その夜の王城は、春の雨上がりの匂いを薄くまとっていた。
石の廊の継ぎ目に残る水は、昼間の陽で温み、夜気に触れてまた冷える。その温度差は、音をよく運ぶ。廊下の遠くで誰かがくしゃみをし、近衛の靴底の革が微かに鳴り、紙の擦れる音が、宰相の机の上で季節をめくった。
灯璃(あかり)は、寝台の端に座って、蜂蜜湯の湯気を鼻先に近づけていた。
春分以来、夜は分けない――取り決めは守られている。守られているからこそ、日中の疲れは夜に一気に姿を現す。湯気は甘く、湯の味は薄い。薄い甘さは、罪悪感を中和しすぎない。
「……今夜は眠れる」
自分に言い聞かせるように呟き、寝台から立ち上がる。外套の襟に指を掛け、糸のほつれを親指で押し込む。押し込んでも、ほどける糸がある。ほどけるものは、人に似る。
戸口が軽く二度、叩かれた。
エルナの節度ある合図――いつものはずだった。
「どうぞ」
灯璃は答え、扉が開くのを待った。
入ってきたのは、エルナではなかった。
侍従服の若い男。顔は見知っている。王の執務室に湯を運び、書簡を運ぶ、言葉の少ない男。だが、その少なさが、今夜は別の意味を持っていた。
「……エルナは?」
「玄関の鍵を」若い侍従は俯いたまま言った。「確認に」
声は震えていない。訓練された嘘の声だ。
灯璃は一足、引いた。
火の精が胸の底で、短く尾を打つ。
“代価は常に等価とは限らない。いま目の前にあるのは、十五枚の銀で買える裏切りだ”
(いくら、なの)
“十五。蜂蜜にすれば、冬の間は足りる”
灯璃は微かに笑ってみせた。笑いは配慮であり、抗議ではない。
「遅い時間に、ご苦労さま」
侍従は顔を上げない。
「巫女さま、陛下が――」
言葉は途切れ、その途切れに、不自然な香が滑り込んだ。
甘く、鈍い。
意識の縁をこする、眠りの香。
灯璃は息を止めた。止めながら、黙ってと火に命じ、掌に輪を起こしかけて――遅れた。
鼻腔をかすめた香が、喉に降り、血に混じる。
「……あなた、名前は」
侍従はやっと顔を上げた。目は濁っていない。濁っていない目で、彼は言った。
「僕は、名を売っただけです」
次の瞬間、背後から布が回り、口と鼻を塞いだ。
廊の端で、別の侍従が見て見ぬふりの位置に立っていた。
白い袖――ではない。だが、白い袖の影は長い。
灯璃の視界が、ゆっくりと傾き、薄く、白く、遠くなった。
◇
セイグリムは、王の私室で面頬を手に取り、また棚へ戻していた。
装うことと、装わないことの境界に、彼はまだ不器用だ。
宰相が控えめに戸を叩き、入ってくる。
「夜警の人数、増やしました。例の“永久春”の紙は、一時的と添えられたまま――しぶとい文言です」
「一時的は、永久の別名だ」
「ええ」
宰相はそこで口をつぐみ、違う報せの語尾を探すように視線を動かした。
「……灯璃殿の部屋へ、湯を」
「行ったのは」
「ニーノです。侍従」
名を出した瞬間、王の手が小さく硬くなる。
「遅い」
「はい」
短い返答と同時に、廊のほうで金具の落ちる鋭い音。近衛の靴底が走り、太鼓ではなく鐘が一度だけ、低く鳴った。
王は手袋を取る余裕もなく、扉を開けた。
廊の端に、蜂蜜が割れたような匂いがある。甘さに、安物の眠りの粉が混ざる匂い。
灯璃の部屋は空だった。
床に転がる湯の器。消えかけの灯。
窓は内側から閉まっている。扉は開いていた。
王は一度、目を閉じた。閉じて、開けて、命じた。
「封鎖。城門、地下道、回廊。――宰相、名簿。今夜、門番の名をすべて読む。ニーノの戸籍、家族、負債、借りを、今夜中に」
宰相は頷き、走る。
近衛長が現れ、「痕跡は」と問う。
王は床に膝をつき、指先で石の目地を撫でた。
微かに残る霜粉――氷ではない。修道院の地下にある、祭壇の床の粉。
「旧修道院」
近衛長は頷き、一礼して走る。走る靴音が速すぎず、遅すぎない。適切な速度は、訓練の成果だ。
王は立ち上がりながら、胸の奥で名前を呼んだ。
(灯璃)
呼び声は届かない。届かない呼び声は、氷の路に変換される。
彼は手を振り下ろし、廊の石を滑走路に変えた。城の内側に、氷の白い文字が走る。
――行く。
◇
灯璃は、揺れる車の上で目を覚ました。
揺れは、城の石床の固い反響とは違う。馬の足音ではない。人の足だ。担がれている。
鼻腔の内側に、あの眠りの粉の残滓。
耳の奥に、叩く音。自分の心拍。
周囲の気配は白い袖の祈りの匂い。香草と油の混じった、乾いた甘さ。
「起きたか」
耳元で、低い声。
灯璃は首を曲げず、目だけ動かした。
ヴァルナーではない。若い神官でもない。王城に出入りする侍従頭。
「あなたまで」
侍従頭は目を伏せ、「私は名を守った」と言った。
「誰の」
「国の」
薄い、不幸な正直さ。
灯璃は笑わなかった。笑えば、彼を赦してしまいそうだ。赦しは、時に正義より非道だ。
修道院の地下――祭室は、昼間に見たときより寒かった。
冠。引導管。祈輪。
昼に眠らせたはずの核火冠は、薄く起きていた。
眠りは、起こされるためにある。悪い手が起こせば、悪い目覚めになる。
灯璃は椅子に座らされ、腕と胸の前で炎の鎖が組まれた。
鎖は、火で出来ているのに、冷たい。冷たさのかたちをした炎。
鎖は噛む。核火の輪郭に、歯を立てる。
火の精が声を上げかけ、灯璃はすぐ命じた。
「黙って」
イグニスは黙り、ただ、尾を彼女の胸の内側で固く巻いた。
鎖が噛み、火が細る。
寿命の白が視界の端にじわりと広がる。
(まだ)
灯璃は息を整えた。
(まだ、だいじょうぶ)
ヴァルナーは、静かに現れた。
白い袖。整った髪。乱れていない呼吸。
彼は礼をせず、祭壇の一段下で止まった。
「巫女」
名前を呼ばない。名は鍵だ。鍵は、彼の宗教にも効く。
「国と愛、どちらを選ぶ?」
問いは穏やかだった。穏やかさは、毒の運搬に向く。
灯璃はわずかに笑い、すぐ消した。
「どちらかを選べば、どちらも壊れる」
「君は政治を学んだ。……だが、政治は冬の技術だ。春は、供犠によってのみ来る」
「春は、遅く来る」
「遅さに民は耐えない」
「耐えられるように、輪と順番を作ってきた」
「輪は、信仰を薄める」
会話は平行だった。平行線は、どこまでも冷たい。
ヴァルナーは少し首を傾げ、微笑した。
「君の中の火は、美しい。美しいものは、祭に向いている」
灯璃は目を閉じ、耳の奥で黙れと繰り返した。
彼の美辞は冷たい。冷たさが、核火に割れ目を作る。
(黙れ、黙れ、黙って)
火は静かだ。静けさは、痛みを際立たせる。
鎖の歯が一段深く入り、灯璃は思わず息を飲んだ。
「……っ」
声は小さく、誰にも届かない高さだった。
◇
王は修道院の外壁に手を置き、石の隙間を冷やした。
冷やすのは、割るためではない。脈を探るためだ。
石は長い時間の血管を持つ。そこに、今日つけられた新しい温度の痕がある。
「この下」
近衛長が頷き、宰相が医療隊に合図し、輪番の少年が走った。
王は手袋を外した。
素手。
甲の赤が静かに脈を打つ。
「開く」
彼が低く言い、地面の氷が白い路になって口を開いた。
口の向こうから、祈りの合唱が上がる。
合唱は、戦を遅くする。
遅くしているあいだに、鎖は噛む。
王は一足、深く踏み込んだ。
(遅い春は、遅い。だが、いまは)
遅さを、速さで包む必要がある。
地下の踊り場に、僧兵の列。
祈輪が床に描かれ、香草の煙が視界を曇らせる。
王は煙の水分を掴み、霧にして左右へ流した。見えない壁が生まれ、棍の軌道が狂う。
近衛が打つ。折らず、眠らせる。
眠る身体は、罪を持たない。あとで再び選ばせるために、眠らせる。
宰相が笛を短く二度鳴らした。
医療隊が後方で輪を置く。
第二戦線は、ここでも始まっている。
最奥――祭室。
王は踏み込む。
見えたのは、鎖と灯璃と、白い袖。
鎖は炎。灯璃は白。袖は空白。
空白の真ん中で、ヴァルナーが振り返る。微笑は、昼のままだ。
「王」
「ヴァルナー」
呼び合いは短く、剣の代わりだ。
王は走らない。
走らず、冷やす。
冠を眠らせた、あの温度配分を、そのまま鎖に流す。
が、鎖は冠と違い、意志を持っている。
意志のある火は、冷やしに噛みつく。
王の赤が、鎖の青に呑まれかけ、皮膚の下で冷たさが棘になる。
「……っ」
歯を食いしばる音が、彼の内側だけで鳴った。
灯璃は、王の足音を聴いた。
聴いた瞬間、胸が痛くなり、その痛みが楽になった。
「セイ」
声は細いのに、届いた。
王は頷き、鎖の根元――名の結び目を探る。
名は鍵。鍵穴は、逆に結わえられている。
彼は赤を薄く広げ、灯璃の掌の白を思い出し、輪を渡さず、触れず、ただ配分の計算をした。
配分は、祈りより正確だ。
鎖が吠え、冠が唸り、祈輪が痺れた。
ヴァルナーが、動いた。
白い袖が一度だけ揺れ、僧兵の影が王の脇に滑り込む。
棍がかすめ、王の肩口に鈍い痛み。
その痛みを、灯璃は盗んだ。
盗んだ痛みは熱に変換され、鎖に食わせる。
鎖は、一瞬、満足して緩んだ。
王はその瞬間を逃さず、結び目に指を入れた。
指が焼ける。
だが、凍らない。
凍らないことが、ここでは勝機だ。
「国と愛、どちらを選ぶ?」
ヴァルナーの声は、まだ穏やかだ。
王は答えない。
灯璃が、答えた。
「順番を選ぶ」
「順番?」
「順番で、愛を、国に配る」
ヴァルナーは微笑を、やっと消した。
「詩だ」
「人間は、詩で口を閉じられる」宰相が扉際で低く言った。「今夜は、詩で時間を稼ぐ」
時間は稼がれ、鎖の結び目はほどけかけ――そして、噛み直した。
祭室全体が、低く鳴る。
図面にはない、第二の冠が床下で目を開いた合図。
ヴァルナーの目が僅かに光る。
「永久に近づく」
祈輪の外周で、若い神官たちが声を上げ、香草が一度に焚かれ、空気が粘る。
粘る空気は、氷を遅くする。
遅くなった氷の前で、鎖は早くなる。
灯璃の胸の核火に、歯が深く入った。
視界の白が、いよいよ中心に寄ってくる。
(間に合わない)
直感は正確だった。
彼女は、王の手首を掴んで、突き飛ばした。
「下がって!」
王の足が半歩、遅れる。
遅れは、敗北ではなく、信だった。
彼は疑わない。彼女が、選ぶことを。
灯璃は、抱いた。
鎖を。
炎でできた、冷たい鎖を。
胸の核火を守るのではなく、巻き込む形で。
「私が選ぶ」
声は高くない。高くないのに、祭室の石が一枚、震える。
火の精が、叫びかけて――命じられる前に、自分で黙った。
“代価は常に等価とは限らない。きょう君が払うのは、名だ”
名。
灯璃という名。
名は鍵。鍵は輪。輪は渡す。
彼女は、その輪をいま、自分に渡す。
鎖が悲鳴を上げた。
噛むための歯が、抱かれることを知らない。知らない鎖は、自分の形を失い、崩れかける。
冠の下の第二の冠が、床から浮き、天井の亀裂が走る。
王は灯璃の背に回り、腕を回した。
初めての、完全な抱擁。
腕が、彼女の肋骨の間の細い空白を埋め、掌が、彼女の腹の柔らかな前夜を覆う。
冷たい。
けれど、凍らない。
熱い。
けれど、燃えない。
互いの温度が、痛みのかたちで半分こに割れる。
「セイ」
灯璃が言う。
「ここ、痛い?」
王は頷いた。
「同じところが、痛い」
彼の甲の赤が、彼女の掌の白にぴたりと重なり、二色の縫い目が、鎖の歯を鈍らせる。
「分けない夜のぶんまで、いまは分ける」
「うん」
短い合意が、裸の輪になって二人を囲む。輪は誰の宗教でもない。誓いにだけ効く。
天井の石が、一枚、落ちた。
祭壇の基部に裂け目。引導管が折れ、祈輪が斜になる。
宰相が入口から叫ぶ。「退避!」
近衛が灯璃に駆け寄ろうとするが、王が首を振る。
「触れるな」
触れないことが、礼節ではなく、救急の作法になる瞬間がある。
灯璃は、王の腕の中で、鎖をなお抱いていた。
「……もう少し」
「まだいけるか」
「私のぶんは、まだ」
彼女の声は細いが、確かだった。
王は頷き、支える。
支えることは、主導ではない。
共有だ。
鎖が最後の足掻きを見せ、冠が叫んで、祈輪の線が千切れ――そして、崩壊した。
音は短く、低く、終わった。
石の粉が舞い、香草の煙が途切れ、祭室は、ただの地下に戻った。
ヴァルナーは立ち尽くし、白い袖は落ちた。
若い神官の筆が床を転がり、紙の端が濡れた。
記録は、途切れた。
途切れの上に、別の記録が積まれるだろう。だが、きょうの今は、もう戻らない。
灯璃は、王の腕の中で、やっと鎖を手放した。
手放す瞬間に、胸の核火がうなり、沈んだ。
王はすぐに体勢を変え、彼女の背を支えたまま、座る。
「灯璃」
「……いる」
答えは薄いのに、強い。
火の精が、尾で床を軽く叩いた。
“代価は常に等価とは限らない。いま払った痛みは、後で形を変える”
(どんな形)
“抱擁の跡だ”
近衛と医療隊が慎重に近づき、宰相が王の肩の鈍い傷に布を当てる。
「工匠を。……天井、支えを」
指示は短く、冷静だった。
ヴァルナーは、まだ動かない。
王は視線だけを向けた。
「王命。ヴァルナー――拘束」
声は静かで、冷えていた。
白い袖の二、三が動きかけて、止まる。
信仰は、崩れる時に音を立てない。音がしないぶん、長い。
灯璃は、王の胸の音を聴いていた。
太鼓に似ているが、太鼓より近い。
「……生きてる」
「当然だ」
「当然、が、いちばん、むずかしい」
王は笑い、すぐ消した。
「抱いた」
「抱えた」
ふたりは同時に言い、肩で呼吸して、少しだけ泣いた。
泣くのは、後に回していたぶん。
後回しの涙は、重い。
重い涙は、冬の石の上で温かい。
◇
地上に出ると、夜気が思ったよりやさしかった。
輪番の少年が泣き腫らした目で、しかし誇らしげに、橇の手綱を握っている。
蜂蜜屋の老婆が、飴を薄めずに配っている。「きょうは薄めないよ」
宰相が後ろから追いつき、「告知を」と言う。
王は頷いた。
露台ではなく、地面に立つ。
「今夜、祭壇は崩れた。永久春は、止まった。――君たちが並んだ列は、休息の列だ。供犠の列ではない」
拍手は少なく、ため息は多い。
ため息は、街の正常の一部だ。
白い袖は影に退き、記録は遅くなる。遅さは、良い兆しだ。
灯璃は、王の外套の内側で、浅い呼吸を数えていた。
数えることは野蛮で、文明だ。
数え終える前に、眠りが降りてきた。
降りる眠りは、抱いてくれる。
彼女は眠りに預ける直前、背に回された王の腕の重さを確かめた。
重さは、名の形をしていた。
灯璃――
セイグリム――
名前が互いの皮膚に押され、跡になる。
その跡は、記録ではなく、証だ。
◇
城へ戻った夜半、王は面頬を手に取り、今度こそ棚に戻さなかった。
机に置き、灯をひとつ増やし、宰相と短く言葉を交わす。
「ヴァルナーは拘禁。若い神官は一部逃亡。名簿に偽名あり」
「名は、洗う」
「侍従頭は」
「裁く。だが、数を数えるのは、明日だ」
「はい」
宰相は下がり、部屋に静けさが戻る。
王は寝台を振り向き、灯璃の横顔を見た。
頬の白は、まだ薄い。
掌の白は、深く眠っている。
甲の赤が、それに合わせてゆっくり脈を打つ。
彼はゆっくりと寝台の端に腰を下ろし、背中から彼女を抱いた。
凍らない。
燃えない。
ただ、温度が行き来する。
痛みの半分が、互いの中間に置かれた。
火の精が、眠りの縁で尾を振った。
“代価は常に等価とは限らない。きょう君たちは、痛みを半分にした。半分は、等価に似ている。似ているだけでも、救いだ”
王は目を閉じ、胸の内で短く名を呼んだ。
(灯璃)
呼び声は、今度は届いた。
灯璃の指が、寝ぼけた子どものように、彼の手を探し、握った。
眠りは落ちず、降りてきた。
降りてくる眠りの中で、王は自分の未熟を別の名に呼び換えはじめる。
それは、共という名だ。
共に抱え、共に数え、共に黙る。
黙るべきものにだけ、黙ってと言い、語るべきものに、言葉を渡す。
夜が長い。
長い夜の終わりに、春はまた遅くやってくる。
遅い春でよい、と二人はやっと言えた気がした。
遅さに耐えるための輪は、もう外に置かなくていい。
いまは、腕の中にある。
裏切りの夜に得た抱擁の跡が、朝になっても消えないことを、二人はそれぞれの眠りの底で、確かめていた。
そして、朝はまだ来ない。
――それでいい。
長い前夜を、二人で抱き続ける。
凍らず、燃えず、半分こで。



