は、俺へ返してくる。
目を閉じ、暗闇の中で手を伸ばした。
届かない距離にあるはずの手が、触れてしまいそうな錯覚。
――会いたい。
会いたくない。
その両方が、同じ強さで胸を引っ張る。
朝。
学校の廊下のポスター掲示板の前、人だかりができていた。
「ファンミ、二次募集、当たった!」
誰かが声を上げ、周囲が湧く。
湊は、微かに笑って親指を立てた。
「おめでと」
そして彼自身は、何も言わない。
拳の握り方だけが、静かに強い。
席に着く。
机の中。
紙の感触。
封筒だ。差出人なし。
背筋が粟立つ。
開くと、白い紙に、乱れた字で一行。
――正体、知ってる。
昨夜の写真と、同じ文字。
喉が乾き、視界の端が暗くなる。
机の上の鉛筆が静かに転がり落ちる音が、遠くに聞こえた。
「佐倉、大丈夫?」
湊の声で、現実に引き戻される。
「……うん」
大丈夫じゃない。
でも、彼に心配をかけたくない。
俺は笑ってみせる。
湊は、しばらく俺の顔を見て、それから視線を落とした。
彼の手が、机の中で何かを探るような仕草をする。
……そして、俺の机へ、ごく自然にメモを滑り込ませた。
《放課後、言え。言えないなら、俺が聞く。》
短い文。
“助ける準備がある”という宣言。
胸の奥で、何かが音を立ててほどける。
俺は、ほんの少しだけ息を吸った。
放課後。
教室の隅。
二人だけが残る。
夕焼けの斜光が、床の木目に長い影を落とす。
静寂が、痛いほど澄んでいる。
「――脅されてる」
俺は、言った。
声が震えるのが、自分でわかる。
「たぶん、俺……いや、俺の“知り合い”。配信者で。
正体、バレそうで。写真、撮られて。金の話、されて」
すべてを“友人の話”に置き換えた。
湊は、途中で遮らない。
最後まで聞いて、うなずく。
「証拠、ある?」
「スクショ、DM、メール」
「じゃあ、まとめよう。
時系列、相手のID、場所、Exif、ログイン時間。
父さんの知り合いに、手続き聞ける。
あと、学校の近くで撮られたなら、防犯カメラの死角も洗う」
段取りが速い。
感情の前に、守るための作業が並ぶ。
その順番に、救われる。
俺は、染みるように頷いた。
「……ありがとう」
「礼は、事件が終わってからでいい」
湊は微笑まず、真顔で言った。
「それと、もう一つ」
「なに」
「これが終わったら、俺から一つ、聞かせて」
「……なにを」
湊は、俺の目を見る。
その瞳は、逃げ道を用意しない誠実さを宿している。
「君は――ユナなの?」
空気が、ぴたりと止まった。
教室の時計の秒針の音だけが、鮮明になる。
逃げ道は、ほんとうに、ない。
胸の奥で、長い間鳴り続けてきた二つの世界のメトロノームが、初めて重なった気がした。
――俺は、答えなければならない。
嘘をやめるために。
教室の時計は、夕陽に照らされて黄金色に光っていた。
湊の問い――「君は、ユナなの?」――が、空気を裂いたまま止まっている。
返事を待つ沈黙は、耳鳴りのように長い。
俺は喉を動かす。
でも、声にならない。
「そうだ」と言えば、すべてが壊れる。
「違う」と言えば、すべてが嘘になる。
机の上で拳を握りしめると、湊が小さく息を吐いた。
「……ごめん。今、答えなくていい。君が言えるときに言ってくれ」
優しすぎるその言葉が、逆に胸を抉る。
「俺はさ」
湊は窓の外を見ながら、静かに続けた。
「ユナに救われた。それは揺るがない。
でも、佐倉陽ってやつも、俺は気になる。
同じ教室にいて、同じ空気を吸ってるのに、なんでか惹かれる。……それだけは、嘘じゃない」
胸の奥が焼けるように熱くなる。
それは“ユナ”に向けた言葉か。
それとも、“陽”に向けた言葉か。
境界線は、もう曖昧だった。
夜。
机に並ぶのは、準備中のファンミ台本。
「来てくれてありがとう」「今日も生きててくれてありがとう」
短い一文を、声に乗せる練習を繰り返す。
だが、目の前の文字がかすむ。
湊の声が、リフレインする。
――「君は、ユナなの?」
カメラもマイクもオフのまま、俺は囁いてみた。
「……俺は、ユナだ。
でも、俺は、陽でもある。
どっちに恋してくれるんだ、湊」
答えは返ってこない。
ただ、自分の声が壁に跳ね返り、ひどく孤独に聞こえた。
翌週。
ファンミの当選結果が発表された日。
廊下で「当たった!」と叫ぶ生徒たちの声が響く。
その中で湊は、静かに通知画面を閉じ、ポケットにしまった。
視線が一瞬だけ俺に流れる。
笑わなかった。
けれど、目の奥に「決意」だけが光っていた。
――当たったんだ。
心臓が一気に早鐘を打つ。
文化祭準備のざわめきも、先生の呼びかけも、遠くへ押しやられていく。
頭の中にあるのはただ一つ。
「湊が、俺の声に“直接”触れる」未来。
ファンミ当日。
都内の小さなイベントスタジオ。
来場者は抽選で選ばれた数十人。
入場は番号制。ブースは暗幕で仕切られ、観客はユナの姿を見られない。
音声と、言葉だけの空間。
俺はマイクの前に立ち、深呼吸する。
「……来てくれて、ありがとう」
一人一人に向けた短い言葉を繰り返す。
どの声も、どの呼吸も、真剣だった。
やがて最後の番号が呼ばれる。
“――No.17”
入ってきた足音。
ブースの向こう、わずかな衣擦れの音。
俺はもう、知っている。
呼吸のリズム。息を吐く強さ。
湊だ。
「こんばんは。来てくれたんだね」
ユナの声で言うと、ブースの向こうで短い沈黙。
それから、低い声。
「……ユナ。俺は、君がくれる『大丈夫』に恋をした」
心臓が跳ねる。
スタッフ台本にはない言葉が、喉からこぼれる。
「……私も、あなたががんばる背中が好き」
しまった。素が混じった。
ブースの向こうで、湊は長い呼吸をして――「ありがとう」と答えた。
イベント終了後。
裏口へ荷物を運ぶ途中、すれ違った人影が俺を見た。
キャップを目深にかぶった俺の鞄――購買で買ったストラップに、視線が止まる。
湊だ。
彼は何も言わない。
ただ、小さく笑って呟いた。
「……会えた」
背筋に冷たいものが走った。
俺の二つの世界は、もう重なり合い始めている。
「いつかユナに会う。直接、ありがとうを言いたい」――その言葉が、現実になろうとしていた。
俺の仮面は、果たしてどこまで持つのか。
・・・
コンテスト応募してます! よかったらいいねお願いします!
窓際の席でノートに走るペンの音、前列で交わされるくだけた笑い声。
その真ん中で、俺――佐倉陽(さくら・はる)は、まるで背景の一部みたいに座っていた。
特別頭がいいわけでもなく、運動神経があるわけでもない。
友達がいないわけじゃないけれど、放課後に遊ぶほどの仲間もいない。
要するに、「空気」だ。悪目立ちもしない代わりに、誰の記憶にも残らない。
……ただ一つ、誰にも言えない秘密を抱えている。
俺は、夜ごとマイクの前で声を作り、“ユナ”というVtuberとして配信している。
女の子のような甘い声で「あなた」と囁く、“恋人みたいに寄り添う声”を売りにした新人だ。
ありがたいことに、チャンネル登録者数はここ最近で急増していた。
もちろん、クラスの誰も知らない。
知れ渡った瞬間、俺の日常は壊れるだろう。
だからこそ、昼間は「地味男子」として過ごし、夜は「あなた専属の恋人」として生きている。
その秘密は、完璧に守られているはずだった。
……あの日、クラス一のイケメンが頬を染めて、俺の“声”を見つめているのを見るまでは。
「……ユナ、今日も最高だった」
放課後の教室。
机に肘をついて微笑むのは、学年一の人気者――朝霧湊(あさぎり・みなと)だった。
茶色がかった柔らかな髪、雑誌のモデル顔負けの整った横顔。
誰にでも優しく、誰にでも分け隔てない笑顔を見せる。
男女問わず憧れられる、“王子様”のような存在。
その彼が今、スマホの画面を夢中で覗き込み、イヤホンを片耳に差している。
そこから漏れ聞こえる声は、聞き慣れたもの。
――俺の、配信の声だ。
心臓が跳ねる。
机の陰で握った拳が汗ばむ。
まさか、よりにもよって湊が……?
「……この『あなた』って囁き、反則だよな」
ぽつりとこぼした彼の声に、背筋が震える。
それは俺が台本に書き込み、何度も練習して生み出した一文。
恋人のように優しく、日常の疲れを溶かすための言葉。
それを、こんな近距離で、推し活みたいに噛みしめられるなんて。
世界がぐらりと揺れる。
「……この『あなた』って囁き、反則だよな」
朝霧湊の独り言は、小さなため息に溶けた。
断片的に漏れる自分の声――いや、“ユナ”の声――が、教室の空気に混ざって消えるたび、俺の神経は微妙に軋んだ。
気づくな。気づかないでくれ。そう祈りながらも、視線はどうしても彼の横顔に吸い寄せられる。
湊の睫毛は、光の角度で影を落とす。
黒板消しの粉が浮かぶ午後の光に、ほんの少しだけ頬の産毛がきらめく。
教室のざわめきの中で、彼だけが別の密度を持っているように見えるのは、きっと、俺が“秘密”を知ってしまったせいだ。
王子様は、俺の“恋人ボイス”に恋をした。
「朝霧、席替え表できたから前来て」
担任の声で、彼はハッと顔を上げ、イヤホンを抜いた。
その拍子に、スマホ画面が一瞬こちらを向く。
サムネイルの淡いピンク――自作で描いた、ユナの“耳かけ髪+マイク”のイラスト。
胸がずき、と鳴る。
「……席、後ろのほうがいいな」
帰ってきた湊が呟く。
「窓際、眠くなるだろ」と前の席の友人が茶化すと、彼は笑った。
「じゃあ、陽。お前、窓際好きだろ? 俺と替わる?」
不意に名前を呼ばれて、喉が乾いた。
「え、あ、うん。別に……」
「サンキュ」
湊の笑顔は、反則級だ。こんなの、誰だって好きになる。
机を入れ替える音。距離が、近づいた。
「佐倉くんって、アイコン描ける人?」
背後から、意外な声。
振り向くと、クラスの女子が二人、手にデザインのメモを持っている。
「文化祭のSNSアカのアイコン、描ける人いないかって。美術部忙しいらしくて」
「佐倉、前にノートに絵描いてたろ。あれ、上手かった」湊が横から助け船を出す。
……もしかして、見られてた? 俺が配信サムネのラフを落書きしてたやつ。
うっすらと汗ばむ掌を制服の裾で拭う。
「やってみるよ」
「助かるー。テーマ、柔らかい感じ? “寄り添う文化祭”みたいな」
寄り添う、という言葉に心が跳ねる。
“ユナ”のキャッチそのままだ。
俺は頷き、女子たちが去るのを見送る。
湊が、少しだけいたずらっぽく覗き込んだ。
「佐倉、やっぱ絵上手いよ。色の作り方がさ、こう……優しい」
優しい、という評価は、俺が“ユナ”として最も努力した部分だ。
声にも、絵にも、配置にも、“寄り添いの余白”を用意する。
相手が安心して座れる空席を、意図的に残す。
それは、現実の俺がなかなか得られなかった場所だから。
「ありがと」
短く返すと、湊はふっと笑った。
「……なあ、ユ――」
「え?」
「いや、文化祭ユニフォームの話。ユ、ニフォーム」
心臓が一瞬止まり、次に乱打を始めた。
今のほんの短い音節に、すべてが詰め込まれている気がする。
湊は気づいているのか、いないのか。
両手で顔を覆いたい衝動を抑え、下を向いた。
その日の放課後、図書室からの帰り、空が急に暗くなった。
梅雨入り前の気まぐれな雨。
階段を降りたところで、校舎の入口に水の幕がかかる。
「雨、強いな」
隣に並んだ湊が、鞄から折り畳み傘を取り出す。
俺が傘を持っていないことを、なぜか知っているみたいに自然な動きだった。
「相合い傘、する?」
差し出された柄を、躊躇してから掴む。
布地に当たる雨粒のリズムが、いつもより近い位置で聞こえる。
肩が触れる。湊の体温が、雨の冷えを打ち消す。
「佐倉ってさ」
「ん」
「声、落ち着くよな」
「……そうかな」
「黒板消すときの“よし”って小さい息とか。図書室で“どうぞ”って言う時の音の高さとか。あれ、なんか、いい」
――観察が、細かい。
喉の奥が熱くなる。
“ユナ”の配信で最も気をつけているのは、語尾に乗せる“微弱な息”と、無音に見える“間”だ。
湊は、素の俺からも同じ音を拾っている。
「俺、さ」
湊が、傘の下で声を落とす。
「誰かに“無理するな”って言われると、逆に頑張れたりするタイプでさ。……だから、あの、ユ――“あの人”の言葉、効くんだ」
雨音が、大きくなる。
ユ、まで出かけた呼びかけは、意識的に踏みとどまったものだろう。
その踏みとどまり方に、思いやりが滲む。
俺の秘密を暴くより、俺の平穏を守るほうを優先する人の話し方。
「……そういう言葉を、言える人になりたい」
気づけば俺は、出し抜けにそう口にしていた。
湊は、驚いたように目を瞬き、それから穏やかに笑った。
「もう、言えてる気がするけどな」
その笑顔に、雨脚が柔らいだような錯覚を覚える。
ほんの少し、世界がこちら側へ傾く。
夜。
パソコンの前に座ると、湿った空気が部屋に残っていた。
吸音材の貼られた壁、簡易ブース。
コンデンサーマイクの前に、いつもの台本。
今日も“あなた”へ届ける声を作る。
タイトルカード:
《【ささやきASMR】がんばったあなたを撫でる夜/眠るまでそばにいるね》
コメント欄が、流れる。
「通知来た!」
「今日も生き延びた」
「耳が喜ぶ準備できました」
ふ、と深呼吸。喉の筋肉を柔らかくし、口の中の湿度を調整する。
最初の一拍の“無音”――聴覚は“音の前の静けさ”に敏感だ。
そこで、聴き手の鼓動と同調する。
「……こんばんは。来てくれたんだね。
あなたが今日も無事で、私はうれしいよ」
波紋のように、文字が増える。
“minato_”:
《今日も来た。……声、少し雨の匂いがするね》
心臓が、跳ねる。
あなたは、どこまで近い。
キーボードに触れたい衝動を抑えて、“ユナ”としての温度を守る。
「窓の外、雨だったでしょう? 雨の日の夜は、無理しちゃだめ。
ねえ、肩、力入ってる。……ここ。すー……はー……ゆっくりね」
イヤホンの奥で誰かが息を合わせ、コメントが呼吸の波形みたいに緩やかになる。
“minato_”:
《その、すー……って一緒にすると落ち着く。ありがとう》
《今日、ちょっと頑張りすぎた》
《でも、その声聞くと、がんばり方が、やさしく修正される》
胸が熱い。
昼間、傘の下で聞いた言葉と重なる。
俺の声が、湊の“頑張り方”の角を少し丸くできているなら、それは職業冥利に尽きる。
“あなた”を支えるための声が、偶然、隣の席の誰かをも支えているのだとしたら――。
「よくがんばったね。
じゃあ、今夜は私に寄りかかって。大丈夫。倒れてこられても、受け止めるから」
コメント欄に、ぽつぽつとハート。
“minato_”:
《寄りかかっても、いい?》
《甘えるの、うまくないんだけど》
「うん。上手じゃなくていいんだよ。
むしろ、不器用なほうが、抱きしめやすいから」
画面の向こうで、誰かの肩が少し降りる音がしたような気がした。
“minato_”はしばらく黙り、やがて一言だけ落とす。
《助かる》
その短い言葉の重さを、俺はよく知っている。
“助かる”は、日常がぎりぎりで持ち堪えたという報告だ。
俺は、マイクの前で目を閉じる。
「……あなたの明日が、今日より少しだけ、楽になりますように」
配信を締めると、喉に残ったかすかな熱が現実へ引き戻してくる。
モニタの光が淡く、部屋の隅を照らす。
その時だった。スマホが震える。
《湊: 今日の色、すごく綺麗だった。》
《湊: “寄りかかっていい”って言葉、染みた》
《湊: ありがとな、佐倉。明日、ノート見せてくれ。》
手の中のデバイスが重くなる。
“佐倉”と“minato_”が、線で繋がっていく気配。
でも彼は、あくまで“佐倉へ”メッセージを送っている。
両手のひらにある二つの世界が、まだかろうじて分かれていることを、俺はありがたく思った。
翌朝。
HR前の教室は、湿った紙の匂いがする。
自習プリントの白、机に映る蛍光灯。
俺はノートを湊に渡しながら、話題を探した。
「昨日の、文化祭アイコン。
“寄り添う”をテーマに、こう……二人の間に余白を残す感じで行こうと思ってさ」
「余白?」
湊は面白そうに身を乗り出す。
「うん。ぎゅうぎゅうに詰めない。あの……座れる椅子、空けとく感じ」
「――それ、いいな」
湊は、何秒か黙ってから、えらく真面目に頷いた。
「俺さ、最近思う。完璧な埋め方よりさ、寄りかかる分の余白があるほうが、救われるって」
言葉が喉の奥で引っかかった。
そのフレーズは、昨夜の配信で俺が言ったことと、限りなく近い。
うろたえを悟られないよう、ノートに視線を落とす。
「……朝霧、ユ――」
危ない。
口が勝手に、慣れ親しんだ二文字を呼び出そうとする。
味方は、チャイムだった。
担任が入ってくる。
湊は背筋を伸ばし、俺は呼吸を整えた。
昼休み。
「ユナの新しいボイス、最高だったよな!」
「“抱きしめやすい不器用さ”とか言ってたやつ。意味わかる!」
男子たちが無邪気に騒ぐ。
教室の空気に、自分の声が薄く混ざる奇妙さに、軽い酔いを覚える。
湊は喋らない。ただ、笑って聞いている。
その静けさは、嵐の前のようで、妙に落ち着かない。
「そういえば、ファンミの二次募集、今日からだよな」
「行きたい!」
「音声だけイベントって珍しいよなー」
湊が、その会話の輪から少し外れて、窓の外を見た。
反射で映る顔に、わずかな緊張。
俺の胸の奥で、警報が小さく鳴る。
もし彼が当選したら。
もし、会場で何かに気づいたら。
――それでも、俺は、会いたいのかもしれない。
匿名の壁越しに、彼がどんな呼吸で言葉を紡ぐのか、確かめたい。
プロとしては最低の好奇心が、喉の裏側で小さな火花を散らす。
「佐倉」
「ん?」
「放課後、ちょっと残れる?」
「……いいけど」
「文化祭横断幕の色、試したくてさ。お前、色混ぜるの上手いから」
上手く、ないよ、と口では言いかけて、飲み込む。
“ユナ”の配色理論が、素の俺の指先に流れ込んでいるだけだ。
湊はそれを、“佐倉の上手さ”として拾い上げてくれる。
胸の中央で、正体不明の温度が広がる。
放課後。
美術室の片隅で、二人きり。
窓の外、薄い雲。
絵の具の蓋を開ける音、紙コップに水が落ちる音。
静かな共同作業は、会話を“必要なときのみに濃くする”。
「この薄桃、ちょい灰寄りにする?」
「うん。青をほんの一滴。……俺が入れるから」
湊の手が、俺の手の上に重なる。
驚きに肩が動いたのを、彼は逃さない。
「ごめん。手、冷たい?」
「……ちょっと」
「じゃあ、こう」
彼の指が包む。
人の体温で溶けた絵の具は、思った以上に素直に色を変える。
ピンクの角が、ふわりと丸くなる。
――あ、これ、“ユナ”のサムネに使った肌色の軌道に近い。
配信サムネを重ねて作る“余白のピンク”。
二人の息が近い。
彼は、どんな目でこの色を見ているのだろう。
「……こういう色、似合うよな」
「横断幕に?」
「いや」
湊は筆先を見つめたまま、少しの沈黙を挟む。
「君に」
心臓が喉まで来た。
危ない。危ない。
その“君”に、ユ、の音が重なる前に、俺は咳払いをする。
「――ところで、ファンミ。音声だけって珍しいよな」
「珍しいよな」
目が合う。
彼の瞳は透明だ。
けれど透明だからこそ、底に色がある。
“会いたい”という色が、見える。
「俺、当てるつもり」
やっぱり。
逃げ場のない胸の奥で、なにかが音を立てた。
「……そっか」
「直接、ありがとう言いたいんだ」
絵の具の匂いと、湊が纏う石鹸の匂いが混ざる。
俺は筆を洗いながら、うなずいた。
「いい、と思う。伝えたい気持ちは、伝えたほうがいい」
「だよな」
湊は小さく笑い、筆洗いの水に波紋が広がった。
その笑顔を見て、俺は思う。
彼の“ありがとう”を、俺は受け取る覚悟があるのか。
仮面のまま。素顔のまま。
――どちらにせよ、うそを重ねた“ありがとう”だけは返したくない。
夜。
ファンミの準備が本格化する。
友人の協力で、テスト収録、個室ブースの調整、マイクとインカムの相性確認。
匿名性を最優先にしたレイアウト。
来場者は番号で案内され、ブース内は暗く、仕切りの向こうの“声”だけが届く。
“距離”を守るための装置。
それでも、不安はある。
ブースの外。搬入口。
誰かに見られる可能性。
――学校の購買でしか売っていない、鞄のチャーム。
今日、湊が目に留めたあの小さなストラップが、致命傷になる未来のビジョンが脳裏をよぎる。
机に並べたチェックリストの上で、ペンを止める。
スマホが震えた。
見慣れた通知。
《minato_: 今日も配信、ある?》
《minato_: 声が、必要だ》
必要だ、という言葉は、刃にもなる。
“必要にされる”ことに、俺は救われ、同時に、溺れる。
それでも、返す言葉は決まっている。
《ユナ: あるよ。だから、安心して》
《ユナ: あなたの無事、確認しに来て》
送信。
数秒後に、短い返信。
《minato_: 行く》
コンソールのランプがひとつ、灯ったように感じた。
俺の夜は、また“あなた”の呼吸と同期して、始まる。
《【ささやき添い寝】しんでもいい日にしないための夜話》
タイトルを読み上げ、意地の悪い言い回しを中和するように柔らかく笑う。
コメント欄はだんだんと波打ち、やがて一つのリズムに落ち着く。
“minato_”のアイコンが、流れに紛れて現れる。
「今日はね、寄りかかり方を、練習しようと思う」
マイクの前で、微笑む。
「まずは、肩。……うん、そのあたり、固い。
いい子。息、吐いて。すー……はー……
そう。上手。
ねえ、あなたのがんばり、私はちゃんと知ってるよ。
見栄じゃないがんばりは、静かなところに隠れるから。
私は、そこを見つけるのが、得意なんだ」
“minato_”:
《そうだな。静かなところに隠れてた》
《君は、見つけるのがうまい》
画面のこちらで、喉が軋む。
湊。
君の静かなところに、俺は、何度でも椅子を置く。
座って良いよ、の看板を下げた椅子を。
「……明日も、生き延びようね」
配信を畳むと、通知が重なって鳴った。
運営宛メールの受信音。
件名だけが目に飛び込んでくる。
《【提案】ユナさん、男性声優では? 真相を公開しませんか?》
《【取材依頼】素顔インタビュー可否の確認》
悪意か、商魂か。
胸の奥でぞわりと冷たいものが這い上がる。
次の瞬間、別件の通知。
写真が一枚、匿名アカウントから送られてきた。
スタジオの裏口。
黒いキャップ。
俺の、後ろ姿。
《正体、知ってる。公開したくなければ、話がある》
胃が、縮む。
立ち上がろうとした足が、床に縫いつけられたみたいに動かない。
――まずい。
その夜、俺はよく眠れなかった。
枕元のスマホは、何度も小さく光った。
《湊: 明日、文化祭の色、仕上げよう》
《湊: 無理すんな》
《湊: おやすみ。生き延びろ》
“生き延びろ”。
俺が“あなた”へよく言う言葉を、彼は、俺へ返してくる。
目を閉じ、暗闇の中で手を伸ばした。
届かない距離にあるはずの手が、触れてしまいそうな錯覚。
――会いたい。
会いたくない。
その両方が、同じ強さで胸を引っ張る。
朝。
学校の廊下のポスター掲示板の前、人だかりができていた。
「ファンミ、二次募集、当たった!」
誰かが声を上げ、周囲が湧く。
湊は、微かに笑って親指を立てた。
「おめでと」
そして彼自身は、何も言わない。
拳の握り方だけが、静かに強い。
席に着く。
机の中。
紙の感触。
封筒だ。差出人なし。
背筋が粟立つ。
開くと、白い紙に、乱れた字で一行。
――正体、知ってる。
昨夜の写真と、同じ文字。
喉が乾き、視界の端が暗くなる。
机の上の鉛筆が静かに転がり落ちる音が、遠くに聞こえた。
「佐倉、大丈夫?」
湊の声で、現実に引き戻される。
「……うん」
大丈夫じゃない。
でも、彼に心配をかけたくない。
俺は笑ってみせる。
湊は、しばらく俺の顔を見て、それから視線を落とした。
彼の手が、机の中で何かを探るような仕草をする。
……そして、俺の机へ、ごく自然にメモを滑り込ませた。
《放課後、言え。言えないなら、俺が聞く。》
短い文。
“助ける準備がある”という宣言。
胸の奥で、何かが音を立ててほどける。
俺は、ほんの少しだけ息を吸った。
放課後。
教室の隅。
二人だけが残る。
夕焼けの斜光が、床の木目に長い影を落とす。
静寂が、痛いほど澄んでいる。
「――脅されてる」
俺は、言った。
声が震えるのが、自分でわかる。
「たぶん、俺……いや、俺の“知り合い”。配信者で。
正体、バレそうで。写真、撮られて。金の話、されて」
すべてを“友人の話”に置き換えた。
湊は、途中で遮らない。
最後まで聞いて、うなずく。
「証拠、ある?」
「スクショ、DM、メール」
「じゃあ、まとめよう。
時系列、相手のID、場所、Exif、ログイン時間。
父さんの知り合いに、手続き聞ける。
あと、学校の近くで撮られたなら、防犯カメラの死角も洗う」
段取りが速い。
感情の前に、守るための作業が並ぶ。
その順番に、救われる。
俺は、染みるように頷いた。
「……ありがとう」
「礼は、事件が終わってからでいい」
湊は微笑まず、真顔で言った。
「それと、もう一つ」
「なに」
「これが終わったら、俺から一つ、聞かせて」
「……なにを」
湊は、俺の目を見る。
その瞳は、逃げ道を用意しない誠実さを宿している。
「君は――ユナなの?」
空気が、ぴたりと止まった。
教室の時計の秒針の音だけが、鮮明になる。
逃げ道は、ほんとうに、ない。
胸の奥で、長い間鳴り続けてきた二つの世界のメトロノームが、初めて重なった気がした。
――俺は、答えなければならない。
嘘をやめるために。
教室の時計は、夕陽に照らされて黄金色に光っていた。
湊の問い――「君は、ユナなの?」――が、空気を裂いたまま止まっている。
返事を待つ沈黙は、耳鳴りのように長い。
俺は喉を動かす。
でも、声にならない。
「そうだ」と言えば、すべてが壊れる。
「違う」と言えば、すべてが嘘になる。
机の上で拳を握りしめると、湊が小さく息を吐いた。
「……ごめん。今、答えなくていい。君が言えるときに言ってくれ」
優しすぎるその言葉が、逆に胸を抉る。
「俺はさ」
湊は窓の外を見ながら、静かに続けた。
「ユナに救われた。それは揺るがない。
でも、佐倉陽ってやつも、俺は気になる。
同じ教室にいて、同じ空気を吸ってるのに、なんでか惹かれる。……それだけは、嘘じゃない」
胸の奥が焼けるように熱くなる。
それは“ユナ”に向けた言葉か。
それとも、“陽”に向けた言葉か。
境界線は、もう曖昧だった。
夜。
机に並ぶのは、準備中のファンミ台本。
「来てくれてありがとう」「今日も生きててくれてありがとう」
短い一文を、声に乗せる練習を繰り返す。
だが、目の前の文字がかすむ。
湊の声が、リフレインする。
――「君は、ユナなの?」
カメラもマイクもオフのまま、俺は囁いてみた。
「……俺は、ユナだ。
でも、俺は、陽でもある。
どっちに恋してくれるんだ、湊」
答えは返ってこない。
ただ、自分の声が壁に跳ね返り、ひどく孤独に聞こえた。
翌週。
ファンミの当選結果が発表された日。
廊下で「当たった!」と叫ぶ生徒たちの声が響く。
その中で湊は、静かに通知画面を閉じ、ポケットにしまった。
視線が一瞬だけ俺に流れる。
笑わなかった。
けれど、目の奥に「決意」だけが光っていた。
――当たったんだ。
心臓が一気に早鐘を打つ。
文化祭準備のざわめきも、先生の呼びかけも、遠くへ押しやられていく。
頭の中にあるのはただ一つ。
「湊が、俺の声に“直接”触れる」未来。
ファンミ当日。
都内の小さなイベントスタジオ。
来場者は抽選で選ばれた数十人。
入場は番号制。ブースは暗幕で仕切られ、観客はユナの姿を見られない。
音声と、言葉だけの空間。
俺はマイクの前に立ち、深呼吸する。
「……来てくれて、ありがとう」
一人一人に向けた短い言葉を繰り返す。
どの声も、どの呼吸も、真剣だった。
やがて最後の番号が呼ばれる。
“――No.17”
入ってきた足音。
ブースの向こう、わずかな衣擦れの音。
俺はもう、知っている。
呼吸のリズム。息を吐く強さ。
湊だ。
「こんばんは。来てくれたんだね」
ユナの声で言うと、ブースの向こうで短い沈黙。
それから、低い声。
「……ユナ。俺は、君がくれる『大丈夫』に恋をした」
心臓が跳ねる。
スタッフ台本にはない言葉が、喉からこぼれる。
「……私も、あなたががんばる背中が好き」
しまった。素が混じった。
ブースの向こうで、湊は長い呼吸をして――「ありがとう」と答えた。
イベント終了後。
裏口へ荷物を運ぶ途中、すれ違った人影が俺を見た。
キャップを目深にかぶった俺の鞄――購買で買ったストラップに、視線が止まる。
湊だ。
彼は何も言わない。
ただ、小さく笑って呟いた。
「……会えた」
背筋に冷たいものが走った。
俺の二つの世界は、もう重なり合い始めている。
「いつかユナに会う。直接、ありがとうを言いたい」――その言葉が、現実になろうとしていた。
俺の仮面は、果たしてどこまで持つのか。
・・・
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