馬車を降りた瞬間、アメリアは全身を打ち据えるような雨に迎えられた。空は低く垂れ込め、雲は重く、土と水が混ざりあう匂いが鼻腔を突いた。王都の舗装された石畳とは違う。ここでは、雨粒はそのまま大地を叩き、泥となり、道を溶かしていく。

 マリクト——母がかつて「静かだが、よく育つ土地」と評した辺境の村。王都の輝きから遠く離れ、地図の余白のようなこの地に、彼女は追放に似た旅の果てとして辿り着いた。

 崩れかけた石塀。その奥に、苔に覆われた温室があった。ガラスはところどころ割れ、雨水が無惨に流れ込んでいる。屋根の梁には蔦が絡み、扉は錆びつき、かつて薬草園と呼ばれた場所は荒れ果てていた。

 しかし、アメリアは躊躇わず泥を踏み込んだ。足元の苗床は乾ききり、土はひび割れている。それでも手で掘り返すと、かすかに緑の線が顔を覗かせた。薄荷の根と、タイムの小さな芽。生きていた。

「……まだ、間に合う」

 雨水を桶で集め、板切れを拾って割れた窓に打ち付ける。冷たい雨に濡れながら、アメリアは母が残した『辺境薬草誌』を胸に抱いた。紙は古びていたが、余白にはびっしりと走り書きが残されている。この土地特有の植物——“灰火草(かいかそう)”についても記述があった。灰色の葉に火照ったような赤を帯びる草で、再生力が強いが、特定の土と雨の配合を要する。母は繰り返し試し、最後に「火の灰と冷たい雨を」と記していた。



 だが、村人たちはアメリアに近づこうとしなかった。

 「王都で毒を作った令嬢が来た」
 「公爵の娘でも、罪は罪だ」

 囁きは雨より冷たく、背中に突き刺さる。子供たちは彼女を見ると走り去り、女たちは戸口から警戒の目を向けた。

 ただ一人、山から薪を下ろす青年ハルトだけが、無言で道具を貸してくれた。長身で寡黙、荒天にも動じない男。理由を問わず、ただ必要な物を差し出すその仕草が、不思議な救いになった。



 そんなある夜。戸を叩く音にアメリアは目を覚ました。雨脚はさらに強く、外は闇に沈んでいる。

「助けてください、子が……!」

 村の女が涙声で幼子を抱えて立っていた。頬は紅潮し、呼吸は荒い。高熱と咳。聞けば祈祷師は来ず、村医は隣村へ出ているという。

 アメリアは逡巡した。王都での断罪を思えば、薬を差し出すことは再び「毒」と糾弾されかねない。だが幼子の荒い呼吸を見た瞬間、迷いは霧散した。

 温室に駆け込み、母の書法を手繰り寄せる。薄荷とタイムを煎じ、わずかに残っていた灰火草の根を削って混ぜる。香りが立ち上り、苦味のある蒸気が満ちていく。

「深く吸わせて。泣いてもいい、咳き込んでもいい。肺を通して出せば熱が下がる」

 アメリアの声に導かれ、幼子は咳き込みながらも吸い続けた。時間が過ぎ、やがて熱が下がり始める。母親は手を合わせ、涙で彼女に礼を述べた。

 だがその後、村に囁きが走った。
 「罪人に頼れば村が罰せられる」
 「聖女の加護を拒むことになる」



 翌朝、行商が村に現れた。祈祷師と結びついた男で、「聖女のお札」を高値で売り歩きながら、アメリアの薬を貶めた。

 「毒婦の調合に子を任せるな。聖女の涙が唯一の薬だ」

 アメリアは争わなかった。ただ記録帳を抱え、幼子の呼吸回数、脈拍、尿量を数字にして村人へ示した。紙に刻まれた経過は明瞭で、迷信を否定するよりも雄弁に回復を物語った。

「迷信は否定でなく、可視化で溶かす」

 その言葉に、村の古老は深い皺を刻んだ目を細めた。
 「やはりあの公爵の娘か。母御は、よく土に話しかけておった」



 数日が過ぎ、温室の苗床から新芽がいくつも頭を出した。雨に混じる薄荷の匂いが、確かに息づいている。

 王都から遠く離れたこの地で、アメリアは“役に立つ”という根を張り始めていた。