1

 マリクトの広場に春の光が満ちていた。雨季を越えた土はまだ湿っていたが、風は心地よく、山の上から降りてくる鳥の声が響いていた。炭鉱事故の余韻も、疫病の恐怖も、まだ村人たちの胸に残っている。しかしそれでも、人々は少しずつ顔を上げ始めていた。

 アメリアはその広場を見渡し、胸に深い決意を抱いていた。
「ここで開くのよ、“薬市”を」

 名目は市場。しかし真の目的は売買ではなかった。彼女が望むのは「公開実験」だ。薬を売りつけるのではなく、効果を人々の目の前で確かめさせ、数字と観察で真実を示す。それは王都の学会にも似た試みを、辺境の土の上で再現する挑戦だった。

2

 準備は数週間に及んだ。温室の中でアメリアは灰火草の抽出液を煮立て、咳止めの煎じ薬を分け、軟膏を練り直した。

「三群に分けるわ。吸入液、煎じ薬、そして軟膏。患者ごとに配分し、日ごとの症状を記録する」

 ヨエルから届いた手紙には、王都の研究法にならった「群間比較」の方法が記されていた。アメリアはその紙片を方眼紙に貼り、誰にでも見えるように簡易化した図を描いた。

 「病を祈りでなく数で捉える」——彼女が示したかったのは、その一点に尽きる。

3

 市の日、広場には旅芸人一座が太鼓を鳴らして人を集めた。遠方の村からも人々がやってきた。疫病の際に噂を耳にした者、アメリアを「毒婦」と疑いつつも真実を確かめたい者。ざわめきは熱を帯び、広場はいつになく活気に包まれた。

 壇上に立ったアメリアは、白衣ではなく辺境の布衣を纏っていた。公爵令嬢ではなく、一人の薬師として人々の前に立ちたかった。

「ここで私は薬を売りません。今日するのは“公開実験”です。どう効くのか、効かないのか、それを皆さんの目で確かめてもらいます」

 ざわつきが広がる。祈祷師の残党が舌打ちしたのが聞こえた。だが、子供たちは面白がって前に集まった。

4

 最初の患者は咳に苦しむ老人だった。吸入液を渡し、症状を記録する。次は膝を痛めた炭鉱夫に軟膏を塗り、日ごとに可動域を計測する。熱を出した幼子には煎じ薬を与え、体温の推移を棒グラフにした。

 経過は広場の壁に貼り出された。方眼紙の上で数字が増減し、赤い線が描かれていく。

 最初は半信半疑だった村人も、数日が過ぎるごとに変化を目にした。老人の咳は減り、炭鉱夫の足は軽くなり、幼子の熱は確かに下がっていった。

「奇跡じゃない。これは理だ」

 誰かが囁いた。その声は人々の間を伝わり、囁きは次第に確信へと変わっていった。

5

 署名簿が広場に置かれた。公開質問状の支持者を募るためだ。最初に名を書いたのは、炭鉱事故で救われた男だった。次いで、疫病から回復した母親が震える手で署名した。やがて列は途切れず、紙はたちまち名で埋まっていった。

 一方、祈祷師の残党は声を張り上げた。
「薬婦のまやかしだ! 数字は偽れる!」

 だがアメリアは微笑み、壁のグラフを指した。
「偽れるのは言葉。でも、この線は誰でも測れる。触れて確かめていい。私一人の声ではなく、あなたたち自身の目で」

 沈黙が広がった。人々の視線はもはや祈祷師にではなく、数字の線に注がれていた。

6

 夜、暴走しかけた群衆を守ったのはハルトだった。松明を手に、広場の外で夜警を務める。石を投げようとした者を抑え、子供を帰らせ、静かに市を守り抜いた。

 彼の姿をアメリアは窓から見ていた。寡黙な背中に、言葉以上の信義が宿っていた。

 その隣で、旅芸人たちは楽器を奏で、人々の緊張をほぐした。いつの間にか、一座も市の一部になっていた。

7

 薬市は十日間続いた。日を追うごとに人は増え、遠方からも訪れる者が現れた。記録は積み重なり、数字は線となって症状の改善を示した。

 最終日、広場に集まった子供たちが声を揃えた。
「薬師さまの市がまた見たい!」

 アメリアは思わず笑った。涙が滲みそうになったが、唇を引き結んだ。

「ええ、また開きましょう。この小さな市場から、大きな波を立てるのよ」

 その声は、春の風に乗って村を超え、やがて王都へと届くのだろう。