結界炉が止まったのは、音よりも匂いが先だった。
 石の廊に根のように張り巡らされた管の中から、いつもは微かな蜂蜜のあたたかい香が通り過ぎていく——それが、ふっと切れた。甘さが消えると、城の空気はすぐに金属の匂いを取り戻す。古い鉄。長い冬。乾いた冷えの、無口な匂い。

 最初の悲鳴は、井戸の広場から上がった。
 「水が、凍る!」
 同時に、戸の向こうで子どもが手を叩いて笑う声もあった。雪が降る前の、はしゃいだ音だ。人は、危機の始まりにしばしば笑う。笑い終えたとき、やっと震えが来る。

 蜂蜜屋の瓶の口に、白い結晶が咲いたと、あとで老婆は言った。
 輪番の少年の吐く息は、さっきまでの春のまねごとよりずっと濃かった。息は濃く、言葉は薄くなった。
 王都ノルドレイムに、極夜級の寒波が、音もなく滑ってきていた。

 灯璃(あかり)は、孤児院の戸口を開け放って、風の色を測った。
 色はない。ないのに、皮膚に色を塗るようにして、冷えが入ってくる。輪を腰の位置に起こし、子の寝台の足元に置く。置いた輪は、軽く震え、鳴らない鈴の音のようにだけ響いた。
 「外を閉めて。蜂蜜湯は薄めないで。——今夜だけは」
 エルナが頷き、小走りに台所へ消えた。
 火の精が胸の底で尾を巻く。
 “代価は常に等価とは限らない。結界炉が止まると、輪は貯金を崩す”
 (崩して)
 “崩しすぎると、君の明日が薄くなる”
 (明日は、あとで考える)
 答えながら、灯璃はもう一つ輪を起こし、廊に置いた。輪は二つ、三つと増え、孤児院の空気の密度がわずかに重くなる。重さは安心の別名だ。だが、安心にも限度がある。

 石橋の下の川が、窓の内側から静かに凍っていくのが見えた。
 凍り方は、春を踏みにじる仕方を知っている。まず音を奪い、つぎに速さを奪い、人の顔から色をゆっくり消す。
 城の鐘が一度、低く鳴った。
 断。
 その一音で、街は「何が起きたか」を知った。神官の説教より、紙片の扇動より、はるかに正確な知らせだった。

 王、セイグリムは謁見の間に人を集め、短く命じた。
 「港の滑走路を閉鎖、倉を開け、夜の配給。輪番は第一列を孤児院、第二列を老人の宿へ。医療隊は蜂蜜湯を薄めずに。……宰相、結界炉の心臓へ」
 宰相はすでに図面を抱えていた。
 「儀式の余波で制御輪が焼け落ちています。炉心と結界の主回路は生きていますが、噴門が閉じた。熱が街へ出ていかない。内圧だけが増え、炉は冷える。……逆説の冷えです」
 「噴門を開ける」
 「誰の名で?」
 王は答えなかった。
 答えない沈黙の重さを、宰相はよく知っている。彼は紙束を膝に押し付けるように抱え、わずかに顔をしかめた。
 「陛下——王の名は、炉にとって最短の鍵です。ただし、戻らないかもしれない」
 「戻らない鍵ほど、速い」
 「速い鍵は……死にやすい」
 王は頷いた。頷きの長さに、誰も言葉を足さなかった。

 広場の向こうで、叫びが増えた。
 「井戸が、硬い!」
 「子が、咳を!」
 「窓が、開かない!」
 輪番の少年が列を組み替え、蜂蜜屋の老婆がやせた腕で鍋を支え、白い袖の若い神官でさえ祈りの文句を短くした。長い祈りは、寒波に向いていない。

 灯璃は走った。
 走りながら、路地の端に輪を置き、寝台の足元に輪をもう一つ置き、孤児院の窓に布を張り、また走った。動く体の内側で、白が静かに増えた。寿命の白——痛みではなく、抜けだ。
 火の精が囁く。
 “代価は常に等価とは限らない。きょうの代価は、君の春分だ”
 (取り決めは、わたしたちで作った)
 “取り決めは、冬に負けやすい”

 王城の最下層、結界炉の心臓室は、普段は音の少ない場所だ。今日に限って、音が多かった。
 石が縮む音。
 管が軋む音。
 遠くの氷の回廊が、誰にも聞こえない悲鳴を小さく濾してこの部屋の空気に渡す音。
 炉の正面、円い扉の中央に、刻印座がある。そこへ名を置けば、炉は応える。応える相手を選ぶのは炉のほうだ。炉は、古い神々の生き残りのようなものだ——気難しく、理屈だけをよく覚えている。

 セイグリムは手袋を外した。
 甲の赤が、さざ波のように震えた。
 宰相が声を低くした。
 「陛下。王の火は、個ではなく、制度に結び付いています。結界炉に接続すれば、王の命火そのものが街の温度へ翻訳されます。翻訳は、戻せません」
 「戻らない春しか、今夜は持ち合わせがない」
 「……灯璃殿が来る前に、お決めになりますか」
 王は首を振った。
 「来る。止める。——それでも、やる」
 言い切る声は短いのに、部屋の石の温度を少し上げた。

 ほどなくして、灯璃が現れた。
 外套の裾は霜で重く、頬の色は削られ、指の煤は濃く、目の中の白が広い。
 「やめて」
 入り口から、声だけが先に炉へ届いた。
 王は振り向かず、刻印座へ手を伸ばした。
 「あなたまで燃やしたら、私は何を愛せばいいの?」
 灯璃の声は、震えていない。震えは、声の高さを裏切る。彼女の声は、低く、まっすぐだった。
 王はそこで初めて振り向いた。
 「君が生きて、笑う春」
 囁きだった。囁きは、祈りではない。
 灯璃は近づき、王の手首に指を置いた。触れた瞬間、甲の赤が灯璃の白に触れ、二色は瞬間だけ平らになった。
 「取り決めは?」
 「夜は分けない。……だが、今日は夜しかない」
 宰相が息を飲み、誰かが泣いた。泣いたのは、輪番の少年かもしれないし、炉の中の古い神かもしれない。誰が泣いても、冷えは泣かない。

 刻印座が、わずかに開いた。
 扉の上の古い文字がかすかに光り、王の名を呼ぶ鍵穴の形になっていく。
 セイグリムは手を差し入れ、甲を押し当てた。
 吸い込まれる音がした。
 火が、氷に翻訳され、氷が、春に翻訳され、春が、名に翻訳される。
 王の髪が、白く凍る。一本、また一本。雪の匂いを連れて、色が消える。
 灯璃が叫んだ。
 「セイ!」
 王は笑い、笑いはすぐ消えた。
 「——繋げ」
 宰相が頷き、噴門の手動弁を素手で押した。皮膚が張り付く。張り付いた皮膚は、あとで剥がせばいい。今は、温度だ。

 炉が息をした。
 長い間、沈んでいた胸が、初めて空気を得るときのように、苦しそうに、しかし確かに息をした。
 その息が管を走り、街路の石の目地を走り、井戸の水面の氷の薄い膜を割り、窓の内側の霜の花びらを溶かし始める。
 蜂蜜屋の瓶の口に、もう一度だけ甘い蒸気が立って、老婆が「戻った」と呟いた。

 ——だが、その温度は、足りない。
 王の命火は強い。強いが、冬は長い。炉の中へ吸い込まれていく彼の赤の脈を見ているうちに、灯璃は分かった。
 (このままでは、間に合わない)
 街角の子どもの咳、老人の指、輪番の少年の耳たぶ、蜂蜜湯の器。ひとつひとつが、今夜、春を必要としている。王の命火だけでは、届かない端がある。

 火の精が尾を振る。
 “代価は常に等価とは限らない。君の半分で、彼の半分を、満ちにできる”
 (取り決めは、夜は分けない)
 “取り決めを破るのは、愛だ。——いや、違う。順番だ。君は順番を作る女だろう?”
 灯璃は目を閉じ、短く頷いた。
 「……半分」
 王が振り向く。
 「だめだ」
 「半分だけ」
 「だめだ」
 「半分なら、戻れる。あなたも。——二人とも」
 彼女は、自分に言い聞かせていた。戻れる、という言葉は安易だが、嘘ではない。嘘にするのは、量の見誤りだ。

 灯璃は炉の反対側に回り、巫女の補助座に掌を当てた。
 春分の朝の白が、静かに息をする。
 輪ではない。燃やさない。渡すだけ。
 渡すだけ——が、今夜は、半分の燃焼を意味した。燃やさないように燃やす。最も難しい火の用法。
 胸の核火の蓋を、いつもと逆側から少しだけ開ける。
 火の精が尾を固く巻いた。
 “これ以上は、命のほうに触れるぞ”
 (半分だけ)
 “半分という言葉は、人間が好きな嘘だ”
 (でも、今夜は、それしか言いようがない)
 灯璃は掌を押し当てた。

 重なる音がした。
 王の赤と灯璃の白が、炉の中で混ざり、分かれ、重なり、ほどけ、また重なった。
 ふたりの命が、炉という古い器を通って、街の配管へ、回廊へ、井戸へ、屋根へ、寝台へ、広がる。
 最初に息を吹き返したのは、井戸の水だった。表面がひび割れ、柔らかい黒へ戻り、その黒の底から、薄紅の泡が一つ、上がった。泡の色は、春の鳴り始めだった。
 次に戻ったのは、孤児院の廊の角だ。輪の鳴らない音が、鳴った。子どもがうわ言のように笑い、エルナが泣きながら笑い、蜂蜜屋の老婆が「薄めないから、甘い」と言ってまた泣いた。

 王の髪は白い。肩までの青が、音もなく凍り、白のゆきだるまのように静まっている。
 灯璃の指の煤は、粉で隠せないほど濃く、指輪の跡のように深く皮膚へ沈んでいく。
 宰相が笛を噛み、吹かず、言った。
 「……街が息をした」
 「一夜」王が短く言う。「一夜の春だ」
 「明日は」
「明日は、また冬だ。だが、いまは一夜」
 宰相は頷いた。頷くしかなかった。誰もが、今夜だけのために、長い明日を担ぐ。

 灯璃は、炉に掌を押し付けたまま、泣いた。
 声は出ない。涙だけが頬を焼き、すぐに冷え、塩の線を作る。線は、春の地図のように見えた。
 「セイ」
 王は答えた。
 「ここにいる」
 「どこに?」
 「街じゅうに」
 彼の声は、炉の中から、上から、足元から、どこからともなく届いた。声は、温度に変わっていた。

 街は、一夜だけ、春になった。
 屋根の雪は薄くなり、窓の霜花は溶け、水滴になって垂れ、垂れた先で凍らずに床に吸い込まれた。
 輪番の少年は寝台の足元で眠りそうになり、眠る前に立って踊り、踊った後でやっと泣いた。
 蜂蜜屋の老婆は飴を薄めずに配り続け、「きょうだけは薄めないよ」と、何度も、何度も同じ言葉を言った。
 白い袖は露台に出てこず、記録の紙は湿り、将軍ルオは国境の風の匂いを嗅ぎ、「一夜」とだけ言って馬の鼻先を雪のない方へ向けた。

 城の炉室では、ふたりだけが冬だった。
 王の指先は凍る寸前で、灯璃の指先は燃える寸前で、二人の中間が、温度の地平になっていた。
 「セイ」
 「いる」
 「戻ってこれる?」
 王は答えなかった。答える代わりに、刻印座の縁に残った赤を灯璃の白に重ね、分け合いの接点を薄く広げた。
 灯璃は頷いた。頷くことは、祈りではない。
 火の精が尾を振る。
 “代価は常に等価とは限らない。今夜の半分は、明日の二倍になる”
 (明日、払う)
 “払えるのは、生きている者だけだ”
 (生きる)

 夜は長かった。
 長い夜の間に、街は呼吸を思い出し、倉の鍵は開いたままで、配給の列は喧嘩をしなかった。喧嘩をするほどの力が、今夜は残っていなかった。
 孤児院の廊に置かれた輪は、何度か消え、何度か戻り、灯璃はそのたびに胸の奥の蓋を少し開けて「半分」を足した。半分、という言葉はやはり嘘くさかったが、それしか持ち運べない単位だった。
 王の髪は、白のままだった。白は、悲しみの色ではなかった。役割の色だった。灯璃はそれを知って、また泣いた。

 明け方、鐘が一度鳴った。
 解除の鐘ではない。
 確認の鐘だ。
 街はまだ生きているか。
 井戸は黒か。
 子どもは息をしているか。
 老人の指は曲るか。
 ——鐘は、静かに答えた。はい。

 灯璃は、掌を炉から離した。
 離すと、寒さが来る。自分の身体が、世界と別の温度に戻る。戻ることは、生き返ることと違う。戻るのは、ただの孤独だ。
 王の手も、刻印座から離れた。
 髪は白い。まつ毛も白い。瞳だけが、青のままで、どこか遠くを見ている。遠くは、街のすべてだった。
 「……セイ」
 呼ぶと、彼はゆっくりと顔を向けた。
「いる」
 声は掠れて、しかし、確かだった。

 宰相が近づき、報告を短く置いた。
 「井戸、黒に戻る。市場、静。孤児院、笑あり。倉の残、明日の朝まで持つ。——一夜の春、成りました」
 王は頷き、立ち上がろうとして、膝を折った。
 灯璃が支え、二人はその場に座り込んだ。
 「セイ、髪」
 「似合うか?」
 灯璃は泣きながら笑った。
 「似合わない」
 王も笑った。
 「それでいい」
 似合わないものは、役割の証だ。似合いすぎる役目は、人を駄目にする。

 静けさが、炉室に戻ってきた。
 戻ってきた静けさは、空虚ではなかった。使い切った夜の、穏やかな空洞だった。
 灯璃はその空洞の中で、自分の中に残った半分を数えた。
 数は、危険だ。数える癖がつくと、人は足りないぶんをどこから補うかを考え始める。
 火の精が尾を振る。
 “代価は常に等価とは限らない。君は半分を借りた。借りたものは、返す番が来る”
 (返す)
 “返す場所は、君が選ぶ”
 (選ぶ)
 言葉にして、灯璃はうなずいた。選ぶことは、彼女の唯一の誇りだ。

 炉室を出ると、城の廊に霜花が残っていた。溶けきれずに形を保った花は、見事だった。見事さが、胸を刺した。
 外へ出ると、空は薄青だった。
 太陽は低く、力は弱く、しかし確かに、東にいた。
 街は静かだった。静かな街は、生きていた。
 蜂蜜屋の老婆が戸口に座り、飴を指で砕いている。「薄めなかったから、固いよ」と笑う。
 輪番の少年が王を見て、敬礼の真似事をして、すぐに照れて走った。
 白い袖は影に退き、記録は後ろから街を追いかける。遅い記録は、今日に限って正しい。

 孤児院に寄ると、子どもが一斉に群がった。
 「王さま、髪!」
 「雪みたい!」
 「触っちゃだめ!」エルナが笑って叱り、王は子らの頭を触れずに撫でる仕草をした。仕草だけで、温度は回る。
 灯璃は眠っている赤ん坊の足にそっと指を当て、温かさを確かめ、ようやく大きく息を吐いた。
 「一夜、持った」
 王は頷く。
 「持った。——失った」
 灯璃は王を見た。
 「何を」
 王は答えなかった。答えなくても、分かった。
 髪の色。
 若さの一部。
 取り決めの線の細さ。
 それから、今夜に限って——自分たちだけの夜。
 すべてを失う夜という名は、大げさではなかった。だが、失うことと、渡すことは、少し違う。
 灯璃は思った。
 (わたしたちは、失ったのではなく、渡した)
 渡したものが戻るかは分からない。分からなくても、いまはそれでいい。

 王は私室へ戻り、面頬を棚に置いた。
 置いた面頬は、今夜は必要ならなかった。不要なものは、誇りの場所へ戻す。
 灯璃は寝台の端に座り、靴紐を解こうとして指が震え、笑った。
 「半分って、嘘ね」
 「嘘は、冬に強い」
 「春にも、少しは」
 「少しは」
 二人は笑い、すぐに笑いを消した。笑いは、夜に使いすぎると朝に困る。

 寝台に横になり、いつも通り背中越しに手を伸ばす。
 指先が触れた。
 凍らない。
 燃えない。
 温度だけが、いったり、きたりした。
 「セイ」
 「いる」
 「ありがとう」
 「半分こ」
 短い言葉が輪になり、眠りは降りてきた。
 降りてくる眠りの途中、灯璃は胸の輪に触れず、触れたふりをした。ふりは嘘ではなかった。今夜はもう、触れるものが多すぎたから。

 夜は終わった。
 一夜の春は、終わった。
 窓の外の薄青は、灰に寄り、灰は、白へ向かい、白の先で色になるだろう。
 色の名前は、まだない。
 名前がつく前に、やることがある。
 借りた半分を、返す場所を選び、
 渡した痛みの行方を見届け、
 遅い春の道を、もう一度ひき直す。
 ——それが、明日の仕事だ。

 火の精が、眠りの縁で尾を振った。
 “代価は常に等価とは限らない。きょう君たちは、すべてを失ったふりをして、必要だけを渡した。ふりは嘘ではない。ふりは、方法だ”
 灯璃は、眠りの中で微かに笑った。
 ふりは、人間の術だ。
 人間の術は、冬に弱く、春に強く、夜に頼りになる。
 それで、いい。
 ——それで、いく。