最初の雪が、音を立てて降り始めた。
 王都の高台から南を望めば、鉱山の連なる山襞は白い帯で縫い合わされ、谷を塞ぐように雪ののしかかった跡が縫目となって残っている。狼煙は三度、間隔を空けて上がった。雪崩。坑道が潰れ、集落が孤立。備蓄の干し肉は一月分、しかし火の石(着火用の亜燃鉱)は少ない――伝令が凍える息で伝えたのはそこまでだった。

 「出る」

 セイグリムは短く言い、反対の言葉を受け付けない声で続けた。
 「私が行く。回廊は未整備だ。氷の術で路をつくる」

 宰相は眉をしかめる。「陛下、王都は――」
 「王都は炉が持つ。氷の橋は昨夜のうちに半分は掘り返した。留守は任せる」

 言い終えて、彼は一瞬だけ灯璃を見る。
 灯璃は、頷いた。何も言う前から、彼女は外套の襟を握り、手袋の内側で掌を一度握ってから開いた。火は彼女の中で、小さく呼吸している。まだ燃やす前、眠っている赤子のように。

 遠征隊は正午前に出立した。王の雪白の馬の前に衛士が十、荷橇に薬と毛皮、乾燥野菜、鍋、塩。灯璃は橇のうしろに乗り、膝の上で鉄瓶を支えた。走りながら湯を沸かすために、瓶の底だけをじわりと温める。火を「熱」に抑え込むのは、召喚以来覚えた工夫のひとつだ。燃やすほど寿命が欠けるなら、燃やさずに温める路を探す。それが今の自分にできる最善だと、昨夜一晩考えて思い至ったばかりだった。

 城門を出ると、雪の匂いが濃くなった。針葉樹の黒が空の灰に溶け、遠くで狼が吠えた気配がする。橇の刃が雪面を鳴らすたびに、灯璃は喉の奥で小さく咳を堪えた。肺の古傷は、冷気に弱い。蜂蜜湯で誤魔化しているが、油断すれば針の本数がすぐに増える。

 「寒いか」

 並走してきたセイグリムが問う。氷の王の青い瞳は、風の中でも揺れない。
 灯璃は笑ってみせる。「寒いです。でも大丈夫。湯の匂いがあれば、たいていの寒さは我慢できます」

 彼はわずかに目を細め、前方へ視線を戻した。
 「黒岩の峠の上で、最初の氷路を出す。湖が凍り始める頃合いだ。そこを渡り切れば、鉱山の谷に降りられる」

 隊の端で兵が「氷路」と囁きを交わす。王が氷を操る術は、神官の祈りとは違う。神意を借りるのではなく、氷そのものの構造と流れを読み替える。言葉にすれば簡単だが、体内に走る何層もの冷流を、己の刻印で束ね直すのだから、常人には想像の外だ。

 黒岩峠の登りに取りかかった頃には、空の色がさらに重くなっていた。雪は細い針から綿へと姿を変え、降りながら積もる。馬の鼻息が白く途切れ、蹄の周りで雪が音を失う。峠の肩で、セイグリムは手綱を引いた。隊列が止まり、視線が一斉に彼へ集まる。

 「下りは危うい。湖を渡る」

 彼が崖下を指すと、針葉樹の合間に鉛色の平面が覗いた。湖は凍っている――ように見える。だが氷は薄い。うかつに踏み出せば、隊ごと沈む。兵たちの喉が鳴った。誰かが小さく呪文の断片を口にしかけ、隣に肘で止められる。

 セイグリムは馬から降り、峠の端まで歩いた。風が、彼の外套の裾を叩く。王は手袋をはずさない。はずせない。素手で触れるものの熱を奪う呪いは、今も彼の掌にある。代わりに、彼は靴底で雪面を一度だけ強く踏んだ。低い音が、骨に響く。氷の響きだ。湖の下の層の、層の、さらに下の層まで音が滑っていき、戻ってくる。

 彼は目を閉じ、薄く息を吐き出した。
 氷の流れは、水の流れと同じではない。凍りついたと思っても、内側では緩慢な移動が続いている。風の向き、山襞の角度、倒木の位置、雪の重さ、湖底の勾配――それらが作る微分の合成を、彼は刻印でなぞる。額の内側に、微かな頭痛が灯る。氷が応えるまでの距離は遠く、しかし確かに結ばれている。

 「後方、半里。焚き火の準備」

 灯璃はすぐに動いた。
 崖の陰になった窪地に、兵たちが乾いた枝をかき集める。灯璃は膝をつき、掌を一本の枝に添える。火は呼べる。だが「燃やす」のではなく、「燃えられる状態」に導く。彼女の掌で枝がわずかに温み、樹液の香りが蘇る。火打石で火花が散ると、それはすぐに橙に育った。風よけの石の輪の内側に、小さな焚き火が幾つも生まれ、兵たちの肩がほぐれる。

 焚き火の輪の中心に、灯璃は鉄瓶を据えた。湯の沸く音は人を静める。兵たちはそれぞれのマグに湯を受け、乾燥薬草をひとかけら落とす。肺の針を鈍らせる草だ。灯璃は自分の杯には蜂蜜を少しだけ垂らし、周りの若い兵の杯には砂糖を多めにして差し出した。頬が赤らむ。誰かが「巫女殿」と呼んで、言葉を探した末に「ありがとう」とだけ言った。

 視線を崖の端へ戻せば、セイグリムの足元で、雪の下の氷が鳴っていた。彼の足跡から、白が剥がれ、青が現れ始める。湖の表面、その皮膜が内部から押し広がり、亀裂が走っては、すぐに透明で固い板に置き換わる。見る間に、崖下へと滑り台のような「滑走路」が延びていく。

 「陛下の道だ……」

 兵の誰かが呟く。
 氷は、ただ固いだけのものではない。適切な角度と微妙な起伏があれば、重さを推進力に変える。セイグリムが作る「路」は、まさにそれだ。滑り降りる速度を制御できる程度に緩やかで、しかし橇が自重で進むだけの勾配を保っている。板の表面は薄い霜で処理され、摩擦が落とし過ぎにならないよう調整されていた。氷の王の術は、冷酷ではなく、緻密だった。

 「下るぞ」

 王の声で、隊は動き出した。
 先頭の橇が「路」に乗り、静かに、しかし確かに滑り始める。兵が短い掛け声を合わせ、手綱を引く。灯璃の橇も続いた。足元から伝わる震えは、恐怖ではなく、速度の予感に近い。風が耳の横で低く鳴き、頬を刺す。灯璃は鉄瓶に片手を添え、もう片方の手で橇の横木を掴んだ。目を閉じると、速度はすぐに音の形だけになった。開けていれば、白と黒が交互に流れ過ぎ、涙が出る。

 湖面に降り立ったとき、氷は思ったより厚く、しかし思ったより脆かった。
 セイグリムは前方に立ち、両腕をわずかに開く。彼の周囲の空気が青く緊張し、氷の内側で、見えない繊維が編み直されていく。滑走路は湖面の上をまっすぐ数百歩、そこから右へ、左へと曲線を描いて続いた。曲がるたびに、兵たちの喉の奥が鳴る。滑走路の外側――わずか一歩その外は、表氷が薄く、亀裂が蜘蛛の巣のように広がっていた。

 音が変わったのは、湖の中央を過ぎた頃だ。
 低く、腹の底を擦るような、鳴り。
 灯璃は顔を上げ、湖の向こうを見た。白い平面の一部が、波打った。氷が、水のように盛り上がり、次の瞬間、何かが下から叩いた。鈍い音が、遠いのに近い。兵の一人が短く叫び、口を押える。滑走路の先で、氷の表面に円が広がった。泡のように見えたそれは、ただの泡ではなかった。薄い膜の向こうで、巨大な影がひるがえった。

 「……氷鯨(ひょうげい)」

 声の主が誰か、灯璃は確かめる余裕もない。
 古老が語る氷海の古獣。凍る水面の下を回遊し、氷の皮膜を背で押し上げ、息を吸うために氷を割る。ときに船腹を叩き、薄い氷上を歩く旅人の足元を奪う――物語の中の怪異。だが影は確かにそこにいた。氷の下を円を描くように巡り、しだいにこちらへ近づいてくる。

 セイグリムが振り返る。唇が一言、形を作った。「固めろ」。
 灯璃は頷き、焚き火の輪から取り外した石を橇の上に寄せ、短く指示を飛ばす。「輪に。肩と肩をつけて。声を出して」声を出せば、呼吸が整う。呼吸が整えば、恐怖は少しだけ形を失う。彼女は掌を開き、ほんの小さな火をいくつも点した。焚き火ではない。手のひらの上の「火だまり」。兵たちがそれぞれの火だまりに掌をかざし、火の気配が輪の中心に小さな丘をつくる。火は彼女の寿命を少しずつ削り取っていくが、今は誰かの肺を温めるほうが先だ。針は、耐えられる数だ。

 湖面が鳴った。
 滑走路の右側、半弧の外縁で、氷が盛り上がる。影がぶつかる。表面に白い花が咲き、すぐに亀裂に変わる。隊の後尾がずるりと傾ぎ、橇の荷が鳴った。セイグリムが片腕を水平に振ると、滑走路の縁に低い壁がせり上がった。氷の縁は緩やかに外へ外へと厚みを増し、衝撃を受け流す。二度目の衝突が来る。音は先ほどより近い。壁が低く軋む。

 影が、輪の真横を通り過ぎた。
 灯璃は息を止める。透明が、黒い山の肩を思わせる厚みで揺れた。鯨というより、古の丘。背に刻まれた無数の擦り傷が、氷越しに白い線となって流れる。目は見えない。空を見ない生き物の目は、どこにあるのだろう。影は一度沈み、滑走路の先でふいに浮上した。膜が破れる。水飛沫が灰色の矢となって空に弾け、風が塩の匂いを運ぶ。兵の誰かが叫び、誰かが祈り、誰かが笑った。恐怖はときに笑いに形を変える。

 「進め!」

 セイグリムの声は、影の音より静かで強かった。
 滑走路が前へ延びる。王は一歩下がり、一歩進む。その足取りに合わせて、氷が編まれる。影は三度、四度、船腹を叩くように氷を撃ち、しかし滑走路の芯は揺らがない。灯璃の火だまりは、輪の上で静かに保たれ、湯の匂いがかすかに混じる。呼吸が揃う。十数分が、十数時間に感じられた頃、ようやく湖の向こう岸の黒が濃くなった。

 最後の一押しのように、影が真下で体を反転させた。
 氷が深く鳴り、足元の板が一瞬たわむ。灯璃は反射的に火だまりをひとつ大きくした。輪の中央の熱が跳ね、兵の目がそちらへ吸われる。恐怖の焦点がずれ、足元の不安はほんの一瞬ゆるむ。その隙に、セイグリムは滑走路の端を斜めに切り上げ、岸の岩場に「舌」のような氷を伸ばした。橇はその舌に乗り移り、がつん、と現実の固さを感じて止まった。

 人々は一拍の沈黙ののち、息を吐いて笑った。
 誰かが石に手を当て、「生きてる」と呟く。別の誰かが膝から崩れ、地面に口づける真似をした。灯璃は火だまりをひとつずつ畳み、胸の奥の針を数える。三本、四本。増えてはいない。指先の煤は少し濃くなったが、まだ落ち着いている。

 氷鯨は、遠くで最後の息を吐いた。
 水と氷の間で開いた一枚の口から、白い霧が立ち上る。それは雪に似た、しかし雪ではない蒸気で、空の低いところにじっとりと残った。影はやがて回り、黒の底へ沈んでいく。古老の話が正しければ、彼らは冬のあいだ湖という湖を巡り、春の直前に一斉に姿を消すのだという。季節を巡らせるのは、人だけではない。

 谷に降りる道は、雪に埋もれていた。
 セイグリムが再び氷を動かし、半身ほどの高さの雪壁を左右に寄せて、一本の溝を作る。橇は溝の底を滑り、やがて雪の途切れた岩場に出た。そこからは徒歩だ。鉱山の集落は、白い息の奥で待っていた。折れた屋根、潰れた柵、雪に埋もれた井戸。人々の顔は煤で灰色がかっていたが、目は生きていた。王の姿を見ると、誰もが同じ表情をした――驚きと、怒りと、安堵が混じった顔。来たのか、本当に。怒っていいのか、泣いていいのか。

 セイグリムは余計な言葉を挟まない。
 「子どもと老人を先に医療所へ。骨折がある者は印をつけろ。炉の煙道は生きているか」「塞がってます」と坑夫が答える。「ならば掘り直す。風の向きは」「北東です」「煙は南へ逃がす。毛皮を配る。塩肉は温湯で戻してから分けろ。喉を切る」

 灯璃は医療所の隅に小さな火の輪を作った。火の輪は、子どもたちの手のひらを一列に温め、咳の回数を少しだけ減らす。蜂蜜湯を鍋に張り、薄くした熱でゆっくり温める。彼女は座りっぱなしにならないよう、火の輪を別の場所へ移し、戻し、子どもの額に触れ、咳を数え、呼吸の音を聞いた。針は一本増えた。けれど、彼女は数えるのをやめなかった。数え続けることが、壊れるのを防ぐ唯一の方法だと知っていた。

 日暮れとともに、谷の風の音が低くなった。
 雪が止み、空の雲がほんのわずか裂ける。集落の中央広場に、兵たちが仮設の長い焚き火を作った。灯璃はそこに立ち、火の筋を二本、三本と編んでいく。燃やすほど寿命は削れる。それでも、今夜は燃やすと決めた。子どもたちが焚き火の縁で歌を歌い、年寄りが古い物語を語り、鍋の中で干し野菜と塩肉が柔らかくなる匂いが、谷の底に少しだけ春を連れてくる。

 セイグリムは、焚き火には近づかない。
 彼は雪の上に広げた粗末な地図の上で、谷の出口、風よけの岩、倒れた樅の位置を確かめ、夜のあいだに溶ける氷の厚みを頭の内側で引き算していく。灯璃は火の輪の中から、時おり彼を見る。彼は焚き火の赤に絡まらない位置を選んで立ち、夜目の利く獣のように、暗がりと親しむ。触れれば凍る呪いは、火の近くでこそ恐ろしい。彼は距離で守っている。

 夜半、空気がひとしきり落ち着いたころ、灯璃は氷の壁の陰に移動し、火を最小限にして腰を下ろした。掌の中心に、爪先ほどの火を置く。火の精の子どもが丸くなって眠る。胸の針は、今夜だけで合計五本。許容内。彼女は目を閉じ、浅く休む。眠りというより、火の見張りに近い。火は人を救うが、火そのものは人を選ばない。目を離せば、布の裾に噛みつくことだってある。

 明け方、谷には薄い霧が降りた。
 集落の片隅、潰れた納屋の屋根の上で、雪が音を立てて落ちていく。朝の湯が回り、子どもの頬に赤みが戻る。セイグリムは坑道の口へ向かい、崩れた壁を視る。岩の層の噛み合わせが悪い。冬の間の凍結と融解が繰り返され、脆くなっていた。彼は僅かに首を傾げ、氷を岩の隙間へ流して噛み合わせを一時的に固定する。春になればまた動くだろうが、今は持てばいい。持たせること、それが冬の仕事だ。

 帰路は、来たときより軽い。
 荷橇には空になった鍋と、代わりに坑夫が礼として持たせた石の文鎮。灯璃は橇の上で再び鉄瓶を抱え、湯を残った蜂蜜で薄く甘くする。兵たちは口数が増え、氷鯨の影の大きさを互いに誇張して語り合った。恐怖は過ぎれば話の種になる。灯璃は笑いながら湯を配り、時おり咳き込み、指先の煤をそっと擦ってみる。落ちない。黒は薄い刺青のように残った。

 湖に戻ったとき、風向きは夜とは逆になっていた。
 滑走路の跡は、まだうっすらと残っている。セイグリムはそこへ新しい路を重ねる。氷の織り目が一段太くなり、板の表面に微かな霜の紋が刻まれる。登りは下りほど楽ではない。橇は兵の肩で押し上げられ、滑走路の途中の踊り場で何度か休む。灯璃は踊り場ごとに「火だまり」を置いていった。人は目標が細かく区切られているほうが、疲れを我慢できる。次の火まで、もう少し。次の温かさまで、もう少し。

 第三の踊り場で、胸の針が跳ねた。
 灯璃は思わず手を口元に当てる。咳は来ない。だが、視界の端の白が一瞬、黒に変わった気がした。目の焦点が遅れる。火だまりを保つために、彼女は掌の火をほんの少しだけ強めた。すぐ戻す。強くしすぎれば、針が群れになる。分かっている。分かって――いるのに。

 第四の踊り場で、膝が落ちそうになった。
 「灯璃!」
 セイグリムの声が、風を割って届く。彼は橇の横木から手を離し、二歩、三歩と近づいて、そこで止まった。止まるしかない。彼の素手は呪いの器で、彼は手袋をしていても、近すぎる熱を奪う恐れがある。代わりに、彼は外套を脱ぎ、灯璃の肩に「投げた」。肩に乗った重みで、灯璃の身体に、現実が戻る。彼の匂い――氷の匂いというものがあるなら、その清潔な冷たさが毛皮に染みていた。

 「大丈夫……です」

 灯璃は笑い、橇の横木にしがみつく。
 「針が、少し、増えただけ」

 「戻る」

 短い言葉には、自分自身への怒りが混じっていた。
 セイグリムは踊り場の端に立ち、氷をもう一段、固く織り直す。滑走路の勾配がわずかに緩くなり、押し上げる力が軽くなる。その場の誰もが、王が今、自分に腹を立てているのがわかった。怒りの矛先は、彼女ではない。自分自身へ。触れられないこと、温められないこと、守り方が距離しかないこと。そのことに対して。

 山の肩を越え、峠へ戻ったとき、灯璃の火はほとんど眠っていた。
 王都の塔が遠くに見え、鐘が凍った音で昼を告げる。門をくぐるまぎわ、灯璃の膝から力が抜けた。彼女はその場に崩れ落ちそうになり、しかし倒れきる前に、毛皮に包まれて地面へと導かれた。セイグリムの外套だ。彼は最短の手順で周囲に指示を飛ばす。「医療所へ。蜂蜜湯。肺の草。炭粉を拭き取る布。熱源は離して置け」

 担架に乗せられ、天井の梁が後ろへ流れていく。
 灯璃は薄く目を開け、担架の横を歩くセイグリムの手を見た。手袋越しの指が、ほんの僅かに震えている。震えは寒さのせいではない。彼は寒さを怖れない。震えているのは、別のもの――怒り、焦り、そして、恐れ。それらが指先で小さく音を立てていた。

 医療所の白い部屋に運び込まれ、灯璃は毛布の中で浅い呼吸を整えた。
 胸の針は、数えようとすると増える気がする。だから数えない。ただ、蜂蜜の甘さを舌で転がし、肺の草の苦味を喉で受ける。目尻に滲んだ涙を拭おうとして、指先の煤が布に薄く広がるのを見た。黒い花。落ちない印。自分の時間が焦げて残した痕跡。

 扉の向こうで、セイグリムと医師の声が交わった。
 「命の危険はない。ただし、火の供出はしばらく最小限に」「最小限にしている」「さらに、です」「……わかった」

 扉が開く。
 セイグリムは部屋の手前で止まり、灯璃の目を見た。彼の目の青は、いつもより深かった。彼は口を開きかけ、それから閉じる。言葉を選ぶことが、今は誰のためになるのかを測っている。ようやく出てきたのは、短く、粗い言葉だった。

 「勝手に燃やすな、とは言わない。だが、次は必ず、私に言え」

 灯璃は笑みの形を作り、それを喉の奥で温めてから、そっと外へ出した。
 「相談していたら、誰かが凍えることもある。でも――」

 彼女は少しだけ間を置いた。
 「でも、今日は言えばよかった。あなたの“路”に乗っていたら、もっと楽に帰れたから」

 セイグリムの眉が、不意にほどけた。
 彼は部屋の敷居の内側へ一歩入った。手袋の手が、毛布の端を直すだけの距離に来る。触れない。そのかわりに、毛布の角を折り返して、隙間風を塞いだ。距離でしかできないことが、世の中にはある。彼の距離は、礼儀であり、守りであり、いらだちの源であり、救いでもあった。

 灯璃は、薄く笑った。
 「ねえ、セイ。峠の踊り場で、わたしが少し倒れかけたとき」

 「……ああ」

 「距離の向こうでも、あなたの手は震えていた」

 彼の青が、わずかに揺れた。
 氷の面に、髪の毛ほどのひびが走るときの、乾いた優しい音がしたような気がした。彼は目を逸らさず、ただ静かに息を吐いた。息は白くならない。部屋が暖かいからではない。彼の中の冬が、ほんの少しだけ、退いたからだ。

 その夜、王都に雪がまた降った。
 氷の回廊の掘り返しは続き、結界炉は最小限の火で唸りを保った。氷鯨は湖の底で眠り、谷の焚き火は細く長く赤い糸を繋いでいる。灯璃は眠りの浅い波の中で、掌の火の精を撫でる夢を見た。火は彼女の寿命を削る。けれど、火はまた、誰かの時間を繋ぐ。減ることと、繋ぐことが、同時に起きている。

 朝、鐘はまだ凍っていたが、街角で子どもが笑った。
 笑い声は雪には吸い込まれない。雪は、笑いを冷たくしない。笑いは息であり、息は白くても、温かい。その温かさが、王の手袋の内側で、小さく震えながら増えていく。

 冬は長い。
 けれど、長いものは、割って運べる。
 氷の王は路を編み、炎の巫女は輪を編む。路と輪は形は違うが、どちらも人を前へ送るためにある。二人の編むもののあいだに、見えない縫い目がひとつ、増えた。春の前に、人はそうやって、見えないものを増やしていくのだ。