1 王都の夜を抜けて

 王都ルオーネの夜は、昼間の華やぎとは別の顔を持っている。昼は聖女の名を掲げる祭礼と商会の威勢が石畳を埋め尽くすが、夜は火を落とした街灯の下で、冷えた石壁が息を潜める。

 アメリアは旅芸人の案内で馬車を降りた。覆面を被った密使が小声で告げる。
「研究院の奥へ。殿下がお待ちです」

 殿下――ダリオ。
 その名に胸がわずかに揺れた。だが表情は変えない。

 かつて婚約者として寄り添った時間があった。薬草園の庭を歩いたことも、薬草の匂いを笑い合った瞬間も。しかしその夜、彼は群衆の前で彼女を「毒婦」と呼んだ。名誉も未来も、あの一語で焼き払った。

 アメリアは冷たい夜気を吸い込み、息を整えた。
 今さら何を語ろうというのか――それでも、向き合わねばならない。

2 研究院の奥にて

 石造りの研究院は、夜の帳の中で重々しい影を落としていた。外門を抜け、松明の光に導かれて廊下を進むと、奥の閲覧室にひとつだけ灯が揺れていた。

 そこに、ダリオがいた。

 白い外套の襟を乱し、机に手を置いて立つ。
 かつて舞踏会で民衆の視線を集めた姿ではなかった。肩の力は抜け、目の下には深い影。頬はやつれ、髪は無造作に額へ垂れている。

「……来てくれたのか」
 その声は疲労に沈んでいた。

 アメリアは静かに答えた。
「招かれたから」

 近づくと、机上には散らされた文書。聖水の利権に関する帳簿、財務卿の署名、研究院の覚え書き。彼がいま何と戦っているか、容易に察せられた。

3 告白と弁明

 ダリオは深く息を吐いた。
「私は……君を信じていたかった」

 その言葉に、アメリアの胸は冷たく疼いた。
「信じていたかった?」
 反射的に問い返す。

 彼は視線を伏せた。
「だが、財務卿と聖女の陣営に逆らえば、王家は立ち行かない。国庫は枯れ、兵は動かず、民は飢える。私は王国を守るために、君を犠牲にした」

 それは言い訳にすぎなかった。だが、言葉の端々には本心の苦悩が滲んでいた。王としての責務と、人としての情。両方を秤にかけ、後者を切り捨てたのだ。

 アメリアは瞳をまっすぐに向けた。
「あなたの苦悩は理解します。けれど、だからといって誰かの命や名誉を差し出してよい理由にはならない」

 言葉は静かだったが、研ぎ澄まされた刃のように響いた。

4 沈黙の重さ

 研究院の奥で、しばし沈黙が落ちた。

 松明の炎がゆらぎ、壁に影を刻む。窓の外では夜風が枝を鳴らす。
 その間に、ダリオの顔は揺れて見えた。

 彼は王国の象徴であり、民衆にとっての未来だった。だが今、彼はただの青年の顔で、ひとりの人間として罪を背負っていた。

「……君の言う通りだ」
 長い沈黙の後、彼はようやく言葉を絞り出した。
「私は逃げていた。自分の選んだ言葉の重さからも、君からも」

 アメリアは彼を責めるでもなく、ただ見つめた。答えは彼自身が見つけるしかない。

5 約束

 やがて、ダリオは机に散らばる書類を手に取り、震える指で差し出した。
「今度こそ……真実を公にする場を作ろう」

 その言葉は決意というより、祈りに近かった。

「研究院の良心派と協力し、公開審理を開く。聖水の成分、封蝋の偽造、すべて明らかにする。私は、それを止めない」

 アメリアの胸に小さな衝撃が走った。
 彼が本当に舵を切れるかは分からない。だが、その言葉は確かに今、彼の口から紡がれた。

「……約束は軽いものではありません」
「分かっている。だからこそ、ここで言う」

 彼女は静かにうなずいた。

6 遠い温室にて

 同じ夜、辺境の温室では、ハルトが炉の前に座っていた。
 窓の外は満天の星。彼は手にした水晶片を光に透かしながら、思った。

「彼女はいま、王都で戦っている」

 胸の奥にざらつくような不安があった。自分にできるのは、ここで温室を守ること。子どもたちを看ること。村を守ること。

 だが、彼女と自分の距離は、今まで以上に遠くなってしまった気がする。
 薬草の芽を覗き込むと、凍りついた土の下から小さな緑が顔を出していた。生命はそこにあり、彼女もまた必ず帰ってくる。そう信じるしかなかった。

「……俺にできるのは、それを待つことだ」

 吐いた息は白く、炉の炎に溶けて消えた。

7 章の結び

 研究院の夜、アメリアは初めてダリオの本心に触れた。
 彼は王としての責務と、ひとりの青年としての悔恨に引き裂かれていた。
 そしてアメリアは、その告白を赦さず、しかし理解した。

 公開審理の準備が始まる。
 王都と辺境、ふたりの男との間で揺れるアメリアの立ち位置は、さらに緊張を増していく。