1 審理前夜の温室

 春の風はまだ冷たく、温室のガラスは夜露で白く曇っていた。アメリアは机いっぱいに帆布を広げ、色の筆を走らせていた。赤、青、黄。三色だけで描かれた矢印が、ひとつの循環を浮かび上がらせる。

 王家歳入の不足。
 財務卿の外債依存。
 その償還原資としての“聖水利権”。
 下請けに組み込まれた祈祷師網。
 流通を担う商会。
 宣伝を担う旅一座への台本供給。

 矢印はすべて、最終的に財務卿の机の上に収束していく。

 ハルトが戸口に立ち、腕を組んで眺めていた。
「……戦の地図みたいだな」

「これは利権の地図です」アメリアは顔を上げずに答えた。「個人の悪意ではない。装置としての循環。これを断ち切るには、代わりの装置を作らなければならない」

 彼女の声は静かだったが、筆を握る手には震えがあった。その震えを見て、ハルトは黙って机の端に置かれた布袋を直した。中には彼が鉱山で拾った水晶片。前夜に渡したお守りだ。

2 代替案の設計

 翌朝、アメリアは二つの帆布を携えて王都へ向かった。

 一つは〈利権複合の地図〉。
 もう一つは〈代替装置の設計図〉。

 代替案は二つ。
 第一に“公営衛生院”の設置。研究院の監督のもとで薬式と施術を公開し、価格を透明化する。
 第二に“薬式オープン化憲章”。一定の安全基準を満たした薬式は誰もが参照できるが、改変や販売には登録と監査を義務付ける。民間の創意を殺さず、闇の独占だけを殺す設計。

 彼女は声を強めて言うつもりはなかった。
「復讐は感情の慰めに過ぎない。欲しいのは、二度と同じ死が出ない仕組み」

 その言葉を心の奥に繰り返しながら、王城へ向かう石畳を踏みしめた。

3 審理の開幕

 大広間の扉が再び開かれる。前回よりもさらに多くの人々が集まっていた。被害者家族の顔はやつれ、貴族たちの顔は硬直し、市民たちの目は怒りと不安に濁っている。

 壇上の左に、財務卿本人が姿を現した。痩せた体に贅沢な外套をまとい、老獪な笑みを浮かべている。その目は、すべてを見透かすかのように冷たかった。

「国を守るための最善であった」
 彼は開口一番そう言った。
「聖女の涙は、慈善事業の顔を作るための演出に過ぎなかった」

 会場が凍りついた。被害者家族のすすり泣きが響く。

4 帆布の地図

 アメリアは静かに立ち上がり、帆布を広げた。
 利権の地図。矢印は堂々と財務卿の机に集まっていく。

「これは偶然ではありません。組織的な装置です」

 彼女は一つひとつ指差した。
 祈祷師の台帳。
 工房の領収書。
 商会の輸送許可証の写し。

 矢印の先にあるのは、財務卿の名だった。

 さらに証人が立ち上がる。
「王都の香料市場でタールを供給したのは隣国商会。その役員に、財務卿の甥の名がありました」

 群衆が沸き立った。怒号と罵声が飛び交う。

5 怒りを超えて

 アメリアは手を上げて群衆を静めた。

「怒りは理解します。けれど、怒りだけでは生きられない。今日ここで、代わりの仕組みを受け入れられるかどうかが問われています」

 その声に、群衆の熱はゆっくりと鎮まっていった。

 ダリオが前に出た。
「王命として、公営衛生院の設置と薬式オープン化憲章の制定をここに宣言する」

 研究院長が続き、具体の日程と責任者の名を読み上げる。王家の印章が押されると、会場にはどよめきが広がった。

6 第三の帆布

 追い詰められた財務卿はなおも叫んだ。
「王家の財政はどうする! 聖水を失えば、国は立ちゆかぬ!」

 アメリアは第三の帆布を広げた。

 辺境発の薬草交易路の地図。
 旅芸人の路線、炭鉱の連絡道、河川の小舟、冬のソリ道。

「これらを結べば、王都への恒常収入源となる薬草課税ルートが成立します。利権の独占を壊しつつ、国家財政の穴を埋める実務案です」

 群衆の顔に、怒りとは異なる光が灯った。

7 結審

 審理は結審に向かった。

 財務卿は失脚。資産の一部没収、公職追放の処分。
 祈祷師網は再教育を受け、地域医療補助員として再配置。
 商会は罰金と被害者救済基金への拠出を命じられた。

 セレスタは被害者支援の先頭に立つ役目を引き受け、護符を自ら外して回った。“涙”はようやく意味を変え始めていた。

8 余韻

 退廷後、アメリアは人波の陰で深く息を吐いた。
 ハルトが近づき、「終わったな」と囁く。
 アメリアは首を振った。

「制度は始まったばかり。終わるのは、私が選ぶとき」

 遠巻きにダリオがその横顔を見つめていた。
 彼はもう、自分が彼女の人生の“主語”ではあり得ないことを悟った。微笑みは敗北ではなく、尊敬に近いものへと変わっていった。

9 帰路

 温室に戻る馬車の揺れの中、アメリアは母の指輪を眺めた。
 窓外には春の芽吹きが広がっていた。

 彼女は小さく呟いた。
「ざまあ、は派手じゃなくていい。誰かの暮らしが続いていくこと——それが一番のざまあ」

 車輪の音が、静かに辺境へと響いていった。