疫病がようやく収束に向かい、集落に静けさが戻り始めた頃だった。灰火草の葉は新緑から赤みを帯び、薄荷の香りは雨上がりの風とともに温室を満たしていた。人々はまだ慎重に羊乳を煮沸し続けていたが、回復した子供の笑い声があちこちから聞こえ、少しずつ緊張は解けつつあった。

 その矢先、王都からの旅芸人一座が村にやってきた。派手な衣装を纏い、鈴や太鼓を鳴らしながら広場を練り歩く。村人たちは好奇心に駆られ、疫病の疲れを忘れるかのように集まった。芝居の演目は「聖女セレスタの奇跡」だと告げられた。



 夕暮れ、仮設の舞台に松明が灯された。

 幕が上がると、純白の衣装を纏った役者が「聖女セレスタ」として現れ、民に微笑みかけた。その姿はまるで光に包まれているようで、観客からは感嘆の声が漏れた。

 しかし次の場面で、舞台に現れたのは「毒婦アメリア」と名乗る女役者だった。黒い衣をまとい、髪を乱し、冷笑を浮かべながら小瓶を掲げる。その封蝋は割れており、印章は歪んでいた。

「この毒で、王子をも民をも惑わしてやる!」

 役者の大声に、観客たちは囃し立て、石を投げる真似をした。笑い声と罵声が交じり合い、広場は一種の熱狂に包まれる。

 アメリアは舞台袖でその光景を見つめていた。胸の奥に氷の針が突き立つようだった。王都から遠く離れたこの辺境でさえ、彼女の名は“毒婦”として演じられ、人々に笑われている。

 唇を噛み、彼女は視線を落とした。怒りと屈辱を飲み込みながらも、目の奥に冷たい光が宿っていく。



 芝居が終わり、人々が散り始めた頃。アメリアはふと、一座の道具箱の隙間から見慣れたものを目にした。

 蝋を計るための温度計。そして印章の型抜き。

 血の気が引いた。
 ——これで封蝋を偽造したのか。

 震える指で道具を取り出すと、背後から声がした。
「触るな」

 一座の座長だった。分厚い外套をまとい、険しい目で彼女を睨みつけた。

 アメリアは怯まず、道具を掲げて問い詰めた。
「この蝋温度計と型抜き……あなたたちの芝居のためだけのものではないでしょう。誰から渡されたの?」

 沈黙ののち、座長は深いため息を吐き、視線を逸らした。
「……王都の商会からだ。台本も道具も、すべて渡された」

 アメリアの心臓が重く跳ねた。
 やはり。背後にいるのは、聖女セレスタを後ろ盾とする貴族商会。



 さらに彼女の目は、舞台で使われていた聖女の護符に留まった。涙型をした小さなペンダント——「聖女の涙」と呼ばれるものだ。

 試しに布で拭うと、微かに香りが立った。どこか甘く、しかし雑味のある匂い。鼻腔に覚えがあった。

 調合机に持ち帰り、灰火草の溶液と比較すると、同系統の成分が検出された。だがそれは、変性処理を施され、粗悪な香精に変わっていた。

「これは……涙なんかじゃない。香りを記憶させ、人心を動かすための演出……舞台装置に過ぎない」

 呟いた声に、エマが震えた。
「聖女は……本当に涙を流していなかったのですか?」
「涙は人の感情。でもこれは人を操るための仕掛けよ」

 アメリアは怒りを飲み込み、護符を閉じた手に力を込めた。



 翌日、彼女は座長に紙と筆を渡した。
「供給元の名を書きなさい」

 座長は苦悩の末に筆を走らせた。王都に拠点を置く貴族商会の名。その紙片をアメリアは記録帳に挟んだ。

 同時に、彼女は旅芸人たちと新たな契約を結んだ。名付けて“健康一座契約”。

「興行の衛生指導は私が行う。その代わり、あなたたちは各地の井戸、市壁、税関の構造を観察して、情報を集めてほしい」

 芸人たちは最初こそ戸惑ったが、やがてうなずいた。衛生が守られれば自分たちの体も軽くなることを実感したのだ。

 やがて情報は地図となり、地図は流通と権力の動線を浮かび上がらせる。ざまあの布石は、静かに積まれていった。



 その頃、王都からヨエルの手紙が届いた。封を切ると、丁寧な筆致が踊っていた。

「王太子ダリオ殿下は、聖女の商会の過激な宣伝に内心疑念を抱いているようです。あの婚約破棄の夜に殿下が吐いた言葉の一部は、陣営の台詞に過ぎず、彼個人の思考ではなかった」

 アメリアは目を閉じ、深い息を吐いた。
 ——あの夜の言葉が、すべて彼の本心ではなかった。

 胸に鈍い痛みが広がった。憎しみは揺らぎ、代わりに虚しさが滲む。

 彼女は静かに呟いた。
「恥をかかせる相手を取り違えないこと。これが、本当のざまあの礼儀よ」



 春の夜風が吹き抜ける。温室には灰火草が揺れ、薄荷の香りが広がっていた。

 アメリアの視線は遠く、王都へと向かっていた。
 見えない反撃は、すでに始まっている。