マリクトの冬は厳しかったが、その地に春が訪れるのは早かった。凍てついた土を溶かす雨が過ぎ去り、湿った風に混じって薬草の匂いが漂い始める。温室の苗床には、灰火草の灰色の葉がわずかに赤を帯び、春の光を浴びて息を吹き返していた。

 アメリアは指先でその葉をそっと撫でる。かすかな毛羽立ちが触れ、微かに熱を宿しているようだった。母が遺した『辺境薬草誌』に記された通り、灰火草は火の灰と冷たい雨を必要とした。冬の間、村の暖炉から得た灰を混ぜた土に、夜明けの雨水を注ぎ込む。辛抱強く世話を続けた結果、ようやく芽吹いた命。

「壊されても、芽は芽だ」

 独りごちる声は、温室に反響して消えた。



 灰火草から得られる成分は、咳止め、鎮痛、そして消毒に効く。アメリアはその効能を活かし、吸入液と軟膏を作り出した。温室の壁に簡単な価格表を貼る。裕福な村人には相応の代価を求め、貧しい家には労働で相殺、あるいは無料とした。

「働けるときに働けばいい。病を放置するより、ずっと安上がりよ」

 その仕組みに最初は戸惑っていた村人たちも、少しずつ温室を訪れるようになった。咳に悩む老人、薪割りで手を切った男、子どもの熱に怯える母親。アメリアは一人ひとりの症状を記録し、処方を示し、回復の経過を数字で示した。

 温室に漂う薄荷と灰火草の匂いは、やがて村人にとって安心の香りへと変わり始めた。



 だが、それを快く思わぬ者もいた。祈祷師とその背後にある商会だ。

 もともとこの村では、祈祷師が「聖女の加護」と称して祈祷や護符を売り、病を鎮めると謳ってきた。だが実際には高額な「聖女のお札」や「聖水」が村人の家計を圧迫していた。そこにアメリアの安価で効く薬が現れれば、利権は奪われる。

 夜、温室の窓が石で割られた。苗床が踏み荒らされ、芽吹いたばかりの灰火草が無惨に散らされる。

 エマが悲鳴を上げ、ヨエルが怒りに拳を震わせた。だがアメリアは、割れたガラスの破片を片づけながら静かに苗床を見つめていた。

「見て。根は、まだ生きている」

 踏まれた土を掘り起こすと、小さな芽が折れながらも、土の中で再び伸びようとしていた。アメリアはその芽を丁寧に移し替え、苗床を整える。

「壊されても、芽は芽だ。育て直せばいい」

 その姿に、エマもヨエルも言葉を失った。



 一方そのころ、王都では「毒婦裁判」の準備が進められていた。
 エマの密書がアメリアの手に届く。そこには、王太子の周囲で「聖女の聖水」を扱う新商会が台頭していると記されていた。

 アメリアは温室の机に紙を広げ、聖水の成分と自らの薬の配合を比較した。数少ない村の資料や母の記録を頼りに、紙上での分析を重ねる。

 ——聖水には、不純物が多い。特定の体質によっては、強いショック症状を引き起こす可能性がある。

 その仮説に到達したとき、アメリアは息を詰めた。証明には王都の研究設備が必要だ。しかし、今の彼女は戻れない。

「証明の時は、必ず来る。けれど今は——生きている人を救う」

 そう自分に言い聞かせ、記録帳を閉じた。



 その矢先、村に大きな災厄が降りかかる。炭鉱の崩落事故だった。

 朝、鐘の音とともに人々が叫びながら駆け込んでくる。多くの男たちが岩に挟まれ、重傷を負ったという。村は混乱に陥った。

 アメリアは即座に温室を救護所へと改装した。方眼紙に「消毒」「縫合」「固定」「疼痛管理」と段取りを書き出し、壁に貼る。エマが包帯を用意し、ヨエルが臨時の棚を組む。

 寡黙なハルトは、無言で梁を担ぎ、即席の担架を組み立てた。子どもたちは小さな手で水を運んだ。

 呻き声、血の匂い、雨に濡れた土。混乱の中で、アメリアは一人ひとりの傷を確かめ、必要な処置を淡々と施していく。消毒液の匂いが薄荷と混じり、温室は異様な緊張と熱気に満ちていた。

 数時間の奮闘の末、最も重症の男の呼吸が安定したとき、村長が深く頭を下げた。

「薬師さま……」

 その一言が、温室にいた人々の胸を打った。



 だが、祈祷師とその取り巻きは怒りを露わにした。

「罪人に頼れば、村が罰を受ける!」
「聖女の加護を忘れたのか!」

 罵倒が温室の外から浴びせられる。だがアメリアは一歩も動じなかった。患者の回復曲線を紙に描き、壁に貼った。

「この数字が真実です。彼らの体温、脈、回復の速度。祈りではなく、命の証です」

 その冷静な声に、村人たちは祈祷師の怒声よりも、壁の紙に引き寄せられていった。

 ざまあはまだ先。だが少なくとも、この村ではアメリアが真であることが、日々証明され始めていた。