王都ルオーネの宮廷舞踏会は、春の夜をすべて呑み込むように輝いていた。金糸を織り込んだ天蓋の下、千の蝋燭の光がクリスタルのシャンデリアに反射し、煌きは舞い踊る貴族たちの瞳をも照らす。音楽は軽やかに、しかしどこか鋭く、刃のような緊張を含んで流れていた。
その中心に、アメリア・フォン・ラドクリフは立っていた。深紅のドレスの裾を踏まぬよう片手で持ち上げ、もう片方の手には銀の杯。彼女の周りには取り巻きのように令嬢たちが集い、薬草の知識を求める声や、最近流行した鎮痛薬の評判を囁く声が途切れなかった。
だが、音楽が一瞬途切れた。視線がひとつの方向へ収束していく。
王太子ダリオ。銀の刺繍をあしらった漆黒の礼服に身を包み、毅然とした表情で人々の間を割って進む。その眼差しが、まっすぐにアメリアへと注がれていた。
「アメリア・フォン・ラドクリフ」
呼びかけは冷ややかだった。囁き声が広間を駆け、アメリアの背筋が硬直する。杯を持つ手が震えたのを、彼女は必死に隠した。
「今をもって、我が婚約を破棄する」
爆ぜるような沈黙。誰かが小さく息を呑む音。
アメリアの耳には、その言葉が何度も反響した。婚約破棄——公衆の面前で、しかも舞踏会で。最大の屈辱。
王太子は続けた。
「きみの薬は民を惑わせる毒だ。数名の貴族子弟が倒れたと報告を受けている。証拠はここにある」
従者が運んだ銀盆の上には、小さなガラス瓶。封蝋には確かに、ラドクリフ公爵家の印章が刻まれていた。
「そんな……」アメリアは声を失った。
そのとき、白いドレスを纏った“聖女”セレスタが人垣を割って現れた。金の髪を涙に濡らし、震える指で小瓶を示す。
「私が見ました。この薬を口にした友人が苦しむのを。どうか、どうか罪を裁いてください」
群衆の同情は一瞬でセレスタへと傾き、アメリアに向けられた眼差しは冷たい石のように硬化する。
父公爵は壇上の隅で沈黙を守っていた。その姿は、政治の均衡のため娘を切り捨てる決意を物語っていた。
アメリアは孤立した。
彼女は必死に言葉を探したが、喉に鉛を流し込まれたように声が出なかった。ただ、胸の奥に熱いものが渦巻き、涙ではなく、怒りにも似た思考が脈打っていた。
——配合は間違っていない。私の薬は毒ではない。
それでも、舞踏会の光の下で彼女の潔白を信じる者はいなかった。
◆
夜半過ぎ。ラドクリフ公爵家の屋敷の奥、アメリアの書斎は蝋燭の煙で曇っていた。机の上には薬草標本、調合記録、壺や瓶が山積みされている。彼女は震える手で記録を繰り返し検めた。どの処方も正しい。用量も適切、保存状態も完璧。
——おかしい。では、あの小瓶は。
机に散らした写し紙の上で、彼女は一枚の封蝋片に目を留めた。舞踏会で見た瓶の封印。その蝋の縁には、かすかな割れ目があった。偽封印。誰かがすり替えたのだ。
唇を噛み、彼女は深呼吸する。怒りが熱に変わり、熱が静かな誓いに変わっていく。
扉を叩く音。入ってきたのは、幼い頃からの侍女エマと、薬学院を首席で卒業した友人ヨエルだった。
「アメリア様、このままでは……」
「処刑は避けられません。王都を離れるしかない」ヨエルの声は低く、だが必死だった。
彼女は迷いの中で、机の引き出しから一通の封筒を取り出す。亡き母が遺した、辺境マリクトの古い薬草園の権利書。
夜明け前。馬車の荷台に最低限の薬草と記録を詰め込み、アメリアは城門をあとにする。
車輪が石畳を跳ねるたび、屈辱の記憶がよみがえる。王太子の冷たい視線、群衆のささやき、父の沈黙。
だが彼女は涙を流さなかった。その代わり、頭の中で配合式を組み直す。
「私は毒など作っていない。証明してみせる。だが——まず、生き延びる」
最後に振り返ったとき、王都の舞踏会の光がまだ空に名残を漂わせていた。
アメリアは掌をかざし、小さく呟いた。
「ざまあ、は最後に。わたしの流儀で」
◆
こうして、彼女の沈黙の反撃は始まった。
宮廷舞踏会の喧噪が過ぎ去った後、王太子ダリオは一人、執務室に閉じこもっていた。豪奢な壁掛けも、煌めく燭台も、今は息苦しい檻にしか見えない。机上には、先ほど臣下から渡された報告書。倒れた貴族子弟の名と容態、そして「薬壺」の項目が並んでいた。
指先で紙をなぞりながら、ダリオは奥歯を強く噛みしめる。
——アメリアが、毒を? ありえない。
彼女の真面目さ、薬草にかける情熱を誰より知っているのは自分だ。それでも、王宮を包む政治の力学は、彼を彼女から引き剥がした。
聖女セレスタの訴えは、あまりに大きな共鳴を呼んだ。彼女は民から神の寵愛を受ける存在とされ、その涙は真実以上の重みを持つ。
もしその声に背けば、自らの地位さえ危うくなる。
だからこそ——舞踏会の場で宣告するしかなかった。
だが、胸の奥に残るのは後悔の棘だった。あの瞬間、アメリアの瞳が見せた絶望と怒り。彼女は嘘をついていなかった。むしろ沈黙こそが、彼女の真実を物語っていた。
ダリオは額を押さえ、深く吐息を落とす。
「……すまない」
その謝罪は、誰にも届かない。
◆
一方、王都を出たアメリアの馬車は、東の街道をひた走っていた。夜明けの光が地平から滲み出し、濃紺の空をわずかに染める。
車内に揺られながら、アメリアは記録帳を膝に広げていた。震える文字で配合式を書き直す。これは逃避行ではなく、戦いの序章。沈黙の反撃は、論理と記録と観察によって行われる。
隣でヨエルが不器用に毛布をかけてくる。
「寝ないと、体がもたない」
「眠れば、忘れてしまいそうで」
「忘れられるなら、それも救いだ」
彼の声はいつもより低く、震えを帯びていた。
ヨエルは学生時代からアメリアを支えてきた。薬学院の図書館で共に調べ、夜を徹して調合式を議論した日々。彼にとって彼女は、ただの友ではない。だがその感情を言葉にしたことは、一度もなかった。
エマが心配そうに尋ねる。
「本当に、マリクトへ?」
「ええ。母が遺した薬草園がある。あそこなら、身を隠しつつ研究も続けられる」
「でも辺境よ。王都のような支援は望めません」
「支援は要らない。必要なのは、記録と証拠。それさえあれば——」
アメリアは窓外に目を向ける。広がる草原の果てに、霞む山並みが見えた。そこにきっと、彼女の新しい戦場がある。
◆
数日後、ようやく辿り着いたマリクトの村は、王都の煌びやかさとは対極にあった。石造りの低い家々、羊の鳴き声、乾いた風に乗る薬草の香り。アメリアの胸に、不思議な安堵が広がる。
薬草園は長らく人の手が入っておらず、草に覆われ荒れていた。だが、母が記録したという植物の系譜は、確かにここに息づいている。
彼女は膝を折り、雑草の陰に見つけた白い花をそっと撫でた。母が「夜明けの守り花」と呼んでいた薬草。熱病を鎮める特性を持つ。
「ここから、始めましょう」
小さな声で呟いた瞬間、胸の奥に沈んでいた重さが少しだけほどけた。
ヨエルが背後から手伝うように道具を置き、エマが水を運んでくる。
新しい日々が始まる。孤独ではない。けれど——最も信じたい人からの断罪を受けた痛みは、まだ消えない。
◆
夜。仄暗いランプの下で、アメリアは再び記録帳を開いた。舞踏会での宣告の光景が、何度も瞼に焼きついている。
父の沈黙。群衆の冷笑。王太子の困惑の視線。
彼女はページに書きつける。
「私は毒など作っていない。必ず証明する」
やがて、ランプの灯にかざすように掌を伸ばし、静かに囁く。
「ざまあ、は最後に。わたしの流儀で」
その声は夜風に溶け、薬草園の荒地に響いた。



