春が深まり、灰火草の芽が一斉に赤みを帯びた頃だった。マリクトから山を越えた集落で、不穏な知らせが届いた。原因不明の発熱と発疹が立て続けに出ているという。最初は数人の子供が高熱で寝込み、やがて大人にも広がった。
祈祷師は「呪いだ」と断じた。山の神を怒らせたせいだと叫び、聖女の聖水を一気に飲むよう勧めた。だが聖水を飲んだ者の中には激しい嘔吐や脱水で倒れる者も出ている。
村長は険しい表情で温室を訪れた。
「アメリア殿。向こうの集落は混乱しておる。祈祷師の言葉ばかりが広がり、病は増える一方だ」
アメリアは立ち上がった。
「行きましょう。原因を突き止めなければ」
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集落に足を踏み入れると、咳と呻き声が満ちていた。家の戸口には布が掛けられ、道端には祈祷師が立ち、聖水の瓶を振りかざしている。アメリアは患者を隔離し、まず発症した日を一人ずつ聞き取った。
「いつから熱が出ましたか」
「昨日の夜だ」
「三日前から」
小さなノートに日付を書き込み、赤い線でつなぐ。
さらに接触歴を問う。誰と誰が同じ場にいたか。どの家の子供と遊んだか。水はどの井戸から汲んだか。ひとつずつ地図に落とし、風向きや市場の日を重ねていく。
やがて共通点が浮かび上がった。発症者の多くが、市場の日に露店の羊乳を飲んでいたのだ。
「羊乳……?」
アメリアは羊飼いの少年を呼び出した。彼は怯えながらも告白した。
「冷やした方が売れると思って、谷の冷水に壺を沈めていたんです」
谷の水源近くで、獣の死骸が腐敗していた。そこから細菌が繁殖し、水を通じて羊乳に混じっていたのだ。
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アメリアはすぐに対策を示した。
「羊乳は必ず煮沸すること。器具は熱湯で消毒。手も洗う。加熱したものだけを口にすること」
人々は半信半疑だった。だが、温室から持ってきた灰火草の軟膏や薄荷の煎じ薬とともに、アメリアは手を動かし、実際に鍋で乳を煮立てて見せた。
「見て。泡が立つまで。これが命を守る線です」
彼女は発症曲線を記録し始めた。日ごとの新規患者数を棒グラフにし、壁に貼る。初めは急な増加を示した線が、加熱と衛生が徹底されるにつれ、次第に鈍り始めた。
数字が村人を動かした。迷信ではなく、目の前の事実。
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しかし、途中で悲劇が起きた。
ある家の幼子が亡くなったのだ。母親は泣きながらアメリアにすがりついた。
「あなたの指示を守ったのに、うちの子は……!」
実際には加熱の工程が省かれていたと後で分かった。だが、悲嘆の前で正論は刃になる。
アメリアは何も言わず、母親を抱きしめた。葬儀の手配を手伝い、棺に花を添え、ただ静かに涙をこぼした。
その涙は記録ではなく、人の痛みそのものだった。
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村は二分された。
「薬婦のせいだ」と祈祷師が叫び、信じる者たちは石を投げつけようとした。
だがハルトが前に立ちはだかった。無言で腕を広げ、盾のようにアメリアを守る。
一方でヨエルから新しい紙片が届いた。王都での研究を写したもので、細菌を培養して確認する方法が記されていた。実物は手にできないが、その理論はアメリアの記録を補強する。
彼女は涙を拭い、再び壁の発症曲線を指差した。
「見てください。加熱と衛生を守った区域では、回復者が増えています」
やがてその通りになった。徹底した家々からは次第に快方に向かう声が聞こえ始めた。一方、祈祷師が聖水を強いた家では嘔吐や脱水の被害が続出した。
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だがアメリアは勝ち誇らなかった。
広場に木の台を置き、そこに立った。
「科学は万能ではありません。私はいつでも誤る可能性がある。だから記録し、訂正します。生き残るために」
その言葉とともに、彼女はその台を“謝罪台”と名づけた。失敗も隠さずにさらす場所。
人々は驚き、やがてその姿に心を打たれた。数字以上に、彼女の誠実さと人間味が信頼を呼び込んだのだ。
謝罪台の横で、灰火草が赤い葉を揺らしていた。
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春の終わり。アメリアは静かに記録帳を閉じた。そこには棒グラフと折れ線、そして涙の染みが並んでいた。
疫病はまだ完全には去っていない。けれど、村は一つの象徴を得た。誤りを恐れず、記録し続ける姿勢。その中心に立つのは、もはや“毒婦”ではなく、“薬師さま”と呼ばれる女だった。



