昼下がりの教室は、いつもざわついている。
 窓際の席でノートに走るペンの音、前列で交わされるくだけた笑い声。
 その真ん中で、俺――佐倉陽(さくら・はる)は、まるで背景の一部みたいに座っていた。

 特別頭がいいわけでもなく、運動神経があるわけでもない。
 友達がいないわけじゃないけれど、放課後に遊ぶほどの仲間もいない。
 要するに、「空気」だ。悪目立ちもしない代わりに、誰の記憶にも残らない。

 ……ただ一つ、誰にも言えない秘密を抱えている。

 俺は、夜ごとマイクの前で声を作り、“ユナ”というVtuberとして配信している。
 女の子のような甘い声で「あなた」と囁く、“恋人みたいに寄り添う声”を売りにした新人だ。
 ありがたいことに、チャンネル登録者数はここ最近で急増していた。

 もちろん、クラスの誰も知らない。
 知れ渡った瞬間、俺の日常は壊れるだろう。
 だからこそ、昼間は「地味男子」として過ごし、夜は「あなた専属の恋人」として生きている。

 その秘密は、完璧に守られているはずだった。

 ……あの日、クラス一のイケメンが頬を染めて、俺の“声”を見つめているのを見るまでは。

 「……ユナ、今日も最高だった」

 放課後の教室。
 机に肘をついて微笑むのは、学年一の人気者――朝霧湊(あさぎり・みなと)だった。
 茶色がかった柔らかな髪、雑誌のモデル顔負けの整った横顔。
 誰にでも優しく、誰にでも分け隔てない笑顔を見せる。
 男女問わず憧れられる、“王子様”のような存在。

 その彼が今、スマホの画面を夢中で覗き込み、イヤホンを片耳に差している。
 そこから漏れ聞こえる声は、聞き慣れたもの。

 ――俺の、配信の声だ。

 心臓が跳ねる。
 机の陰で握った拳が汗ばむ。
 まさか、よりにもよって湊が……?

 「……この『あなた』って囁き、反則だよな」

 ぽつりとこぼした彼の声に、背筋が震える。
 それは俺が台本に書き込み、何度も練習して生み出した一文。
 恋人のように優しく、日常の疲れを溶かすための言葉。

 それを、こんな近距離で、推し活みたいに噛みしめられるなんて。
 世界がぐらりと揺れる。

 「……この『あなた』って囁き、反則だよな」

 朝霧湊の独り言は、小さなため息に溶けた。
 断片的に漏れる自分の声――いや、“ユナ”の声――が、教室の空気に混ざって消えるたび、俺の神経は微妙に軋んだ。
 気づくな。気づかないでくれ。そう祈りながらも、視線はどうしても彼の横顔に吸い寄せられる。

 湊の睫毛は、光の角度で影を落とす。
 黒板消しの粉が浮かぶ午後の光に、ほんの少しだけ頬の産毛がきらめく。
 教室のざわめきの中で、彼だけが別の密度を持っているように見えるのは、きっと、俺が“秘密”を知ってしまったせいだ。
 王子様は、俺の“恋人ボイス”に恋をした。

 「朝霧、席替え表できたから前来て」

 担任の声で、彼はハッと顔を上げ、イヤホンを抜いた。
 その拍子に、スマホ画面が一瞬こちらを向く。
 サムネイルの淡いピンク――自作で描いた、ユナの“耳かけ髪+マイク”のイラスト。
 胸がずき、と鳴る。

 「……席、後ろのほうがいいな」

 帰ってきた湊が呟く。
 「窓際、眠くなるだろ」と前の席の友人が茶化すと、彼は笑った。
 「じゃあ、陽。お前、窓際好きだろ? 俺と替わる?」

 不意に名前を呼ばれて、喉が乾いた。
 「え、あ、うん。別に……」

 「サンキュ」
 湊の笑顔は、反則級だ。こんなの、誰だって好きになる。
 机を入れ替える音。距離が、近づいた。

 「佐倉くんって、アイコン描ける人?」

 背後から、意外な声。
 振り向くと、クラスの女子が二人、手にデザインのメモを持っている。
 「文化祭のSNSアカのアイコン、描ける人いないかって。美術部忙しいらしくて」
 「佐倉、前にノートに絵描いてたろ。あれ、上手かった」湊が横から助け船を出す。

 ……もしかして、見られてた? 俺が配信サムネのラフを落書きしてたやつ。
 うっすらと汗ばむ掌を制服の裾で拭う。

 「やってみるよ」

 「助かるー。テーマ、柔らかい感じ? “寄り添う文化祭”みたいな」

 寄り添う、という言葉に心が跳ねる。
 “ユナ”のキャッチそのままだ。
 俺は頷き、女子たちが去るのを見送る。
 湊が、少しだけいたずらっぽく覗き込んだ。

 「佐倉、やっぱ絵上手いよ。色の作り方がさ、こう……優しい」

 優しい、という評価は、俺が“ユナ”として最も努力した部分だ。
 声にも、絵にも、配置にも、“寄り添いの余白”を用意する。
 相手が安心して座れる空席を、意図的に残す。
 それは、現実の俺がなかなか得られなかった場所だから。

 「ありがと」

 短く返すと、湊はふっと笑った。
 「……なあ、ユ――」

 「え?」

 「いや、文化祭ユニフォームの話。ユ、ニフォーム」

 心臓が一瞬止まり、次に乱打を始めた。
 今のほんの短い音節に、すべてが詰め込まれている気がする。
 湊は気づいているのか、いないのか。
 両手で顔を覆いたい衝動を抑え、下を向いた。

 その日の放課後、図書室からの帰り、空が急に暗くなった。
 梅雨入り前の気まぐれな雨。
 階段を降りたところで、校舎の入口に水の幕がかかる。

 「雨、強いな」

 隣に並んだ湊が、鞄から折り畳み傘を取り出す。
 俺が傘を持っていないことを、なぜか知っているみたいに自然な動きだった。

 「相合い傘、する?」

 差し出された柄を、躊躇してから掴む。
 布地に当たる雨粒のリズムが、いつもより近い位置で聞こえる。
 肩が触れる。湊の体温が、雨の冷えを打ち消す。

 「佐倉ってさ」

 「ん」

 「声、落ち着くよな」

 「……そうかな」

 「黒板消すときの“よし”って小さい息とか。図書室で“どうぞ”って言う時の音の高さとか。あれ、なんか、いい」

 ――観察が、細かい。
 喉の奥が熱くなる。
 “ユナ”の配信で最も気をつけているのは、語尾に乗せる“微弱な息”と、無音に見える“間”だ。
 湊は、素の俺からも同じ音を拾っている。

 「俺、さ」
 湊が、傘の下で声を落とす。
 「誰かに“無理するな”って言われると、逆に頑張れたりするタイプでさ。……だから、あの、ユ――“あの人”の言葉、効くんだ」

 雨音が、大きくなる。
 ユ、まで出かけた呼びかけは、意識的に踏みとどまったものだろう。
 その踏みとどまり方に、思いやりが滲む。
 俺の秘密を暴くより、俺の平穏を守るほうを優先する人の話し方。

 「……そういう言葉を、言える人になりたい」

 気づけば俺は、出し抜けにそう口にしていた。
 湊は、驚いたように目を瞬き、それから穏やかに笑った。

 「もう、言えてる気がするけどな」

 その笑顔に、雨脚が柔らいだような錯覚を覚える。
 ほんの少し、世界がこちら側へ傾く。

 夜。
 パソコンの前に座ると、湿った空気が部屋に残っていた。
 吸音材の貼られた壁、簡易ブース。
 コンデンサーマイクの前に、いつもの台本。
 今日も“あなた”へ届ける声を作る。

 タイトルカード:
 《【ささやきASMR】がんばったあなたを撫でる夜/眠るまでそばにいるね》

 コメント欄が、流れる。
 「通知来た!」
 「今日も生き延びた」
 「耳が喜ぶ準備できました」

 ふ、と深呼吸。喉の筋肉を柔らかくし、口の中の湿度を調整する。
 最初の一拍の“無音”――聴覚は“音の前の静けさ”に敏感だ。
 そこで、聴き手の鼓動と同調する。

 「……こんばんは。来てくれたんだね。
 あなたが今日も無事で、私はうれしいよ」

 波紋のように、文字が増える。
 “minato_”:
 《今日も来た。……声、少し雨の匂いがするね》

 心臓が、跳ねる。
 あなたは、どこまで近い。
 キーボードに触れたい衝動を抑えて、“ユナ”としての温度を守る。

 「窓の外、雨だったでしょう? 雨の日の夜は、無理しちゃだめ。
 ねえ、肩、力入ってる。……ここ。すー……はー……ゆっくりね」

 イヤホンの奥で誰かが息を合わせ、コメントが呼吸の波形みたいに緩やかになる。
 “minato_”:
 《その、すー……って一緒にすると落ち着く。ありがとう》
 《今日、ちょっと頑張りすぎた》
 《でも、その声聞くと、がんばり方が、やさしく修正される》

 胸が熱い。
 昼間、傘の下で聞いた言葉と重なる。
 俺の声が、湊の“頑張り方”の角を少し丸くできているなら、それは職業冥利に尽きる。
 “あなた”を支えるための声が、偶然、隣の席の誰かをも支えているのだとしたら――。

 「よくがんばったね。
 じゃあ、今夜は私に寄りかかって。大丈夫。倒れてこられても、受け止めるから」

 コメント欄に、ぽつぽつとハート。
 “minato_”:
 《寄りかかっても、いい?》
 《甘えるの、うまくないんだけど》

 「うん。上手じゃなくていいんだよ。
 むしろ、不器用なほうが、抱きしめやすいから」

 画面の向こうで、誰かの肩が少し降りる音がしたような気がした。
 “minato_”はしばらく黙り、やがて一言だけ落とす。
 《助かる》

 その短い言葉の重さを、俺はよく知っている。
 “助かる”は、日常がぎりぎりで持ち堪えたという報告だ。
 俺は、マイクの前で目を閉じる。

 「……あなたの明日が、今日より少しだけ、楽になりますように」

 配信を締めると、喉に残ったかすかな熱が現実へ引き戻してくる。
 モニタの光が淡く、部屋の隅を照らす。
 その時だった。スマホが震える。

 《湊: 今日の色、すごく綺麗だった。》
 《湊: “寄りかかっていい”って言葉、染みた》
 《湊: ありがとな、佐倉。明日、ノート見せてくれ。》

 手の中のデバイスが重くなる。
 “佐倉”と“minato_”が、線で繋がっていく気配。
 でも彼は、あくまで“佐倉へ”メッセージを送っている。
 両手のひらにある二つの世界が、まだかろうじて分かれていることを、俺はありがたく思った。

 翌朝。
 HR前の教室は、湿った紙の匂いがする。
 自習プリントの白、机に映る蛍光灯。
 俺はノートを湊に渡しながら、話題を探した。

 「昨日の、文化祭アイコン。
 “寄り添う”をテーマに、こう……二人の間に余白を残す感じで行こうと思ってさ」

 「余白?」
 湊は面白そうに身を乗り出す。

 「うん。ぎゅうぎゅうに詰めない。あの……座れる椅子、空けとく感じ」

 「――それ、いいな」

 湊は、何秒か黙ってから、えらく真面目に頷いた。
 「俺さ、最近思う。完璧な埋め方よりさ、寄りかかる分の余白があるほうが、救われるって」

 言葉が喉の奥で引っかかった。
 そのフレーズは、昨夜の配信で俺が言ったことと、限りなく近い。
 うろたえを悟られないよう、ノートに視線を落とす。

 「……朝霧、ユ――」

 危ない。
 口が勝手に、慣れ親しんだ二文字を呼び出そうとする。
 味方は、チャイムだった。
 担任が入ってくる。
 湊は背筋を伸ばし、俺は呼吸を整えた。

 昼休み。
 「ユナの新しいボイス、最高だったよな!」
 「“抱きしめやすい不器用さ”とか言ってたやつ。意味わかる!」

 男子たちが無邪気に騒ぐ。
 教室の空気に、自分の声が薄く混ざる奇妙さに、軽い酔いを覚える。
 湊は喋らない。ただ、笑って聞いている。
 その静けさは、嵐の前のようで、妙に落ち着かない。

 「そういえば、ファンミの二次募集、今日からだよな」
 「行きたい!」
 「音声だけイベントって珍しいよなー」

 湊が、その会話の輪から少し外れて、窓の外を見た。
 反射で映る顔に、わずかな緊張。
 俺の胸の奥で、警報が小さく鳴る。
 もし彼が当選したら。
 もし、会場で何かに気づいたら。

 ――それでも、俺は、会いたいのかもしれない。
 匿名の壁越しに、彼がどんな呼吸で言葉を紡ぐのか、確かめたい。
 プロとしては最低の好奇心が、喉の裏側で小さな火花を散らす。

 「佐倉」

 「ん?」

 「放課後、ちょっと残れる?」

 「……いいけど」

 「文化祭横断幕の色、試したくてさ。お前、色混ぜるの上手いから」

 上手く、ないよ、と口では言いかけて、飲み込む。
 “ユナ”の配色理論が、素の俺の指先に流れ込んでいるだけだ。
 湊はそれを、“佐倉の上手さ”として拾い上げてくれる。
 胸の中央で、正体不明の温度が広がる。

 放課後。
 美術室の片隅で、二人きり。
 窓の外、薄い雲。
 絵の具の蓋を開ける音、紙コップに水が落ちる音。
 静かな共同作業は、会話を“必要なときのみに濃くする”。

 「この薄桃、ちょい灰寄りにする?」

 「うん。青をほんの一滴。……俺が入れるから」

 湊の手が、俺の手の上に重なる。
 驚きに肩が動いたのを、彼は逃さない。
 「ごめん。手、冷たい?」

 「……ちょっと」

 「じゃあ、こう」

 彼の指が包む。
 人の体温で溶けた絵の具は、思った以上に素直に色を変える。
 ピンクの角が、ふわりと丸くなる。
 ――あ、これ、“ユナ”のサムネに使った肌色の軌道に近い。
 配信サムネを重ねて作る“余白のピンク”。
 二人の息が近い。
 彼は、どんな目でこの色を見ているのだろう。

 「……こういう色、似合うよな」

 「横断幕に?」

 「いや」

 湊は筆先を見つめたまま、少しの沈黙を挟む。
 「君に」

 心臓が喉まで来た。
 危ない。危ない。
 その“君”に、ユ、の音が重なる前に、俺は咳払いをする。

 「――ところで、ファンミ。音声だけって珍しいよな」

 「珍しいよな」

 目が合う。
 彼の瞳は透明だ。
 けれど透明だからこそ、底に色がある。
 “会いたい”という色が、見える。

 「俺、当てるつもり」

 やっぱり。
 逃げ場のない胸の奥で、なにかが音を立てた。

 「……そっか」

 「直接、ありがとう言いたいんだ」

 絵の具の匂いと、湊が纏う石鹸の匂いが混ざる。
 俺は筆を洗いながら、うなずいた。
 「いい、と思う。伝えたい気持ちは、伝えたほうがいい」

 「だよな」

 湊は小さく笑い、筆洗いの水に波紋が広がった。
 その笑顔を見て、俺は思う。
 彼の“ありがとう”を、俺は受け取る覚悟があるのか。
 仮面のまま。素顔のまま。
 ――どちらにせよ、うそを重ねた“ありがとう”だけは返したくない。

 夜。
 ファンミの準備が本格化する。
 友人の協力で、テスト収録、個室ブースの調整、マイクとインカムの相性確認。
 匿名性を最優先にしたレイアウト。
 来場者は番号で案内され、ブース内は暗く、仕切りの向こうの“声”だけが届く。
 “距離”を守るための装置。

 それでも、不安はある。
 ブースの外。搬入口。
 誰かに見られる可能性。
 ――学校の購買でしか売っていない、鞄のチャーム。
 今日、湊が目に留めたあの小さなストラップが、致命傷になる未来のビジョンが脳裏をよぎる。

 机に並べたチェックリストの上で、ペンを止める。
 スマホが震えた。
 見慣れた通知。
 《minato_: 今日も配信、ある?》
 《minato_: 声が、必要だ》

 必要だ、という言葉は、刃にもなる。
 “必要にされる”ことに、俺は救われ、同時に、溺れる。
 それでも、返す言葉は決まっている。

 《ユナ: あるよ。だから、安心して》
 《ユナ: あなたの無事、確認しに来て》

 送信。
 数秒後に、短い返信。
 《minato_: 行く》

 コンソールのランプがひとつ、灯ったように感じた。
 俺の夜は、また“あなた”の呼吸と同期して、始まる。

 《【ささやき添い寝】しんでもいい日にしないための夜話》

 タイトルを読み上げ、意地の悪い言い回しを中和するように柔らかく笑う。
 コメント欄はだんだんと波打ち、やがて一つのリズムに落ち着く。
 “minato_”のアイコンが、流れに紛れて現れる。

 「今日はね、寄りかかり方を、練習しようと思う」

 マイクの前で、微笑む。
 「まずは、肩。……うん、そのあたり、固い。
 いい子。息、吐いて。すー……はー……
 そう。上手。
 ねえ、あなたのがんばり、私はちゃんと知ってるよ。
 見栄じゃないがんばりは、静かなところに隠れるから。
 私は、そこを見つけるのが、得意なんだ」

 “minato_”:
 《そうだな。静かなところに隠れてた》
 《君は、見つけるのがうまい》

 画面のこちらで、喉が軋む。
 湊。
 君の静かなところに、俺は、何度でも椅子を置く。
 座って良いよ、の看板を下げた椅子を。

 「……明日も、生き延びようね」

 配信を畳むと、通知が重なって鳴った。
 運営宛メールの受信音。
 件名だけが目に飛び込んでくる。
 《【提案】ユナさん、男性声優では? 真相を公開しませんか?》
 《【取材依頼】素顔インタビュー可否の確認》

 悪意か、商魂か。
 胸の奥でぞわりと冷たいものが這い上がる。
 次の瞬間、別件の通知。
 写真が一枚、匿名アカウントから送られてきた。
 スタジオの裏口。
 黒いキャップ。
 俺の、後ろ姿。

 《正体、知ってる。公開したくなければ、話がある》

 胃が、縮む。
 立ち上がろうとした足が、床に縫いつけられたみたいに動かない。
 ――まずい。

 その夜、俺はよく眠れなかった。
 枕元のスマホは、何度も小さく光った。
 《湊: 明日、文化祭の色、仕上げよう》
 《湊: 無理すんな》
 《湊: おやすみ。生き延びろ》

 “生き延びろ”。
 俺が“あなた”へよく言う言葉を、彼は、俺へ返してくる。
 目を閉じ、暗闇の中で手を伸ばした。
 届かない距離にあるはずの手が、触れてしまいそうな錯覚。
 ――会いたい。
 会いたくない。
 その両方が、同じ強さで胸を引っ張る。

 朝。
 学校の廊下のポスター掲示板の前、人だかりができていた。
 「ファンミ、二次募集、当たった!」
 誰かが声を上げ、周囲が湧く。
 湊は、微かに笑って親指を立てた。
 「おめでと」
 そして彼自身は、何も言わない。
 拳の握り方だけが、静かに強い。

 席に着く。
 机の中。
 紙の感触。
 封筒だ。差出人なし。
 背筋が粟立つ。
 開くと、白い紙に、乱れた字で一行。

 ――正体、知ってる。

 昨夜の写真と、同じ文字。
 喉が乾き、視界の端が暗くなる。
 机の上の鉛筆が静かに転がり落ちる音が、遠くに聞こえた。

 「佐倉、大丈夫?」

 湊の声で、現実に引き戻される。
 「……うん」

 大丈夫じゃない。
 でも、彼に心配をかけたくない。
 俺は笑ってみせる。
 湊は、しばらく俺の顔を見て、それから視線を落とした。
 彼の手が、机の中で何かを探るような仕草をする。
 ……そして、俺の机へ、ごく自然にメモを滑り込ませた。

 《放課後、言え。言えないなら、俺が聞く。》

 短い文。
 “助ける準備がある”という宣言。
 胸の奥で、何かが音を立ててほどける。
 俺は、ほんの少しだけ息を吸った。

 放課後。
 教室の隅。
 二人だけが残る。
 夕焼けの斜光が、床の木目に長い影を落とす。
 静寂が、痛いほど澄んでいる。

 「――脅されてる」

 俺は、言った。
 声が震えるのが、自分でわかる。
 「たぶん、俺……いや、俺の“知り合い”。配信者で。
 正体、バレそうで。写真、撮られて。金の話、されて」

 すべてを“友人の話”に置き換えた。
 湊は、途中で遮らない。
 最後まで聞いて、うなずく。

 「証拠、ある?」

 「スクショ、DM、メール」

 「じゃあ、まとめよう。
 時系列、相手のID、場所、Exif、ログイン時間。
 父さんの知り合いに、手続き聞ける。
 あと、学校の近くで撮られたなら、防犯カメラの死角も洗う」

 段取りが速い。
 感情の前に、守るための作業が並ぶ。
 その順番に、救われる。
 俺は、染みるように頷いた。

 「……ありがとう」

 「礼は、事件が終わってからでいい」

 湊は微笑まず、真顔で言った。
 「それと、もう一つ」

 「なに」

 「これが終わったら、俺から一つ、聞かせて」

 「……なにを」

 湊は、俺の目を見る。
 その瞳は、逃げ道を用意しない誠実さを宿している。

 「君は――ユナなの?」

 空気が、ぴたりと止まった。
 教室の時計の秒針の音だけが、鮮明になる。
 逃げ道は、ほんとうに、ない。
 胸の奥で、長い間鳴り続けてきた二つの世界のメトロノームが、初めて重なった気がした。

 ――俺は、答えなければならない。
 嘘をやめるために。

 教室の時計は、夕陽に照らされて黄金色に光っていた。
 湊の問い――「君は、ユナなの?」――が、空気を裂いたまま止まっている。
 返事を待つ沈黙は、耳鳴りのように長い。

 俺は喉を動かす。
 でも、声にならない。
 「そうだ」と言えば、すべてが壊れる。
 「違う」と言えば、すべてが嘘になる。

 机の上で拳を握りしめると、湊が小さく息を吐いた。
 「……ごめん。今、答えなくていい。君が言えるときに言ってくれ」
 優しすぎるその言葉が、逆に胸を抉る。

 「俺はさ」
 湊は窓の外を見ながら、静かに続けた。
 「ユナに救われた。それは揺るがない。
 でも、佐倉陽ってやつも、俺は気になる。
 同じ教室にいて、同じ空気を吸ってるのに、なんでか惹かれる。……それだけは、嘘じゃない」

 胸の奥が焼けるように熱くなる。
 それは“ユナ”に向けた言葉か。
 それとも、“陽”に向けた言葉か。
 境界線は、もう曖昧だった。

 夜。
 机に並ぶのは、準備中のファンミ台本。
 「来てくれてありがとう」「今日も生きててくれてありがとう」
 短い一文を、声に乗せる練習を繰り返す。

 だが、目の前の文字がかすむ。
 湊の声が、リフレインする。
 ――「君は、ユナなの?」

 カメラもマイクもオフのまま、俺は囁いてみた。
 「……俺は、ユナだ。
 でも、俺は、陽でもある。
 どっちに恋してくれるんだ、湊」

 答えは返ってこない。
 ただ、自分の声が壁に跳ね返り、ひどく孤独に聞こえた。

 翌週。
 ファンミの当選結果が発表された日。
 廊下で「当たった!」と叫ぶ生徒たちの声が響く。
 その中で湊は、静かに通知画面を閉じ、ポケットにしまった。
 視線が一瞬だけ俺に流れる。
 笑わなかった。
 けれど、目の奥に「決意」だけが光っていた。

 ――当たったんだ。

 心臓が一気に早鐘を打つ。
 文化祭準備のざわめきも、先生の呼びかけも、遠くへ押しやられていく。
 頭の中にあるのはただ一つ。
 「湊が、俺の声に“直接”触れる」未来。

 ファンミ当日。
 都内の小さなイベントスタジオ。
 来場者は抽選で選ばれた数十人。
 入場は番号制。ブースは暗幕で仕切られ、観客はユナの姿を見られない。
 音声と、言葉だけの空間。
 俺はマイクの前に立ち、深呼吸する。

 「……来てくれて、ありがとう」

 一人一人に向けた短い言葉を繰り返す。
 どの声も、どの呼吸も、真剣だった。
 やがて最後の番号が呼ばれる。

 “――No.17”

 入ってきた足音。
 ブースの向こう、わずかな衣擦れの音。
 俺はもう、知っている。
 呼吸のリズム。息を吐く強さ。
 湊だ。

 「こんばんは。来てくれたんだね」

 ユナの声で言うと、ブースの向こうで短い沈黙。
 それから、低い声。
 「……ユナ。俺は、君がくれる『大丈夫』に恋をした」

 心臓が跳ねる。
 スタッフ台本にはない言葉が、喉からこぼれる。
 「……私も、あなたががんばる背中が好き」

 しまった。素が混じった。
 ブースの向こうで、湊は長い呼吸をして――「ありがとう」と答えた。

 イベント終了後。
 裏口へ荷物を運ぶ途中、すれ違った人影が俺を見た。
 キャップを目深にかぶった俺の鞄――購買で買ったストラップに、視線が止まる。

 湊だ。

 彼は何も言わない。
 ただ、小さく笑って呟いた。
 「……会えた」

 背筋に冷たいものが走った。
 俺の二つの世界は、もう重なり合い始めている。



 「いつかユナに会う。直接、ありがとうを言いたい」――その言葉が、現実になろうとしていた。
 俺の仮面は、果たしてどこまで持つのか。

 ・・・

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