1 影の到来

 夏の盛り、灰火草の葉が濃い赤を帯び、温室に満ちる香りは強くなっていた。疫病を越え、薬市を成功させ、聖水の正体まで突き止めたアメリアの周囲には、確かに変化が芽生えていた。村人たちは「薬師さま」と呼び、謝罪台の前には毎日、誰かしらが記録を覗きに来る。

 しかし、その信頼が大きくなるほどに、王都からの圧力も強まるのは必然だった。

 ある日の午前、土煙をあげてやってきた黒塗りの馬車を見て、村人は息を呑んだ。馬車の扉から降り立ったのは、深い緑の外套に身を包んだ男。金糸で刺繍された徽章が胸に輝いている。

「王都査察官、レオネル・ヴァルクだ」

 冷えた声が広場に落ちた。

2 査察官の宣告

 査察官レオネルは、村長宅に人々を集め、冷ややかに宣告した。
「王都に対する“聖水中傷”の噂が辺境に広がっている。その出所は——旅芸人一座の座長、そして薬師アメリア・ラドクリフ。偽情報の流布は反逆の罪に等しい」

 村人たちがざわめく。アメリアは前に出て、静かに頭を上げた。
「私は嘘を言っていません。記録も、実演も、すべてこの目の前で行ったことです」

 レオネルは鼻で笑い、手を振った。部下たちが旅芸人一座の座長を押さえ込み、縄をかけた。
「こやつが最初に“聖女の奇跡”を侮辱する芝居を演じたのだろう? 罪状は十分だ」

 座長の顔は蒼白に染まった。

3 揺らぐ心

 アメリアの胸に冷たい痛みが走った。彼女のせいで座長が捕らえられようとしている。思い返せば、封蝋偽造の証拠も、聖女の護符の香精も、最初に彼が口を開いてくれたから突き止められたのだ。

「やめてください。座長はただ、真実を話しただけです」

 声を荒げると、レオネルは鋭く笑った。
「ならば貴様が代わりに罪を負うか?」

 刃のような視線に、広場の空気が凍りついた。

4 論理の罠を崩す

 アメリアは震える指で記録帳を開いた。そこには、王都商会の帳簿の写しと座長の証言が綴じられている。ヨエルが命がけで送り届けた資料だった。

「こちらをご覧ください。聖水を納入した商会の帳簿です。日付と数量が一致している。さらに、この帳簿には“保香剤”の仕入れが記されています」

 レオネルの眉がわずかに動いた。

「もし座長の証言が偽りなら、なぜ帳簿に同じ記述があるのですか?」

 広場がざわめく。村人たちが次々に署名簿を掲げ、「薬師さまは救ってくれた!」と叫び始めた。炭鉱事故で救われた男も、疫病で子を守られた母も声を揃えた。

「嘘をついているのは誰だ! 薬師さまか、それとも王都か!」

 押し寄せる声に、レオネルの顔に陰が走った。

5 一時の撤退

 やがて査察官は冷たい眼差しをアメリアに向けた。
「……よかろう。今日のところは退く。だが覚えておけ。次はお前自身を連行する」

 縄をかけられていた座長は解放された。震える肩を抱えながら、アメリアに深く頭を下げた。

 村人たちは安堵の息をつき、歓声をあげたが、アメリアの胸は重かった。彼女は村を守れた。しかし、嵐は確実に近づいている。

6 夜の温室にて

 夜、温室の灯の下で、アメリアは記録帳を見つめていた。手はかすかに震えていた。査察官の言葉が頭を離れない。

 そこへハルトが入ってきた。黙って彼女の前に椅子を置き、腰を下ろす。
「お前の顔は、今にも泣きそうだ」

「……怖かったの」アメリアは吐き出すように言った。「座長を、村を、みんなを巻き込んでしまうのではないかって」

 ハルトは黙って温室の机に手を置いた。硬い手がそこにあるだけで、不思議と心が落ち着いていく。

「怖いのは当然だ。だが、今日もお前は退かなかった。それが答えだ」

 彼の低い声が温室に響き、涙が零れそうになった。

7 密書の兆し

 数日後、ヨエルから密書が届いた。

「王都の内部でも不満が高まっている。聖女の商会は権力を拡大しすぎ、王太子派の一部すら離反の気配を見せている」

 アメリアはその文字を見つめた。内部崩壊の兆し。それは希望であると同時に、王都が必死に辺境を締めつけてくる証でもあった。

「次は、私自身が狙われる」

 小さく呟いた声を、風がさらっていった。

 それでも、温室の窓から見える村人たちの姿が彼女を支えていた。炭鉱夫の男は子を肩に担ぎ、疫病を乗り越えた母は笑いながら井戸端で話している。署名簿は日に日に厚みを増し、広場の謝罪台には今日も誰かが立ち寄る。

 彼女は初めて、村の団結を心強く感じた。

「私はもう一人じゃない」

 声に出すと、不思議と涙が零れた。

8 終章の予感

 夏の空は高く、灰火草の葉は燃えるように赤く揺れていた。嵐は再び迫っている。だがアメリアの胸には、揺るがぬ決意が根を下ろしつつあった。

 いつか王都で、真実を光に晒す。その日のために。