朝は、来なかった。
夜が明けるはずの刻限を過ぎても、城の窓は青白いままだった。明けの鐘も鳴らず、代わりにただ、呼吸のように浅く吹き寄せる冷気が廊を満たしている。
セイグリム王は寝台に伏していた。
髪は一夜で白に染まり、まつ毛まで霜を抱えている。肌は透き通るように青く、指先にかすかな震えを残すだけ。医師は脈を取ったが、首を横に振った。
「……眠っておられる。けれど、このままでは……」
その声を遮るように、灯璃は首を振った。
「聞きたくない。生きているなら、それでいい」
炉室に戻ると、結界炉はいまだ脈打っていた。昨夜、王と自分が半身を重ねて通した命火と氷が、街に春を与え続けている。
だがわかっていた。自分が炉から離れれば、街は再び凍る。
炉は“借り”を続けているのだ。
——だから、灯璃は言った。
「わたしが、番人になる。ここに残ればいい。……その代わり、街は凍らない」
宰相も、侍女も、誰も反対できなかった。王の命が横たわり、炉はなお命を欲している。理屈で言えば、灯璃の申し出は唯一の選択肢だった。
火の精イグニスが胸の奥で尾を揺らす。
“番人になるとは、終わりを意味する”
(終わっても、みんなが生きるなら)
“それは選択ではない。……それは、投げ出しだ”
(違う。これが私の役目だから)
そう言い聞かせながら炉に掌を当てたその時だった。
——どこからか、低い歌声が届いた。
最初は幻聴かと思った。だが、炉室の石壁そのものがわずかに震え、空気が押し出されるようにして音が満ちる。
歌は、言葉ではなく響きだった。深海の奥から押し寄せる潮のうねりのように、低音と高音が交互に絡み合い、やがて旋律を帯びていく。
「氷鯨……」
侍従の一人が震える声で呟いた。
伝承にだけ語られてきた、氷海に棲む古獣。冬と夏の境目を越えるとき、必ず歌を放つとされる存在。
歌は炉の心臓に共鳴し、壁に刻まれた古代の文様を青く光らせた。
灯璃はその光に見入った。模様は、ただの飾りではなかった。記録だったのだ。
そこに浮かび上がった文句を、彼女は唇でなぞった。
> 「氷と火は、奪い合うものにあらず。
> 交わり、巡らせ、季節となすものなり」
声に出した瞬間、胸の奥でイグニスがうなる。
“奪い合うのではなく、巡らせる。……それが、最初の契約”
灯璃の心臓が強く打った。
そうだ。これまで自分たちは、火を燃やし、氷を抑え、互いの命を削って結界に固定してきた。
けれど本当は違う。火と氷を季節のように巡らせれば、代償は一度きりで済むのではないか。
「春が来て、夏が過ぎ、秋が落ち、冬が訪れるように。……火と氷も、順番に回すことができる」
灯璃の声は震えていた。けれど震えは恐怖ではなく、希望だった。
宰相が息を呑む。
「もしそれが叶うなら……国に四季が戻る。結界炉の呪縛からも解き放たれる……!」
灯璃は炉に向き直り、王の白い髪を思い浮かべた。
「セイ、聞こえていますか。……あなたが残してくれた春を、無駄にはしません。もう奪い合わない。巡らせるんです」
彼女は掌を炉に深く押し当てた。
火が、氷と混ざり合う。
炉の奥で、氷鯨の歌がさらに大きく膨らみ、王都の空へ流れ出していった。
その音を聞いた人々は、皆、顔を上げた。
井戸の水面が波打ち、氷が解けてまた凍り、解けては凍り——それが周期を刻み始める。
空を見上げた老婆は言った。
「……これは、季節の息だ」
灯璃は悟った。
自分が炉の番人として“残る”必要はない。
王と自分の火と氷を循環させればいいのだ。
それは決して犠牲ではなく、選び直すこと。
炉室の天井に差し込む光が、わずかに赤みを帯びた。
冬だけの空に、春の兆しが、ほんの少し——確かに滲んでいた。



