炭鉱事故の救護から数日後、マリクトの村には安堵の気配が広がっていた。温室に仮設された救護所はまだ薬草の匂いに満ちていたが、呻き声は次第に笑い声に変わり、傷を負った男たちはゆっくりと歩けるようになりつつあった。

 アメリアは壁に貼った経過曲線を見ながら、胸の奥に淡い手応えを感じていた。数字は嘘をつかない。体温の下がり方、脈拍の安定、呼吸数の減少。ひとつひとつが回復の証であり、彼女が毒婦ではなく薬師であることの確かな証明だった。

 しかし、その温室に「影」が差し込むのは、時間の問題だった。



 午後、村長宅に豪奢な馬車が停まった。王都からの使者だった。
 漆黒の外套に身を包み、銀飾りの指輪をいくつもはめた壮年の男。背後には護衛を従え、その姿は辺境の泥道に似つかわしくないほど異質だった。

「公爵令嬢アメリア殿。ようやくお目にかかれた」

 男はにやりと笑い、分厚い羊皮紙を机に広げた。

「王都は貴女に“名誉回復の機会”を与えようとしている。条件はただ一つ。貴女の薬式を王都に寄贈することだ。それさえあれば、すべての疑いは晴れ、辺境には保護が与えられる」

 羊皮紙に並ぶ文言は一見、寛大な赦免のように見えた。だが行間を読む目を持つ者には、すぐに分かる。薬式の独占権と改変権の譲渡が潜んでいた。王都に渡せば、以後アメリアの手から薬は離れ、彼女の名は完全に消される。

 背後にいるのは、王太子派の貴族商会。そして“聖女”セレスタの後見勢力。

 アメリアは契約書に目を落としたまま、声を低くした。
「その契約は、私から命を奪うものです」

 使者の笑みが凍りついた。

「辺境の女が政治を語るな」

 吐き捨てるような嘲り。しかしアメリアは微動だにせず、逆に静けさを増した。

「ならば、こちらから“質問”を返しましょう。公開で、王都に」

 机の上に、新しい紙を置いた。そこに記された三点。

一、問題になった小瓶の封蝋破損と偽封印の可能性。
二、“聖女の聖水”の成分表の開示。
三、王立研究院による二重盲検試験の実施。

「私は沈黙しません。真実は光にさらして計量すべきものです」

 使者は紙を叩きつけ、怒声を残して立ち去った。



 その日の夜、村長は温室に人々を集めた。
「この公開質問状を、村人全員の署名で支える」

 古老たちがうなずき、若者たちが名を連ねた。アメリアは言葉を失いながらも、胸の奥が熱くなった。王都が嘲った“辺境の女”の声が、今は村の声と重なっていた。



 深夜。温室で整理をしていたアメリアは、母の遺品の木箱をふと開けた。古びた指輪が一つ、底に眠っていた。

 銀に似た金属に刻まれた紋章。辺境伯家に侯爵位が与えられる前、古い盟約の証として交わされたものだと、母の手紙に記されていた。

「母は、王都に媚びなかった……」

 その指輪を掌に握りしめたとき、彼女の胸に新しい誓いが芽生えた。

 ——いつか王都で、公然と真実を計量し、光に晒す。



 春の雨の夜、温室の外で土を掘る音がした。
 ハルトだった。寡黙な彼は、村の水路を夜通し掘り、温室に清らかな水を引いていた。泥にまみれながらも黙々と働く背中に、言葉以上の信義が宿っていた。

 一方、ヨエルからは遠路を冒して密書と試薬が届いた。王都で危険を冒して採取した成分表の写し。そこには、聖水に含まれる不純物の具体的な数値が記されていた。

 ——二人の寄り添い方は違う。
 ハルトは行いで。ヨエルは知識で。

 アメリアは目を閉じた。今は、どちらの温もりも、恋として抱くには遠い。ただ“仕事と信義”がすべてに優先する。



 翌朝、温室には村人の署名で埋まった質問状が掲げられていた。
 春の光を受け、灰火草の葉が赤みを帯び、薄荷の匂いが漂う。

 アメリアは静かに息を吸い込む。
「ざまあは、まだ先。だけど必ず」

 彼女の誓いは、雨と泥と薄荷の匂いとともに、村の空に溶けていった。