1 雪解けを待つ朝
冬はまだ深い。だが、風の匂いに微かに春の気配が混じり始めていた。
温室の梁には霜が降り、朝日を受けてきらめく。焚き火の灰の上に、灰火草の芽がわずかに顔を出していた。
アメリアは記録帳を閉じて、深く息を吸った。灰火草の炭を用いた解毒薬は、医療行脚で成果を見せた。村人たちは一層の信頼を寄せ、温室の壁には回復曲線が幾重にも貼られている。
その静けさを破ったのは、一通の封書だった。
2 エマからの手紙
封蝋には、かすかに割れた紋章。アメリアは胸の鼓動を抑えながら開いた。中には、細い文字でびっしりと書かれた報せ。
「聖女セレスタの後見人は、王国財務卿フェルディナントです」
アメリアの指先が止まった。
「王家は財政難に陥り、財務卿は聖水利権を拡大することで資金を補っている。殿下は内心、聖女の商会を疑っておられるが、財務卿の圧力に逆らえず、板挟みの状態です」
続けてこうも記されていた。
「王立研究院の一部の学者は、あなたの公開質問状に共鳴し、密かに支援を試みています。けれど、表立っては声を上げられない。彼らは檻に閉じ込められているのです」
最後の行には、震える筆跡で一文があった。
「生き延びてください。あなたを信じる者が、王都にも必ずいます」
3 敵の姿
アメリアはしばらく言葉を失っていた。
敵は聖女ではなかった。彼女を操り、涙の奇跡を商品に仕立てあげた大人たち——財務卿と、その背後に群がる利権の網。それが真に戦うべき相手だった。
聖女セレスタ自身は、ただの舞台装置に過ぎないのかもしれない。アメリアは、舞踏会で涙を流していた少女の姿を思い出した。あれは計算だったのか、あるいは……。
胸に複雑な痛みが広がる。だが同時に、靄が晴れるような感覚もあった。
「敵を間違えてはいけない。——私は構造と戦う」
4 ハルトの諫め
その夜、焚き火の前でアメリアはエマの密報を読み上げた。
聞き終えたハルトは長く沈黙したあと、低い声で言った。
「お前は、王都と戦うためにここに来たのではない。生き延びるために、そして村を守るためにここにいるはずだ」
アメリアは視線を落とした。
「ええ……でも、守ることと戦うことは、もう切り離せない」
ハルトは焚き火を見つめたまま拳を握った。
「戦えば、奪われるものも増える」
「戦わなければ、もっと多くが奪われる」
二人の声が交差し、静かな夜気に溶けていった。
5 檻の比喩
アメリアは温室の片隅に腰を下ろし、母の残した『辺境薬草誌』を開いた。そこには、かつて王都で志を抱き、しかし弾圧されて辺境に流れ着いた医師や薬師たちの名が記されていた。
彼らは皆、理を語ることで“檻”に閉じ込められた。権力の檻、利権の檻、沈黙の檻。
今、王立研究院の学者たちも同じ檻に囚われている。
アメリアは呟いた。
「もし私がその檻を破れたら……彼らも外に出られるのかしら」
ハルトは答えなかった。ただ、傍らに立ち続けた。
6 村の声
翌朝、広場に立ったアメリアは村人たちに語った。
「聖水の背後には、王都の財務卿がいます。彼らは命ではなく金を守ろうとしている。だから、私たちが守らねばならないのです」
村人たちはざわめいた。恐れもあった。だが、疫病を乗り越え、火事から立ち直った彼らは以前より強かった。
炭鉱夫が声をあげた。
「薬師さまは俺たちを救った。今度は俺たちが守る番だ!」
その言葉に、拍手が広がった。
7 孤独と希望
夜更け、アメリアは机に向かい、論文の草稿を書き続けた。聖水の成分、被害症例、そして財務卿の帳簿に基づく利権構造。
その手は震えていた。恐怖と疲労と、未来の重さ。
それでも筆は止まらなかった。
「私は檻の外にいる。だからこそ、声を届けられる」
窓の外では雪が静かに降り続いていた。やがて春が来れば、再び薬市を開き、公開実験を行う。その時には、王都の学者たちにも届くだろう。
8 切なさの底に
寝台に戻ると、ハルトが外套をかけてくれていた。火傷の跡が残る腕で、不器用に。
「お前は戦い続けるだろう。それなら俺は隣にいる。だが……失うなよ、自分を」
アメリアは小さく笑い、目を閉じた。
「失わない。——私にはあなたがいるから」
雪の夜の静けさの中で、言葉にならない思いがふたりを結んでいた。



