1 冬の終わり、紙の重み

 凍てついた季節がようやくほころび始めた。雪解けの水が山肌を伝い、村の道には泥が広がっていた。子どもたちが長靴でその上を跳ね、犬が吠えながら追いかける。村の空気は厳寒の中に確かに春を待つ息吹を孕んでいた。

 アメリアは温室の机に積み上げられた厚い束を見下ろした。羊皮紙を綴じた冊子は、指で掴めばぎっしりとした重みが返ってくる。それは薬市に通い、薬に救われ、彼女を信じることを選んだ人々の署名だった。数は二千を超えた。

 旅芸人一座が、炭鉱夫たちが、炭を背負って山を越えるように名を運んできた。疫病に倒れかけた母親が、震える手で書いた名前。火事の夜に水を運んだ少年が、まだ拙い筆で綴った文字。炭鉱の事故から生き延びた男が、煤で黒ずんだ指で押した印。

 それらすべてが積み重なり、紙の厚みに変わっていた。アメリアはその一枚一枚の裏に命の温度を感じた。

「これは私の力ではない」

 そう言い聞かせるように、彼女はそっと冊子に手を置いた。

2 広場の集会

 その日、アメリアは村の広場に人々を集めた。まだ雪の残る石畳の上に人々が立ち、吐く息を白くして彼女を見つめている。

 壇に立ったアメリアは署名簿を掲げた。厚みで腕が震えるほどだった。

「見てください。二千の名がここにあります。これは私の力ではありません。皆が命を守りたいと願った証です。だから私は、この声を王都に届けます」

 沈黙が広場を包んだあと、ざわめきが生まれた。誰かがすすり泣き、誰かが拍手を送った。

 しかし不安の声もすぐにあがった。
「危険じゃないのか? 王都に楯突くなんて……」
「また査察官が来て、今度はお前自身が連れて行かれるかもしれない」

 アメリアは頷き、視線を一人ひとりに向けた。

「今さら黙っていても、追われるのです。ならば、声を広げた方が守られる。沈黙は何も守ってはくれません」

 その言葉に、多くの人々が息を呑んだ。彼女の目の奥には恐怖も疲労もあった。しかし同時に、揺るぎない光も宿っていた。

3 三つの要求

 署名簿に添える公開質問状は、三つの要求に整理されていた。

 一つ、婚約破棄の根拠とされた小瓶の再鑑定。
 二つ、聖水の成分公開と二重盲検試験の実施。
 三つ、王立研究院による公開討論の開催。

 書面は簡潔だが、突きつけられる矛先は鋭い。王都の商会や財務卿にとっては、都合の悪い真実を公衆の前に晒す要求だった。

 旅芸人の座長は眉をひそめつつも、紙を掲げて言った。
「掲示板に貼り出すのは俺たちの役目だ。人目を集めるのは得意だからな」

 炭鉱夫たちも頷く。
「危ない役なら、俺たちが担ぐ。命を助けられたんだ。今度は俺たちが返す番だ」

 アメリアは胸が熱くなった。

4 出発前夜

 その夜、温室の奥でアメリアは一人、薬瓶を整えていた。火事の跡がまだ残る梁に影が落ちている。

 背後から足音がした。振り返ると、ハルトが立っていた。煤で黒ずんだ外套を脱ぎ、粗末な布袋を差し出す。

「これを持っていけ」

 中には、透き通る水晶片がいくつも入っていた。鉱山で拾ったものだという。灯りを当てると、淡い光が散り、温室の壁に小さな虹を作った。

「お守り代わりだ。お前は強い。だが折れそうになるときもあるだろう。光を手に持てば、きっと道を見失わない」

 アメリアの胸が熱くなり、思わず袋を抱きしめた。
「ありがとう……」

 言葉はそれだけだったが、彼の瞳を見つめた瞬間、胸の奥に何かが芽生えていることをはっきりと自覚した。まだ名を与えられない感情。けれど確かに、そこにあるもの。

5 旅立ちの朝

 翌朝、村人たちが広場に集まった。雪がまだ残る冷たい朝だったが、空は澄みわたり、春の兆しが見えた。

 旅芸人たちが馬車に署名簿と質問状を積み込む。炭鉱夫が肩を組み、子どもたちが涙ながらに見送る。

「どうかご無事で……!」
「薬師さまを、頼んだぞ!」

 声が重なり、祈りのようになった。

 かつて彼女を「毒婦」と呼んだ人々が、いまは「薬師さま」と呼び、涙を流して見送っている。

 アメリアは深く一礼し、振り返らずに歩き出した。

 背中に響く祈りの声は、もう呪いではなかった。力となり、光となり、王都への道を照らしていた。

6 王都への戦の始まり

 旅芸人たちの馬車が遠ざかるのを見送りながら、アメリアは心の奥でつぶやいた。

「ここからが始まり……」

 王都の大掲示板に質問状が貼り出されれば、隠されていた真実は人々の目に触れる。財務卿も、聖女の商会も、逃げ場を失うだろう。

 しかし同時に、それは王都に挑む戦の始まりでもあった。

 アメリアは胸の布袋に触れた。水晶片の冷たさが、指先に小さな光を宿した。

「私は檻を破る。守るために。戦うために」

 その決意を抱きしめ、彼女は王都へ向かう道を歩み出した。