王都ノルドレイムの朝は、鐘の音で始まらない。鐘は凍って動かず、代わりに結界炉の低い唸りが人々に一日の訪れを告げていた。石畳の下に埋められた炉は、氷の呪いを食い止める最後の壁だ。その心臓部に、灯璃の火は注がれた。

 彼女が両手を炉口に差し出すと、掌から炎が立ちのぼり、透き通った管を通って都市全域へと送られる。橙色の光が石壁を染め、人々は小さく歓声を上げた。霜で白んだ窓が曇り、凍えきった乳飲み子がようやく泣きやんだ。

 けれど、火は燃やせば燃やすほど彼女を削った。灯璃は終わるたび、指先に煤がこびりついているのに気づく。擦っても落ちない。爪の隙間にまで染み込み、骨に刻まれるような黒。胸の奥では、小さな針のような痛みが一定の間隔で鳴っていた。

 「供出は一日一度。時間も最小限に制限する」

 セイグリム王は宰相にそう命じた。青白い光を帯びた瞳が、炉の炎を見つめる。彼の声は低く、しかし揺るがなかった。

 「これでは街が持ちません、陛下」宰相は焦燥を隠さなかった。
 「ならば氷の回廊を掘り直せ。物流を開けば、暖を取る木材も毛皮も届く」
 「氷の回廊は百年前に崩落したもの。掘り直すには……」
 「できる。氷は私が動かす」

 宰相が言葉を失ったとき、背後から響いたのは神官長ヴァルナーの声だった。

 「神意への背反です、陛下。巫女の火は神が与えた救済。それを抑えようとは何事か。氷を動かすのは人の分を越えています」

 ヴァルナーの声は、石壁に反響して強く響いた。彼の眼差しには信仰の熱がある。それは炎ではなく、氷に似た硬質の熱だった。

 「神意に背くのはどちらだ」セイグリムは鋭く返す。「巫女を燃やし尽くし、彼女の命を捧げさせて国を保つ。それが本当に神の望みか」
 「王よ。あなたは巫女に心を寄せすぎている」
 「ならば寄せすぎて構わない」

 短いやりとりが、広間の温度をさらに下げた。



 その夜。
 王宮の一角にある客間を抜け出し、灯璃は裏通りを歩いていた。吐く息は白い。外套の下で掌に火を宿し、胸に抱え込むようにして歩く。火の光は小さく、赤子の寝息ほど頼りない。

 辿り着いたのは、古い孤児院だった。扉の隙間からは泣き声と咳が漏れていた。暖炉は灰をかぶり、凍った薪が積まれている。子どもたちは毛布にくるまり、か細い声で祈りを唱えていた。

 灯璃は息を吸い、掌の炎を広げた。
 炎は柱を走り、暖炉に宿る。ぱちぱちと音を立て、ようやく火の匂いが部屋を満たす。子どもたちの頬に赤みが戻り、毛布の中から安堵の声が漏れた。

 「ありがとう、お姉ちゃん……」

 小さな声が耳に届く。その瞬間、胸の奥で針が強く鳴り、膝が折れた。床に手をつくと、また煤が指先に残る。黒が増えていく。寿命を削っている証。彼女は笑ってみせたが、その笑みは震えていた。



 帰路、石畳の角で彼女を待っていたのは、セイグリムだった。
 月明かりに青い瞳が光る。王の手袋は固く握られ、声は低く怒りを帯びていた。

 「私に相談せず燃やすな」

 灯璃は立ちすくんだ。彼の声には叱責だけでなく、焦りが滲んでいた。

 「相談していたら、誰かが凍えていたんです」
 「だからといって――」
 「だからといって、待てますか? 泣いている子どもを目の前にして」

 言葉がぶつかり合う。彼の理は正しい。彼女の衝動もまた正しい。
 正しさと正しさが互いを拒み、溶け合わない。

 セイグリムは手を伸ばしかけ、寸前で止めた。手袋の向こうにある自分の呪いを思い出したのだ。触れれば、彼女を凍らせてしまう。
 灯璃はその動きを見て、笑みとも涙ともつかない表情を浮かべた。

 「あなたは、触れないことで守ってくれる。でも、私は火を使わなきゃ守れない」

 ふたりの距離は、手袋一枚ぶん。
 互いに譲れないまま、その距離だけが近づいていた。



 その夜、王都の空には雪が降り続いた。
 氷と火。合理と衝動。守ろうとする意思が、別の形を取ってすれ違う。
 けれど、冷たい風のなかで彼らの吐息は、確かに白く重なり合っていた。