1 届いた小箱
初夏の風が山の斜面を渡り、温室の窓をかすかに揺らしていた。
その日、アメリアのもとに一通の荷が届いた。送り主はヨエル。王都に潜り込み、危険を冒してまで集めた資料と試薬だった。
木箱を開けると、硝子瓶に封じられた数種の液体と、細かい筆致でびっしりと記された研究記録が収められていた。
アメリアは手袋をはめ、ひとつずつ瓶を持ち上げる。鼻を近づけると、強い焦げ臭がわずかに混じっている。
「……タール」
記録にはこう記されていた。
「聖水と呼ばれる液体は、粗雑な蒸留によって得られた水に、保香のためのタールが混入している可能性が高い」
アメリアの心臓が小さく跳ねた。タールは香料として使われることもあるが、過剰に吸い込めば中毒を起こす。人によっては痙攣や呼吸困難を招き、命を奪いかねない。
王都で売られ、聖女セレスタの涙と結びつけられたその聖水は、ただの象徴ではなかった。危険な現実を孕んでいた。
2 蒸留器の影
アメリアは温室の奥から古い蒸留器を取り出した。母の遺品のひとつだ。錆びてはいたが、まだ十分に使える。
灰火草の葉を乾燥させ、水とともに火にかけ、蒸気を冷却器に通す。透明な液体が滴り落ちる様子を見つめながら、アメリアは思った。
「正しい手順を踏めば、香りは澄んでいる……。でも、粗雑に扱えば、焦げが混じる。そこにタールが残るのね」
彼女はヨエルからの資料と照合しながら、香精の構造を紙に写した。香精は人間の記憶を刺激する作用を持つ。ある香りを強く印象づけることで、感情を結びつける。
つまり——“聖女の涙”は、人々の記憶に香りを刻み込み、涙と奇跡を結びつける心理的暗示の道具だったのだ。
その事実を知ったとき、アメリアの背筋に冷たい震えが走った。
人々がひれ伏して信じてきたものは、神の奇跡ではなく、蒸留器の影が作り出した幻影だった。
3 論文形式の反撃
アメリアは記録帳を開き、論文形式でまとめ始めた。
一、聖水の製造過程の推定。
二、タール混入の危険性。
三、香精による心理的暗示の作用。
四、疫学的に確認された中毒症例。
筆は止まらなかった。公開質問状の第二弾として、この論文を世に問う。王都の研究者や政治家がいかに嘲ろうとも、記録された事実は消せない。
エマが傍らで心配そうに覗き込んだ。
「でも……村人には難しすぎるのでは?」
アメリアは頷き、微笑んだ。
「だから、見せるのよ。言葉じゃなく、体で」
4 公開実演
数日後、広場に再び人が集められた。薬市の成功に味をしめた旅芸人一座が、太鼓を鳴らして客を呼び込む。
壇上に立ったアメリアの手には二つの小瓶があった。ひとつは純粋な蒸留水に香精を加えたもの。もうひとつは、タールを混ぜた聖水の模造品だ。
「どちらかに、体を蝕む成分が含まれています。確かめてみましょう」
村人たちはざわついた。
彼女は最初の瓶を開け、観客の数人に香りを嗅がせた。薄荷の清涼感が広がり、彼らは心地よげに頷いた。
次にタール入りの瓶を渡す。数分後、嗅いだ者たちは顔をしかめ、胸を押さえた。吐き気を訴える者まで現れた。
群衆が愕然とする。子供を抱いた母親は青ざめ、「これが……聖水……?」と呟いた。
アメリアは静かに言った。
「奇跡ではありません。幻です。そして、この幻は命を奪う」
5 信頼と恐怖のはざま
群衆は動揺した。これまで信じてきた聖女の涙が、舞台装置に過ぎなかったと突きつけられたのだ。
祈祷師の残党が叫んだ。
「薬婦の企みだ! 自分で毒を仕込んで——」
しかしその声は群衆に届かなかった。吐き気に苦しむ仲間の姿が、何より雄弁に真実を語っていたからだ。
村人のひとりが震える声で言った。
「……記録を、信じよう。あの謝罪台に立ち続ける人を」
アメリアは胸が熱くなった。だが同時に、背筋を冷たいものが走った。真実を示せば示すほど、敵の牙は鋭さを増す。
6 夜の囁き
その夜、温室に戻る途中でハルトが歩みを合わせてきた。松明に照らされた彼の横顔は、普段より険しかった。
「この道は危険だ」
低い声が闇に沈む。
「お前は進むんだな」
アメリアは立ち止まり、彼の目を見た。
「誰かが声を上げねば、命は奪われ続ける」
彼女の声は震えていなかった。
ハルトはしばし無言のまま、そして小さく息を吐いた。
「……なら俺は、その隣に立とう」
松明の灯が揺れ、二人の影を並べた。距離はまだ遠い。それでも確かに、少しずつ縮まっていた。
7 恋の芽生え
翌朝、アメリアは記録帳をめくりながら、ふとハルトが夜通し温室の周囲を見回っていたことを思い出した。雨の滴る音のなか、無言で守ってくれる存在。
心の奥に、暖かいものが芽吹いていた。まだそれを恋と呼ぶには幼い。けれど、苦しみの底で伸びてきたその芽は、静かに確かに、彼女の胸に根を張り始めていた。
初夏の風が山の斜面を渡り、温室の窓をかすかに揺らしていた。
その日、アメリアのもとに一通の荷が届いた。送り主はヨエル。王都に潜り込み、危険を冒してまで集めた資料と試薬だった。
木箱を開けると、硝子瓶に封じられた数種の液体と、細かい筆致でびっしりと記された研究記録が収められていた。
アメリアは手袋をはめ、ひとつずつ瓶を持ち上げる。鼻を近づけると、強い焦げ臭がわずかに混じっている。
「……タール」
記録にはこう記されていた。
「聖水と呼ばれる液体は、粗雑な蒸留によって得られた水に、保香のためのタールが混入している可能性が高い」
アメリアの心臓が小さく跳ねた。タールは香料として使われることもあるが、過剰に吸い込めば中毒を起こす。人によっては痙攣や呼吸困難を招き、命を奪いかねない。
王都で売られ、聖女セレスタの涙と結びつけられたその聖水は、ただの象徴ではなかった。危険な現実を孕んでいた。
2 蒸留器の影
アメリアは温室の奥から古い蒸留器を取り出した。母の遺品のひとつだ。錆びてはいたが、まだ十分に使える。
灰火草の葉を乾燥させ、水とともに火にかけ、蒸気を冷却器に通す。透明な液体が滴り落ちる様子を見つめながら、アメリアは思った。
「正しい手順を踏めば、香りは澄んでいる……。でも、粗雑に扱えば、焦げが混じる。そこにタールが残るのね」
彼女はヨエルからの資料と照合しながら、香精の構造を紙に写した。香精は人間の記憶を刺激する作用を持つ。ある香りを強く印象づけることで、感情を結びつける。
つまり——“聖女の涙”は、人々の記憶に香りを刻み込み、涙と奇跡を結びつける心理的暗示の道具だったのだ。
その事実を知ったとき、アメリアの背筋に冷たい震えが走った。
人々がひれ伏して信じてきたものは、神の奇跡ではなく、蒸留器の影が作り出した幻影だった。
3 論文形式の反撃
アメリアは記録帳を開き、論文形式でまとめ始めた。
一、聖水の製造過程の推定。
二、タール混入の危険性。
三、香精による心理的暗示の作用。
四、疫学的に確認された中毒症例。
筆は止まらなかった。公開質問状の第二弾として、この論文を世に問う。王都の研究者や政治家がいかに嘲ろうとも、記録された事実は消せない。
エマが傍らで心配そうに覗き込んだ。
「でも……村人には難しすぎるのでは?」
アメリアは頷き、微笑んだ。
「だから、見せるのよ。言葉じゃなく、体で」
4 公開実演
数日後、広場に再び人が集められた。薬市の成功に味をしめた旅芸人一座が、太鼓を鳴らして客を呼び込む。
壇上に立ったアメリアの手には二つの小瓶があった。ひとつは純粋な蒸留水に香精を加えたもの。もうひとつは、タールを混ぜた聖水の模造品だ。
「どちらかに、体を蝕む成分が含まれています。確かめてみましょう」
村人たちはざわついた。
彼女は最初の瓶を開け、観客の数人に香りを嗅がせた。薄荷の清涼感が広がり、彼らは心地よげに頷いた。
次にタール入りの瓶を渡す。数分後、嗅いだ者たちは顔をしかめ、胸を押さえた。吐き気を訴える者まで現れた。
群衆が愕然とする。子供を抱いた母親は青ざめ、「これが……聖水……?」と呟いた。
アメリアは静かに言った。
「奇跡ではありません。幻です。そして、この幻は命を奪う」
5 信頼と恐怖のはざま
群衆は動揺した。これまで信じてきた聖女の涙が、舞台装置に過ぎなかったと突きつけられたのだ。
祈祷師の残党が叫んだ。
「薬婦の企みだ! 自分で毒を仕込んで——」
しかしその声は群衆に届かなかった。吐き気に苦しむ仲間の姿が、何より雄弁に真実を語っていたからだ。
村人のひとりが震える声で言った。
「……記録を、信じよう。あの謝罪台に立ち続ける人を」
アメリアは胸が熱くなった。だが同時に、背筋を冷たいものが走った。真実を示せば示すほど、敵の牙は鋭さを増す。
6 夜の囁き
その夜、温室に戻る途中でハルトが歩みを合わせてきた。松明に照らされた彼の横顔は、普段より険しかった。
「この道は危険だ」
低い声が闇に沈む。
「お前は進むんだな」
アメリアは立ち止まり、彼の目を見た。
「誰かが声を上げねば、命は奪われ続ける」
彼女の声は震えていなかった。
ハルトはしばし無言のまま、そして小さく息を吐いた。
「……なら俺は、その隣に立とう」
松明の灯が揺れ、二人の影を並べた。距離はまだ遠い。それでも確かに、少しずつ縮まっていた。
7 恋の芽生え
翌朝、アメリアは記録帳をめくりながら、ふとハルトが夜通し温室の周囲を見回っていたことを思い出した。雨の滴る音のなか、無言で守ってくれる存在。
心の奥に、暖かいものが芽吹いていた。まだそれを恋と呼ぶには幼い。けれど、苦しみの底で伸びてきたその芽は、静かに確かに、彼女の胸に根を張り始めていた。



