1 急使の報
曇天の朝だった。温室の窓硝子は夜露で白く曇り、灰火草の芽がそこにぼんやりと影を落としていた。
アメリアが灰をふるいにかけていると、馬蹄の乱れた響きが石畳を震わせた。戸口が荒々しく叩かれ、村の門番が息も絶え絶えに叫んだ。
「王都近郊から急使! 聖水を飲んだ者が次々に倒れている――吐き気、眩暈、痙攣だ!」
場にいた全員が凍り付いた。祭礼に合わせて一斉に頒布された“聖水”。あれを口にした人々が、今まさに命を落としかけている。
アメリアは即座に判断した。
「温室を、臨時の救護院に変える」
声は静かだが、切迫した鋭さを帯びていた。
2 救護院への変貌
温室は一刻のうちに姿を変えた。
入口には縄で区画を設け、症状の重さによって三つに分ける。
重症群:寝台列。呼吸困難や痙攣を呈する者。
軽症群:土間の椅子。吐き気と眩暈を中心とする者。
観察群:縁側に並べ、経過を追う。
ハルトが縄を張り、木札に番号を書いて配った。旅芸人の子らが到着順に札を渡し、母親たちを宥めながら誘導する。
アメリアは即座に処置に入った。灰火草の灰から得られる活性炭を水で懸濁し、嘔吐と下痢で脱水した者には温塩糖水を匙で少量ずつ口に含ませる。呼吸が弱まった患者は横向きに寝かせ、喉頭痙攣を疑えば顎先を持ち上げ、肩を支えて気道を開く。
記録係に指名された少女は震える手で羊皮紙に記す。
「到着時刻、脈拍、呼吸数、体温、飲んだ聖水の量と時間……」
書き上げられた表は壁に貼られ、やがて温室の白い壁は数字と線で覆われていった。
3 混乱の外
救護院の外では、祈祷師残党が声を張り上げていた。
「薬婦が毒を盛ったのだ! 聖女の水を汚したのは、あの女だ!」
怒号に石が投げられ、戸板に鈍い音が響く。恐怖に顔を伏せる母親たちの間に、憎しみの火が広がろうとしていた。
アメリアは迷わず戸を押し開け、広場に出た。
かつて疫病のときに立った“謝罪台”。そこに再び上がる。
4 謝罪台の言葉
人々の視線が集まる中、アメリアは深く息を吸い込んだ。
「私は万能ではありません。治療でも、誤る可能性があります」
ざわめきが走った。だが彼女は続ける。
「だからこそ、私は間違いを見つけ、正し続けます。その手順をすべて、ここに晒します」
黒板に白い石灰で書き出す。
〈嘔吐→脱水→電解質喪失→意識低下〉
〈対応:水分補給、小量反復。痙攣時は気道確保。意識低下には体位保持〉
「これは秘密ではない。誰でもできる。だから共にやってほしい」
祈祷師の怒声は次第に弱まり、代わって母親たちの嗚咽が広がった。
「助けて……」「子を救ってください……」
アメリアは頷き、再び温室へ戻った。
5 波の周期
夜が更けても患者の波は途切れなかった。
アメリアは記録を見返し、発症が三時間周期で繰り返していることに気づいた。
「タールの混入と香精の残香。……再刺激で波が生じている」
彼女は活性炭の追加投与を周期の底に合わせて指示し、嘔吐の直後には口腔の清拭と薄荷吸入を加えた。
細かな改訂はすぐに黒板に書き足され、壁の数字は刻々と塗り替えられる。救護院は次第に「学ぶ現場」へと変貌した。
6 王都の噂
同じ頃、王都の空には噂が吹き荒れていた。
市での公開実験の記憶と、目の前で倒れる家族の姿が結び付く。
「聖女の涙は香りで人を酔わせるだけだ」
「聖水は薬ではない、毒だ」
財務卿は兵を動かして鎮圧を試みた。だが剣戟の音は群衆の怒りに油を注ぎ、夜空に焔を散らすだけだった。
7 明け方の静けさ
やがて最初の大波が収まった。重症群の半数が意識を取り戻し、母親の声に反応して涙を浮かべた。
アメリアは泥に汚れた手で水を飲み、壁にもたれた。
その肩に、ハルトが黙って毛布を掛けた。
目が合う。二人は疲労に笑みを漏らす。
「ありがとう」
「礼は要らない。お前が前に立つなら、俺は横で土台になる」
短い言葉が、冷え切った夜をゆっくりと温めていった。
8 審理の告知
夜明け、ヨエルの密使が駆け込んできた。
「研究院の良心派が“公開審理”を決定しました。十日後、王城附属の大広間で」
アメリアはうなずき、黒板の隅に大きく書いた。
〈審理まで:十日〉
「準備を始めます。戦うのは相手ではなく、嘘の仕組みです」
朝日が温室を射し、灰火草の新芽が光を受けた。



