婚姻の翌朝、王城の鐘は一度だけ鳴って止んだ。
 春分の余温は街路にうっすら残っていたが、蜂蜜屋の瓶に差す光はもうおとなしく、氷の回廊の継ぎ目からは細い水の筋が見えるだけだった。祝祭の色紙は風で角が折れ、孤児院の柵に絡んだ薄紅の飾りは白に飲まれている。春は来た。来たが、春は仕事が遅い。遅い春の中で、人は早くなったり遅くなったりしながら、各々の「次」を準備する。

 セイグリムは、その「次」に灯璃(あかり)を連れ出した。
 評議の公開は続く。氷の回廊の増設、融雪水の配分改定、港の滑走角度の最適化、倉の鍵の受け渡し——どれも地図と数字が主役の話だが、「輪」を置ける人の手が側にあるだけで、空気の密度が変わる。人は密度に弱い。密度が適切であると、争いは短くなる。短さは正義ではないが、冬には役立つ。

 謁見の間。
 宰相が図面を広げる。白地に青の筋が幾筋も入り、その間を薄い赤の点線が縫っている。青は氷、赤は運搬の仮路――氷に頼らない物流の、仮説の路。
 「山脈の向こう側、凍らない谷に熱橋を渡す計画です」
 宰相の指が赤い点線の端を押さえ、灯璃の横で王が顎を引く。
 「この橋は、火ではなく、輪で温度を送る。灯璃殿の名が刻まれた輪を節に仕込み、蜂蜜を置く店や子の多い家に温度を抜き、道中の結界炉の負担を反転させる――そういう試みになります」
 「橋は誰が保つ」
 セイグリムの問いに、宰相は迷いなく答えた。
 「名です」
 「名」
 「ええ。木や鉄は凍みますが、名は凍らない。輪の名が届く限り、温度は巡る。私の見立てでは、灯璃殿と王の刻印の変調——あれが『分け合い』として定着するなら、名の延伸は可能です」
 灯璃の胸の針が、薄く鳴る。
 「……分け合い」
 あの春分の朝、氷と火の紋が重なった瞬間の温度が掌に戻ってくる。白い縁と赤い縫い込み。あの一度きりの偶然が、制度の言葉になろうとしている。

 「無理はさせない」
 王の声が短く、軽い。
 軽さの下で、何か長いものが鳴っていた。
 灯璃は頷き、輪の練習用の小リングを指で撫でる。輪は音を立てない。代わりに、名を持つ。名が持ち上がると、体のどこかが軽く落ちる。落ちたところに、冷えが入る。冷えは火の形をしていないけれど、火のことをよく知っている。

 「熱橋の節に、名を置くのはわたしでいい。……でも、節の間は、誰の名で持たせます?」
 宰相は二拍おいて、王を見た。
 「陛下の名を、輪の外周に置く。中心は灯璃殿。外周は陛下。……中心だけでは疲弊が早い。外周だけでは温度が届かない。二重の輪で、息を分ける」
 王は頷き、それを紙には書かなかった。書けば、祈りより早く流言になる。流言は速い。速いものは、冬に強い。

 評議は粛々と進み、配分の列は短くなり、苦情は少しだけ丁寧になった。丁寧な苦情は、耳に入りやすい。耳に入りやすいものは、改善されやすい。改善は奇跡ではないが、冬における奇跡の代用品にはなる。



 婚姻の翌週から、王は灯璃を政に伴った。
 午前は公開評議、午後は倉の見回り、夕刻は孤児院の輪番の交代に立ち会い、夜は国境の報告に目を通す。同じ部屋にいる時間が増えた。
 増えたのに、言わない言葉も増えた。

 「お加減は」
 「輪があれば、なんとか」
 なんとか、は万能の曖昧だ。曖昧はやさしい。やさしさは長持ちしない。
 王は問いを増やさず、灯璃は答えを増やさない。その代わりに、机の右側に輪を置く回数が増えた。輪が二つ、三つ。輪の数が増えると、部屋の空気が静かになる。静かさは必要だが、時に、沈黙の別名になる。

 夜、執務の長机に向かって並ぶ。
 王は数字を見て、灯璃は名簿を見る。名は増えて、白は減って、空白は場所を移す。蜂蜜屋の老婆は「春分の飴は余った」と笑い、輪番の少年の一人が手袋の糸を新しくした。細部は春の形をしている。だが、灯璃の指の煤は濃くなった。濃くなった煤は、粉を弾く。
 (わたしの火が、王に移っている)
 灯璃はそう思い、指を握った。婚姻の儀で起きた「分け合い」が、じんわりと日常に浸みている。その浸みは、彼女を軽くするかと思われたが、逆だった。軽くなるのは、王の頬の色で、自分のほうは、軽くなるはずの場所が空洞になって、歩くたびに揺れる。空洞は、痛みではなく、揺れだ。揺れは疲れを呼ぶ。

 火の精が胸の奥で尾を振る。
 “代価は常に等価とは限らない。分け合いは、美名だ。美名は、算術に弱い”
 (じゃあ、どうしたら等価に近づけるの)
 “君が眠る。王が起きる。交代制が最短だ”
 (夜に、眠れない)
“眠れないのは、君が嘘を置いたからだ”
 灯璃は、はっとして手を止める。春分の晩、エルナに頼んだあの「言わないで」の嘘。嘘はまだ眠っている。目覚める日付は書かれていない。だが、眠っている生き物のそばでは、人は呼吸を浅くする。

 王は、灯璃の痩せ方に気づいていた。
 気づいたが、言えない。
 言えば、彼女は笑って肯定し、やさしい嘘をひとつ増やすだろう。増やされた嘘は、彼の未熟に吸い込まれて、重さを増す。未熟は、良心に似ている。似ているが、別のものだ。未熟は人を動かさず、ただ人を責める。
 (彼女が痩せるのは、私の未熟のせいだ)
 気づいているのに、気づいていないふりをするのが王だった。ふりは、政治では有効だが、寝台では無効だ。



 昼下がり、王は灯璃を伴って氷の回廊の拡張工事を見に出た。
 氷の刃で削られた白い壁が続き、継ぎ目には新しい文様が刻まれている。文様は施行者の印で、責任の所在が模様になったものだ。
 工匠の男が帽子に霜を付けたまま近づき、帽子を胸に当てた。
 「陛下、巫女さま。氷は、ことしはおとなしい。道が持ちます」
 「おとなしい氷は、あとで暴れる」
 セイグリムは壁の目地を親指で押し、ほんの少し入った隙間に「薄い冷え」を流し込んだ。冷えは目地を膨らませ、歪みを均す。
 灯璃は輪を腰の位置に起こし、工人の手袋の上から手の甲へ温度を渡した。「指が動けば、歌も出る」
 歌。
 工人たちは短い節の歌を返した。「陛下は氷、巫女は火、わたしたちは道」
 道の歌は、春に似て地味だ。地味な歌を持つ者は、冬に強い。

 城へ戻る途中、二人は市場を歩いた。
 蜂蜜屋の老婆が飴を袋に詰め、「春分の余りで悪いけど」と笑う。悪いものは甘くない、と人は思いがちだが、悪い飴はかなり甘い。灯璃はひとつ頬張り、子の手にひとつ置く。「前借りよ」
 子どもが目を丸くする。「なにの?」
 「笑いの」
 子は笑った。笑いは前借りできる。前借りした笑いは、返せない。返せないのに、街は回る。不思議な通貨だ。
 白い袖を遠目に見た。ヴァルナーではない、若い神官が記録を取っている。記録は刃にも盾にもなる。若い神官の筆は、刃に傾いていた。傾きは、春の風と同じで、本人が意識していない。

 王は灯璃に声をかけようとして、やめた。
 言いたい言葉が多いとき、人は無言を選びやすい。無言は万能の失敗で、万能の優しさだ。
 代わりに、王は感染症の予防について診療所で話をする。「輪を置く位置と頻度、清潔の順番、手袋の洗い替え」
 灯璃は頷き、「輪番の少年、おむつ替えの列にもひとり」と口を挟んだ。
 王は笑って、短く頷く。
 短い頷きに、長い信頼が乗っている。
 それでも、言わない言葉は増える。



 夜。
 寝室の灯は少なく、窓の外に薄い星が一つだけ見えた。
 婚姻の翌晩から、二人は同じ部屋で眠っている。寝台は大きい。大きい寝台に、二人は小さく横たわる。
 セイグリムは外側を、灯璃は内側を。それは最初の晩に決めたわけではない。自然にそうなった。外側は、守りの側。内側は、輪の側。
 「疲れは」
 「眠れば取れる」
 眠れば取れる疲れなら、心配はいらない。たいていの疲れは、眠っても取れない。
 王は横向きに寝返り、背中越しに手を伸ばす。
 灯璃も、背中越しに手を伸ばす。
 指先が、触れる前に、眠りが落ちる。

 眠りは、落ちる。
 落ちるとき、人は手を引っ込める。誰にも教わっていないのに、引っ込める。引っ込めるのは、自分を守るためだ。守ったものが何だったのか、朝には忘れる。忘れることは、冬の主な防御だ。

 灯璃は浅い眠りの中で、春分の刻印を思い出す。王の甲の赤、自分の掌の白。あの入れ替わった温度が、今も背中越しに行き来している気がする。王の呼吸が背中に当たり、ほんのわずかに暖かい。
 (この暖かさで、王の寿命が削れている)
 思った瞬間、灯璃は目を開ける。暗闇。耳が冬の音に敏感になる。
 火の精が囁く。
 “代価は常に等価とは限らない。呼吸の分け合いは、寿命の分け合いではない”
 (でも)
 “でも、と思う気持ちが、君を削る”
 灯璃は緩く息を吐き、背中越しの手をそっと布団の上へ戻した。

 一方、王は眠りの手前で、灯璃の痩せた肩の線を想像していた。
 (わたしが未熟だから、彼女は痩せる)
 未熟。
 就位以来、何度も口の中で反芻した言葉だ。反芻しすぎて味のしなくなった言葉でもある。
 火の分け合いは希望だが、希望には用法がいる。用法を定めるのは王の責務だ。責務は記録になり、記録は刃にも盾にもなる。
 彼は灯璃の背に向かって、言葉にならない合図を送った。
 合図は届かない。届かなくても、習慣になる。
 習慣には、鈍い慰めがある。



 「熱橋」の工事は進んだ。
 節ごとに輪が据えられ、輪の内側に灯璃の名が沈められ、外周にはセイグリムの名の音が薄く縫い込まれた。二重の輪は、日中は街の縁を温め、夜は孤児院の寝台の足元を保った。蜂蜜屋の老婆が「夜の咳が減ったよ」と言い、託児所の父親が「指が動くと、機嫌も動く」と笑った。
 輪番の少年は誇らしげに肩を張り、時々、泣いた。泣く理由は、寒さではない。褒められたとき、泣く年頃だ。泣いて、すぐ忘れる。忘れる速度は、子どもの持つ最強の術だ。

 しかし、白い袖もまた、輪の節の数を数えていた。
 ヴァルナーは露台にはあまり出ず、奥に引き、若い神官に記録を任せ、自身は解釈の文を編んでいる。
 「王、巫女の名に依存。——記録する」
 「輪の節、信仰と行政の境界を曖昧にす。——記録する」
 曖昧は便利で、不気味だ。便利は速い。不気味は長い。
 灯璃は露台を見上げるたび、喉の奥が乾く。乾くのは、恐怖ではない。恐怖の手前にある、生き物としての警戒だ。
 (言葉を増やさないと)
 思う。思って、夜になると、言葉は減る。



 ある夕刻、宰相が二人の前に一枚の紙を置いた。
 「ヴァルドからの書簡です。将軍ルオの筆跡」
 紙は重さが薄かった。軽い紙は、遠い風の匂いがする。
 ——熱橋に敬意。
 ——だが、橋は戦にも使える。
 ——君らが名で橋を持つなら、我らは名で氷を割る。
 短い三行。
 王は目を細め、灯璃は紙の白を指で撫で、宰相は「返書は必要です」と言った。
 「どう返す」
 王の問いに、宰相は答えを持ってきていない顔をした。持ってきているが、王の口から出るのが良いと知っている顔。
 灯璃が先に口を開いた。
 「橋は分配のため。割るためではない、と」
 「言葉で足りるか」
 「足りない。でも、言わないと、足りないことも分からない」
 王はわずかに笑い、筆を取った。
 ——橋は順番を渡すもの。
 ——割るのは、不足を増やすだけ。
 ——名は鍵。鍵穴は、互いの胸に。
 詩文に近い返書になった。詩は戦に弱いが、詩がある場所は人間の場所だ。人間の場所が残っていれば、冬は遅れる。

 返書を送った夜、灯璃は寝室で背中越しの手を伸ばし、やはり眠りに落ちる寸前で指先を引っ込めた。
火の精が尾を振る。
 “言葉を増やすことと、触れることは似ている。似ているが、別だ。触れるのは、言葉のあとでいい”
 (言葉を増やすと、冷える)
 “温度を混ぜればいい。目を見て、短く”
 灯璃はうなずき、目を閉じた。
 短く、は難しい。人は、大事なときほど言葉が長くなる。



 沈黙は、やさしい虐待に似ている。
 増やすのは易く、減らすのが難しい。
 婚姻の「新婚」は、時に、沈黙の別名になる。
 城の人々はそれを「落ち着き」と呼び、街の人々は「しっとり」と呼び、白い袖は「節度」と記録し、宰相は「疲れ」と判断し、蜂蜜屋は「甘く煮詰めすぎると焦げる」と笑った。焦げは苦い。苦いものは大人の味と呼ばれがちだが、子どもはそれを吐き出す。王と灯璃の「子ども」の部分は、吐き出すことを忘れつつあった。

 ある夜、灯璃は覚悟を持って言葉を増やしにいった。
 眠る前、寝台の上ではなく、窓辺で。
 「セイ」
 王が目を上げる。
 「わたしの火が、あなたを削っていない?」
 最短の言葉だった。
 王は答えを用意していなかった。未熟のせいで、ではなく、嘘を避けるために。
 「……分からない」
 正直は、時に刃だ。
 灯璃は頷いた。「分かってよかった」
 「君は?」
 「削れている」
 長い沈黙のあとで、短い真実を一つずつ置く。置かれた真実は部屋の温度を変え、窓の外の星の位置を少しだけ移動させた気がした。気がしただけでも、冬には十分だ。

 「分け合いの用法を、決めよう」
 王が言った。
 「昼は、分け合う。夜は、分けない」
 灯璃は笑った。「交代制」
 「交代制」
 短い取り決めが、長い夜の奥で輪になった。輪は燃えない。燃えない輪は、眠りを呼ぶ。
 その夜、二人は背中越しの手を伸ばし、指先が触れるところまで近づき、触れずに眠った。触れないのは取り決めのため。取り決めがあると、人は安心して眠れる。安心は、冬の本質的な薬だ。



 翌日から、昼と夜の用法が変わった。
 昼、評議の机では、灯璃が輪を中心に置き、王はその外周で温度の流れを整える。輪が疲れ始める前に、王が手の甲で「赤」を思い出し、灯璃の掌の「白」をなぞる。触れない。思い出すだけ。思い出し方にも、温度がある。
 夜、輪は机の上に置かない。火の精は低く尾を振り、灯璃は蜂蜜湯を一匙だけ飲む。王は面頬を棚から出し、出しただけで、つけない。つけない仮面は、誓いの反対側にぶら下がる重りだ。

 それでも、言わない言葉は完全には減らない。
 減らさないほうがいい沈黙もある。沈黙の内側で育つものもある。
 王は政の場で言葉を増やした。「倉の鍵は当番制」「輪番の交代は隔日」「融雪水の受け口に巫女の名の札を置く」
 灯璃は街の場で言葉を増やした。「輪の温度は回すだけ」「燃やさない」「燃えるのは急ぐときだけ」「急がないで済むように、手を貸して」
 言葉が増えると、白い袖の解釈も増える。
 「巫女、行政に深く関与。——記録する」
 「王、巫女への依存、日常化。——記録する」
 記録の紙は冷たく、冷たい紙は長く残る。長く残るものは、春にも影を落とす。



 夜更け、灯璃は孤児院の窓から外を見た。
 子どもがひとり、寝返りを打つ。輪が足元で低く鳴る。鳴るのは灯璃にしか聞こえない音だ。音は輪の内側で温度を整え、外へは何も出さない。
 エルナがそっと立って、湯の残りを片付けながら囁く。
 「……春分の晩のこと、まだ」
 「言わないで」
 灯璃は微笑んだ。
 「嘘を長く持つのは、上手じゃないけど、これは——」
 「必要、ですね」
 必要。
 必要という言葉は、罪悪感を薄める。薄まった罪悪感は、よく眠る。眠って、ある日、起きる。
 火の精が尾を振る。
 “代価は常に等価とは限らない。嘘は、いずれ割れる。そのとき君は、割れ目の形を選べる”
 (どんな形がいいの)
 “君の目を傷つけない形”
 (そんな割れ方、ある?)
 “恋は、そういう無理をときどき可能にする”



 将軍ルオからの返書は、詩への詩だった。
 ——橋は渡るため。
 ——だが渡った先で、刃が待つこともある。
 ——君らの門番は、眠るか。
 王は笑い、灯璃も笑った。
 「交代制」と二人は同時に書き、宰相は苦笑いして「外交文書に交代制は出てきません」と言い、けれど封をした。
 笑っているあいだは、痩せても痛まない。笑いは痛みの間に挟む薄い紙だ。薄い紙は、湿れば破れる。乾けば持つ。



 ある夜、王は目を覚ました。
 背中越しに、灯璃の呼吸が薄い。薄い呼吸は、浅い眠りの証拠だ。
 「起きているか」
 「起きているふり」
 「ふりは、上手く」
 「はい」
 二人は同じ会話を二度目、三度目と繰り返し、その繰り返しが妙に心地よく、少しだけ悲しくなった。繰り返しは、親密と消耗のちょうど真ん中に位置する。
 王は、背中越しに手を伸ばし、今度は触れた。
 灯璃の指が、ゆっくりと握り返す。
 指の骨が細くて、皮膚が薄くて、血が遠い。
 「……分け合っていない」
 王が言う。
 「うん。夜は、分けない」
 短い取り決めが、よく守られる夜だった。
 そのかわり、二人は目を閉じて、指先で言葉を増やした。
 ありがとう、を左の人差し指で。
 ごめん、を右の薬指で。
 怖い、を小指で。
 大丈夫、を掌の真ん中で。
 言葉の手話を作って、眠った。
 眠りは、今度は落ちてこず、降りてきた。降りてくる眠りは、やさしい。やさしい眠りは、寿命に似ている。



 薄紅の季節が、ゆっくりと白に押し戻される日もあった。春は一進一退で、退く日は人を疑い深くする。
 白い袖が露台で短く告げた。「沈黙の新婚。——記録する」
 言葉は街角に降り、蜜にまぶされ、皮肉をまとって歩き、孤児院の柵をすり抜け、王城の廊で薄く響いた。
 宰相が紙束を置きながら言う。「言葉は火です。拾わねば消えます。煽れば燃えます」
 王は輪を指した。「回せば温まる」
 灯璃は頷き、机の右に輪を置いた。
 沈黙は増える。輪も増える。
 増えるものが多いほど、人は数え方を忘れる。
 忘れた数は、いつか、まとめてやってくる。



 夜、久しぶりに雪が降った。
 春の雪は、落ちる前から融けはじめる。白い点が空中で丸くなり、窓に当たって筋になり、筋が消えて、湿った匂いだけが残る。
 灯璃は目を閉じ、胸の輪に触れず、触れたふりをして、眠りに身を置いた。
 王は天井の梁の節を数え、数を途中でやめ、背中越しに彼女の指を探った。
 指先は、今日も触れる前に眠りに落ち——そして、今度は、眠りが二人を抱くように降りてきた。
 抱かれる眠りの中で、灯璃は火の精の尾の重さをほとんど感じず、王は自分の甲に残る赤の脈を、遠い太鼓のように聴いた。
 遠い太鼓は、前夜の記憶を呼ぶ。
 前夜の記憶は、沈黙の奥で火照る。

 沈黙は、やさしい虐待に似ている。
 それでも、やさしいものは、人を守る。
 守りながら、削る。
 削りながら、近づける。
 近づけながら、触れる前に眠らせる。
 ——沈黙の新婚は、そういう季節の名だった。
 季節には終わりがあり、終わりのほうが名前を強くする。
 そのうち、この季節にも別の名がつく。
 そしていつか、灯璃の「言わないで」という嘘が目を覚まし、王の「未熟」という罰が別の名に変わり、二人の輪は、もう一度、用法を変える。
 それまでは——
 同じ部屋で、同じ机に向かい、同じ寝台で、背中越しに手を探り合う。
 触れる前に眠りが落ちる夜を、交代制で見守る。
 眠りに降りてくる春の音を、まだ名前のないままで聴く。
 そのやり方で、冬の端を、少しずつ削っていく。