1 夏の入口、風の丘
夏の入口。マリクトの丘には、風がよく通っていた。
灰火草の穂が掌を撫でるように揺れ、陽を受けて銀色に光る。丘を下れば、焼け跡の温室には新しい梁が組まれ、門には「公営衛生院マリクト支部」と書かれた標識が掲げられていた。
旅芸人の幌には「紙芝居・薬式講座」と描かれた新しい絵が吊るされ、子どもたちはその前を走り回る。王都から来た学徒も、辺境の祖母も、皆が同じ黒板を覗き込む。
制度は回り、誤りは掲げられ、訂正に資源が配られる。
アメリアはその光景を見つめていた。これこそが、彼女の望んだ“ざまあ”の最終形だった。誰か一人の勝利ではない。仕組みが人を勝たせる世界。それが、彼女の夢見た報復であり、救済だった。
2 王都からの訪問者
その日、王都から一行がやってきた。
ダリオとエマ、研究院長、そしてセレスタ。
威圧的な衣装も行列もない。
ダリオは質素な民衣を纏い、エマは筆記用具を抱え、研究院長は薄汚れた白衣のまま。セレスタは簡素な灰衣で、護符も香りも身に着けていなかった。
アメリアは彼らを“輪”へ招いた。村人の輪、薬市の輪。誰もが同じ高さで座り、同じ言葉で語る場だ。
子どもがダリオに手を挙げる。
「王さまって、失敗するの?」
ダリオは一拍置き、真っ直ぐ答えた。
「する。たくさん。それを言えるのが、王さまの仕事だ」
広場に笑いが広がり、紙芝居が始まる。
セレスタは母親たちの輪に座り、呼吸紙を配り、若い父親に抱っこの仕方を教えていた。かつて象徴とされた彼女が、今は隣人の役割を担っている。
3 裏庭の会話
視察の合間。温室の裏庭。
灰火草の葉が影を落とすなかで、ダリオはアメリアにだけ聞こえる声で告げた。
「君がここを選ぶなら、私はその選択を讃えるだけだ。……婚約の件は、今日で完全に下げよう。代わりに約束を一つ。王家は“謝罪台”を私の代で形式ではなく文化にする。君の名前を借りず、王家の仕事として」
アメリアは微笑み、短く答えた。
「それが、いちばん嬉しい」
二人は背を向け合い、しかし同じ風を吸った。
恋は選ばれなかった。けれど、敬意は選ばれた。
4 崩落復旧の祭
午後、崩落した炭鉱道の再開通を祝う小さな祭が開かれた。
音楽が鳴り、子どもが舞い、老いた炭鉱夫が笑う。
人混みを離れ、丘に立つアメリア。母の指輪を陽にかざす。
隣に立ったハルトは、何も言わず同じ景色を眺めていた。
長い沈黙。だが重くはない。
やがて、彼が言った。
「王都に行く日がまた来る。嵐も来る。……それでも、ここに戻ってくるんだろう?」
アメリアは頷いた。
「戻ってくる。戻るというより、ここから出かけるだけ」
ハルトは息を吸い、短い言葉を吐き出す。
「なら、帰る場所に——俺もいていいか」
アメリアは笑った。
「帰る場所は広い方が、風がよく通るから」
二人の間に、“恋”が言葉として着地した。
抱擁も口づけもない。ただ、彼が温室の鍵を差し出し、彼女が受け取る。
それが、二人の信頼の形だった。
5 夜の温室
夕刻。王都の一行を見送り、温室には再び日常が戻る。
ミーナが帳面を広げ、リサが産婦の往診の準備を整え、タムが苗床の湿り具合を確かめる。
アメリアは黒板に新しい列を引いた。
「今月の失敗/訂正案/必要資源」
そして“謝罪台”に立ち、声を出す。
「花粉症の子に煎じ薬の濃度が強すぎました。次回は薄め、代替の吸入を優先します」
広場に拍手が広がり、資源の配分が決まる。
罰ではなく、誰かの次の成功への投資。
それが、この共同体の習慣になっていた。
6 薬草は風に揺れる
夜風が温室を抜け、灰火草がさざめき、薄荷が匂いを立てる。
アメリアは灯りを落とし、外に出た。
空は星で敷き詰められている。
遠くの王都にも、同じ星が落ちていた。
彼女は思う。
——ざまあ、はもう終わった。
終わったからこそ毎日が始まり、始まるたびに訂正があり、訂正のたびに人が生き延びる。
その連なりこそが、復讐の最上の形であり、愛のもっとも確かな言い方だった。
7 朝の光
翌朝。
薬市の旗が上がり、子どもが黒板を拭き、ハルトが扉を開ける。
アメリアは最初の患者に微笑んだ。
「おはようございます。今日は、どこから整えましょうか」
薬草は風に揺れ、丘を越えた風が王都へ届く。
小さな使い鳩が飛び、次の“訂正の便り”を運んでいった。
物語はここで幕を引く。
けれど暮らしは続く。
読者の胸に、静かな風が一本通る——それが、彼女の選んだ“ざまあ”の余韻だった。



