1 夏の夜の影
その夜は、湿った風が村を包んでいた。
アメリアは温室の机に広げた記録帳を前に、最後の数字を書き込んでいた。炭鉱事故の回復曲線も、疫病の発症曲線も、そして聖水の実験結果も。ページをめくれば、線と数字と、涙のしみが入り混じっている。
窓の外では、灰火草が風に揺れ、赤い葉が灯のように見えた。
その静けさを裂くように、犬の吠える声が夜を震わせた。続いて、かすかな足音。
アメリアは顔を上げた。胸の奥で、嫌な予感が膨らんでいく。
2 炎の襲来
次の瞬間、破裂音とともに窓ガラスが砕け散った。燃えた油の壺が投げ込まれ、温室の床に火の帯が走る。乾いた木材に炎が噛みつき、瞬く間に赤い舌を伸ばした。
「火だ!」
エマの悲鳴が響く。薬草の棚に火が燃え移り、乾燥させた葉が爆ぜるように燃え上がる。
アメリアは立ち尽くした。足が動かない。目の前で、母が遺した温室が、灰火草が、すべて炎に呑まれていく。
頭の奥で誰かが叫んでいた。——もう終わりだ。ここまで築いたものが、すべて燃えていく。
3 桶を持つ人々
しかし、広場から駆けつける足音が聞こえた。
村人たちが桶を手に、水を抱えて走ってきたのだ。炭鉱夫の男も、疫病を乗り越えた母も、子供を背負ったままの女も。
「水を回せ!」
「薬師さまの温室を守れ!」
次々に桶が投げ入れられ、炎が押し返される。水蒸気が爆ぜ、煙が立ちこめた。
ハルトが真っ先に火の中へ飛び込んだ。外套を脱ぎ、水に浸して火に叩きつける。赤い炎がその背を舐め、腕を焦がしたが、彼は一歩も退かなかった。
「退け、危ない!」
「嫌だ、俺がやる!」
その背中に、アメリアは言葉を失った。
4 絶望と残骸
やがて炎は鎮まり、夜は再び静けさを取り戻した。だが温室の半分は黒く焦げ、薬草の大半は失われていた。
アメリアは膝をつき、黒い灰の山を見つめた。喉が詰まり、声が出ない。
「ごめんなさい……母さん……」
指で灰を掬うと、ざらりとした手触りが残った。燃え尽きた灰火草、割れた瓶、崩れ落ちた棚。
村人たちが見守る中、アメリアはただ立ち尽くしていた。
5 灰の中の発見
だが、指に残る灰の質感に、ふとした違和を覚えた。
さらさらとした灰の中に、きらりと黒い塊が混じっている。火に焼かれて炭化した灰火草の一部だった。
アメリアは瓶にそれを集め、水に混ぜてみた。すると、不思議なことに濁りが吸着され、底に沈んだ。
「……これは、活性炭」
声が震えた。母の書き残した薬草誌にも、炭を用いた解毒の記録があった。灰火草の炭は、より強く不純物を吸着する性質を持っていたのだ。下痢や中毒に効果を示す可能性がある。
失われたものの中に、新しい力が眠っていた。
6 再び立ち上がる
翌朝、アメリアは村人たちを集め、焦げた灰を示した。
「燃えてしまった灰火草は戻らない。でも、ここに残った炭は、新しい薬になるかもしれない」
人々は目を見開いた。失った絶望の中から、新しい希望が立ち上がる光景を、彼らは目の当たりにしたのだ。
村の古老が震える声で言った。
「失われたものから力を……あの娘は母親に似たな」
アメリアは胸に深く息を吸い込み、宣言した。
「燃やされても、私は芽を生やす」
その声は煙の匂いとともに、村の空に溶けていった。
7 背後の影
火事の後、調べが進むにつれて、襲撃の背後に祈祷師とつながる王都商会がいたことが明らかになった。
だがアメリアは怒りを押し殺し、ただ淡々と被害を記録帳に書き込んだ。
「感情に呑まれれば、彼らと同じになる。数字と記録で残す。それが、私の反撃」
ハルトの腕には火傷の跡が残っていた。彼はそれを隠そうともせず、ただ村の子供たちに「温室は守られた」と笑って見せた。
アメリアはその姿に胸が締めつけられた。
8 静かな誓い
夜、焦げた温室の残骸に一人で立ち、アメリアは掌に黒い炭を載せた。
「母さん……私は失ったものからでも、命を救う薬を作る。必ず」
涙が頬を伝ったが、彼女の瞳は強く輝いていた。
燃え盛る炎に呑まれても、芽は必ず残る。
その芽から、次の未来が育つのだ。



