1 審理の翌朝
王都の大広間で審理が結審した翌朝、王宮前の広場には、まだ夜明けの靄が薄く漂っていた。
石畳は湿り気を帯び、昨日の熱を沈めるかのように静かだった。けれど、人々の顔には昨夜の叫びの余韻が残り、その奥に「次へ進まねば」という焦りの色が滲んでいた。
王家の旗は高楼の上で静かに揺れている。王立研究院の学士たちは、帆布の展示を畳み込み、被害者家族はセレスタに伴われて救済基金の仮窓口へと向かっていた。
昨日まで「怒り」の渦に呑まれていた王都は、いま「後始末」と「段取り」という冷たい現実に重心を移しつつあった。
鐘の音が三度鳴り、王太子ダリオは枢密会議の扉を押し開けた。
2 枢密会議——制度の決裁
会議室の奥は、厚い緞帳と冷たい木製の卓に囲まれ、緊張の空気が張り詰めていた。
財務卿の後任をどうするか。
公営衛生院をどの部署の所管にするか。
薬式オープン化憲章をいつ公布するか。
議題は山のように積まれていた。
老齢の学士が条文の草稿を読み上げる。「責任者の氏名、権限、監査手続き……」
だが、そこに新しく加わった条文は、これまでの王国の法にはなかった一文だった。
——失敗したとき、どう訂正するか。
訂正の責任。訂正に必要な資源の配分。
それらは「王家の体面」ではなく、「生存率の向上」という指標に紐づけられていた。
あの広場の“謝罪台”でアメリアが示した思想が、いま王命の文言へと翻訳されていく。
研究院長と監査院長、近衛長が署名し、王命は正式な文書として刻まれた。
王国はようやく、「怒りを鎮める」から「仕組みを組む」へと舵を切ったのだ。
3 控えの間で
一連の決裁が終わると、短い私的な謁見の時間が設けられた。
広間脇の控えの間。
机が一つ置かれ、窓から差し込む朝の光が淡く差していた。
ダリオは簡素な青衣を纏い、アメリアは辺境の灰色の作業服の上に礼装の外套を羽織っていた。
互いに武器はなく、政治の装飾も剥がれ、ただ人として向かい合う。
沈黙を破ったのは、ダリオだった。
「……再び婚約の話をしてもいいか」
その声には、かつて広間で高らかに彼女を断罪した男の鋭さはなかった。
政治的計算だけでなく、アメリアという一人の人間への敬意と、惹かれた気持ちが滲んでいた。
「君が王家に入れば、制度は早く根付く。王族に『訂正の規範』を持ち込めるのは、君しかいない」
4 アメリアの返答
アメリアは卓上に置かれた指輪をそっと指でなぞり、問いを返した。
「私が王家に入れば、辺境の温室と薬市はどうなるのですか。誰が“現場”を持つのですか」
彼女の声は硬くもなく、柔らかすぎることもなく、ただ冷静だった。
「私は王都に“象徴”として飾られるでしょう。けれど象徴しかいない国は脆い。現場が鈍る」
彼女は静かに言葉を続けた。
「私は、王国の“恋”より先に、“仕組み”と“暮らし”を選びます」
その一言に、ダリオは深く息を吐いた。痛みを飲み込みながらも、彼はなおも提案を続ける。
5 妥協の形
「婚約という形式を急がない」
ダリオは姿勢を正した。
「政略ではなく、君が選ぶ時間を尊重する。王家の庇護を現場に回す制度設計を——辺境薬草園を衛生院の準拠地として公的に認可し、君を“王国主席薬式監(非常勤)”に任ずる」
アメリアはしばし沈黙し、窓の外の光に目をやった。
やがて静かに、条件を三つ口にした。
(一)主席薬式監は複数名制にすること。自分が倒れても回る仕組みに。
(二)研究院・衛生院・辺境ネットワークの意思決定は署名・公開・反対意見の保存を必須とすること。
(三)謝罪台の思想を条文化し、訂正に罰ではなく「訂正の資源配分」を伴わせること。
ダリオは深く頷いた。
「受け入れる。そして婚約の件は結論を急がない」
その言葉とともに、彼は初めて、アメリアの人生の主語がアメリア自身であることを、政治と心の両面で承認したのだった。
6 セレスタの誓い
控え室を出ると、王宮の庭にセレスタが待っていた。
化粧は薄く、護符はなかった。
彼女はアメリアの手を握り、静かに言った。
「救済基金の窓口に、私も座る。奇跡ではなく、手当てで返す」
二人は短く抱き合った。
そこにあったのは、憎しみを燃料にしない勝利の形だった。
7 物語と制度
その頃、王都の街路では旅芸人たちが帆布の縮小版を掲げ、紙芝居で「聖水の化学」を語り始めていた。
子どもが足を止め、商人が頷き、偏屈な老人さえ笑った。
制度は遠い。けれど物語は近い。物語が制度の背を押す。
その日、王家の官報には「薬式オープン化憲章」の施行日が告示され、同時に“辺境モデル”としてマリクト薬草園の公的承認が告知された。
8 答えの保留
アメリアは王都の高楼を見上げ、母の指輪に触れた。
「ここで答えを出さないのも、ひとつの答え」
再婚約の是非は宙に保留されたまま。だが“制度の婚約”は、確かに結ばれたのだった。
夕刻、馬車のステップに足をかけた彼女に、王都の風が触れた。
冷たく、しかしやわらかく。
それは新しい時代の息吹のようでもあった。



