国境の氷河は、春の手前で一度だけ、深く息を吐く。
その吐息が裂け目になり、氷の腹の奥で溜められていた青い水が、細い声で走り出す。ノルドレイムの人々はそれを「融雪水」と呼ぶ。命の通貨。鍋の湯、家畜の飲み水、麦を蒔く前の泥のために、ひとしずくずつ取り分ける。国境の向こう、ヴァルドでも事情は同じだ。ただし彼らは山が低く、冬が浅く、雪解けの水は短い。短いものは、奪い合いが早い。
最初の密使が王都へ着いたのは、薄紅が終わって三日目の朝だった。
門番は馬の鼻息に混じる鉄の匂いで、来訪が「使い」であることを悟った。封蠟に押された印章は、半月に槍。ヴァルド将軍ルオの紋。礼節の形は整っているが、紙の擦れる音に急ぎがあった。宰相の手へ渡り、王の前へ運ばれるまでに、墨は完全には乾いていない。
セイグリムは封を切り、滑らかに文面を追った。
「融雪水の独占を解けば、今年の戦を避ける。代わりに、巫女を一月、ヴァルドに貸し出せ」
文は短く、余白が目立つ。余白は、こちらの呼吸を覗くためにある。沈黙の長さ、読み返す回数、宰相と視線を交わす位置――それらが全て、相手の机の上の見えない紙に写される。セイグリムは一度だけ目を上げ、窓の外の氷の光を確認し、紙を伏せた。
宰相が口火を切る。「貸し出せ、とあります」
「貸さない」
即答だった。
宰相は続ける。「ただ、融雪水の独占については、我らが先に武器を置くことが、民のために――」
「独占は解く。配分は見直す。だが、巫女は貸さない」
宰相は安堵と困惑の入り混じった息を吐いた。
独占の解消は、王が薄紅の祝祭の折に既に決めかけていたことでもある。氷火輪暦に先立つ試みとして、泉の管理を王権の直轄から評議へ移す。水は奪い合いではなく、順番にする。難しいのは順番を信じてもらうことだ。順番は、見えにくいから。
宰相は一礼し、返書の下案を取りに下がった。
灯璃(あかり)は、その日の午後、城の小さな中庭で子どもと一緒に雪を割っていた。
雪割りは、春を呼ぶしごとだ。棒の先に鉄の楔をつけた簡素な道具で、日陰に硬く残る雪を格子状に断ち、陽の入る窓を広げてやる。子どもは雪の破片を拾っては、口に入れようとして叱られ、代わりに陽の当たる石に雪を置いて融け遊びをしていた。灯璃は笑って見守った。掌に火は呼ばない。春は呼び寄せられるものではなく、迎えるもの。迎えのために、空気と雪の間に路を作るのだ、と王に教わったばかりだ。
「灯璃殿」
呼ばれて顔を上げると、侍女が小走りに来る。
「宰相よりお召し。隣国より文。陛下の御前に」
灯璃は子どもに棒を預け、手袋を直しながら歩いた。廊の曲がり角で、胸の内側の針が一本だけ音を立てる。文、隣国。王の即答が容易に想像できる。貸さない。彼はそう言うだろう。彼の言葉の背にあるもの――触れられない手袋、外套の折り返し、距離でしか守れない不器用。灯璃はその全部を思い出し、胸の針に指を添えた。痛みは既に知っている種類で、未知ではない。
謁見の間で、王は椅子に腰かけず、立っていた。
宰相と、側近が二人。神官長ヴァルナーの姿はない。呼ばれていないのか、来なかったのか。王は灯璃を見ると、余計な前置きなく文を示した。
灯璃は読み、顔を上げた。
「独占を解けば、戦を避ける。代わりに、私を――」
「貸さない」
言葉が重なった。灯璃は口の端で笑った。重なり方が嬉しかった。
「融雪水の件は?」
「解く。順番を作る。ヴァルドへも渡す。――こちらのやり方で」
王の「こちら」は、彼ひとりではない。「こちら側の人」の意味だ。灯璃は小さく頷いた。
「貸し出しの代わりに、何か要求しますか?」
「要求は一つ。矢を向けるな、と。祝祭に矢を向ける者の国とは、春を分け合えない」
宰相が目を伏せる。言葉は美しく、交渉は汚い。美しい言葉を交渉の席に置くとき、用意するべきは別の紙だ。裏の紙。灯璃は気づく。王はその裏の紙を、今日は灯璃の前では出さない。
「わたしは、貸し出されるつもりはありません。でも……」
灯璃は言い淀んだ。
「でも、戦を避けられるなら、私が――」
「だめだ」
王の声は低く、短く、鋭くなかった。
「君は人だ。私物ではない。資源ではない。貸し借りの対象にしない。――私の意志で、君の意志を、誰かの取引の枠に閉じ込めない」
灯璃はその言い方に救われると同時に、戸惑った。救いは甘く、甘さは判断を遅らせる。判断を遅らせれば、別の誰かが凍える。王は「遅らせないために」路を編む人だ。編むことと、守ること。二つは隣り合っているが、同じではない。
その夜、灯璃の私室に、二通目の密書が届いた。
封蝋はない。薄い紙。扉の隙間から差し込まれ、床に落ちた拍子に灯の揺れで文字が一瞬だけ踊る。差出人は明記がない。だが文の癖で分かる。第一文は短く、二文目で距離を詰め、三文目で余白を作る書き方。将軍ルオだ。
――君を燃やさずに済む術がある。
――危険は伴うが、代価は君の命ではない。
――王は君を守るだろう。だが守られる間に、誰かが凍える。
――選ぶのは君だ。私ではない。王でもない。
灯璃は紙を握りしめ、椅子の背に額を当てた。
火の精の囁きが、胸の奥で尾を振る。“代価は常に等価とは限らない”――薄紅の夜以来、時折聞こえる声。彼は彼女の火の中に住む古いものだ。炎の記憶。火はいつも「燃やすか燃やさないか」の二択ではなく、別の選び方を持っている、と彼は言う。濡れた薪と乾いた薪。煙の向き。火床の深さ。空気の通り道。等価に見えるものは、実は等価ではない。支払うものと得るものの形が、時々ずれている。
灯璃は机の引き出しから、王に宛てられた返書の下書きを取り出した。
伝えたいことは多い。言葉は少ないほうが届く。彼女は短く書いた。
――ルオ将軍より私宛の文。燃やさずに済む術と。真偽不明。会うつもりはない。報のために。
紙を畳み、封をし、侍女を呼んで預ける。
扉が閉まり、部屋にひとりきりになると、灯璃は掌を見た。包帯はもう取れているが、霜毒の夜の火傷は、皮膚の色に薄く漂って残っていた。皮膚は元に戻る。戻らないのは、煤の薄い刺青だ。爪の脇、指紋の谷、掌の丘。その黒は、濡らしても、擦っても、消えない。彼女の時間がこすれて残した跡。
“燃やさずに済む術”
火の精が尾を振る。“火は燃えるものだが、燃やされるものではない。燃やさない火は、熱に変わる。熱は、路だ”
灯璃は目を閉じた。
路。王の言葉。
輪。自分の火の形。
路と輪は、どこかで交わっている。交わる場所を見つけることが、たぶん生き延びるということ。誰かの時間を繋ぐということ。自分の時間を丸ごと投げないためのやり方。
翌朝、王は返書を送った。
融雪水の独占を解くこと。国境の分水での共同の倉を置くこと。倉の鍵は双方の評議の代表が持つこと。――貸し出しの件は、明確に拒否。言葉は丁寧で、余白は狭い。余白を狭くすることは、ときに相手を怒らせる。怒りは戦に似て、温度を上げる。温度が上がれば、春は早まるか? そんなことはない。春は、急がせると壊れる。
宰相は眉を曇らせながらも、王の意志を尊重した。
昼前、灯璃は王から呼ばれた。
「昨夜の文は受け取った。……見ない」
開口一番、彼はそう言った。
「見ない?」
「君に宛てられたものは、君が持っていればいい。私が見るべきは、君が『報せる』と決めた事実だけだ」
灯璃は少し唇を噛んだ。
「もし私が、その文で危ない橋を渡ろうとしても?」
「止める。だが、信じる」
「両方?」
「両方だ」
無茶だ、と灯璃は思う。けれど、彼の無茶は、彼が自分に向ける厳しさの裏返しだ。
彼は自分をうすうす知っている。信じるということは、彼女の自己犠牲も見逃すということだと。見逃したくない。だが、すべてを見張ることは、彼の作法に反する。距離で守る人は、距離で裏切ることも知っている。裏切りたくはないのに。
その日の午後、評議が開かれた。
融雪水の分配。倉の場所。鍵の数。川沿いの村の順番。数字は人を落ち着かせるが、数字は人を怒らせもする。等間隔に見える割り振りが、実は地形の癖や風の通りで均しくないことを、農夫は知っている。知っていることと、納得することは別だ。王は数字の背にある事情をひとつひとつ口にし、宰相は紙に落とし、神官は祈りを短くした。ヴァルナーはその場にいなかった。かわりに若い神官が二人、端で記録を取っていた。教団はこの件で表に立たない。立てば、霜毒の夜との線が結ばれるかもしれない。
会議が長引く間、灯璃は城の屋上で風を受けていた。
屋上は空に近く、火を呼びたくなる場所だ。呼びたくなる衝動を、彼女は掌の中で丸め、ポケットにしまった。呼ばないことも、火の扱い方に含まれる。冬の空は、呼ばずとも、冷たく澄んでいる。東の空に薄い灰の裂け目。そこから、遠い山脈の向こうの光が指のように伸び、城の塔の影を細くする。
“燃やさずに済む術”
火の精の囁きが、また尾を振る。“隣国の将軍は、火の前で別の名前を持っている”
灯璃は首を傾げた。
“火は名を持たない者に寛容だ。名を一つ捨て、新しい名を受け取る者に、火はしばしば微笑む”
影の薄い謎掛け。火の精は、ときにこういうことを言う。
「……つまり、将軍ルオは、表の名のほかに、火の側で使う名がある?」
“あるいは、君が彼に与える名だ”
灯璃は眉を寄せた。名を与えることは、責任だ。責任は、火と似ている。持てば温かく、落とせば燃える。彼女は両手をポケットに押し込み、指先の煤をそっと撫でた。
翌日、国境から三度目の使いが来た。
今回は王のもとではなく、評議の小部屋へ。代表者たちが紙を広げ、地図の上で指を動かしている最中に、使いはひざまずき、布に包んだ小さな箱を差し出した。箱の中には、透明な石――氷のなかで育つ「氷心(ひょうしん)」が入っていた。触れるだけで、掌に冷たい音が染み込む石。
「将軍より。取引ではなく、礼だと」
礼? 灯璃は耳を疑った。礼を先に出すのは、選択肢の一部をこちらに与える仕草だ。礼を受ければ、次を断りにくい。断らなければ、礼は賄賂になる。
王は石を手に取り、しばらく眺め、箱に戻した。
「倉の鍵のひとつと同じ価値はない。礼としては過ぎる。――返せ」
使いは顔色一つ変えず、深く頭を下げ、退いた。箱は使いの外套の下に隠れ、そのまま城を出た。石のひんやりした残滓だけが、部屋の空気に残った。
夜。
灯璃は机に向かって紙をひらき、王へ短い文を書いた。
――将軍は「礼」を出す相手を間違えたのかもしれません。
書いてから、すぐに破った。
――間違いではなく、狙いです。
また破った。言葉は形を替え、音を替え、意味を少しずつ細くしていく。最後に残るのは、沈黙に近い合図。彼女は紙に一行だけ書いた。
――私は、会いません。必要でも。
書いてから、封をせず、その紙を机の上に置いた。王に見せるためではない。自分に聞こえるように、音を文字にして残しておきたかった。
寝台に入ってしばらく、灯璃は眠れなかった。
火の精の囁きが、いつもより近い。“代価は常に等価とは限らない。命を払わずに、二十年を払う手がある。君の火は、年のかたちをして燃えることだってできる”
「二十年?」
“たとえば、君が春を二十年、誰かに貸す。その代わりに、冬を二十年、誰かから借りる。……取引の形は、いつも金と命ばかりじゃない”
灯璃は目を閉じ、掌を胸に当てた。火は静かで、眠たげだ。火の精の言葉は、夢とうつつの境目を揺らす。二十年の春。二十年の冬。春は軽く、冬は重い。重いものは、持てば鍛えられる。持ち続ければ、折れる。折れたものは、焚きつけになる。焚きつけは、火の始まり。――ぐるぐる回る思考の輪から出るために、灯璃は小さく笑った。どこか辻褄が合っていて、どこかが合わない。火の精の言葉は、いつもそうだ。
数日が過ぎ、国境の倉の準備が進む。
王は氷の回廊の掘り直しに出、評議は鍵の受け渡しの儀の段取りに追われ、神官は祈りの言葉を短くし、商人は新しい秤を磨く。灯璃は孤児院の火の輪を一巡し、医療所で蜂蜜湯を配り、夜に城の塔の上で風を読む。その間に、ヴァルドからは一通の文も来なかった。何もしないことも、策略だ。不安は、音のない場所で育つ。
六日目の夕刻、灯璃のもとに、短い紙片がまた忍び込んだ。
――鍵を渡す朝、国境の倉の陰に一人で来い。君を燃やさずに済む術を見せる。
差出人は書かれていない。筆の癖は前と同じ。将軍ルオ。だが、これは「私的な呼び出し」だ。公の場に出せないやり方。灯璃は紙を握り、すぐに破ろうとして、手を止めた。破ることは、忘れることと似ている。忘れていいことと、忘れてはいけないことがある。これは、どちらだ?
彼女は紙を封筒に入れ、王の部屋の扉を叩いた。
衛士が戸口で止める。「今はお休みを」
「一言だけ。渡すだけです」
灯璃は封筒を託し、踵を返した。廊下を歩く間に、胸の針が一本、音を立てて落ちた。渡した。見せた。王は「見ない」と言ったが、渡すことと見ないことは別だ。彼は受け取り、受け取ったことを覚えている。覚えている人がいる。覚えている人の下で、忘れないで済む方法を選びたい。
翌朝。国境の倉。
氷河の吐息が、ゆっくり長く流れる地。倉は半分を地面に埋め、半分を風に晒している。鍵の儀は簡素だった。代表者が名を呼ばれ、一つ目の鍵を王から受け取り、二つ目の鍵をヴァルドの代表から受け取る。鍵は二つで一組。どちらかが欠ければ、倉は開かない。鍵の金属は黒く、指に冷たい音を残した。
儀が終わると、人々はそれぞれの馬に戻り、荷を確かめ、風の向きを読み、帰路の相談をした。王は宰相と短く言葉を交わし、灯璃は倉の影に立った。影は薄く、しかし確かにそこに深さがある。深い影は、人を呼ぶ。呼ばれたのか、呼んだのか、自分でも分からない。
「来たか」
声は、影の奥から。
将軍ルオは、噂に聞くより若かった。黒い外套の襟を立て、頬に薄い傷が一本。目は笑うが、笑いに温度はない。氷の国の人ではないのに、彼の目は氷の色をよく映す。
「初めまして、巫女殿」
灯璃は礼をしなかった。礼をすれば、次の動きが決まる。礼を省略することは、時に自分の体温を守る。
「術を見せると言っていました」
「急ぐな。急ぐ者ほど、早く凍える」
彼は笑い、外套の内側から小さな金属の輪を取り出した。輪は薄く、指にはめるには大きすぎ、腕にはめるには小さすぎる。輪の内側には、細い線で古い文字が刻まれていた。灯璃はその刻みを見て、浅く息をのむ。
「……火の語(ご)。失われたはずの」
ルオは肩を竦める。「失われたものは、探せば見つかる。見つからないなら、誰かが隠している」
「それを、どうするつもりですか」
「君の火を、『燃やさずに巡らせる』」
彼は輪を雪の上に置き、掌に息を吹きかけた。
輪の刻みがうっすらと赤くなり、氷の下で小さな音が走る。音は水の細い糸のように輪の周囲を回り、周囲の雪が一段だけ柔らかくなった。火の匂いはない。煙もない。熱だけが、輪の上を滑っている。
「火床を作らない火」灯璃は囁いた。「燃やさない熱」
「そう。君の寿命を削るのは、『燃やす』過程だ。燃やさずに、温度だけを移す。昔はできた。だが、語と器が失われた」
「なぜ、あなたが持っているの」
「私が、探したからだ」ルオはあっさりと答えた。「私が、君を必要としているからだ」
灯璃は輪の上に手をかざした。
熱は穏やかで、指先の煤が少し疼く。煤は、過去の燃焼の証。煤は熱に反応する。輪は過去を呼び覚ますのではなく、未来を用意する。
「代価は」
ルオは片眉を上げた。「何の?」
「この術の」
「代価は、いつも等価ではない。――君の火の精も、そう言っているだろう」
灯璃は驚いて目を上げた。彼は笑う。「火は、誰にでも囁くわけではない。だが、火の側に立ったことのある者には、時々聞こえるものだ」
「あなたは、火の側に立った?」
「昔、少し」
その「少し」がどれほどか、灯璃には測れない。だが、彼の指の関節に、古い火傷の跡が褪せて残っているのを見て、胸の針が一本、静かに鳴った。
「代価は何」灯璃は繰り返した。
ルオは輪を拾い上げ、内側の刻みを指でなぞった。
「君が、名をひとつ、この輪に置くことだ」
「名?」
「君自身の名でもいい。君が愛している誰かの名でもいい。捨ててもいい名でも、捨ててはいけない名でも。名は、火にとって、鍵だ。名を置けば、火はそこへ帰る。……私が望むのは、君がこの輪を使って、ヴァルドの凍える村をひとつ温めること。貸し出しではない。君がここで輪の使い方を覚え、明日、国境のこちら側で、その術を『君のやり方で』評議へ渡すこと」
灯璃は息を飲んだ。
貸し出しではない。交換でもない。彼は、彼の側の春を、こちらの手に任せようとしている。任せるふりかもしれない。だが、任せられると、人は責任を持つ。責任は火と似て、持つと離れがたくなる。
「……どうして、私に」
「王は、君を貸さない」ルオは淡々と言った。「それは正しい。だが、私には別の正しさがある。君が燃え尽きる前に、『燃やさないやり方』を君に渡せば、どちらの国も助かる。君の王は賢い。賢い王は、結果に礼を言う。方法については、目をつぶる」
灯璃は輪を見つめた。
名を置く。名は鍵。名は火の帰り道。
火の精が囁く。“名は、君のものでも、君のものだけではない。名は呼ばれるためにある。呼ばれるために、誰かに預けるときが来る”
「名を置いたら、取り戻せる?」
「取り戻せる」ルオは即答した。「だが、取り戻すときには、別の名が必要になる」
別の名――。
灯璃は目を閉じ、掌を輪の上にそっと下ろした。輪は冷たく、刻みの谷に指先が沈む。
「私の名を置く。――灯璃」
声にした瞬間、輪の刻みがかすかに光り、周囲の空気がひと呼吸だけ温かくなった。輪の内側に、薄い赤い線が一本走り、それが結ばれて小さな文字の形をつくる。名は書かれなかった。音だけが、輪に沈んだ。
ルオは満足げに頷き、輪を灯璃の掌に押し戻した。
「使え。君の火で」
灯璃は輪を持って立ち上がり、倉の影から出た。雪の上に輪を置く。掌に音を集める。燃やさない。燃やさないで、渡す。胸の奥の火床が静かに開き、熱だけが抽出される。輪の刻みが共鳴し、熱が輪の上に溜まり、周囲の雪が丸く、猫の寝床のようにへこむ。
熱は、在る。
燃えない火が、そこに在る。
灯璃は膝をつき、掌を輪から少し離し、ゆっくり息を吐いた。胸の針は、一本も増えない。指先の煤が疼かない。火は彼女を削らない。ただ、輪を通って外へ出ていく。
胸の奥で、火の精が静かに尾を振った。“それだ”
「これで、わたしは、燃えなくて済む」
灯璃の声は、雪に吸い込まれて、柔らかくなった。
ルオは腕を組み、少しだけ口角を上げた。「君が燃えなくなれば、君の王は、君を貸さずに済む。君は、君の国を温めながら、うちの村も温められる。等価ではない。だが、悪い取引ではない」
灯璃は輪を拾い上げ、ポケットにしまった。輪は軽い。軽さは、怖い。落としそうで。落としたら、拾えなさそうで。
「このことを、王に伝える」
「伝えろ。――君の口で」
別れ際、ルオはふと顔を傾け、何かを探るような目をした。
「君は、王を愛しているか」
灯璃は答えなかった。答えは言葉の形をしていない。言葉の形にしてしまうと、冷えてしまうことがある。
「答えなくていい」ルオは笑った。「愛は、答えのために在るわけではない。――愛が君を燃やすのなら、燃やさずに愛せ」
灯璃は背を向けた。歩き出すと、風が輪の在り処を確かめるようにポケットの内側を撫でた。
倉の陰から出た瞬間、王の視線にぶつかった。
セイグリムは遠くに立ち、こちらを見ていた。彼は近づいては来ない。距離で守る人は、見守る距離を間違えない。だがその青は、いつもより色が濃かった。濃さは、感情の密度だ。
「会ったのか」
彼の声は、問いであり、報せでもある。
「会った。……術を見た」
「燃やさない術」
「ええ」
彼は一瞬、目を閉じた。まぶたの薄さの向こうで、彼の氷がわずかに鳴る。
「見せてくれ」
灯璃は輪を取り出し、雪の上に置いた。
掌に音を集め、呼吸を合わせ、輪の刻みを撫で、熱を渡す。雪が猫の寝床のようにへこみ、白がわずかに透明に変わる。王はじっと見ていた。彼の手袋の内側で、指がほんの少しだけ震えた。震えは寒さではない。何かを許すとき、人はわずかに震える。
「代価は」
彼の問いは短かった。
灯璃は頷き、「名を、ひとつ置いた」と答えた。
王の青が、薄く揺れた。
「取り戻せるのか」
「取り戻せる。……別の名が要るけれど」
彼はそれ以上、問わなかった。問い詰めることは、彼の作法に反する。
「君のやり方で、評議へ渡そう」
それだけを言い、彼は輪の上の熱を長い影の端で踏まないように、少し身体の向きをずらした。
帰路、二人は並んで歩いた。
言葉は少なかった。少なさは、寒さを素通りさせないための工夫だ。言葉が多いと、風が言葉の間を抜け、体温を奪う。灯璃はポケットの中の輪を指で転がし、王は手袋の内側で指を広げたり縮めたりした。
「信じる」
唐突に、王が言った。
「君を。君の言葉を。君の火を。……君の、燃やさないやり方を」
灯璃は笑い、「ありがとう」と言った。
その「ありがとう」は、礼ではなく、合図だった。ここから先、二人で同じ方向を見ている合図。燃やし方ではなく、渡し方を覚える合図。
王都に戻ると、評議は輪の術に色めき立った。
「火を燃やさずに、温める?」
「輪の刻みが鍵だ。語の復元が必要だ」
「輪は誰が作る?」
「作れない。――少なくとも今は」
灯璃は輪を皆の前で二度、三度と使って見せ、手順を紙に落とした。語の刻みは写せるが、輪そのものは古い技術で作られている。複製の道は長い。だが、長いものは割って運べる。割るためには、季節の担い手を増やさなければならない。
神官は黙っていた。ヴァルナーは姿を見せない。その不在は、薄い霜のように部屋の隅に残り、誰もそこを拭わなかった。
夜、灯璃は疲れた身体を寝台に横たえ、掌を胸に置いた。
火は静かだ。燃えていない。熱だけが、胸の内側に薄く回っている。輪は机の上に置いた。輪は彼女の名を保持し、彼女の火の帰り道を覚えている。名は鍵だ。鍵は、開けるためだけにあるのではない。閉じて守るためにもある。
火の精が囁く。“代価は常に等価とは限らない。君はきょう、名を置いた。名は軽いが、重い。軽いから持てる。重いから忘れない。――忘れないことが、君の火を燃やさずに済ませる”
灯璃は目を閉じた。
眠りに落ちる直前、王の手袋の内側の震えを思い出した。震えは、彼が彼自身に向ける怒りと、彼女に向ける信頼と、彼らの間にいまだ残る距離が、ひとつの音になったものだった。距離は悪いことばかりではない。距離があるから、路が編める。輪が置ける。輪は路の要に置かれる。二つは、離れていて、つながっている。
薄紅は過ぎ、真の冬が遠くで身じろぎをする。
ヴァルドの将軍は、次の文を送ってこない。沈黙もまた、輪の外側の空気だ。輪の内側では、熱がゆっくり回る。燃えなくても、確かに回る。
王は夜の見回りに出る前に、灯璃の机の上の紙を見た。彼は紙を手に取り、そこに走る一行――「私は、会いません。必要でも。」を読んだ。読み、元の位置に戻した。
見たのか、と問う声が、彼の中にかすかに生まれ、彼はそれを静かに溶かした。信じると決めることは、時々、見ないと決めることと同じだ。だが彼は、紙の位置を変えなかった。位置が変わらないことは、覚えていることのしるしだ。覚えている人がいる。覚えている人のもとで、忘れなくて済む。忘れないで済むとき、人は燃えずに温まる。
遠く、国境の倉の鍵が、夜気の中で金属の小さな音を鳴らした。
輪が机の上で静かに息をしている。
春はまだだ。
それでも、燃やさない火が、ここにある。



