その日は、冬の喉の奥で小さな鈴が鳴ったようだった。
 薄紅の小春――王都では年に一度あるかないかの、雪の輪郭だけがやわらいで見える日。結界炉の唸りが低くなり、路地の影がいつもより短く、蜂蜜屋の瓶の中で琥珀が光を取り戻す。氷の回廊の継ぎ目には水が薄くにじみ、子どもはその小さな湖を見つけるたびに叫んだ。

 灯璃(あかり)は孤児院の戸口に立ち、空を見る。
 白いはずの空は、ほんの少しだけ色を持っている。色は名前を持たず、ただ「外へ」と誘う。
 「きょうは外で本を読もうか」
 「行く!」
 子どもたちは小麦色の薄い帽子を掴み、古びた絵本を胸に抱え、わらわらと階段を降りる。灯璃は輪を二つ、掌でゆっくり起こして、炎ではなく熱だけを小さな丘にしてポケットへ仕舞った。燃やさない。――燃やさないで、連れていく。

 広場の石の上に毛布を敷き、座る。
 氷の花瓶でいつか見たような光の屈折が、石畳の水たまりに生まれては消える。小春は幻に似ている。幻の上で笑えるのは、現実に芯を持っているからだと灯璃は思った。
 子どもは次々に絵本を開き、「ここ読んで」「ここの王さまは甘い?」と訊く。甘い王さまは蜂蜜の匂いがするのだと言って聞かせると、みんな鼻をひくつかせた。灯璃は笑い、ページの角を直し、言葉の雪崩が起きないように、読み上げる速度を呼吸に合わせる。

 その笑い声は、王城の高い窓にも届いた。
 セイグリムは書類に目を落としていた手を止め、視線を上げる。遠く、群衆は粒になり、粒の中で灯璃だけが彼には見えた。彼女の周りの空気が、わずかに柔らかい。柔らかさは目に見えないのに、見える気がする。
 「陛下?」
 宰相が短く呼びかけ、王は「続けよ」とだけ言った。続きの数字は注釈を求め、印璽は押され、しかし彼の耳は広場の子どもの笑いを拾い続ける。笑いは彼の胸の奥に小さな音を残し、その音は、思いがけず熱かった。

 ――嫉妬。
 言葉が形になる瞬間は、いつだって遅れてやってくる。
 セイグリムは机の縁を軽く指で叩く。彼の手袋はぬがれない。ぬげない手袋は、彼が守ってきた距離の象徴だった。距離を守ることは、彼自身の作法だ。その作法が、今は、胸の奥を少しだけ刺す。
 (私のせいで、彼女は外へ出る。私のせいで、彼女は輪を二つ余分に携える。私のせいで――)
 心の中の主語が「私」ばかりになっていく時、人は弱くなる。王であることは、「私」を折りたたんで机の引き出しにしまっておく技術でもあるのに、きょうは引き出しの取っ手が指に引っかかって、しまいきれない。

 広場では、蜂蜜屋の老婆が灯璃に飴を渡していた。
 「春の前借りだよ」
 「返すのはいつ」
 「飴は返さなくていいの。笑いで返して」
 灯璃は笑って、飴をひとつ子の手に入れ、ひとつは自分の舌の上に置いた。甘さは記憶の引き出しを勝手に開ける。母の腕、古い火床、名前のない歌。胸の奥の火の精が尾を振る。
 “甘い日は、火の消費が少ない。だからといって、油断はするな”
 「分かってる」
 “分かっていても、分かっていない顔をするのが人だ”
 火の精は、こういう日に限って慎重だ。

 日が傾く少し前、王のもとに報が入った。
 「国境の哨戒より。――ヴァルド側の斥候、きょうは動きなし」
 報せは平穏を語り、しかし平穏は油断を呼ぶ。宰相は別の紙を机に置いた。
 「内では、白い袖が“婚姻保留”の解釈を広めています。“揺らぎ”だと。――もうひと押し、公の場で、灯璃殿の『身分保障』の具体をお示しになるのがよろしいでしょう」
 王は頷いた。
 「夕刻、広場に出る。……いや、私が出れば、群衆は熱を持つ。きょうは薄紅だ。熱は少なめに」
 彼は窓辺へ歩み寄り、もう一度だけ下を見た。灯璃は本を閉じ、子らの頭に順に手を置いている。手袋のない手。触れる手。触れられる手。
 胸の奥の冷たい部分が、きしむ。
 (触れられない私は、彼女から、何を奪っている?)

 王のきしみは、見張り台の陰で耳を立てていた別の男にも届いた。
 灰色の外套、旅人の顔、目は笑いにくくできている。ヴァルド将軍ルオが王都に置いている密偵のひとり、狐のような骨格の男だった。彼は群衆の隙間を縫い、灯璃に近づくほど大胆にならず、しかし周辺にさざなみを作るには十分な距離で足を止める。
 彼の目的は刃物ではない。言葉だ。

 「王さまは、優しい」
 彼は誰にともなく言い、すぐそばの若い母親が振り向くのを待った。
 「優しいことは、時につらい。巫女さまを檻に入れてしまうくらいには、優しい」
 母親の目が細くなる。「檻?」
 「婚姻は、身分保障だ。保障は鉄で出来ている。鉄は温かくない。――王さまは、巫女さまを守ろうとして、檻を作る。檻の中は安全だが、空は狭い」
 言葉は毒で、毒は水に混ざると薄まり、しかし川の下流に届く。
 「聞いた? 檻だって」「檻ってなに」「お姉ちゃんは檻に入れられちゃうの?」
 さざなみが輪を広げ、その輪はやがて灯璃にも届く。彼女は眉を寄せ、子の頬についた蜂蜜を親指でそっと拭いながら、耳のどこかで引っかかった「檻」という音を慎重にほどいた。

 火の精が、ぽつ、と囁く。
 “檻は輪に似ている。違うのは、誰が鍵を持つかだ”
 「鍵は――」
 “君の名だ”
 胸の奥の輪は、静かだった。静かであることは、安心の顔をして、油断の裾を引く。
 灯璃は立ち上がり、子どもたちを連れて孤児院へ戻った。小春は終わり際がいちばん危うい。浮いた足音で帰ると、夜の冷えが追いついて足首を噛む。

 城へ戻る前に、灯璃は王からの伝言を受け取った。
 ――きょうは、出るな。
 短い文。印はない。近衛の少年が息を弾ませたまま渡し、返事を求めずに去る。
 灯璃は紙をひらひらと揺らし、火の精を見る。
 「どう思う?」
 “文は短いほど、文ではなくなる”
 「王は命じていない。『出るな』は命令ではなく、祈りだ」
 そう読み替えるのが、灯璃の癖だった。
 「出るな=休んで。休んで、灯璃」
 自分で自分に訳してみる。胸の内側の針は生真面目で、訳にうなずく。
 火の精は、それでも言う。
 “誤読は、恋の易き罠”

 夕刻、王は広場に出なかった。
 代わりに、露台から短い告知があった。
 「巫女の身分は、王家の保護下にある。輪番の少年たちの任は、春分まで継続。――以上」
 飾り気のない文は、熱を呼ばない。呼ばないことは良い。けれど、空白を残す。空白は薄紅の日の空にとてもよく似ている。そこへ言葉の鳥は容易く飛び込む。
 「王さま、怖がってるんだって」「巫女を隠すんだって」「檻だって」
 密偵の作った小さな川は、どこかで合流し、どこかで渦を巻く。

 夜、灯璃は輪の練習を終えてから、王の部屋の扉を叩いた。
「入れ」
 セイグリムは机から目を上げ、立ち上がった。その目は、薄く疲れている。数字と人声は、どちらも人を疲れさせる。
 灯璃は笑おうとして、笑わなかった。笑いは余白の扱いに似ている。誤ると、相手の余白を勝手に埋めてしまう。
 「きょう、伝言を受け取りました。――『出るな』」
 王はわずかに顔をしかめ、すぐに整えた。
 「乱暴な言い方だったか」
 「訳しました。『休んで』」
 「……訳が上手いな」
 セイグリムは外套の襟に触れ、言葉を探した。
 「私は、嫉妬を知った」
 灯璃は目を瞬いた。
 「――きょう?」
 「きょう。薄紅に浮かれて、私は思った。君が笑うたび、君はわずかに削れていくのではないか、と。私の距離が、君を外へ向かわせ、その外で、君が少しずつ燃えるのではないか、と。……ものを言うと、卑しい響きになる」
 「卑しくない」
 灯璃はすぐに返し、しかしそこで言葉を足さなかった。彼が自分に向けている粗野な自己嫌悪を、言葉で撫でると、かえって痛むことがある。

 王は椅子に腰掛けず、立ったまま窓辺まで歩き、外を見た。
 「君の笑いは、私の国に似ている。遠くから見た方が、いつも、広い」
 「近くで見ると?」
「暖かい。……恐ろしい」
 灯璃は笑って、今度は笑いを止めなかった。
 「恐ろしいものは、大切です」
 彼は頷くかわりに、手袋の中で指をひらいた。
 「『出るな』は、命令ではない。祈りだ。――今は、休んでくれ」
 灯璃は「はい」と言わなかった。「うん」とも言わなかった。
 「休みます」とだけ言った。
 誤解の芽は、まだ柔らかい。柔らかい芽をつまみ取るか、鉢に植え替えるか、見極めの目が必要だ。灯璃は芽に触れず、夜の卓に輪をひとつ置いて帰った。輪は燃えず、しかし存在感は残る。残るものだけが、互いを温める。



 翌日、小春は消え、空はまた凍った。
 市場の噂は冷えに強く、弱火の鍋のようにくすぶっていた。「檻」。言葉の亀裂は氷の表面に似て、見えづらく、しかも深い。宰相は早めに手を打とうと、公開評議の告知を増やした。ヴァルナーは露台から一歩引いて、若い神官に説法を任せた。白い袖は増えず、減らず、ただ袖口の糸が少し解けかけているのを、細い目をした老女たちは見逃さない。

 狐顔の密偵は、次の一手を打つため、路地の角で蜂蜜屋に飴を買い、わざと落とした。飴は石に当たり、ころころ転がって、輪の丘に止まる。小さな男の子が拾い、密偵は笑って言った。
 「それは君のだ。……巫女さまに渡しておくれ。王さまは巫女さまを大事に思うから、遠くへ行ってしまわないように、ときどき鍵をかける。鍵は蜂蜜で出来ている。甘い鍵は、甘い檻だ」
 子どもは言葉の意味が分からないまま、甘いところだけを覚える。
 甘いところだけが街を歩いて、夕刻には大人の耳へ届く。
 「甘い檻だってさ」
 「檻が甘いんなら、文句を言う筋合いはない、と言いたいのかい?」
 「さあね」
 密偵は、さざなみの輪郭を確かめると、満足げに尾を振るように首を振って消えた。

 灯璃は、その日もできるだけ燃やさずに過ごした。
 輪を置き、湯の温度を均し、孤児院の扉の蝶番に油を差し、名簿の白を埋め、火の輪番の少年たちの指先が冷えすぎないように手袋を回した。
 夕刻、王の部屋を訪ねることはしなかった。
 「休む」と言ったのは彼女自身で、休むというのは会わないことだと、彼女は解釈した。
 “誤読は、恋の易き罠”
 火の精がまた囁く。
 「読めている。――そう思っている」
 “思っている、と言うとき、人は半歩ずれている”

 三日目、王は堤防の工事を見に城外へ出た。
 薄紅は完全に消え、風は鋭い。彼は馬上で回廊の角度を確かめ、職人と短い言葉を交わし、隙間に氷の楔を打ってから戻った。戻る途中、広場で輪の丘に座る灯璃を見つける。彼女は子どもの靴紐を結び、次の子の頬に春の指をそっと触れさせ、疲れた父親に蜂蜜湯を手渡している。
 (休んでくれ)
 言葉が喉に上がり、そこで凍る。言えば、命令になる。彼女は「訳して」くれるだろう。だが、訳し続けることは、彼女の火を削るかもしれない。

 「陛下」
 宰相がそっと囁いた。「“檻”の噂が、少し形を持ってきました。――王家の護衛が灯璃殿に付き添うようになってから、彼女の動線が目立つ。目立てば、囲っているように見える」
 「囲ってはいない」
 「見える、のです」
 見えるものは、見えるほうが真実になる。
 セイグリムは頷き、馬の頭をゆっくり回した。「護衛の配置を変える。――輪番の少年の列に紛れさせる」
 「王家の兵が輪番の列に?」
 「名を外せば、誰でもただの人だ」
 名を外す。名は鍵。鍵は輪。

 だが、密偵はもうひとつの火種を用意していた。
 灯璃のもとへ、子どもが握りしめた飴玉といっしょに、小さな紙切れが届く。
 ――檻に入れられるなら、逃げにおいで。輪は外でも回る。
 筆跡は匿名の癖を持ち、宛名はない。読めるのは灯璃と、彼女の周りの空気だけだ。
 灯璃は紙を見て、笑った。
 「……ばか」
 笑いは軽く、しかし指の脇の煤は、ほんの少しだけ疼いた。
 “呼ばずに持つ時間”
 火の精が尾を振る。
 灯璃は紙を折り、王の机へ置くかわりに、輪の下へ滑らせた。輪は紙を燃やさない。燃やさないまま、熱だけで文字の輪郭を薄くした。薄くなった文字は、もう誰にも読めない。自分にも読めない。
 読めない言葉は、刃にならない。
 ――けれど、種にはなれる。土の中で、芽を待つ。



 四日目の夜、王はとうとう言葉を選び損ねた。
 「灯璃。……出るな」
 廊で行き違った瞬間に、声が先に出てしまった。
 灯璃は足を止め、振り向いた。
 「休んで、ですね」
 「いや、違う」
 王は自分で驚いた。違う? 違うのか? 命令ではない。祈りでもない。では、何と言えばいい。
 「――私は嫉妬している。君が皆と笑うとき、私に向ける笑いとどこが違うのかを、私は比べてしまう。比べれば、私は負ける。負ければ、私は命令の形をした祈りを投げる。……悪い癖だ」
 灯璃は目を丸くして、笑い、そして、笑わなかった。
 彼女は歩み寄り、距離の手袋一枚ぶん手前で立ち止まる。
 「負け、じゃないです。――配分です」
 「配分」
 「ええ。笑いの配分。火の配分。輪の配分。あなたの配分は、わたしの中で別枠です。比べるものではない。比べたら、たぶん、どちらにも失礼です」
 王は息を吐き、小さく頷いた。
 「私に――訳を教えてくれ」
 「『出るな』は、『きょうはわたしに笑って』の訳」
 灯璃の声は、蜂蜜湯の最後の一匙みたいにやさしかった。
 「じゃあ、きょうは城にいます。輪を一つ、ここで回す。あなたの机の右側で。名簿の白、埋めましょう」
 「ありがとう」
 彼は言い、そして気づいた。易き罠に片足を踏み入れているのは、自分も同じだと。彼女は「訳」をしてくれる。訳に甘えるうちに、彼は言葉を短くしてしまう。短い言葉は、乱暴になる。

 その夜、二人は机をはさみ、白を埋めた。
 名を呼び、紙に置き、呼べない名に印を置き、印の隣に小さな輪を描いた。輪は燃えない。燃えない輪は、祈りの代わりになる。
 「檻、って言葉、知ってます?」
 灯璃がふいに言い、王は顔を上げた。
 「知っている。きょうも耳にした」
 「檻は嫌いです。でも、柵は必要です」
 「柵」
 「ええ。柵は人を囲うけれど、門がある。鍵は、持ち主の胸にある。あなたの距離は、柵です。……わたしは、門を自分で開け閉めします」
 王は静かに頷き、筆を置いた。
 「門番に、なってもいいか」
 灯璃は笑った。
 「門番は、たまに眠るの」
 「では、交代制にしよう」



 しかし、密偵の火は完全には消えない。
 五日目、露台から若い神官が優しく説法し、「婚姻は秩序。保留は揺らぎ」と繰り返すなか、広場の端で年配の男がぽつりと言った。
 「王さまの門は高すぎる」
 誰も答えない。答えない沈黙が、時に最強の合意になる。
 灯璃はその沈黙を横切り、輪をひとつ置いて去った。置き土産。輪は、言葉のかわりにそこに残り、人々は温まって、少しだけ口を閉ざした。

 夜、灯璃は部屋で輪を胸に置き、火の精の尾に指を絡めた。
 “誤読は、恋の易き罠”
 「分かってる」
 “分かっている人ほど、罠に気づくのが遅い”
 「じゃあどうすればいいの」
 “言葉を増やせ。短い言葉は祈りの形をしやすい。祈りは美しいが、誤読も美しくする”
 「増やすと、冷える」
 “だから、温度を混ぜろ。言葉に温度を混ぜるのは、目を見て言うことだ”
 「目を見て言う」
 灯璃は立ち上がり、外套を羽織った。
 扉を開け、廊へ出る。
 王の部屋の前で足を止め、指を握る。
 (言葉に温度を)
 ノックしようとして、掌の輪が微かに鳴った。
 ――内側から、扉が開いた。

 セイグリムが立っていた。
 夜の青を少し溶かした目。
 「来ると思っていた」
 「来ました」
 「訳の確認をしよう」
 「はい」
 扉は半分だけ開き、半分は閉じられたまま。半端な開き方は、二人の間の形に似ていた。
 灯璃はまっすぐ彼を見て言った。
 「わたしは、『出るな』を『休んで』『きょうはこっちにいて』と訳します。けれど、あなたが『檻』を恐れているなら、わたしは門を見せる。鍵はわたしが持っている、と毎日言う。――言葉で。目を見て」
 セイグリムは頷いた。
 「私は、『休め』を『君を隠したい』と誤読しないようにする。――君の訳に、甘えすぎないようにする」
 黙って、二人は笑った。
 笑いは、甘く、少し塩辛い。蜂蜜湯に指先の汗が一滴落ちた時の味だ。
 扉は完全には閉じられず、完全には開かれなかった。
 それでよかった。
 開け放った夜は冷える。
 閉めきった夜は息が詰まる。
 間を持つ夜だけが、輪になる。



 薄紅の小春は、一日だけの幻だった。
 だが、その一日が街に残したやわらかさは、嫉妬の火の縁を少しだけ丸くした。
 密偵の言葉は完全には消えない。ヴァルドの風は油断ならない。白い袖は記録を増やし、春分は日めくりの上で薄く紙を減らす。
 灯璃は門の鍵を胸に下げ、輪を机の右に置き、名簿の白を埋め、子どもの笑いを配り、王は距離の青を言葉に換え、嫉妬の火を自分で認め、宰相は数字で隙間を埋め、蜂蜜屋は春分の飴を三倍に増やした。

 火の精は、ときどき尾を振って言う。
 “代価は常に等価とは限らない。嫉妬の火は、言葉で払えば、輪に変わる”
 灯璃はうなずき、指の脇の煤をそっと撫でた。
 煤は落ちない。
 落ちないものが、ここにある。
 落ちないものが、ふたりを、檻ではなく柵で囲っている。
 柵には門があり、門には鍵があり、鍵は胸にあり、鍵穴は目にある。
 目を見て、言葉を混ぜる。
 冬は長い。
 小春は短い。
 けれど短いものは、割って運べる。
 分け合うあいだに、誤解の芽は、光に触れて、方向を変える。
 恋の罠は易く、罠から出る路もまた、易いとは限らない。
 けれど、路は編める。
 輪は置ける。
 そしてふたりは、嫉妬の火を隠しもせず、燃やしもせず、ただ、温度にして持つことを、ゆっくり覚えていくのだった。