昼の太鼓が三度、間隔を空けて叩かれた。
 評議の呼び出しだ。王都ノルドレイムの人々は、太鼓の数と間隔で天気より確かな未来を測る。三度は、長くなる会議。帳面と砂糖、そして忍耐が要る。

 謁見の間の扉が開かれると同時に、冷えた空気の上に、紙と墨の匂いが薄く重なった。宰相は最前に進み出る。彼の声には、常より半音ほど低い密度があった。
 「陛下。――国際的抑止と内の統一、二つを同時に満たす策として、王と巫女の婚姻を進言いたします」

 短い言葉ほど、重いときがある。
 広間の石床に、それは澄んだ鈍器のように置かれた。近衛長が視線だけで兵を下げ、記録官が筆先をわずかに止め、若い神官が祈りの印を結ぼうとして宙でほどいた。

 セイグリムは、椅子に座らず、立ったまま宰相と正対した。
 「理由を」
 「三つ。第一に、隣国ヴァルドへの抑止。巫女が“国家に所属する”明確な形になれば、貸し出し交渉は無効化できましょう。第二に、内の統一。教団の強硬派に“巫女の身分保障”を盾に取らせない。第三に、君側の安寧。灯璃殿が“王家の一員”として公的護衛を持てば、暗殺の手は鈍る」

 紙の上では、理路は常に整う。
 灯璃は少し遅れて広間に入った。呼ばれていたのだ。宰相の言葉を、最初から聞くことはできなかったが、最後の「安寧」だけは耳に引っかかった。
 安寧。
 言葉は甘く、甘さは長持ちしない。

 宰相は続ける。
 「もちろん、これは政治です。婚姻は祝祭でも恋物語でもない。――が、同時に、灯璃殿の法的身分と資産を守る唯一の道でもある。巫女の火は国の財、その運用は国家が拝借する。個の負担を制度へ移す」

 個の負担。灯璃は自分の指を見下ろした。
 煤は、昨夜よりも濃くなっている。輪で熱を渡す術を覚えてから、燃やし方は少し変わった。けれど新しい器には新しい煤がつく。黒は落ちない。黒は紙で、政治の字を受け入れない。

 「……巫女の火を国家資産化する、と?」

 セイグリムの声は、氷の表面に落ちる雪片ほどの軽さで、しかし明確に宰相を刺した。
 宰相は目を伏せない。「現にそう扱われてきた事実がございます。違うのは、名を与えるかどうかです。今までは暗黙でした。これからは明示する。明示した上で、王の権により“運用の最小化”を法とする。――灯璃殿を守るためにも」

 守る、の二度目。言葉は繰り返されるたび薄くなる。
 灯璃は会釈をし、ひとことだけ言った。「……承りました」
 賛否ではない。了解でもない。受け取ったという合図だけ。
 ヴァルナーが列の後ろの石柱の陰から半歩現れ、白い袖口を整えた。
 「婚姻は秩序を強める。――ただし、秩序が情に汚染されねば、の話だ」
 セイグリムは視線だけで神官長を退けた。
 「その言い方は侮辱だ」宰相が低く言った。
 「記録する」ヴァルナーは薄く笑った。

 議場の温度が、わずかに下がった。
 セイグリムは宰相に向き直る。
 「私情で問う。――灯璃は」
 彼は一拍置き、言い直した。
 「灯璃殿は、どう思う」

 灯璃は答えず、深く礼だけした。
 沈黙は拒絶ではない。沈黙は、測り直しだ。
 「きょうは、返答はいたしません。……考える時間をください」

 宰相は頷いた。
 「春分まで、猶予を置きましょう。季節の節目は、国の節目だ」

 会議は形式通りに散じ、人々は紙と祈りとため息をそれぞれの懐にしまった。
 灯璃は広間を出ると、孤児院へ向かった。
 名簿の続きを作るため。
 名を呼ぶため。
 呼ぶことは婚姻の議題よりも先にある。先にあるものを先にするのが、彼女の作法だ。



 噂は雪の上を滑るのが好きだ。
 「王と巫女が結婚?」
 「恋か、政治か」
 「どっちにしたって、火は誰のものだ」
 市場の片隅で、蜂蜜屋の老婆が、ひと舐めずつ意見を変えた。「王さまが幸せになれば、甘い蜂蜜が売れるよ」「巫女が可哀想なら、喉の薬草が売れるよ」――商売は中立で、中立はたいてい現実的だ。

 灯璃は孤児院の厨房で、鍋の蓋から上がる湯気に顔を近づけた。
 湯気は視界を白くし、白い中で物事は単純になる。
 火の精が、胸の底で尾を振った。
 “代価は常に等価とは限らない”
 「婚姻の代価は」
 “名を縫い合わせること。名を縫えば、楽になるところと、苦しくなるところができる”
 「楽にしていいところと、苦しくしてはいけないところが分からない」
 “縫ってから分かる”
 火の精はいつだって、結果の前に答えをくれるふりをして、結局は先に進めと言う。

 鍋の向こうで、子どもが覗き込んだ。
 「お姉ちゃん、およめさんになるの?」
 灯璃は笑って首を傾げた。
 「およめさんって、なに?」
 「いっしょにごはん食べて、いっしょに寝て、冬がこわくない人」
 「それなら、きっと、もうなってるよ」
 子どもは満足げに頷き、鍋の縁に顎を乗せた。顎は熱く、彼女はそっと火の輪を子の手の下に滑り込ませた。燃やさない熱は、こういうときのためにある。



 数日後、隣国ヴァルドから短い書簡が届いた。
 将軍ルオの筆跡――余白が広く、三行目にわざと滲みをつくる書き方。
 ――婚姻の噂は、春先の雪崩より速く降る。
 ――抑止にはなる。だが、火を国家に閉じ込めれば、君の輪は動きづらくなる。
 ――“君を燃やさずに済む術”は、政治よりも長持ちする。選ぶのは君だ。

 宰相には別に、極めて礼儀正しい文が届いた。「ご婚儀の吉報を所望する」式の挨拶。
 ヴァルナーは露台で「婚姻は秩序」と高らかに説き、街角では白い袖が増えかけ、同時に、少年たちの「輪番」は誇らしげに火の丘を見張り続けた。
 王は評議の公開を積み上げ、数字を見える形にし、人々は数字の冷たさに自分の体温をゆっくり合わせていった。

 春分までの時間は、雪解けの流れに似ていた。
 早くしたいものは流れ、遅くしかできないものは、氷の影で遅くなった。
 婚姻の話は、どちらなのだろう。



 その夜、呼ばれもしないのに、灯璃の足は王の私室の前で止まった。
 扉は閉まっているが、内から灯が薄く洩れている。彼女は一度だけ呼吸を整え、軽く扉を叩いた。中から短く返事。
 「どうぞ」

 王の私室は簡素で、暖かなものは少なかった。
 壁に掛けられた地図、窓辺の氷の花瓶、机の上の名簿、角に立てかけられた長剣、そして、棚の上に置かれた氷面の面頬。
 それは王が“氷の王”として謁見に臨むときにだけ付ける仮面で、氷の薄板を幾重にも重ね、表には髪の毛ほどの亀裂が幾筋も走っている。亀裂は装飾ではない。氷の構造を読み替える彼の印の跡だ。

 セイグリムは机の前に立ち、面頬を手にしていた。
 彼はゆっくりそれを外し、灯の下に置いた。
 氷の仮面の下から現れたのは、見慣れた顔――見慣れているはずなのに、初めて見る顔だった。頬に細い傷。眉尻の、寒さで裂けた古い痕。顎の下に、氷の裂け目のような白い線。
 「……呪いの日」
 セイグリムは自分の頬に触れず、空を掴むように指を閉じた。
 「私は守れなかった」

 言葉は刃ではなく、氷の欠片に似ていた。
 触れれば手が切れ、しかしすぐ白く塞がって、傷は内部に残る類のもの。
 灯璃は面をそっと持ち上げた。光が走った。面の内側は、外側と違って、ほとんど無傷に見えた。
 「あなたは、それでも立っている」
 彼女は面を胸に抱え、面の冷たさを確かめる。氷は、恐ろしいのに清潔だ。
 「守れなかった傷を、面で隠しているわけじゃない。防ぐために、面をつける。……その違いは、私には分かります」

 セイグリムは小さく笑い――すぐに消した。
 「婚姻が政治なら、私は拒む。君を“資産”に戻すのは、私の距離の否定だ」
 灯璃は頷いた。
 「婚姻が誓いなら、私は考える。……考える、というのは、すぐに“はい”を言わないということです。ごめんなさい」
 「謝るな」
 謝りの配分は、すでにきょう決めたばかりだ。交互にするはずなのに、人はすぐに自分の癖に戻る。

 彼は椅子を勧めず、二人は立ったまま向かい合った。
 距離は手袋一枚ぶん。
 灯璃は面頬を机に戻し、ポケットから輪を取り出した。内側に彼女の名が、音の形で沈んでいる輪。
 「……“別の名”が要るんでしたね。私が、名を取り戻すとき」
 セイグリムは頷いた。
 「君は、私の名を置くのか」
 灯璃は目を伏せる。
 「いま置いたら、それはきっと政治になる。春分まで、保留にさせてください」
 輪は光らなかった。光らないのに、部屋の温度が一度だけ緩んだ気がした。保留というのは、逃げではない。保留は、火を弱めないための間だ。

 「誓いを――」
 セイグリムが言いかけ、言い直した。
 「言葉を、交換しよう。書かず、記録にも残さず、ここで、今」
 灯璃は頷く。火の精が、胸の底で尾を振る。“言葉は輪になる。輪は燃えない火だ”

 王は、手袋のまま掌を胸に当てた。
 「私は、距離を間違える。――それでも、君を“器”に戻さない距離を選び続ける」
 灯璃は、輪を胸の上に置いた。
 「私は、燃える。――それでも、燃やさないで済む路を探し続ける。あなたに、隠さない」

 短い。
 足りない。
 だからこそ、保つ。
 言葉は長いほど冷えやすい。短い言葉は、吐息の温度で自立する。

 扉の外で、太鼓が一度だけ叩かれた。夜の見回りの合図だ。
 灯璃は面頬を棚に戻し、王の外套の端をそっと折り返した。彼は触れない。彼女も触れない。かわりに、衣を整える。衣は人の周りの空気で、空気は触れない抱擁だ。



 翌朝、宰相は形式の段取りを整え始めた。
 婚姻の条文案。灯璃の資産の保護条項。火の供出の上限。王家の名での印の捺印の順序。
 「儀式は春分に。――それまでは保留の宣言を」
 宰相は王の机に紙束を置き、灯璃にも控えを渡した。
 「保留の間、国際的には“婚約”として扱われましょう。抑止は働きます。国内には、灯璃殿の“身分保障”が先に届く」

 ヴァルナーは露台で「婚姻は秩序」と言う調子を半音だけ変え、「保留は揺らぎ」と付け加えた。
 人々の間では、婚礼衣装や祝詞の噂と、巫女の火の権利についての素朴な疑問が同じ速度で増殖した。「婿入り? 嫁入り?」「王さまの名字、あるの?」「巫女の火、姓を持つの?」

 灯璃は輪の練習を増やし、孤児院では子どもたちが花の形を切り抜いた紙に名前を書き、春分の飾りを用意し始めた。春分の飾りは、冬の市民権のようなものだ。冬にしていい夢が、春にしていい現実に変わるためのしるし。

 将軍ルオから、もう一通。
 ――保留は賢い。賢いが、狡いとも言える。
 ――狡さは、生き延びる技術だ。
――春分まで、君の輪を“国境の外”でも役立てる準備をしておく。王が許せば、だが。
 王はその書簡を読んで、宰相に渡し、宰相は「外交儀礼に則り検討」と短く答えた。短い言葉は、何も約束しないのに、約束があるような顔をする。政治は、そういう顔をいくつも持っている。



 夜の城は、いつもより静かだった。
 春分までの保留が宣言された晩、人々はそれぞれ自分の距離の中で眠り方を探していた。近すぎると熱が逃げ、遠すぎると寒さが増す。
 灯璃は寝台の上で、輪を胸に置き、目を閉じた。火の精が囁く。
 “名を置く日は、名を呼ぶ日だ。呼ぶ声を、鍛えよ”
 「鍛え方が分からない」
 “呼びたい名を、呼ばずに持つ時間を増やすことだ”
 「むずかしい」
 “むずかしい。――だから、春分まで”

 目が冴えるたび、灯璃は自分の煤を数えた。数えるのをやめた。数えると増える。増えたように感じる。
 代わりに、きょう孤児院で呼んだ名を数えた。エリ、トーヴァ、リナ。王と一緒に作った名簿の白を思い出し、白に蜂蜜を垂らす想像をした。甘い想像は、眠りを呼ぶ。



 数日後、宮廷の小広間で、二人は政治ではない誓いを交わした。
 儀式ではない。記録なし。立会いは宰相だけ――証人というより、文を作るための職責として。ヴァルナーはいない。露台では彼の代わりに若い神官が祈りを読んでいた。
 宰相は短く咳払いし、机の上の紙に目を落とした。
 「宣言文には、“春分に婚姻の是非を最終決定する”と記します。いま交わすのは、私的な誓い。――よろしいですね」
 セイグリムと灯璃は頷いた。
 宰相は席を外し、扉の外に立った。耳は良いが、記録は取らない。その技術が、長く宰相でいられる理由だ。

 部屋には、二人だけ。
 灯璃は輪を机に置き、セイグリムは手袋の内側で指を開いた。
 「言葉を、もう一度」
 王が言い、灯璃は頷いた。
 「私は、あなたを資産にしない。あなたの火を制度に乗せる必要があるときも、その制度があなたから名を奪わないように見張る」
 灯璃は答える。
 「私は、あなたを象徴にしない。あなたの距離が人のためにあるときも、その距離があなた自身を凍らせないように見張る」

 短い。
 足りない。
 だからこそ、保つ。
 部屋の隅で、氷の花瓶が小さく鳴いた。春分はまだ遠いのに、花瓶の内側で水の気配が生まれている。氷は、春の前に一度だけ、内側から緩む。

 扉の外で、宰相の靴音が一歩動いて、止まった。
 彼は何も言わず、やがて、静かに去っていった。
 誓いは、政治ではない。政治に用いられないとは限らない。けれど、出発点が違えば、道の曲がり方が違う。路と輪の交わり方も違う。



 保留の宣言は、翌朝、広場で読み上げられた。
 セイグリムは段に立ち、灯璃は輪の縁に指を置く。
 「王と巫女の婚姻は、春分まで保留とする。国の抑止と内の配分は現行のまま進め、巫女の身分は王家の保護のもとに置く。――以上」
 簡潔な文だ。
 ヴァルナーは露台で微笑み、白い袖を揃えた。「保留の間に、祈りは深まる」
 将軍ルオは国境で、黒い外套の襟を立て、山の風の匂いを嗅いだ。「保留は、戦を遅らせる。遅れのあいだに、何を増やすかだ」

 広場の空気は割れ、そしてゆっくり、重なった。
 「春分まで」「春分までだって」――人々は「まで」を口の中で転がした。「まで」は希望と不安の両方を含む助詞だ。冬が春にほどける直前の、どうしようもないまま、に似ている。

 灯璃は帰り道、孤児院に寄った。
 子どもたちは春分の飾りに名前を書き続けている。
 「お姉ちゃんの名前は?」
 「――灯璃」
 「王さまの名前は?」
 灯璃は笑って、紙に小さく**“セイ”**と書いた。
 指先の煤が紙の上に薄く残り、黒い小さな尾を引いた。
 火の精が胸の内で尾を振る。
 **“呼ばずに持つ時間”**が、少しだけ長くなった。



 春分までの日々、王は一層、言葉を使った。
 評議の公開は続き、数字は紙から人の体温へ移され、配分の列は長くても、争いは短くなった。
 灯璃は輪の術を町へ渡し、少年たちは冬の終わりの遊びとして輪を巡らせ、老婆は「婚姻がどうなっても、火は回るなら良い」と言い、蜂蜜屋は「春分に合わせて飴を二倍作る」と腕をまくった。

 ヴァルナーは露台から時に彼らを讃え、時に刺し、記録を増やした。
 「王、距離を語る」「巫女、代償を示す」「婚姻、保留」
 記録は刃にも盾にもなる。だが、人はそれを料理に使い始める。塩と言葉を少しずつ加える。食べられる言葉にする。
 教団の白い袖はなお街角を揺れ、少年の輪はその袖の裾を温めた。袖が温まれば、祈りの声は半音だけ柔らかくなる。柔らかい祈りは、刃になりにくい。



 雪が最後に音を立てた日、セイグリムは私室の棚から、面頬を取り出し、指で亀裂をなぞった。
 扉がノックされ、灯璃が入ってくる。輪は胸に、名は静かに。
 「春分まで、あと七日」
 「七日は短い」
 「短いものは、割って運べる」
 言い合う言葉が、以前より軽い。軽いから、落とさない。落とさないから、意味が残る。

 セイグリムは面を棚へ戻し、外套の襟を直した。
「君の名を、輪から取り戻す日が来たら――」
灯璃は首を振る。
「そのときは、別の名を置きます。ここに、あなたの“王”ではない名を。春分に、決めましょう」
彼は頷いた。
「政治ではなく、誓いとして」

 窓の外で、氷の回廊が薄く光った。
 春は来る。
 春は、勝手には来ない。
 呼びすぎても、来ない。
 黙っていても、来ない。
 ――だから、誓いは間に置く。
 間は、火を燃やさず、距離を凍らせない。
 間に置いた言葉は、輪になる。
 輪は、人を、凍らせない。

 灯璃は輪を指で撫で、胸の奥で火の精の尾をそっと掴んだ。
 “代価は常に等価とは限らない”
 同じ言葉が、きょうは慰めに近かった。
 婚姻が政に使われる代わりに、政が誓いに使われることだってある。
 等価ではない交換が、人を救うこともある。

 春分まで、保留。
 それは逃げではない。
 燃やしすぎず、凍らせすぎず、二人の呼吸を合わせるための、たしかな猶予だった。

 広場の火の輪が、風に揺れる。
 孤児院の飾りに、子どもたちの名が増える。
 露台の祈りは半音だけ柔らかくなる。
 国境の将軍は風の匂いを嗅ぎ、蜂蜜屋は飴を二倍にする。
 王は距離を語り、巫女は代償を見せる。
 そして二人は、政治ではなく誓いを選び――
 形式上は、春分まで、保留にした。