氷の王と炎の巫女



 氷火輪暦の最初の春は、薄かった。
 けれど薄いものほど、手触りの輪郭ははっきりする。井戸の表で黒と薄紅が交互に息をし、倉の前では秤の針が揺れて止まり、港の滑走路の角度は少しだけ緩められ、孤児院の窓には布が二重に掛けられた。蜂蜜屋の戸には「薄めます——分け合うため」と小さく書かれ、輪番の少年は新しい札に自分の名をぎこちなく書いた。白い袖は露台に出ず、書記は新しい日付を覚えるのに二度、筆を止めた。

 戦も儀も終わって、街は自分の歩幅で歩き始めている。早足にも遅足にもならない歩幅だ。
 その歩幅の中で、王と巫女だけが、まだ少し戸惑っていた。日々のやることが減ったせいではない。やることは、むしろ増えた。増えた中に、言葉にしなければならないものが、ひとつだけ残っている。それは祭具でも工具でもなく、帳簿にも載らない。載せられないから、慎重に扱うべきで、慎重に扱いすぎると、すぐに萎れてしまう。

 宰相はそれを「後回しの税」と呼んだ。
 「払うときは、一度でいいんです」と笑った。「溜めると、利子が跳ね上がる」
 王は笑って、灯璃(あかり)を見た。灯璃は笑わなかった。笑えば、その税の額がはっきり見えてしまいそうだったから。

 その日、城は早くに灯を落とした。
 氷鯨の歌の余韻はもう聞こえない。歌は暦に翻訳され、街の呼吸に混ざっている。廊の角を曲がると、窓越しに、小さな輪の影がいくつも重なって見えた。灯璃が言ったとおり、輪は燃えない。燃えない輪は、暮らしを長くする。

 夜の孤児院には、蜂蜜の薄い甘い匂いが残っていた。
 エルナは子どもたちに新しい暦を教えながら、日付の読み方を歌にしていた。「ひょう・か・りん・れき、も・と・し・の、はる・ひ・と・ひ」
 窓の外で、輪番の少年が合図の笛を短く鳴らした。夜の巡回の開始。灯璃はその音を聞いて、胸の輪にそっと指を置く——触れない。触れたふりだけする。日中は分け合い、夜は分けない。春分の取り決めは、暦になっても残った。

 王はその夜、面頬を棚に戻し、手袋を片方だけ外して私室を出た。片方は、癖だ。もう片方は、いざというときのための躊躇。躊躇にも、役割がある。
 灯璃は先に廊の奥の縁にいた。窓から薄い月の光が入り、床の石の目地を淡く洗っている。灯璃はその目地を指で追い、春分の朝に刻んだ「巡」と「行」の字を空気に描いた。描いた字は、すぐに消える。消えるから、何度でも描ける。

 「セイ」
 灯璃が振り返る。
 「いる」
 王の声は短く、その短さの中に長い夜の重さが含まれていた。
 灯璃は一歩近づき、王も一歩進んだ。間に、石二つぶんの距離がある。石二つは、世界の大きさに比べれば取るに足らないが、互いの胸にとっては、ひどく高い塀に等しい。

 「……戦も、儀も、終わりました」
 灯璃が言う。言葉の順番は、会議の議題の読み上げに似て堅かったが、堅いものにしか安心できない夜もある。
 王は頷いた。「終わった。——始まった」
 「暦、ですね」
 「暦も」
 王はそこで言葉を切った。切った先に、言い換えが見つからない。言い換えの上手さは、政治の技術だ。今夜、政治の技術は不要だ。不要だから、役立たない。
 灯璃が助けるように言葉を足した。
 「暮らし、です」
 王は笑った。笑いは短く、しかし溢れた。
 「暮らしは、告白の反対語に近い」
 灯璃は首を傾げる。「どうして」
 「暮らしは、常に続くことを前提にしている。——告白は、続かなかったときの痛みを、最初から抱き込む」
 灯璃は笑い、すぐ笑いを消した。「それでも、今夜は暮らしのことだけでは眠れない」

 廊の先の窓がカタリと鳴り、遠くで犬が一度吠えた。孤児院の赤ん坊が短く泣き、エルナがすぐに抱き上げる気配がする。暮らしの音は、告白の音を弱めもしないが、助けもしない。
 王は手袋をもう片方も外した。指先は白い。白いが、息をしている。
 「灯璃」
 呼ばれた名は、祭よりも軽く、誓いよりも柔らかかった。
 灯璃は一歩、石をまたいだ。距離は、石ひとつになった。

 「君の火は、国を照らした」
 王の言葉は、ゆっくりと選ばれた。
 「けれど、私には——君の笑いが春だ」
 灯璃は、笑わなかった。笑うと、簡単に終わってしまう気がしたからだ。終わらせたくなかった。
 「あなたの氷は、国を守った」
 灯璃は、やはりゆっくり言った。
 「けれど、私には——あなたの不器用がいちばん温かい」

 不器用、という言葉は、王にとって初めての勲章だった。
 彼は笑い、笑いは今度こそ消えなかった。
 「不器用は、冷えると思っていた」
「温まるときもある」
 「いつ」
 「触れそこねが、二度目を用意するとき」
 王は一度、目を閉じた。春分の夜から数えて、何度も指先が触れる前に眠りに落ちた。触れそこねは、恥ではなく、やり直しの準備だったのだと、ようやく理解する。

 「手袋を、外します」
 灯璃が言い、ほんの少しだけ指を震わせながら、薄い革を抜いた。粉で隠した煤が、今日に限って隠しきれない。指の腹に、黒が夜の小さな星のように散っている。
 王も、両手を差し出した。
 「凍らない?」
 「燃えない?」
 互いに問うて、互いに答えず、互いの手を絡めた。
 掌が重なった。指が交わった。骨と骨が軽く触れ、血の温度がその接点で少しだけ上がる。
 凍らない。
 燃えない。
 温度だけが、二人の中間に置かれた。

 しばらくのあいだ、言葉はいらなかった。
 沈黙は、やさしい虐待ではなく、今夜だけはやさしい休息になった。
 王は指の一本一本の形を覚え、灯璃は甲の赤い縫い目の細さを指の腹でなぞった。春分の朝に生まれた二色の縫い目は、いまや迷いの割れ目ではない。確かめの継ぎ目だ。

 「ねえ、セイ」
 灯璃が言葉を探すように、少し間を置いた。
「指輪を、作りたい」
 王は目を瞬いた。「婚姻の夜にも、儀にも、形を置かなかったのに?」
 「置かなかったから」灯璃は微笑した。「いま置きたい。……輪で。輪は、燃えない。燃えない輪が、暮らしを長くする」
 王は頷き、宰相の顔を思い浮かべて笑った。「きっと、倉の鍵の余りで作ってしまう」
 「倉の鍵の余りは、暮らしの金だ」
 「暮らしの金の指輪は、重すぎない」
 重さは、約束の別名だ。重すぎれば折れる。軽すぎれば失くす。暮らしの金の重さなら、どちらにも偏らない。

 翌日、工匠が呼ばれた。
 倉の鍵の余りと、港の鎖の古い輪を、火にかけ、叩き、細くして、磨いて、二つの指輪にした。磨いた金は新しく光りすぎない。端を少しだけ荒く残し、手のしわと馴染むようにした。
 輪番の少年は、工匠の大槌を見上げ、「ぼくも叩きたい」と言った。工匠は笑って、小槌を貸した。少年が一度、弱く叩き、その一撃の音が指輪のどこかに残った。残ってくれればいい、と灯璃は思った。暮らしの音で出来ているものは、暮らしに強い。

 指輪は式典では渡されなかった。
 露台でも、炉室でも、広場でもない。渡されたのは、孤児院の裏庭だった。
 乾いた土に、まだ固い霜が薄く白を残し、その下から芽の小さな緑がのぞいている。蜂蜜屋の老婆が鍋を抱えて見守り、エルナは子どもの手を引いて並ばせ、白い袖の若い神官は記録をとらず、ただ立っていた。

 「これが、暮らしの輪です」
 宰相が照れくさそうに言った。式を仕切るのは得意でも、式を短くするのはもっと得意だ。
 王は灯璃の前に立ち、手袋をはめていない手を差し出した。
 灯璃も、手袋をはめていない。
 指輪は、指に入る前から、ほんのり温い。
 それは火ではない。炉ではない。季節の温度だ。氷火輪暦の、春と冬の間の「間」の温かさ。夏と秋の汗と蜂蜜の、残り香の温度。
 「——君の火は国を照らしたが、私には君の笑いが春だ」
 王は、もう一度、言った。言い直したのではない。言い足しているのだ。言葉は、暦と同じで、一度で完成しない。
 灯璃は頷いた。
 「——あなたの氷は国を守ったけど、私にはあなたの不器用がいちばん温かい」
 言い足す声は、前より少し低く、しかし遠くへ届いた。

 王が灯璃の左手の薬指に輪を通す。
 灯璃が王の左手の薬指に輪を通す。
 ふたつの金が、互いの皮膚の上で、同じ温度になった。
 凍らない。
 燃えない。
 温い。
 ——その温さが、街に巡る新しい四季の温度だった。

 輪番の少年が息を呑んだ音が聞こえた。孤児院の子が「わあ」と言い、蜂蜜屋の老婆が「薄めないでいい日だね」と笑った。白い袖の若い神官は胸に手を当て、誰にも聞こえない短い言葉を呟いた。祈りかもしれない。願いかもしれない。記録の行ではなく、余白の言葉だった。

 その後、王と灯璃は人々の列の間を歩いた。
 祝辞は短く、握手は素手で、抱擁はしない。抱擁は二人のものだった。
 道すがら、港の男が網の修繕の手を止めずに言った。「陛下、冬は手伝いますぜ」
 王は頷いた。「夏は頼む」
 工匠が、指輪を叩いた小槌を掲げた。「秋は秤の針、まっすぐに」
 蜂蜜屋の老婆が鍋を振り、「春は飴を薄める」
 「薄めないのは今日だけ」灯璃が笑うと、老婆は目を細め、「今日くらいはね」と返した。

 ヴァルナーは列の遠くにいた。
 白い袖の裾は風でめくれ、露になった手首は、驚くほど細かった。
 彼は槍を持っていない。代わりに、一枚の紙を持っていた。
 「——記録する」
 彼は独りごちて、紙の余白に、短く書いた。
 『巫女と王、互いに指輪をはめる。指輪は温い。温度は、暦に等し』
 その文を読んだ若い神官が首をひねる。「“等し”って、詩ですか」
 ヴァルナーは笑わなかった。「解釈だ」
 「解釈は、あたたかいですね」
「冷たくもできる」
 若い神官は一歩引き、紙を覗き込み、「冷たくしないでください」と真剣に言った。ヴァルナーは今度こそ笑った。笑いは短く、慣れていなかった。

 夕刻、風が東へ変わった。
 露台に立つと、街の屋根に新しい影が落ちている。影は長く、春のやり方を少し学んだ冬が、ふざけて伸ばした指のようだ。
 「今日、言えたね」
 灯璃が言い、王が頷く。
 「言えた。……足りないくらいで、いいのだな」
 「うん。暮らしは、余白で動く」
 王は灯璃の指を探した。今度は背中越しではなく、正面で。
 絡めた指の間で、指輪がほんのり温い。
 「この温度、好きだ」
 「私も」
 「怖くない」
 「うん。——怖いのは、選び直さない日」
 王は、昨夜も聞いた言葉をもう一度胸に下ろして、静かに息を吐いた。
 「選び直すよ。毎晩。君に言葉で」
 灯璃は頷き、目を閉じた。目を閉じるのは、眠るためではなく、言葉の数を数えるためだ。数えきれないと分かると、安心する。安心は、冬の薬であり、春の燃料だ。

 夜。
 寝台の上で、二人は背中越しではなく、正面で手を繋いだ。
 指輪は温く、白い髪は冷たく、煤の指は熱く、二つの温度の間に、街の四季が小さく横になった。
 「セイ」
 「いる」
 「好き」
 「愛している」
 灯璃は笑って、今度は笑いを消さなかった。
 「言葉で、ね」
 「言葉で」
 短い言葉は輪になり、眠りは降りてきた。落ちず、降りる眠りは、暮らしの形をしていた。暮らしの形は、暦の形とよく似ている。

 窓の外で、極小の雪が降った。
 降って、すぐに融け、また降る。
 誰も騒がない。
 騒がないことは、幸福の証ではない。幸福に近い余裕の証だ。
 余裕がある夜には、告白は、約束ではなく、確認になる。確認は、生き延びるための癖だ。癖は、人を救う。

 翌朝、蜂蜜屋の戸口に新しい札が下がった。
 『氷火輪暦 元年 春二日——飴、薄めます。指輪の温度くらい』
 輪番の少年がそれを声に出して読み、孤児院の子が「指輪の温度って?」と訊いた。
 エルナは笑って、「国の温度だよ」と言った。
 子は首を傾げて、王城のほうを見た。窓の向こうで、小さな影が二つ、重なって揺れた。
 春は続く。薄く、しかし確かに。
 そして薄い春の中で、二つの指輪の温度は、誰にも知られない単位で、国じゅうへと巡っていった。