山は音を溜めていた。
 冬のあいだ、雪は降り積もり、風はよどみ、氷は内側へ内側へと重さを圧し込み、鼓動のように目に見えない波を作り続けていた。波は岩の芯に石英の欠片を震わせ、木の年輪に細い歪みをつくった。谷の村はそれを知らないふりで暮らしていた。知らないふりは、生き延びるための才能だ。

 昼過ぎ、溜められていた音が、いっせいにほどけた。
 最初は犬が吠えた。次に、井戸の水面が一度だけ強く揺れ、桶の鎖が乾いた悲鳴をあげた。家の梁がわずかに軋み、誰かが「あ」と短く声をもらそうとしたその瞬間、山の向こう側で、空を裂く音が起きた。白が、崩れ落ちてくるのではない。白が、流れてくる。塊ではなく、潮。たわんだ氷の壁が自重で千切れ、凍った川を押し潰し、谷へ走る。白い舌が幾筋も重なり、村へ舐め寄せてくる。

 王都の見張り台が、狼煙の色を変えた。
 「氷壁崩落」――薄い灰に青を落とした煙は、国中の訓練された目にそれと分かる合図だ。城の塔の鐘は凍って鳴らない。太鼓の皮が火で温められ、低い連打が街路を走った。報せは路を伝い、馬の蹄は雪を蹴り、氷の王セイグリムは地図の上に手を置いた。指は震えない。心臓は速い。速さと冷たさは同じではない。速さは路だ。冷たさは輪だ。今必要なのは、両方。

 「回廊南面、第二支線を開く。荷橇は空。救護を先行」
 「はっ」
 「私が行く」

 宰相は引きとめなかった。
 灯璃(あかり)は、廊下に響いた太鼓の音で、すでに外套を羽織っていた。ポケットの内側、輪が薄く冷たい存在感を主張する。燃やさずに温度を渡す術――将軍から渡された古い火の語は、彼女の名を一つ預かり、彼女の掌に新しい可能性を置いた。だが、壁が崩れるときに必要なのは、可能性ではなく、間に合わせだ。間に合わせは、寿命を削って手に入れるときがある。

 山へ向かう路は、既に踏みしだかれていた。
 氷の回廊は磨かれ、溝は雪を吐き、馬は鼻息を白くまとって走る。灯璃は先行の橇から飛び降り、谷口の手前で蹲っている老女の肩に火の輪を一つ置いた。温度だけの輪。燃やさない。老女の瞼がゆっくり開いて、まつ毛の上の霜が溶け、小さな涙になって頬を滑り落ちた。「ありがとう、春の子」と、古い呼び名で灯璃を呼ぶ。灯璃は頷き、走る。太鼓の音が背に乗り、やがて山の音に呑まれて聴こえなくなった。

 谷の入口を曲がった瞬間、白の海が見えた。
 村は半分が海に沈み、残り半分が海に呑まれまいともがいている。屋根の雪が一度に落ち、落ちた雪が波頭になり、波頭が別の屋根へぶつかって砕け、子どもの泣き声が風に切られ、鶏が紅い冠を凍らせて羽をばたつかせている。灯璃は足を止めなかった。止まれば、火が彼女に戻ってしまう。今は、火を前へ送らなければならない。燃やさずに渡す輪は、穏やかな状況で雄弁だが、海に対しては言葉が小さすぎる。

 「外へ、出て!」
 声を張り、近くの子の腕を取る。母親が振り返って頷き、荷を捨てる。捨てることは難しい。難しいのに、彼女は捨てた。灯璃は親子を溝の外へ押し出し、振り返る。白い舌がこちらへ伸びる。舌は冷たいだけではない。舌の内側に石や枝が含まれ、当たれば骨を折る。

 火の防波壁を――。

 灯璃は両腕を広げ、胸の奥の火床をひと息で開いた。
 輪を使う選択肢は、思い浮かんで、すぐ落とした。輪で作る穏やかな温度の丘は、波を撫でることはできても、舌を押し返すことはできない。燃やす。燃やせ。燃えろ。彼女は自分に命じた。掌に炎が上がる。上げた火を布のようにひと重、ふた重、三重と重ね、空中で縫い合わせる。火の布は、熱の壁になる。壁は風を読む。風の縫い目に針を落とし、そこを縫って布の目を詰める。布は目を伸ばす。伸ばした目は、一瞬だけ海より強くなる。

 轟音が壁にあたり、熱が奪われる。
 奪われる分だけ、火は痩せる。痩せれば、灯璃が痩せる。胸の針が一気に増え、肺が縮む。目の端が白く霞み、耳の奥に古い鈴の音が鳴る。倒れるかもしれない。倒れれば、壁は破れる。破れた壁は、村の最後の盾を手放す。灯璃は立っていられるぎりぎりの角度で膝を曲げ、足首で踏ん張り、背中で別の壁を作った。自分を支える壁。壁の厚さは指一本ぶん。指一本ぶんが、世界と彼女の間をわける。

 氷の王は、遅れていなかった。
 セイグリムは谷口で馬を降り、走った。彼の走りは静かで速い。氷の中で氷が滑るときの摩擦の少なさに似ている。彼の両手は上がらない。手袋の向こう側に触れるものを凍らせる呪いがあるから。代わりに、彼の足が地面を「読む」。一歩ごとに、谷の傾斜、雪の下の石の位置、流れの向きが刻印に映る。王は崩れた屋根と屋根の間に氷の舌を延ばし、流れを二つに割り、割った流れをさらに網目にし、網の目を村の外れの空き地へ誘導した。氷は即席の堤防になり、堤防は短命でも、短命の間に人が出られる。

 「灯璃!」

 彼は壁の前へ出た。火の布の熱で、王の頬の横の空気が陽炎のように揺れる。灯璃の肩は震えていた。震えは、彼女がまだ立っていることの証拠だ。彼は視線だけで流れの弱い筋を探り、そこへ氷の楔を差し込む。楔の角度を少しだけ変えれば、舌はそれに従って進路を曲げる。火と氷の二枚の手が、村の喉を掴んで、無理やり吐き出させる。吐き出す間に、命が外へ滑る。

 壁が一度、鳴った。
 灯璃の膝が、同時に折れた。
 彼女は倒れないように壁を先に畳もうとして、手が遅れた。火は彼女の掌を離れても、壁の習性を短く保つ。短いあいだが、短すぎた。舌が壁の端を噛む。壁が破れる。破れ目から細い白が彼女の足首へ噛みつき、冷たさが骨まで上がる。灯璃は咄嗟に身を引き、何とか冷えが膝の裏で止まったが、足は感覚を失った。重さだけが残る。重さだけで立つのは難しい。

 そのとき、彼の腕が伸びた。
 セイグリムは反射で、彼女を抱きとめようとした。己の身体が先に動いた。腕の長さが彼と彼女の距離を計算し、肩の角度が支えの角度を探り、指が彼女の背に触れる寸前、習慣がたたき込んだ制止が下りた。途中で、止まる。
 止まるしかない。触れれば、彼女の熱を奪う。奪えば、彼女は火を呼ばざるを得なくなる。呼べば、彼女は削れる。削れば、彼は――自分を許せない。

 灯璃は震えの中で、彼を見た。
 彼の指は宙に凍っていた。凍っているのは指だけではない。彼の過去。彼の作法。彼の罪悪感。彼は世界を凍らせたのではない。自分の手だけを凍らせて、他のものを守ろうとした。結果として、彼は触れられない。触れられない人の優しさは、誰かを救うことの遠回りになる。

 「触れて」

 灯璃は言った。自分でも驚くほど、声ははっきりしていた。
 「奪われても、私は燃やせる」

 彼の青い瞳が、わずかに揺れた。
 「君の言葉は、私を甘やかす」
 「甘やかしてる暇はないの。――今、ここで」

 王は一瞬、眼を閉じた。
 彼の中で、路と輪が衝突した。路は「助ける」ための最短を求め、輪は「守る」ための距離を要求する。どちらも、正しい。どちらかを選べば、どちらかを傷つける。彼は選べない。選べない人は、別の方法を取る。彼は外套を解き、彼女の肩へ投げかけた。外套の重さが彼女の肩に落ち、その重さの現実が、倒れかけた身体をわずかに起こす。彼はその隙に、彼女の背後へ回り、彼女の影の位置を風の筋からわずかにずらした。火の壁に新しい縫い目ができ、白い舌の端が行き場を変え、堤防へ絡みついていく。

 その間に、ひとつの家が、雪に沈んだ。
 屋根の梁が折れ、窓ガラスが鳴き、誰かの叫びが途中で切れ、切れた声は雪に吸い込まれて、音にならない音になった。防ぎきれない。助けられない。壁の向こうで、たしかに何かが終わった。終わりは、残る。終わりは、残される者の中に居続ける。氷は溶ける。雪は春に変わる。終わりだけが、春にならない。

 舌が細くなり、村の中央の広場に残った雪がやっと動かなくなった。
堤防の縁に王が腰をおろし、灯璃は外套を引き寄せて膝を抱えた。彼女の指先には、昨日より濃い煤が残っている。煤は【済んでしまった時間】の色だ。彼女は指を擦る。擦っても落ちない。落ちないから、責めるのをやめた。責めは体温を奪う。今、必要なのは、体温だ。

 誰も、口を開かなかった。
 泣き声はある。呼びかけはある。鍋の蓋が落ちる音がある。だけど、彼ら二人の間には、音がなかった。音は、時に回復の邪魔をする。沈黙の輪を置く。輪の内側に、二人だけの温度を、しばし、置く。彼は手袋の内側で指を開き、閉じ、開いた。彼女は膝の骨の形を指で辿り、火の精の尾の先を心の中で撫でた。

 側仕えの若い兵が駆け寄り、報告しかけて、口を噤んだ。
 王の青が、止めたのだ。報告は必要だ。だが、一呼吸だけ、必要でないように見える沈黙が、必要なことがある。兵は頷き、離れた。離れ方は、学ぶものだ。学ばれるものは、良い王の周囲に育つ。

 「……助けられなかった」

 先に声を出したのは、灯璃だった。
 言葉は小さく、雪に吸い込まれただけで、誰にも届かなかったかもしれない。彼には届いた。
 「助けた」
 王の声は低く、掠れていた。
 「助けなかった者がいるとき、助けた者を数えることは、残酷だ」
 「残酷でも、数える」
 「……数えたい」
 彼はそこで言葉を止めた。止めることは、逃げではない。止めておくことで、あとから言える言葉がある。今、言ってしまえば、薄まる言葉がある。彼はそれを知っている。

 雪の上に、影が二つ落ちる。
 午後の陽は弱く、影は薄い。薄い影でも、重さを持つ。重さは視えない。だが、ある。灯璃はゆっくりと立ち上がり、足首をさすった。冷えは膝の裏で止まっていた。止められたのは、王の外套の重さと、彼のわずかな風のずらし方のせいだ。触れられない手が、彼女の体温に触れない仕方で助けた。助けたのに、彼は自分を許していない。彼女にはそれが分かった。

 「セイ」

 呼ぶ。
 彼は応えないふりをして、応えた。
 「何だ」
 「わたし、あの家の人の名が、分からない」
 「……名簿を作る」
 「うん。名を、呼びたい」
 呼べば、そこにいる。いなくなったのに。呼ぶことは、残酷で、救いだ。矛盾を抱える行為だけが、人を少し前へ押す。

 救助が本格化し、王は立った。
 「西側の堰を厚くする。二度目は、来る」
 灯璃は頷き、輪を取り出した。燃やさずに温める丘を、避難の列の途中にいくつも置く。そこへ人を誘導する。火を燃やさずに済むぶんだけ、彼女は長く走れる。走れるあいだに、戻ってくる温度がある。王は氷の楔を打ち直し、堤防の上に雪の「舌」を折り返して、次の舌を受ける準備をした。

 二度目は、来た。
 だが、最初より小さかった。落ちた壁は大きすぎ、残りは短く、奥行きのない潮だった。堤防が受け、舌は折れ、白は散った。散る白は、最初の白よりずっと人を許す。許す白を、灯璃は罪だと思わないよう努めた。白は悪くない。悪くないものに、悪い役回りを押しつけるのは、冬の常套だ。常套に従いすぎると、何も変わらない。

 夜、村の広場に火の輪が点在し、汁の鍋が複数で湯気を上げた。
 灯璃は鍋の縁に手を添えて温度を均し、蜂蜜をほんの少しだけ落として苦味をやわらげた。配る手は迷いなく、受け取る手は遠慮を忘れている。遠慮を忘れることは、良い癖にも、悪い癖にもなる。今は良い。明日からの悪いを、明日から直せばいい。

 王は人々のうしろで、名を拾っていた。
 名を紙に。名の隣に印を。一画ごとに息を整え、汚さないように気を配る。紙はすぐに湿気を吸い、筆は広がりたがる。広がるのを抑えるのは、冬の仕事に似ている。広がろうとするものを、別の路へ誘う。誘うことと、押し留めることは違う。

 「陛下、こちらに……」

 若い男が震える指で紙を指した。
 「ここに、母の名がない。さっきまで、ここにいたのに」
 王は筆を止め、男の目を見た。
 「名を、言ってくれ」
 「……イナ」
 王は筆を置き、声にして呼んだ。
 「イナ――」
 名は雪には吸い込まれない。雪は名前を嫌う。名前は、人に戻ってくる。戻ってこないことも、ある。それでも、呼ぶ。呼び続ける人を、人は覚えている。覚えていることが、次の冬をやり過ごす糧になる。

 火の輪の端で、灯璃は膝に外套をかけた。
 彼が彼女に投げた外套だ。投げられた外套は、抱かれなかった腕の代わりに彼女の背を温めた。抱擁未遂――そう名付けることが出来る一瞬は、生涯のうちにいくつあるだろう。未遂は、失敗ではない。未遂は、次のための余白だ。
 火の精が、胸の奥で尾を振った。
 “代価は常に等価とは限らない。きょう君が払ったのは、膝の裏の冷えと、指の煤の増分と、抱擁の未遂。受け取ったのは、助けられなかった重さと、助けた重さの両方だ”
 「重さは、どうやって持てばいい?」
 “分ければいい。分けるとき、言葉が重すぎるなら、沈黙で分けていい”
 灯璃は、彼の方を見た。彼は彼女を見ない。見ないのではなく、見えすぎるものをいったん外している。彼女はそれを、責めなかった。責めないで済むのは、彼がそこにいるからだ。そこにいることは、沈黙の最初の条件だ。

 夜半、雪がやんだ。
 星は出ない。雲は厚い。厚い雲の裏側で、氷鯨が遠い湖を回っている気配が、わずかに響く。聴こえない音が、人を慰めることがある。聴こえない音を聴こうとして耳を澄ますと、胸の針が静かになる。灯璃は掌の輪を撫で、燃やさずに置いた小さな丘をいくつか確かめ、熱がまだ巡っているのを指の腹で受け取った。

 「灯璃」

 背中から呼ばれた。
 振り向くと、王がいた。手袋の手が、わずかに持ち上がった。今度は途中で止まらず、外套の襟を直す角度で、彼女の肩に触れない程度に近づき、風の入る隙間を塞いだ。
 「……ありがとう」と、灯璃は言った。
 「礼は言わない」
 彼は薄く笑い、すぐに消した。
 「君が倒れたら、私は君を抱けない」
 「うん」
 「抱けないから、怒る」
「怒っていい」
 「怒ることの代わりに、外套を投げる。――未遂だ」
 灯璃は笑って、泣いた。
 「未遂で、助かった」
 「未遂で、助からなかった」
 彼の言葉が、彼自身の胸に刺さる。刺さるものを、抜かない。抜かないで、一緒に持つ方法を覚える。彼はそれを、今夜、覚え始めた。口論ではなく、沈黙で寄り添うこと。沈黙で分けること。沈黙の輪を、二人で少しずつ広げること。

 明け方、村は数えられる状態になった。
 数えることは、野蛮で、文明だ。名を一つずつ拾い、救えた人の数と、失った人の数を別の紙に置く。紙は火のそばに置かれ、火は紙を焦がさない程度に近く、遠すぎない程度に遠い。灯璃は蜂蜜湯を最後の一杯まで配り、鍋の底に薄い甘い膜が残るのを見て、鍋に湯を足した。足すこと。足せること。足す力がまだ自分に残っていることに、少し安堵する。

 王は村の外れで、崩れた家の跡に小さな石を積んでいた。
 灯璃は隣に座り、石をもう一つ渡した。石は冷たい。冷たい石を手渡す行為に、温度が生まれる。彼は石を受け取り、積み、息を整えた。
 「君に言うべき言葉が、いくつかある」
 「言わなくていい」
 「言う。――すまない」
 灯璃は首を振った。
 「謝る人が二人いると、火が消える。謝る人は、一人でいい」
 彼は目を細め、薄く笑った。
 「なら、私が謝る。君は、謝らない」
 「うん」
 約束は、冬の中で一番強い布だ。鍛えすぎれば裂け、弱すぎれば風に持っていかれる。ちょうどよく織られた布は、肩に乗せると、重さを忘れさせる。

 王都へ戻る道すがら、二人はほとんど話さなかった。
 話さないことに意味を与えるのは、後からだ。今は、膝の裏の冷えを逃がさないこと、指の煤を広げないこと、輪の熱を減らさないこと。王は回廊の角度を一度調整し、橇の刃の音を柔らかい雪の上に持ち上げた。灯璃は橇の端に手を置くだけで、火を呼ばない。呼ばないことが、呼ぶことより難しい日は、必ず来る。きょうは、呼ばない方が難しい方だった。

 城門が視界に入り、太鼓が三度、間隔を空けて叩かれた。
 戻った合図。迎えの人々が門の内側で待っている。孤児院の子が手を振り、灯璃も小さく振り返した。子の頬の春は、薄れていない。薄れない春を、灯璃は自分の中にも少しだけ見つけた。胸の針は、今は静かだ。針は、触れると痛む。触れないと、忘れる。忘れすぎると、同じところをまた刺す。ほどよく覚えて、ほどよく忘れる。ほどよく、は難しい。だから、二人で持つ。

 寝台に体を横たえ、目を閉じる直前、灯璃はあの一言を思い出した。
 「触れて。奪われても、私は燃やせる」
 あの言葉は、彼を責める刃にも、彼を許す鍵にもなりえた。鍵として残せたのは、彼が未遂を選んだからだ。未遂は、責められるに値する臆病かもしれない。けれど、きょうの未遂は、救いでもあった。救いは、時に臆病の衣装を着る。

 翌朝、王都は静かに動き出した。
 結界炉は低く唸り、氷の回廊は新しい角度で人を送る。村からの報せは途切れず、失った名と救えた名が王の机に交互に並ぶ。王は手袋の内側で指を広げ、閉じ、広げた。灯璃は掌の輪を胸に当て、燃やさずに熱を渡す練習をもう一度だけしてから、机の端に紙を置いた。
 ――名簿、いっしょに作りたい。
 それだけ。

 王は紙を見て、うなずいた。返事は書かない。書かない代わりに、空いている椅子を机の横へ引いた。引く音は静かで、彼女の部屋まで届かない。届かなくていい。椅子は、約束だ。椅子がある。座る場所がある。二人で、重さを分ける場所が。
 重さは分ければ軽くなるのではない。持てる形に変わるだけだ。持てる形に変わった重さを、冬が終わるまで、春が来てからも、きっと二人は交互に抱えて歩くだろう。未遂の腕も、外套の重さも、指の煤も、名を呼ぶ声も、全部ひとまとめにして。

 冬はまだ続く。
 けれど、冬の中に置かれた沈黙の輪は、前より少し大きい。輪の端で、彼の手袋の指がほんのわずかに震え、彼女の膝裏の冷えがほんのわずかに和らぐ。それでいい。きょうは、それでいい。明日は、また別の形で。
 ――助けられなかった重さは、消えない。
 だからこそ、助けられた重さを、二人で覚えていく。
 それが、触れられない手と燃える手の、同じ方向の歩き方だ。