1 凍土を穿つ一通の手紙
雪は日ごとに軽くなり、凍てついた地面の下で水脈が微かに動き出していた。温室の壁に射す陽はまだ冷たいが、灰火草の芽は確かに伸びている。
その朝、アメリアの手元に、小さな封書が届いた。封蝋は王立研究院の刻印――だが、表の印はわざと軽く押されている。密やかな合図。エマが教えてくれたやり口だ。
アメリアは息を殺して封を切った。羊皮紙には、研究院の同僚だった若い学士の手で、短く、ただし誤読の余地がない文言が綴られていた。
小瓶の封蝋は「街裏の工房」製。
印の母型は王都正規のものに酷似。ただし“蝋温度の揃い”が不自然。
追って印影の微差照合を送る。
発注者名:聖水商会。
文はそこまでで途切れ、余白に針で引っかいたような細い線が一筋――「急げ」の符牒。
胸の内で何かがはじけた。婚約破棄の夜の屈辱が、氷の塊のように返ってくる。だが、その氷は今、ひび割れ、内部から水の音を立て始めていた。
「偽印章……」
言葉は蒸気のように白く、温室の空に消えた。
ハルトが鍬をもつ手を止め、アメリアを見た。
「動くか」
「ええ。――今度は、こちらから」
彼女は記録帳の余白に、太く一本、線を引いた。逃げ続ける線ではない。攻め返す線だ。
2 旅芸人の仮面
王都へ向かうのは、旅芸人一座――それが一番自然で、一番目立たない。祭礼の混乱を活かした公開実験からまだ日が浅い。市井は一座に馴致し、兵も「騒ぎは済んだ」とたかをくくるはずだった。
座長は地図を広げ、指先で裏通りをなぞった。王城の北、商館街の端で華やぎが尽きる辺りに、煤と油の匂いが溜まる小路がある。金箔の看板はなく、灯りは弱い。だが、王都の「印」は往々にして、そういう場所で鋳られる。
「工房はこの筋のどこかに必ずある」と座長は言った。「祭りの余韻が残る今なら、荷の出入りも多い。紛れ込める」
アメリアはうなずいた。
「目印は蝋温度計と型抜き。印影のわずかな歪みも見逃せない」
ハルトが短く告げる。「護衛は俺がする。表には出ないが、近くにいる」
ヨエルから届いていた極小のレンズを、アメリアは瓶に隠すように革袋へ納めた。光を受けてひそかに瞬いたのは、ハルトから受け取った水晶片。掌に乗せると、微かなぬくもりが脈を落ち着けた。
3 煤けた扉の向こう
王都の裏通りは、表の大通りと同じ都市に属するとは思えないほど湿っていた。舗装の継ぎ目から水が滲み、煤にまみれた雪が溶け残っている。
飾り気のない扉の上に、小さな真鍮の札――《印具調整》。それは商人の眼にはただの職人仕事に見えるだろう。だが、アメリアは工房の奥から漂う蝋の焦げ匂いに確かなものを嗅ぎ取った。温度を誤った蝋が生む、甘く重い匂い。
座長が戸を叩く。
「舞台小道具の修繕を頼みたい」
現れた男は痩せて、目の下に濃い影を落としていた。指先の節は硬く、赤く、火に馴れた職人の手だった。
「刻印なら正規の堂へ行け」
「舞台は夜が仕事だ。役所は朝しか開かない」
言い聞かせるような押し問答のすえ、男はしぶしぶ一座を奥に通した。作業台、蝋鍋、鉄の印面、温度計。壁には幾つもの母型がぶら下がる。光は薄く、表の世界から切り離された時間がそこにあった。
アメリアは視線をさまよわせ、鍋の縁に付いた蝋の層を見た。層は乱れ、温度管理が甘い。正規工房なら許さない痕。
作業台に、気になるものを見つける。木箱の中の小袋――その一つに、涙型の薄い金属板。護符の内面に嵌め込む台座。彼女は胸奥に冷たいものを走らせた。
そのとき、座長が「舞台の印章は舞台の時間に合わせて柔らかく」という、意味ありげな言葉をわざと大きな声で言った。男の瞳孔がわずかに開く。
「……あんたら、何者だ」
声は乾いていた。
アメリアは一歩踏み込み、低く告げた。
「婚約破棄の夜、提出された小瓶。その封蝋は、ここで調えられたものね」
ふつり、と空気が切れた。蝋鍋の泡の音が、やけに大きく聞こえる。男は舌を鳴らしかけ、やめた。揺れる視線が、作業台の隅の帳簿へ、それから扉のほうへと泳ぐ。逃げ道を測っている。
ハルトが、店の表に立つ行商客を装いながら、軒の影をかすめた。気配だけで、男の肩が小さく落ちる。
「……頼まれた。俺はただ、頼まれたことをしただけだ。母型は用意されていて、蝋温度の指定もあった。印影の“わずかな揺れ”まで台本に書かれていたさ」
「発注者は?」
男は短く笑った。
「帳簿を見ろ。偽名を使うほどの用心深さはなかったらしい」
帳簿の褪せたページに、細い文字が並ぶ。《聖水商会》。繰り返し現れる名。その下に「護符台座 追加」「涙型内面 研磨」。
アメリアは目を閉じ、短い息を吐いた。あの涙型の護符。舞台装置としての涙。――ここで磨かれ、嵌められ、配られていた。
4 印影の微差、蝋温度の癖
職人は渋茶をすすりながら、ぽつぽつと語った。
「本物の印と同じに打つには“揺れ”がいる。正確に作れば作るほど、逆に嘘くさくなる。人の手のばらつき、蝋の温度の気紛れ、押し方の気配――それを、わざと写すんだ。決まりごとじゃない、癖だ」
アメリアは聞きながら、婚約破棄の夜――王太子ダリオの声を思い出していた。威厳を装った言葉の端の怯え、人の手の“癖”。あの夜は、印章も言葉も、誰かに書かれた台本のなぞりだったのだ。
「わたしはあなたを責めに来たのではない」アメリアは静かに言った。「印を作るのがあなたの生業だと分かる。けれど、あなたの手を使って、誰かが毒を作った」
男は顔を歪めた。「毒? 俺は蝋しか扱わない」
「蝋が封じたのは、命を奪う嘘よ。……この帳簿と、あなたの証言を、王立研究院に届けます。守るわ」
職人の喉が上下に動いた。信じるとも信じないとも言えない、あの夜の雪解けまえの川面のような眼。
「……あんた、怖くないのか」
「怖いわ」アメリアは笑った。「でも、もう黙っているほうが怖い」
座長が頷き、工房の空気が少し緩んだ。鍋の泡が弾け、蝋の甘い匂いが静かに漂った。
5 逆告発の書
温室に戻ると、アメリアは即座に書き始めた。羊皮紙の余白まで使い切る勢いで、必要なことだけを、しかし逃げ道のない文に組み上げる。
一、婚約破棄の根拠とされた小瓶の封蝋は、王都北裏通りの工房で偽造された疑い。
二、同じ工房で涙型護符の台座が加工されている。香精と結び、記憶操作の演出に資する可能性。
三、帳簿の写し添付。発注者名「聖水商会」。
四、職人の供述。母型・蝋温度・印影の微差の再現手順。
自らの名を末尾に記したとき、指先がわずかに震えた。これはもう、弁明ではない。攻めだ。
封をする蝋を、彼女はいつもより低い温度に調えた。柔らかく、しかし割れぬ温度。印をゆっくり、ぶれない角度で押す。――自分の印が、誰かの手で再現される日がもし来るなら、その癖まで写せるものなら、写してみろ。
書状は座長に託され、夜のうちに研究院へと運ばれた。旅芸人は芝居の道具を抱えるふりをし、炭鉱夫は石塊の荷に紛れさせて扉を抜ける。風は冷たいが、春の匂いがする。
6 噂の火焔
翌々日、王都の市で噂が立った。
「毒婦が逆告発した――いや、毒婦じゃない。薬師だ」
「封蝋は偽物だったとよ」
「涙の護符は工房で磨かれていたってさ」
囁きは細い綿毛のように浮き、午下には渦になって広がる。酒場の片隅で、商館の廊下で、役所の階段で、舌が火を舐めるように語る。
研究院の良心派は沈黙を保ちながら、文を回した。二重盲検の再通知、印影再鑑定の予告、成分表の仮公開――。紙は窓を開ける。風はいつも紙から入る。
財務卿の応接室の空気は重く、王宮の廊下は異様に静かになった。王太子ダリオは、沈黙を破る術をまだ持たなかったが、沈黙がもはや中立ではないことを悟り始めていた。
7 足音
逆告発は、当然ながら敵を揺さぶった。――揺さぶられた者は、まず口を塞ごうとする。
夜、王都の裏通りで、小石が転がる乾いた音がした。職人は背筋を凍らせて灯を消し、裏口から逃げた。影が二つ、間を置かずに追う。
角を曲がるたび、刃物の薄い鈍光がのぞく。
ちょうど、その角を、肩で受け止める男がいた。
ハルトだった。
剛腕が一人を壁に叩きつけ、石の音が鳴る。もう一人が刃を振り上げた瞬間、座長が木箱を投げつけた。刃は木に深くめり込み、手首が鈍い音を立てた。
「走れ!」ハルトが怒鳴る。職人は膝の棒のような脚で、転びながら立ち上がって走った。
裏通りの角を幾つも曲がり、果物箱の匂いの残る商店の裏口から、寝静まった宿の裏階段へ。旅芸人の少女が戸を開け、乾いたパンと薄いスープ、古い外套を押し付けるように渡した。――「温室へ行け」と座長は囁いた。「北門を出て、二夜。道はこっちがつける」
8 震える手に湯を
温室の扉が叩かれたのは、雪が生まれ直すような朝だった。
ハルトに付き添われ、職人は戸口に立った。命を追われた者の匂いをまとい、眼窩の影は深い。
アメリアは躊躇わなかった。火を起こし、薬湯を温め、両手で椀を包んで差し出した。湯気が力なく揺れ、薄荷の香りが鼻腔をさす。
「飲んで」
職人は椀を掴む指を震わせ、口をつけた。喉の奥で、濁った音がした。
「ここは……」
「あなたの証言が必要。だから、守る」
アメリアの声は静かだったが、芯があった。火事の夜、水を回した桶の輪と同じ、共同の中心に立つ者の声だった。
職人は膝を抱え、しばらく何も言えなかった。やがて、ぽつりぽつりと言葉が出る。
「印を作ってきた。正確に作ることが、誇りだった。けれど、正確に作るほど、誰かの嘘の一部になることがあるなんて、考えもしなかった」
「正確さは嘘にも真にも使える。だから、何に使われたかを、あなた自身が言うしかない」
「怖い」
「怖い。――でも、言う。それが、あなたの手を守る」
湯気の向こうで、職人の瞳がわずかに潤んだ。指先に、蝋鍋の火傷の痕がいくつも残っている。アメリアはその痕に、自分の掌のひび割れを重ねて見た。
9 書状の返歌
研究院からの返書は、いつもより早かった。封蝋の押し具合に、急き込みと緊張が滲んでいる。
告発、受領。
印影比較、予備一致。蝋温度分析、偽装可能性高。
護符内面の台座加工について、商会に照会。返答なし。
目下、公開討論開催の準備――「聖水の成分」「封蝋再鑑定」「臨床記録」の三点を議題候補。
短い文に、研究院内部の鼓動が感じ取れた。檻の中で、鉄格子の隙間から吸う空気の冷たさ。誰かが、確かに動いている。
アメリアは窓を開け、冷気を胸いっぱいに吸い込んだ。肺が痛いほどに澄む。
「小勝利の次は――一手、踏み込む番」
ハルトが頷いた。「護符の供給路も、洗う必要がある」
「旅芸人の地図が活きる」
座長は手を打った。「井戸、税関、市壁――動線はもう描いてある。護符は西門、蝋は北の倉――“涙の倉”って呼ばれてるらしい」
涙の倉。滑稽な名だ、とアメリアは思った。泣くことさえ、誰かの倉に仕舞われ、商品になるのだ。
10 かすかな笑い、確かな誓い
夜、温室の灯りを落とす前、アメリアは記録帳に新しい欄を作った。
《逆告発》――証拠、証言、反応、予測。欄外に小さく、こう書き添える。《守るための攻め》
ふと、卓の端に置かれた布袋に目が止まる。水晶片が一つ、こぼれていた。指先に載せると、月の光がわずかに籠もった。
「光を手に持てば、きっと道を見失わない」――ハルトの言葉が胸に反響する。
「ねえ、ハルト」
「なんだ」
「もし、私がこの先もっとひどいやり方で攻められたら――たとえば、また“毒婦”って呼ばれたら」
「呼ばれるさ」
「そうね」
ふっと笑いが零れた。自嘲ではない。自分の重みを知った者だけが漏らす、短く乾いた笑い。
「でも、もう――呼ばれても、私はここに戻ってくる。温室に、あなたの声に、記録に」
「戻ってこい。何度でも」
「ええ。何度でも」
炎は小さくなり、灰火草の影が壁に映った。燃やされても、凍らされても、芽は頭をもたげる。印を偽られても、言葉をすり替えられても、真は必ず呼吸を続ける。
アメリアは椅子から立ち、外の冷気をもう一度吸い込んだ。遠い王都の方角に、見えない線が引かれる。紙と声と足とで、少しずつ濃くなっていく線。
「――行こう」
彼女の声は、冬を抜け出したばかりの夜空で、はっきりとした輪郭を持った。
11 翌朝の色
朝、職人は少しだけ顔色が良かった。薄い粥をすすり、背筋を伸ばす。
「俺は、長いこと蝋の温度だけを見てきた。けど、温度計の目盛りの間には、人の息があるものだな」
「だから、呼吸のある数を見せるの」アメリアは笑った。「あなたの証言も、私の記録も、呼吸をしている。偽の印は息をしない」
外で、子どもが走る音がした。温室の扉の隙間から、朝の青が差し込む。
座長がひょいと顔を出した。「王都でまた噂が立った。『印の癖まで偽造された』ってさ。――“癖を真似したら、それはもう真実の側だ”なんて、皮肉を言う奴もいた」
ハルトが肩を竦める。「真似は真似だ。真に追いついたふりをするほど、ほころびが露わになる」
「ほころびを見せる仕事は、私たちのほうが得意よ」
アメリアは記録帳を抱えた。「次は、護符の倉。涙の倉を開けよう」
彼女の言葉に、三人は短い笑みを交わした。春の冷気はまだ尖っている。だが、尖りは刃にもなる。守るための、攻めの刃に。
12 章の端書き
その日、アメリアは記録帳の最後に、いつもより長い注釈を書いた。
――私たちは“嘘の形”を集めている。蝋の温度、印影の揺れ、香りの雑味、護符の台座。嘘はいつも、どこかで手を抜く。けれど、手を抜いた箇所は、必ず熱を帯びる。ここに触れた指の熱で、紙の上の線は濃くなる。
小勝利は、ひとつの点にすぎない。点を繋げば、道になる。道はやがて、檻の鍵穴に導かれる。鍵が回るその日まで、私は記録し、告発し、守る。――
筆を置いたとき、窓の外で、氷がひとつ割れる音がした。



