1 春の空と温室の梁
マリクトの空は、淡い春の光にけぶっていた。
長く雪と氷に閉ざされていた山あいにも、やわらかな風が通い始め、村の外れに立つ焼け跡の温室には、新しい梁が組まれていた。煤けた壁に打ち直された釘の匂い、乾いた木材の香り。あの日、炎に呑まれた薬草園の廃墟は、村人の手で少しずつ「居場所」へと姿を変えていた。
馬車から降りたアメリアを見つけ、子どもたちが駆け寄った。
「薬師さま、戻った!」
その声に、鍬を持っていた男たちも、桶を下ろした女たちも、自然に温室へと集まってきた。
王都から戻った彼女を迎えるのは、祝辞でも拍手でもなく、素朴な「集会」だった。
2 集会の三つの議題
焚き火の煙がまだ残る温室の片隅に、古い黒板が立てられた。チョークを持ったのは、読み書きの早い少女ミーナだった。
輪になった村人の真ん中にアメリアも腰を下ろす。壇上に立つのではない。輪の中の一席。
「決めるのは私ではない。皆で決める。私は“書き役”をする」
そう告げると、ざわめきは静まり、自然に話し合いが始まった。
議題は三つ。
一つ、公的承認された「辺境薬草園」の運営体制。
二つ、薬市の定期開催と価格透明化。
三つ、旅芸人ネットワークと炭鉱路を結ぶ物流線の常設。
老人が昔話のように語り、若い母親が現場の不便を列挙する。
「夜間の呼び出しは誰が受ける?」
「薬草の採取権をどう配分する?」
「無料と有料の境い目は?」
村の言葉は、王都の大広間に劣らぬ熱を帯びていた。
3 三本柱の合意
議論の末に浮かび上がったのは「三本柱」だった。
①臨床——手当て、看護、往診。
②生産——栽培、採集、加工。
③記録——指標づくり、公開。
それぞれに責任者を置くが、責任者は輪番制。必ず副責任者を立て、個に寄りかからない仕組みとする。
臨床の責任者には助産婦頭のリサ。
生産には、寡黙な鉱夫たちの中から植物に強い青年タム。
記録には、読み書きに長けた少女ミーナが推された。
アメリアは全体の設計図を描くだけで、判断はそれぞれに委ねた。
「私が王都に呼ばれても、ここは回る」
そう言ったとき、村人たちの顔に安心と誇りが混じった笑みが広がった。
4 謝罪台の制度化
温室の外に残された木の台、あの“謝罪台”は、そのまま村の制度に組み込まれた。
月一度の薬市の日、責任者がその月の失敗と訂正を全員の前で発表し、拍手とともに“次回への資源”が割り当てられる。
罰ではなく、訂正に投資する仕組み。
「薬草の乾燥を誤って、半分は駄目にしました」
タムが言うと、子どもたちが笑い、老人が頷く。
「なら次は乾燥小屋を二重にすればいい。資金は基金から」
こうして失敗は恥ではなく、次の工夫の糧となった。
拍手の響きが、王都の法律よりも深く人々を結びつけていく。
5 草の道(ハーブ・ライン)
物流線の話題になると、旅芸人の座長が地図を広げた。
旅一座の巡回ルート、炭鉱の連絡道、川を下る小舟、冬に使うソリ道。
それらを結んで「草の道(ハーブ・ライン)」と名付けられた。
道沿いの村や宿には小さな倉庫が置かれ、そこに衛生箱を備える。
在庫表と価格表は掲示板に張り出し、同時に鳩便で王都に送る。透明性は信頼であり、抑止にもなる。
値付けは「生活コスト+共有基金+次回改修費」という計算式を公表。
値切りも恥ではないが、値上げの理由説明も必須。
数字が暮らしの言葉に降りてくる瞬間だった。
6 ハルトとの夜
昼は土台づくり、夜は見回り。
ある夜、雨上がりの温室で、アメリアとハルトは遮光幕を張り替えていた。
湿った布から立ち上る土の匂い。
ランプの炎が二人の影を重ねる。
「王都での話は聞いた」
ハルトはためらいがちに言った。
「……戻る気は、ないんだな」
アメリアは頷いた。
「私は“風が通る居場所”で息をしたい。王都にも風は吹かせたいけれど、根はここに置く」
ハルトは目を細め、わずかに笑んだ。
「なら、根のまわりの石をどけておく。嵐が来ても倒れないように」
その言葉は告白めいていたが、名指しの愛はまだ置かれない。
二人は互いの“仕事”を愛することで、相手の核へと近づいていった。
7 エマの訪問
王都からエマが視察に訪れた。
かつての侍女はいまや「訂正の文化」を王家に伝える役目を担っていた。
「王都で憲章が回り始めたよ」
彼女は報せを伝え、肩を竦めた。
「けれど抵抗も多い。貴族は数字を恐れ、庶民は字を恐れる。紙芝居の出番だね」
アメリアはミーナに台本を書かせ、旅芸人ルートに配布した。
制度は上から降りるだけでなく、下から湧く。
その両方向を繋ぐ継ぎ目が、ここマリクトだった。
8 嵐の兆し
集会が終わった夜、山の向こうで土砂崩れが起きた。炭鉱道が塞がれたという報せが入る。
ハルトが隊を率い、道を確かめに行く。
雨の匂いが強くなり、黒雲が近づいていた。
アメリアは黒板に新たな段取りを書き足し、背筋を伸ばした。
共同体は試され続ける。
だからこそ、仕組みは輪番制であり、個に寄りかからない。
9 帰る理由
夜更け、温室の窓から春の月が差し込んだ。
薬草の芽が静かに揺れている。
アメリアは胸に手を当て、小さく呟いた。
「帰る理由は、ここに息をしているから。ここが、“暮らし”の名を持つから」
その声は誰にも届かなかったが、梁に組まれた木と、芽吹きの土が静かに応えた。



