朝は、やっと来た。
 昨日よりも薄く、頼りない光だったが、それでも東の端に白が立ち上がる。王城の窓は細い線で縁取られ、霜花は解けずに輪郭を柔らかくするだけ。結界炉は低く、胸の底で寝息を立てるように脈打っている。

 セイグリム王は、寝台の上でゆっくりと眼を開けた。
 まつ毛は白く、髪は降り積もった雪のように淡い。だが瞳の青は、深い水の底に落とした珠のように澄んでいた。意識の底から浮上してきた彼は、まず天井の梁を一つずつ数え、それから自分の手を確かめ、次に、枕元の椅子に座っている灯璃(あかり)を見た。

 「……戻ったのですね」
 灯璃の声は、消え入りそうな細さではなかった。数え切れない夜を一晩で通り抜けて、戻ってきた者の声だった。
 王は微笑み、喉の乾きを一度飲み込んでから答えた。
 「戻った。——君のところへ」
 灯璃は笑わず、首を縦にひとつ振るだけにした。笑うと、涙が崩れる気がした。

 宰相が部屋の隅に控え、医師が短く頷く。
 「脈は弱くありません。けれど、陛下の髪と同じで、体の中の“若さ”がいくらか凍りついている。無理は……」
 王は手を上げて遮った。「無理をするのは今日までにする。今日までは——最後の無理だ」
 灯璃が椅子から立ち上がり、外套の襟を整えた。
 「……最後の儀を」
 王はうなずいた。細い白の中に、凍りついていない熱が見えた。

 廊に出ると、風はまだ冬の口ぶりだった。だがその内側に、昨日よりも確かな湿りがある。氷海のほうから、遠い太鼓の低音のようなうねりが、城壁を撫でて過ぎていく。
 「氷鯨(ひょうげい)の歌がまだ残っている」灯璃が言う。
 王は耳を傾け、「季節の鍵だ」と短く返した。

 炉室へ降りる石段を、二人は並んで下りた。
 手すりの石は冷たいが、凍り付くほどではない。足音は乾いていて、同じテンポで落ちていく。宰相は伴走するように半歩後ろを歩き、若い輪番の少年が手には小さな輪、背には布包みを担いで続いた。包みの中身は、蜂蜜と、灰と、白紙。祭具と工具の間に並ぶ、日常の道具。

 炉室は、昨夜より明るかった。
 炉の心臓の鉄輪がわずかに赤みを帯び、壁の古文様に薄い青が巡る。天井の隙間からは、氷鯨の歌の短い節が入り込み、石に書かれた古い契約の行を指でなぞるように震わせている。
 灯璃は壁に近づき、昨日光った箇所を確かめる。
 「——『氷と火は、奪い合うものにあらず。交わり、巡らせ、季節となすものなり』」
 声にすると、文が柔らかくほどけ、まるで別の場所でも同じ文が同時に開いたかのように、室内の空気が一度だけ深く吐息をついた。

 王は刻印座の前に立ち、素手を見下ろした。甲には、春分の朝に灯璃の白を受け取った赤の縫い目が細い糸のように走っている。
 「——固定ではなく、巡行」
 宰相が頷く。「術式の核を、取り替える必要があります。炉に刻まれた“固定”の命令文を削り、氷鯨の契約に合わせた“巡行”の文に改暦する。暦と炉は、本来ひとつでしたから」
 灯璃は深く息を吸った。蜂蜜の香りが少しする。誰かが置いた湯が湯気を上げている。
 「氷火輪暦(ひょうかりんれき)。春は私の火、冬はあなたの氷、夏と秋は人の手。——輪で回す暦」
 王はその言葉をゆっくりと反芻し、口の中で確かめるように繰り返した。
 「氷火輪暦。春は火、冬は氷。夏は耕し、秋は分け合い。……人の季」

 宰相は机に白紙を広げ、三つの輪を重ねた図を素描した。中心は炉、外周に三つの節。春・夏・秋・冬の記号を、季節に対応する言葉で囲む。
 「暦は、名で動きます。王の名、巫女の名、そして民の名。固定から巡行への書き換えには、三者の署名が要ります」
灯璃が王を見る。王は頷いた。
 「ここに、王がいる。巫女もいる。民——街に、来てもらおう」
 宰相は微笑を一瞬だけ見せ、笛を噛み、鋭く二度鳴らした。鋳鉄の音は廊を駆け上がり、広場の人々の足元を震わせ、露台の影に立つ白い袖の裾を小さく揺らした。

 人々が集まるまでの間に、準備は進む。
 炉の外輪を覆う鉄板が外され、文の刻まれた内側の帯が露出した。そこには古い文字で「固定」の構文がびっしりと刻まれている。火を核に留め、氷を縫い付ける術。
 宰相が木の楔を渡した。「金は反抗します。木で、少しずつ」
 王は頷き、灯璃と向かい合う位置にかがんだ。
 氷の指と火の掌。ふたりは同時に、古い文の上から新しい空白を押し込んだ。削るというより、文の間に余白を挟み込む作業。余白ができると、文は繋がりをほどき、意味を手放す。手放した意味は、次の意味のための場所になる。

 氷鯨の歌が、強くなった。
 腹の底から上がってくるような低音が、炉の内側の空気を膨らませ、刻みの間に新しい呼吸のリズムを作る。
 灯璃はそのリズムに合わせ、指先で巡の字を描く。
 「春は、灯す。夏は、働く。秋は、分ける。冬は、守る」
 王は同じリズムで、行の字を刻む。
 「火はめぐり、氷はめぐり、人はめぐる」
 古い文字は抵抗した。何百年も刻まれてきた固定の構文は、縫い目を深く持つ。けれど、氷鯨の歌が縫い目の中の氷を解かし、灯璃の白が火の方へ道を開け、王の赤が氷を柔らげた。
 余白は広がり、新しい線が、そこへ静かに置かれていく。

 広場から、低いざわめきが近づいた。
 「井戸から、息の音がした」
 「川の表が、黒く戻り、また白くなった」
 「歌が、聞こえる」
 人々が炉室の手前まで来て、宰相の合図で列を作る。輪番の少年が先頭に立ち、孤児院の子がその袖を掴み、蜂蜜屋の老婆が鍋を両手で抱える。母親が赤子を胸に、漁師が網を束ねて、工匠が刻みを確かめるように石の線を指で撫でる。

 宰相は広場に出て、短く言葉を置いた。
 「王と巫女は、結界炉の術式を“固定”から“巡行”へ改暦します。新しい暦の名は氷火輪暦。——春は灯璃の火、冬はセイグリムの氷。夏と秋は、あなたたちの手。名を輪に落とすのは、あなたたちです」
 人々は、しばし黙った。黙りの中に、薄い不安と、濃い疲れと、まだ言葉の形になっていない希望が混じる。
 蜂蜜屋の老婆が口を開いた。
 「夏の水汲みは、若い者が担ぎな。秋の分け前は、喧嘩せず決めな。できるかい?」
 輪番の少年が、手を挙げる。「やる」
 孤児院の子も、手を挙げた。「やる」
 老婆は笑った。「なら、やれるよ」

 その時、白い袖が露台の影から前へ出た。
 ヴァルナーだった。顔は静かで、目は深い井戸の水のように暗く、手には儀礼の槍。
 彼は槍の石突で床を軽く突いた。
 「——神意への冒涜だ」
 声は低く、穏やかだった。穏やかであるほど、言葉は刃に近い。
 「季節は、神のものである。春を人が持ち、冬を人が持ち、夏と秋を人が担う——置換は、秩序の終わりだ。供犠をやめれば、祈りもやむ」
 広場が冷えた。祈りの言葉は、人の心の古い骨に触れる。触れられると、人は一瞬、膝を折りたくなる。

 灯璃は炉室の入り口に立ち、ヴァルナーを見た。
 「終わるのは、供犠です。祈りは終わらない。——祈る相手が、互いになるだけ」
 ヴァルナーの目が細くなる。「互い?」
 「春に、私が灯す。けれど、春を伸ばすのは、人の手。夏に、あなたたちが耕して汗を落とし、秋に、争わずに分け合い、冬に、王が守る。——互いに祈るのです。『どうか、あの人が今日も働けますように』『どうか、あの人の子が熱を出しませんように』『どうか、王の髪がこれ以上白くなりませんように』」
 薄い笑いが、広場の端で生まれて、少しずつ真ん中へ寄った。笑いは祈りの一部だ。笑いが戻ると、祈りは言葉を取り戻す。

 ヴァルナーは槍を胸の前で水平に持ち、先端を灯璃へ向けた。
 「——神意は、君の胸の火を“永久炉”にすることを望んだ。君は背いた。背き続けるのか」
 灯璃は首を横に振った。
 「契約に戻る。——古い契約に。『氷と火は奪い合うものにあらず。巡らせるものなり』。あなたが記録を愛するなら、読んで」
 宰相が壁の文を指し示す。氷鯨の歌が強くなり、文字がやわらかに光る。
 ヴァルナーの顔に、初めて揺れが走った。
 「……古文は解釈できる」
 「人も解釈できる」蜂蜜屋の老婆が言う。「わたしたちは、暮らしで解釈する。祈りを短くし、鍋を長く火にかけ、子の寝台の足を温める。——そういう解釈が、今日からの神意ならうれしいよ」
 輪番の少年が槍の先を見上げ、ぽつりと言う。「こわいよ」
 言葉は、単純さで刃を鈍らせることがある。
 ヴァルナーの手が、ほんのわずか震えた。その震えは、槍の柄を伝わり、先端の銀色の冷たさを地面へ流した。
 槍は、地に落ちた。

 広場の空気が、一度だけ、深く息をした。
 宰相が小さく頷き、王のほうを見た。
 セイグリムは、炉室の入口に立ち、白い髪を少しだけ後ろへ払った。
 「——始めよう」
 声は強くはないが、届くべき場所に届いた。人の耳ではなく、暦の耳に。

 最後の儀は、三つの署名から始まった。
 王は刻印座に手を置き、巫女は補助座に掌を重ね、民は広場の輪に名を落とす。輪は大小合わせていくつも用意され、孤児院の柵の針金で作られたものもあれば、工匠の余剰金具で曲げたものもある。誰の輪が欠けていても、誰かの輪が重なって補う。

 王は“冬”の字のもとに名を刻む。
 氷の線は硬く、しかし、春分の白を受けているため、完全な直線にならない。微かに揺れ、息をした。
 灯璃は“春”の字のもとに名を置く。
 火の輪郭は、燃えず、ただ温度の影を作る。影はやわらかく、文字の間に余白を作った。
 宰相は“夏”と“秋”の場に、民の名を集めた輪を載せる。輪には、役目と順番が刻まれている。
 夏——水、土、汗、畝、網、漕、歌。
 秋——秤、順番、札、笑い、許し、蜂蜜。

 氷鯨の歌が、最も深いところから立ち上がった。
 炉室の空気が膨らみ、文字が震え、古い固定の構文が、最後にひとつ、ため息のような音を出して外れた。
 空白。
 その空白に、灯璃が巡を、王が行を、それぞれの温度で置いた。
 指先から出たものは、火でも氷でもない。火と氷の両方を通過した季節の温度だった。
 文字は、ゆっくりと、炉の内側へ沈み、下から順に、暦を組み立てていく。

 城の外で、風が変わった。
 北から来る風が少しだけ弱まり、東から、朝と名乗るには慎み深すぎる光が差し込んだ。井戸の水面が、黒の中に薄紅を浮かべ、薄紅がまた黒に沈む。その往還が、一定の拍を刻み始める。
 「季節が、歩き出してる」
 輪番の少年が呟き、孤児院の子が同じ言葉を真似した。「きせつ、あるいてる」

 儀が進むにつれ、白い袖の中にも、ひそかな動きがあった。
 ヴァルナーの後ろで、若い神官たちが囁き合い、古い文を指でなぞって確かめ、互いの顔を見て、筆を取り出した。彼らの筆は、今日は刃ではなかった。記録に戻っていた。
 ヴァルナー自身は、槍を拾わなかった。拾わない代わりに、胸の位置で両手を重ね、目を閉じ、唇の内側で何か短い文句を繰り返していた。祈りかもしれなかった。彼の祈りが、誰に向けられているのか、誰にも分からなかった。彼自身にも。

 そこへ、遠くから馬の蹄の音。
 氷海のほうから、将軍ルオが小隊を伴って現れた。
 彼は広場の端で馬を降り、白髪の王と、黒髪——煤で指先を黒く塗った灯璃を見比べ、肩で笑った。
 「敵国に季節を教えられた」
 宰相が一歩出る。「将軍ルオ。ここは——」
 「言い訳は要らない」ルオは片手を上げた。「撤兵する。戦は、季節に勝てない」
 彼は馬の首を軽く叩き、部下に命じた。「——引け」
 小隊は踵を返し、雪の少ない道を選んで去っていった。彼らの背に、蜂蜜屋の老婆が小さく飴を投げてやる。落ちた飴を拾った若い兵が、少し躊躇してから口に入れ、笑った。笑いは、言葉よりも速く、国境を越える。

 最後の刻み。
 炉の内側で、暦が完成に向かう。
 春の節に、灯璃の名が静かに沈む。
 夏の節に、民の輪が重なって沈む。
 秋の節に、札と秤の記号が沈む。
 冬の節に、王の名が凍らずに沈む。
 四つの節を貫くのは、輪。中心から外へ、外から中心へ、温度が決まった順路で巡る。巡るたびに、疲れが薄く、笑いが濃くなるよう、意図が入れられている。

 「名を」
 宰相が促す。
 灯璃は、ゆっくりと口を開いた。
 「新しい暦の名は——氷火輪暦。読みを、ひょうかりんれきとする。春は灯、夏は働、秋は分、冬は守。輪を回し、行を重ねる」
 王が続ける。
 「王命をもって改暦する。今日をもって、この国の暦は輪の暦に入る。——固定を、やめる」
 広場に、大きな声はなかった。代わりに、息を吸う音が揃い、吐く音が揃い、人々の肩が、同じ高さで上下した。
 それが、この国の万歳だった。

 炉室の天井が、わずかに開いた。
 穴から、薄い光が降り、光の中に、雪ではない白い粒が舞った。氷鯨の歌の、最後の一節がその粒を抱え、炉の奥へ沈めていく。
 ——結び。
 古い契約の結び目が、灯璃と王の指の間で結ばれ、輪番の少年の掌で結ばれ、蜂蜜屋の鍋の縁で結ばれ、白い袖の内側でも結ばれた。
 祈りは終わらなかった。形を変えただけだ。

 儀が終わると、誰もが少しだけ若返ったように見えた。実際には誰も若返ってはいない。疲れが、役目の形に整頓されただけだ。
宰相が書記たちに向けて号令をかけた。「今日の日付を新暦で書け。氷火輪暦 元日だ。暦の頭には“氷火”の印。王命の署名と巫女の署名、それから民の輪刻を添える」
 書記の手が紙の上で走り、筆の先が一瞬だけ迷ってから、新しい書き順を覚えた。

 広場の端で、ヴァルナーがゆっくり歩き出した。
 鎧も帯びず、槍も持たず、白い袖だけを整えて、灯璃の前に立つ。
 「君の選んだ道は、宗(むね)ではなく用だ」
 灯璃は頷いた。
 「宗は、胸の奥に置く。用は、手に持つ。きょうは用を選んだ」
 ヴァルナーは目を閉じ、短く息を吐いた。
 「私は、記録する」
 「お願いします」
 「記録は、刃にも盾にもなる」
 「分かっています。あなたの記録が、いつか誰かの行を助けると、信じます」
 ヴァルナーは言葉を足さなかった。足さない沈黙は、敗北ではない。翻意の形だ。

 その日の午後、街の働きは、まるで何年も前からそうしていたかのように始まった。
 夏の係は、まだ雪の端に鍬を入れて畝の位置を確かめ、川の流れを読み、用水の入口を指で差し示す。
 秋の係は、倉の鍵に順番札を下げ、秤の針を布で磨き、喧嘩の種を紙に写して「今日ではない日に話す」箱に入れる。
 冬の係は、王の命で増員され、滑走路の角度をわずかに変え、吹き溜まりの塀を低くし、救急の合図の笛をもう一本、多めに配った。
 春の係——灯璃は、輪の置き方を燃やさずに教え、輪番の少年の帽子の紐をきちんと結び、孤児院の窓の布を二重にし、「笑いの前借り」の小さな袋を配った。袋の中身は蜂蜜の欠片と、短い言葉。——「夏に返して」「秋に返して」「返せなくなったら、別の何かで返して」

 夕刻。
 王と灯璃は、露台に並んで立った。風は少しだけ東寄りになり、空の白が、薄い青へとにじんでいく。
 「改暦の知らせを国中へ」宰相が言う。「港へ、鉱山へ、谷へ、国境へ。書状と、歌と、輪と、やり方を送る」
 王は頷いた。「言葉は短く」
 宰相は笑った。「短い言葉は、長い仕事を呼びます」
 「呼べ」
 王は白い髪を撫で、灯璃の横顔に視線を落とした。
 灯璃は遠くを見ていた。遠くは空の端で、空の端には、昨日までなかった薄い線が一本、引かれていた。
 「季節の道」
 灯璃が呟く。
「そう見える」
 「——選び直しは、今日で終わらない」
 「終わらない」王はうなずく。「暦は、日々、書き足すものだ」

 夜が来る前、氷海のほうから、もう一度だけ、氷鯨の歌が聞こえた。
 今度の歌は短く、祝詞にも似ている。
 王は胸の内で名を呼んだ。
 (灯璃)
 灯璃は名を返した。
 (セイ)
 呼び合う名は、誰の宗にも属さず、ただ、用の中で息をした。

 その夜、王城では改暦の宴は開かれなかった。
 宴より先にやることがあったからだ。孤児院の天井に布を足すこと。倉の床の隙間を埋めること。港の結び目を点検すること。
 代わりに、蜂蜜屋の老婆が、小さな鍋をいくつも露台に並べた。薄めない蜂蜜湯。
 灯璃は湯を一杯、王に渡した。
 王は受け取り、湯気を吸い込み、笑った。
 「薄めないのは、今日だけか」
 「今日だけ。明日は薄める。——薄めるというのは、分け合うことだから」
 王は頷き、湯を半分飲んで、残りを宰相に渡した。宰相はそれを半分飲み、輪番の少年へ渡し、少年は半分飲んで孤児院の子に渡し、最後のひと口は、蜂蜜屋の老婆が受け取り、笑って鍋の中へ戻した。
 それを見て、白い袖の若い神官が、ほんの少しだけ笑った。笑いは、宗よりも早い。

 灯璃と王は、同じ部屋に戻った。
 寝台の上で、背中越しに手を伸ばす。
 指先が触れた。
 凍らない。
 燃えない。
 季節だけが、二人の間をいったり、きたりした。
 「セイ」
 「いる」
 「選び直して、よかった?」
 王は少し考え、答えた。
 「選び直しは、続けるものだ。——その始まりとしては、うまくいった」
 灯璃は笑い、笑いをすぐ消さなかった。笑いは、暦の端に書く余白のように、未来を受け入れる。

 夜半、窓の外で雪が、細かく降った。
 降って、融けて、また降り、融ける。
 音はしない。
 音のない往還が、街の屋根と屋根の間を渡り、輪の節から節へ、拍を打つ。
 氷鯨の歌はもう聞こえない。歌は、暦に翻訳され、街の呼吸に紛れたからだ。

 翌朝、書記が新しい日付を読み上げた。
 「氷火輪暦 元年 春一日」
 蜂蜜屋の老婆が「長いね」と眉を上げ、輪番の少年が「かっこいい」と笑い、孤児院の子が「きょうは春?」と聞いた。
 「春だよ」灯璃が答えた。「春にするんだよ」
 王は白い髪に手をやって、鏡を見なかった。鏡に映るのは、昨日までの自分だからだ。今日の自分は、暦に映る。

 やがて、遠い国々にも改暦の知らせが届いた。
 ルオの陣営では、書状を受け取った副官が眉をひそめ、「前例がない」と言った。
 ルオは肩をすくめた。「前例は、後から名になる」
 彼は撤兵の手続きを終え、地図の端を指でなぞった。「雪が溶ける道と、凍る道、働くべき時刻と、休むべき時刻——敵からでも学べ。季節に敵はない」
 副官はうなずき、地図を丸めた。その手つきは、敬意に近かった。

 ヴァルナーは、記録を書き続けた。
 「固定、巡行へ改めらる。巫女、王、民、三者の輪により署名。氷鯨の歌、暦に翻訳される。——記録する」
 彼の筆は、刃でも盾でもなく、ただの尺度に戻りつつあった。
 若い神官が彼に尋ねた。「我らは、何を祈るのです」
 ヴァルナーは答えなかった。代わりに、若い神官の額に指を置き、「君の仕事が終わること」とだけ言った。
 若い神官は笑った。「それは、祈りですか」
 「願いだ」
 「同じでしょう」
 ヴァルナーは初めて、はっきりと笑った。

 季節は、遅く、そして確かに、回り始めた。
 春は、灯璃の火が起こす。
 夏は、人が汗で支える。
 秋は、人が秤で正す。
 冬は、王の氷が守る。
 四つの節を渡る輪は、誰のものでもなく、皆のもの。輪の上に置かれる名は、年ごとに増え、書き足され、時に消え、また書かれる。
 暦は、紙だけに書かれず、暮らしに書かれ、言葉に書かれ、沈黙にも書かれた。
 沈黙は、やさしい虐待ではなく、やさしい休息になった。
 休息は、季節が許す唯一の贅沢だ。

 灯璃は、ある夕暮れ、王と並んで城壁に立ち、街を見下ろした。
 白と薄紅が混じる屋根。黒く戻った井戸。倉の前に吊るされた順番札。蜂蜜屋の前に並ぶ小さな背。
 王は言った。
 「明日が、怖くない」
 灯璃は頷いた。
「怖いのは、選び直さない日」
 「選び直す?」
 「うん。——今日は春にした。明日は、夏にする努力をする。秋にする準備をする。冬にする覚悟を、少しずつ溶かす」
 王は「そうだな」と言い、灯璃の指を探した。
 背中越しではなく、正面で。
 指先が触れた。
 凍らない。
 燃えない。
 季節だけが、二人の間で、拍を刻んだ。

 その音を、氷海のはるか向こうで、氷鯨が聴いていたかもしれない。
 彼らは歌わない。歌はもう、暦の中にあるから。
 歌の余韻だけが、春の薄い風に混じって、城壁の外へ、国境の外へ、世界の端へ流れていった。
 世界は、少しだけ、改暦された。
 名前のない国の井戸でも、薄紅の泡が一つだけ上がり、誰かがそれを「春の息」と呼び、誰かが「敵のやり方」と笑い、誰かが「うちのやり方にする」と頷いた。

 氷火輪暦、元年。
 最初の春は、薄かった。
 薄い春は、誠実だ。
 誠実な春は、人に仕事を渡す。
 仕事は、祈りの別名だった。
 祈りは、今日も続いている。
 互いへ向けて、季節へ向けて、未来へ向けて。
 ——固定ではなく、巡行で。
 その巡りの中で、王と巫女は、毎日すこしずつ、もう一度ずつ、選び直すのだった。