祝祭の日は、凍った鐘を鳴らす代わりに、太鼓の皮を火で温めて叩いた。
王都ノルドレイムでは、冬至前の七日間を「薄紅(うすべに)」と呼ぶ。空の灰にわずかな裂け目ができ、雪明りの奥で春が細い糸を引く季節だ。氷の王セイグリムは広場に臨む石の段に立ち、臣と民の前に姿を見せた。彼は手袋を外さない。外せば、祝祭の花が凍るからだ。代わりに、肩にかけた黒い外套の紐をほどき、ゆっくりと腕を広げる。氷の紋が鎧の胸に淡く浮かび、陽のない空の下でかすかな青を灯した。王が立つだけで、風の筋が変わる。人々はそれを知っている。
広場の中央には丸太を組んだ祭壇があり、灯の番をする神官と、焚き火の周りで輪になった子どもたちがいた。灯璃(あかり)はその輪の内側に立ち、掌に小さな火を呼ぶ。火は彼女の寿命を削る。それでも今日は、最初から少し燃やすと決めてきた。祝祭の火が人の心拍を整え、凍傷の指に血を戻し、泣いている赤子の喉をゆるめることを、何日もかけて学んだばかりだったから。
「見ていて」
灯璃は一番幼い子に囁いて、火をひとつ、指の先に落として見せた。
指の上で火は丸くなり、猫の子のように丸まり、また伸びて、子どもの鼻先をくすぐる。笑いが弾け、輪がひとつ締まる。火は輪の上を転がり、次の指へ渡り、手のひらの上に戻ってくる。灯璃が息を吹きかけると、火は小さく音を立てて花びらのかたちになり、ぱっと開いた。燃えているのに、焦げる匂いはない。彼女は「燃やす」のではなく、「温度を渡す」仕方を覚えたのだ。
太鼓が打たれ、氷の笛が鳴った。
王は言葉を選ぶように感情を選び、簡潔に告げる。「この冬も、我らは路を編ぎ、輪を編む。路は人を前へ送り、輪は人を足元から温める。どちらも互いに頼り、互いを補う。――薄紅の七日に、共に祈ろう」
その声に、広場の空気が一段落ち着いた。祈りの型は簡素でいい。背を伸ばし、目を閉じ、それぞれが心に浮かべた人の名を一つ思う。亡くなった者でも、生きている者でも。灯璃は自分の胸に片手を置き、もう片方の手で祭壇の火を撫でた。火の精の子どもが、眠たげに尾を振る。
祝祭の舞が始まる。
灯璃は輪の中心に一歩入って、足の裏で雪の硬さを確かめた。滑らない。子どもたちの踏みならした円が、舞台の床になっている。彼女は掌の火を細く引き伸ばし、糸のように宙に描いた。糸は空気の目に引っかかり、やわらかい曲線をつくる。左に一歩、右に二歩、膝を落として手を翻し、火の糸を重ねていく。糸は重なり合って布になり、布は風を受けてはためいた。火の布の影が人々の頬を撫でるたび、頬に薄い赤が差す。灯璃は布の端を子の額に触れさせ、額の冷たい石をやわらかい土に戻す。
「きれい」「あったかい」「春みたい」
囁きが輪の外側から広がる。
灯璃はそこで火を一度たたみ、深く息を吸い、次の動きへ移った。次は「春の手」。掌を花びらの形に開き、指の間に小さな火を挟んで、舞いながらほほ笑む子の頬へそっと触れる。火は皮膚を焼かない。ただ、凍りついていた毛細の路を探り当て、そこへ血の色を連れていく。頬に春が触れる。子は目を丸くして、自分の手で頬を確かめ、笑う。灯璃も笑う。笑うだけで、胸の針が一本抜ける気がした。
その時まで、空は静かだった。
だから、最初の矢の鳴る音は、やけに遠くから来たように聞こえた。
ひゅっ――と空を切る。軽いが深い、乾いた笛の音。次の瞬間、広場の端にいた衛士の盾に黒い影が突き刺さった。矢羽が白く震える。衛士が叫ぶ。「伏せろ!」輪が崩れ、子どもが泣き、火が揺れた。灯璃は反射的に火の布を畳み、子の上に広げて風よけにした。火の布は風に強い。火は空気の流れを読むからだ。
「王の前!」
複数の声が重なり、金属の音が一斉に立った。
セイグリムは階段を降りようとしていた。矢の角度から見て、狙いは高い位置――王の胸元。彼は身を翻し、最短の軌道で灯璃と子どもの輪と反対側へ身体を差し入れる。次の矢が闇から走った。闇は「ある場所」ではなく、「どこでもない場所」から矢を生む。教団強硬派は、祝祭に紛れていたのだ。鐘が凍る国では、矢が鐘の代わりに合図を出す。
矢は王の肩口に向かっていた。
灯璃の視界の中で、青い瞳が細くなり、王の右手が剣を持たぬまま空気を切った。手袋の宿す刻印が瞬き、彼は空中の水分を凝固させて「薄氷の盾」を作り、その盾で矢を弾いた。矢ははじかれ、軽い音で石段を跳ねる。安堵の声が漏れた—その一瞬が、第二射の間合いになった。
三本目は狡猾だった。
最初の矢で衛士の注意を横へ振り、二本目で王の手をこわばらせ、三本目を最短距離で正面から。矢は低い軌道で走り、王の剣の間合いの外から肩甲の継ぎ目へ滑り込もうとする。王は躊躇わない。右肩を一歩、前へ出した。肩で受ける。弾くより早い。
刹那、短い鈍い音。
鎧の下の肉に、冷たいものが差し込む手応え。
「陛下!」
叫びが遅れて追いつく。
王は息を吸い、矢を半ばまで折って抜く。肉から抜かれた黒い矢の根元で、白い霧がもわりと立った。灯璃はその霧の温度に、瞬時に身を強張らせる。霧は熱を奪う。雪より冷たい。冷たさに匂いがあるなら、これは鉄の錆ではなく石灰の粉――いや、違う。これは霜そのものの匂いだ。矢じりに塗られていたものが、傷口から王の身体に入って、周囲の熱を飲み込みながら広がっている。
「……霜毒」
神官の誰かが呟いた。
霜毒は、古い戦記にだけ出てくる語だという。氷の洞で採れるある種の鉱粉と、凍った海百日分の塩霜とを混ぜ、凍てつく月の夜にだけ作れる毒。体内で氷を呼び、触れる熱を片端から殺す。火を近づけると、かえって拡がる――そう書物は忠告する。
だが王の身体は、すでに毒そのものを「増幅器」にしてしまう危険を抱えていた。彼は「氷の器」。彼の中で、冷たさは増幅されやすい。傷口の周りの空気温度が、目に見えるほど落ちていく。灯璃の火の布の端が、ぱた、と沈み、舞の名残が途端に重くなる。
兵が叫び、神官が祈り、衛士が盾を前に詰める。
闇の矢はなお数本、外側から飛んだが、もう王を狙ってはいなかった。混乱を増やすためのばらまきだ。祝祭の輪は崩れ、子は抱き上げられ、老婆が座り込み、犬が吠え、太鼓が止まる。灯璃は走った。王の前に出る。王は「来るな」と低く言ったが、彼女は止まらない。彼女の中の火は、今、ためらえば萎む。萎めば、王の中の冷たさに飲み込まれる。
「触るな!」
近衛が叫ぶのと、灯璃が王の肩口に膝をつくのは、ほとんど同時だった。
傷は深くはない。だが、深さではないのだ。問題は温度の傾斜だ。傷口を中心に周囲の熱が削がれ、その傾斜が王の刻印へ向かって雪崩れ込む。王が意識的に氷の流れを制御しているあいだはいい。だが痛みで集中が乱れれば、制御から漏れた氷の糸が周囲の火を殺し、空気そのものを固くする。
灯璃は手袋を外した。
皮膚が外気に触れ、短く震える。彼女は掌を火で満たした。火は布でも布団でもない。鋼を焼く鍛冶場の熱に近い。だが彼女はそれを長く保たない。保てば、彼女が先に焼ける。焼けて、寿命が欠ける。
王が低い声で言う。「やめろ」
灯璃は首を横に振る。目の奥で水が音もなく上がり、すぐに熱で乾いた。
「あなたは国を庇った。私は――」
彼女は言葉を切り、掌を傷口へ、素手で押し当てた。
焼ける音。
焦げる匂い。
生き物の肉が焼ける匂いほど、記憶に刻み込まれるものはない。灯璃はその匂いを、自分のものとして受け入れた。熱は霜毒の縁から入り、毒を「焼く」のではなく、毒の周囲を「融かす」。毒の橋を落とす。王の刻印には触れないように、彼女は指の角度で熱の矢印を断続的に変え、熱の波を細かく刻んだ。波の間に、冷気が逃げる路を作る。逃げ場を奪えば、冷たさは暴れる。逃げ場を用意すれば、冷たさはただの温度差になる。
王の身体が僅かに反応する。
牙を食いしばる音が、彼の喉の奥で小さく鳴った。彼は彼女の手を払いのけようとしない。払いのければ、火が不規則に走る。走れば、刻印が暴発する。彼はそれを理解している。だから、彼は「やめろ」と言いながら、止めない。その一貫しない行動に、彼の焦りと、彼自身に向ける怒りと、彼女への信頼が、三つ編みになって見えた。
「泣いてるのか、笑ってるのか」
彼は荒く問う。
灯璃は泣き笑いをした。笑うと、息が整う。泣くと、火が強くなる。
「両方。――あなたを庇うの、初めてだから」
霜毒は、焼けばよいという単純なものではない。
だが、毒の回路を断ち、傷の周りの熱を回復させることはできる。灯璃は掌の熱を徐々に弱め、最後に指先だけを残して、そっと離した。傷の縁から白い霧が一度だけ立ち、それきり消えた。周囲の空気が、ほんの少し柔らかくなる。太鼓が遅れて一打鳴り、犬が吠えるのをやめ、老婆が起き上がる。火の布がもう一度、広場に春の手触りを戻す。
王は膝を折らなかった。
彼は立ったまま、息を深く吐き、灯璃の手元を見た。灯璃の掌は赤く、皮膚の一部が白く浮いていた。火傷は深くないが、間違いなく痛い。灯璃はその手を外套の内側に隠し、笑ってみせた。笑いは、王のためというより、その場にいる誰かのために必要な「合図」だ。場は合図で落ち着く。
王は短く頷いた。その瞳の青は、薄く澄んで、雪明かりをよく通した。
「影を追え」
彼が命じ、近衛が輪を広げて走る。
矢はどこから来たか。矢は、広場をぐるりと囲む石造りの家々の屋上からではない。角度が違う。もっと低い。もっと「下」から。矢じりに霜毒が塗ってあるなら、作業場は冷たい場所だ。灯璃は息を整えながら、視線を足元へ落とす。広場の石畳の継ぎ目――そこから冷たい風が昇っている。地面の下で風が動くのは、隙間がどこかに通じているからだ。
「地下道……」
灯璃の呟きを拾って、王は視線だけで「行け」と告げた。
広場の西側、水売りの屋台の下。板を退けると、古い鉄の輪が埋められていた。引き上げれば、石の蓋が重い音を立ててずれる。地下へ続く階段は狭く、湿った冷気を吐いていた。近衛が数人降り、灯璃は一瞬迷って、降りる側ではなく、降り口の火の番を選んだ。手を傷めたばかりの自分が狭い階段で火を暴れさせるのは危険だ。王は彼女の選択にわずかに目を細め、「ここは任せる」と低く言った。それだけで、灯璃の胸の針が一本外れた。
地下は、古い河川の跡だった。
石の天井は低く、壁に黒い苔が張り付いている。足元にしみ出した水が薄く凍り、踏み出すたびに小さく割れる。近衛の足音は低く、矢を放った影の足音はほとんど聞こえない。音を殺す路を知っている者の歩き方だ。曲がり角を二つ、三つ。冷気が急に濃くなる。前方で、薄い白がひらりと揺れた。教団の白布――氷教団の紋章が刺繍された短い肩掛けだ。暗闇で白は目立つ。だが、祝祭の混乱ではそれが逆手に取られる。白は「正しさ」を装う。
「止まれ!」
近衛の声が狭い空間で反響したときには、影はもう別の穴へ消えていた。
地下は絡んだ蛇のように路を分け、王都の古い井戸や倉の下で口を開けている。追うほどに散り、散るほどに追えない。近衛は二つの方向へ分かれ、王は階段上で息を整えながら、その足音の減衰を聞いていた。灯璃はその横顔を見つめ、言葉を飲み込む。今、慰めは邪魔だ。彼は負うものの重さを人前で夸らない。夸らないからこそ、言葉は慎重に選ばなければならない。
「陛下、傷の手当を」
医師が来て、包帯と薬草の匂いが近づく。
王は拒まない。灯璃の押し当てた火が毒の橋を落とした。あとは血を止め、冷気の流れを「路」から「輪」へ戻すだけだ。医師の手が傷口に触れたとき、王は微かに息を吸い、灯璃の方へ視線を流した。それは「痛い」と告げるためではなく、「君のしたことは正しかった」と告げるための短い視線だった。彼は言葉で礼を言わない。だが、彼の視線は誤魔化しが利かない。
地上では、祝祭の音が慎重に戻されていた。
太鼓は小さく、笛は低く。火の輪は広がらず、点在する小さな灯として石畳の上に置かれる。灯璃は火の布を薄く織り直し、泣き止まない子の頬に春をもう一度触れさせ、老婆の手を包んで血の巡りを戻す。火は消耗品ではない。だが、火を扱う身は消耗する。彼女の指先には、新しい煤がうっすらと残った。黒は落ちない。落ちないことが、彼女を怖がらせる。怖いのに、彼女は火を呼ぶ。それは、彼女の矛盾であり、彼女の正しさでもある。
近衛が戻ってきたのは、空がさらに灰を濃くしたころだ。
「地下は複雑すぎます。追跡は一時中止。蓋を封鎖し、夜明けに改めて」「奴らは祝祭の音を嫌う。混乱が収まり、秩序が戻る前に消えるつもりだ」と王は言った。顔色はよくない。それでも彼は広場の中央、崩れた輪の少し手前まで歩いた。灯璃が側に寄る。彼は人々へ短く告げる。「祝祭は続ける。矢は止んだ。ここにいる者たちの名を、一人ずつ呼べ。名を呼ぶことは、凍らないための術だ」
名を呼ぶ声があちこちで上がる。
「エリ」「ダリヤ」「ルーン」「北の倉のオラフ」――呼ばれるたびに、その名の持ち主は手を挙げ、笑い、泣き、誰かに抱かれる。名を呼ぶことは「いる」を確かめることで、確かめ続けることは、冬を耐える共同の技術だと人々は知っている。灯璃は燃やしすぎないように息を計り、王は傷の痛みを「路」の端にまとめるように息を計る。二人の呼吸の速さは違うが、向いている方向は同じだった。
薄紅の灯は再び小さく灯り、祝祭は静かな調子で続いた。
だが、夜は長い。
王はやがて石段の上に戻り、灯璃は輪の外側で火を番う。二人の距離は、前よりも近い。手袋越しでも、外套越しでもない、目と目の距離だ。言葉は交わさない。交わさなくても、伝わることがある。伝わらなくてはならないこともある。灯璃は包帯の下にじんじんと残る掌の痛みを、自分の責めとしてではなく、選んだ証として受け止めようとした。痛みは、ただの温度差だ。温度差は、巡らせれば和らぐ。
祝祭の終わりには、古い習いに従って「薄紅の歌」を小声で歌う。
声は小さいほど、胸の奥によく沁みる。
灯璃は歌いながら、王の肩の包帯を見た。白は夜の中でよく見える。白は汚れやすい。汚れれば、洗えばいい。洗っても残るものは、残しておけばいい。残るものがあるから、人は次の冬まで覚えていられるのだ。
人々が家へと散っていき、広場の火が点から熾へ変わる頃、王は灯璃へ近づいた。
「医師は言ったか」
「ええ、『無茶をするな』と」
「それは私に向けての言葉でもあるだろう」
彼はわずかに笑った。それは人前で見せる笑いではない。
「礼は言わない」と王は前置きした。「言葉で礼を言えば、君は次も同じことをする。――君も、私も」
灯璃は頷いた。「言葉で止まることと、止まらないことがあります」
「そうだ」
言葉は温度だ。温度は路であり、輪でもある。灯璃はそんなことを考えて、掌の包帯の端を指で押さえた。痛みが中から小さく呼吸する。
「あなたの刻印は、私の火に触れても、暴れませんでした」
灯璃が言うと、王は短く息をのみ、目を細くした。
「君が、私の中を『巡らせた』からだ。奪い合いにしなかった」
その言い方に、灯璃は少し救われた。奪い合いではなく、巡らせる。冬の中で、人はそうやってやり方を覚えていく。奪えば尽きる。巡らせれば、形を変えて残る。
夜が最も深くなる刻限、広場の端で氷が小さく鳴った。
灯璃は顔を上げ、王も同じ方向を見た。地下の蓋は封じられている。だが、地下は路を変えて息をする。教団の影は、きっとまたどこかで口を開ける。王はそれを知っている。灯璃も、それを知る人の横顔を知ってしまった。知ってしまった顔に、言葉でなく熱で触れた夜を、きっと忘れない。
別れ際、灯璃はほんの少し勇気を出して言った。
「あなたは国を庇った。……私は、あなたを庇います」
王は否定しなかった。肯定もしなかった。ただ、歩み寄って、外套の端で彼女の包帯の端を覆い、風が入り込まないように折り返した。それだけでいい夜もある。折り返された布の下で、二人の呼吸が一瞬だけ重なった。
痛みで、零メートルになった距離は、すぐにまた少し離れた。
離れたのに、前より近い。
火の匂いと焦げの記憶が、夜気に薄く残り、薄紅の灯がそれを包む。祝祭は終わった。暗殺の夜も、終わった。だが、終わりは次の始まりだ。地下の影、霜毒の匂い、封じられない風。
冬は続く。
それでも、薄紅は確かにここにある。
王都の石畳の継ぎ目から、わずかな温度が上がってくる。誰かが名を呼び、誰かが応え、誰かが火を保つ。二人はそれを見て、それぞれの路と輪を持ち直し、また前へ歩く。春の手前で、人はいつだって、こういう夜を越えるのだ。



