1 雪の季節

 秋の実りが過ぎ去ると、マリクトの山々はあっという間に雪に閉ざされた。白く覆われた斜面は美しくも厳しく、吹きすさぶ風は骨まで凍らせた。

 温室もまた雪に沈んだ。火事のあと立て直されたばかりの梁は白い綿帽子を被り、夜には凍りついてきしんだ。だが内部では、灰火草の炭を使った新しい薬理実験が進み、煎じ薬や吸入液に混じって「解毒用の炭粉末」が棚に並んでいた。

 アメリアは記録帳を閉じ、外の吹雪を見やった。
「……このままでは、山村が危ない」

 雪に閉ざされれば、病は孤立の中で広がる。案の定、隣村から知らせが届いた。肺炎と凍傷が相次いでいる、と。

2 出立

 アメリアは決意した。ソリに薬箱と煎じ薬、炭粉末、灰火草の軟膏を積み込み、ハルトと共に山村へ向かうことを。

 出立の朝、村人たちは寒風の中で見送った。
「気をつけて、薬師さま!」
「お前たちが戻るまで、温室は俺たちで守る」

 アメリアは毛皮の外套を締め直し、ハルトの差し出す手綱を受け取った。ソリを曳く馬の吐息が白く漂い、旅は始まった。

3 最初の村

 雪深い山道を抜け、最初の村に着いたとき、彼らはすぐに現実を突きつけられた。狭い小屋の中に、咳き込みながら横たわる子供。青ざめた唇、荒い呼吸。肺炎だった。

 アメリアは吸入薬を湯気に溶かし、毛布で囲いを作った。
「深く吸って。咳は止めなくてもいい。出せるだけ出して」

 子供の胸が波打つ。母親が泣きながら手を握る。やがて、少しずつ呼吸が楽になり、顔に血色が戻った。

 その瞬間、母親はアメリアの手を握り、「ありがとう」と繰り返した。

4 凍傷の手

 別の家では、凍った川で作業した男が指先を真っ黒にしていた。凍傷が進み、放置すれば切断に至る状態。

 アメリアは活性炭を混ぜた温湯で手を洗い、灰火草の軟膏を塗布して包帯を巻いた。血流を促すために温め、再発防止の手順を細かく教える。

 男は涙をこぼした。
「俺はもう、指を失うとばかり……」

「まだ間に合います。諦めないで」

 アメリアの声は静かで確かだった。

5 ハルトの過去

 夜、山小屋で焚き火を囲みながら、ハルトが口を開いた。

「……俺には妹がいた」

 アメリアは顔を上げる。炎の揺らめきが、彼の横顔を浮かび上がらせていた。

「まだ十歳のとき、肺炎で死んだ。雪に閉ざされた村で、医者も薬も来なかった。母は泣き疲れ、父は天を呪った。……俺は何もできず、ただ見ているしかなかった」

 低い声が震えていた。

「だから誓ったんだ。今度は誰も奪わせない」

 その言葉がアメリアの胸に深く刻まれた。彼の背に宿る力の理由を、ようやく知った気がした。

6 吹雪の夜

 行脚の三日目、猛吹雪に襲われた。視界は白一色に閉ざされ、道も分からなくなる。

 ソリを止め、二人は廃屋に身を寄せた。屋根の隙間から冷気が吹き込み、毛布を二人で分け合わなければ凍えてしまうほどだった。

 ハルトがアメリアを引き寄せ、肩を覆うように抱いた。
「寒いだろう」
「……ええ。でも、こうしていると……少し安心する」

 吐息が混ざり、距離が近づく。恋と呼ぶにはまだ脆い。だが凍てつく夜に、互いの温もりが確かに心を照らした。

7 旅の果てに

 行脚は十日間続いた。山々を越え、幾つもの村で肺炎と凍傷を治療した。炭粉末は下痢や中毒にも効き、軟膏は凍傷の回復を助けた。

 子供が笑顔を取り戻し、老人が立ち上がり、母親たちが涙ながらに礼を言った。

 「薬師さま」「守り人」——人々は二人をそう呼んだ。

 帰路についたとき、アメリアは空を見上げた。雪の雲が裂け、青が覗いていた。

「失った妹の分まで、守れたか?」
 彼女が問うと、ハルトは静かに頷いた。
「少なくとも、今はな」

8 遠い王都

 一方その頃、王都では聖女セレスタの商会がますます勢力を拡大していた。聖水は各地に頒布され、人々は涙型の護符を首にかけ、奇跡を信じた。だが、その陰で倒れる者も増えていた。

 ヨエルから届いた密書にはこう記されていた。
「聖水による被害は王都内部にも広がりつつある。しかし商会は隠蔽に必死だ」

 雪に閉ざされた辺境で命を守るアメリアと、王都で静かに広がる被害。その対比は、やがてひとつの大きなうねりとなって交わるだろう。

9 帰還と誓い

 医療行脚を終え、村に戻ったアメリアは温室の前に立った。焦げた梁の一部はいまだ傷跡を残していたが、そこに新しい芽が伸びていた。

 彼女は手袋を外し、芽に触れた。
「燃やされても、凍らされても、私は芽を生やす」

 その声は小さくとも、確かな誓いとなって冬空に響いた。

 隣でハルトが頷いた。
「次の春まで、生き残ればいい。そうすればまた守れる」

 二人の足跡は雪に刻まれ、遠く王都へと続いていた。