氷火輪暦の最初の春祭は、驚くほど素朴な光景から始まった。
城下の広場に集まった人々は、いつものように結界炉の炎を仰ぐのではなく、自分たちの手で雪を割ることから祭を始めたのだ。
老人が杖で氷を砕き、子どもが両手で雪を抱えて投げる。女たちは石畳の隙間に溜まった霜をこそぎ落とし、男たちは畑の土を掘り返す。祭囃子はなく、鐘も鳴らなかった。だが、雪が崩れる音と、土が息を吹き返す匂いが、代わりに空気を満たしていた。
「ここからは、自分たちでやれる」
農夫が額の汗を拭って笑った。
「炉にすべてを任せるんじゃない。火と氷に頼りすぎない。俺たちの手で春を耕す」
その言葉に、周囲の人々が頷いた。
春は与えられるものではなく、作るものになった。
城でも変化があった。
セイグリム王は王権の一部を評議へ移譲することを宣言した。
「四季は一人では回らない。火と氷が巡るように、政もまた巡らせるべきだ」
その言葉に驚く者もいたが、否定する声は上がらなかった。人々はもう理解していた。王の手一つではなく、皆で輪を回すことが国を保つのだと。
宰相が深く頷き、民の代表たちが次々に立ち上がる。
「では、夏の備蓄は村ごとに……」
「秋の収穫祭は共同で……」
輪のように声が繋がり、政治はかつてないほど「暮らし」に近づいていった。
一方、灯璃は「春の大使」として新たな役割を担っていた。
孤児院の庭に建てられた小さな校舎。その扉の上には、まだ幼い字で「はるのがっこう」と刻まれている。
「春は、学ぶことでも作れるんだよ」
灯璃は子どもたちに笑いかける。小枝で文字をなぞり、声に出して読み上げる。読み間違えてもいい。笑って覚え直せば、それが次の春に繋がる。
教える灯璃の背中を見ながら、王は心の奥で静かに息を吐いた。
彼女はもう「燃やすための巫女」ではない。春を分け与える教師になっていた。
夜。
宴が終わり、広場の火が静まり返ったころ、二人は城の露台に立っていた。
空にはまだ薄く雪が残っている。けれど、その隙間から覗く星は、確かに冬と春の境を告げていた。
「……もし、別の世界に帰る道が開けたら」
灯璃がぽつりと呟く。
「私、どうすると思います?」
王は黙った。答えを急げば、彼女の笑いを凍らせる気がしたからだ。
灯璃は少しだけうつむき、そして顔を上げて微笑んだ。
「私は、ここに残ると思う。けど、いつか——両方を繋げる門をつくりたい。向こうの春も、こっちの春も、橋みたいに渡れるように」
王は息を呑んだ。
その願いは、幼いようでいて、誰もが欲していた希望そのものだった。
王は灯璃の手を取り、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「春が弱れば、私が寄り添う」
「……」
「君が弱れば、国が寄り添う」
その声は夜風より低く、しかし薪の余熱より温かった。
灯璃は涙を滲ませながら、笑った。
「それなら、私も大丈夫です」
指先に絡む指輪は、ほんのりと温い。
それは火でも氷でもない、新しい四季の温度だった。
翌朝、暦の新しい一行が記録された。
氷火輪暦 元年 春祭
この国の四季は、二人の手で回り続ける。



