春分の朝は、音から来た。
 夜の長さと昼の長さが釣り合うはずの朝に限って、音は少しだけ多い。太鼓は二度、間隔を長く空け、鐘は凍った口をようやく開けて短く鳴り、氷の回廊は陽に白くまぶしく、遠くで子どもが紙の飾りを振るわせる音がした。飾りは冬の形を真似した花で、白と薄紅が交互に連なる。薄紅は小春ではなく、春分の薄紅だ。幻ではなく、宣言だ。

 灯璃(あかり)は、寝台の端に浅く腰をかけ、呼吸を整えていた。
 膝の裏はまだ熱の抜けきらない痛みで軋み、指の節は煤を吸いこんだように重い。第十一章の終わり――氷海の逆炎は、身体のある場所から時間を刳り取り、置き土産に空白を残した。空白は痛みではなく、輪郭の薄さだ。輪郭が薄いと、立ち上がるときに世界が遠くなる。遠さは、焦りに似て、焦りではない。

 侍女のひとり、エルナが黙って外套を肩にかけた。
 「……歩けますか」
 「歩けるふりなら」
 エルナは眉間に小さなしわを寄せ、「ふりは上手く」と呟いた。上手くというのは、誰にも気づかれないように、という意味だ。気づかれないふりは、気づいてほしくない人がいるときにいちばん上手くなる。
 火の精が胸の奥で尾を振る。
 “代価は常に等価とは限らない。きょうの代価は、歩幅の短さと、嘘の長さ”
 「嘘?」
 “嘘は、冬より長持ちすることがある”

 鏡台の前で、灯璃はゆっくりと立ち上がった。
 白い衣に薄紅の縁取り。胸には小さな輪を紐で下げ、指の煤は粉をうすく乗せて隠す。隠すという行為は、いつだって恥ではなく、配慮だ。配慮は、自分のためであり、相手のためでもある。
 扉の外には宰相が立っていた。
 「お加減は」
 「蜂蜜湯と輪で、なんとか」
 宰相は頷き、視線を下げた先で、灯璃の靴の紐がきちんと結ばれているのを確かめた。紐は二重に結ばれている。ほどけないように。ほどけない結び目は、祝祭の日のひそかな祈りだ。

 王都ノルドレイムの広場は、既に人で満ちていた。
 露台には白い布がかけられ、祈りの文言が半分だけ覆い隠されている。半分は政治のために、半分は祝祭のために。半分であることが、きょうのすべてを象徴していた。
 ヴァルナーは露台の影にいて、若い神官に式次第の一部を読み上げさせている。彼自身は口を閉じ、記録用の細い筆を握っている。記録は刃にも盾にもなる――それを、彼は誰よりも知っている顔だ。

 王、セイグリムは段の上に立ち、氷の青を薄く穏やかな色調に折りたたんでいた。
 遠くから見ると、彼はいつも通りに見えた。近くへ行くと、違っていた。手袋が、ない。
 素手の指が、彼の脇に静かに下がっていた。頬の傷は朝の光を跳ね返さず、むしろ光を吸い込むように静まっている。灯璃の胸の火床が、それだけで落ち着く。落ち着くことは火にとって危険で、同時に必要だ。

 「――灯璃」
 呼ばう声は短く、距離の内側に届く高さだった。
 「セイ」
 灯璃は返し、二人は互いに手を伸ばさず、目だけを合わせた。
 「歩けるか」
 「歩けるふりは」
 王の青が、ほんのわずかに細まった。
 「ふりは、長く続けると、本物になることがある」
 「本物にするための支えが、必要です」
 「支える」

 広場に沈黙が置かれ、太鼓が一度だけ鳴った。
 春分の契り――婚姻の正式化の儀は、三つの段からなる。
 第一に、**誓約刻印(氷の紋)**を王が手の甲に押す。
 第二に、巫女刻印(火の紋)を灯璃が掌に起こす。
 第三に、二つの紋を重ね合わせ、互いの名を呼ぶ。
 名は鍵だ。鍵は輪に通す。輪は燃えない。燃えないものだけが、冬を越える。

 宰相が式の文を短く読み上げ、ヴァルナーの若い神官が古い祈りを半分だけ唱え、露台の袖が揺れて、蜂蜜屋の老婆が人々の後ろで孫の背を撫でる。
 灯璃は段を上り、王の正面に立った。膝は笑わなかった。笑わないのは、笑わせないふりの結果だった。
 王は右手を高く掲げる。手の甲に、薄い霜のような紋が現れ、線が交差し、環を描き、最後に中央で点がひとつ灯った。
 誓約刻印――氷の紋は、たいてい冷たい。触れれば、皮膚の温度を奪うはずだ。

 灯璃は自分の掌を胸の前で合わせ、静かに開いた。
 掌の中央に、小さな火の輪が生まれ、輪の内側に文字にならない線が走り、赤くもなく、金でもない、鈍い温度の光が宿った。
 巫女刻印――火の紋は、たいてい熱い。触れれば、相手の温度を上げるはずだ。

 「――合わせる」
 宰相の声が細く、きちんと広場に届く。
 王は一歩進み、灯璃は一歩踏みとどまる。
 距離は、手袋一枚ぶんではなかった。今は、手のひら一枚ぶん。
 王の手の甲、灯璃の掌。
 氷と火の紋が、触れ合った。

 その瞬間、異変が起きた。
 王の氷の紋が、熱を帯びた。
 熱は、奪う形でなく、分け合う形で。
 氷の紋の線が一部、微かに赤を吸い、火の紋の外縁がわずかに白を受け取った。二つの紋が互いの輪郭をなぞり、重なり合う場所で、温度の勾配が平らになった。
 灯璃は息を止め、王は息を忘れ、広場は一拍だけ沈黙を深くした。
 巫女刻印の本来の性――与えること。誓約刻印の本来の性――距離で守ること。
 ふたつが不意に、融合の方向へ傾いた。

 「……セイ」
 灯璃は小声で呼んだ。王は応えなかった。
 彼は、悟ったからだ。
 自分の呪いは奪うだけではない――分け合える可能性がある、と。
 彼の手が触れることで、相手から熱と寿命を奪うはずだった呪いが、きょうは、相手の火の負担を分配する形に変容した。
 変容は、一度で定着するものではない。
 だが、可能性は、いま確かに手のひらの間で温度として立ち上がっていた。

 広場のざわめきが遅れて戻り、蜂蜜屋の老婆が「見たかい」と孫の肩を揺さぶり、子どもが「王さま、あったかい」と素直に言った。素直な言葉は、政治よりも速く街角に届く。
 ヴァルナーの白い袖が、露台の影で形を変えた。形を変えるのは、彼の記録の字だ。
 「王、刻印に変調あり。――記録する」
 記録は刃にも盾にもなる。きょうは、刃にも盾にもなる。

 「名を」
 宰相が促す。
 王は、灯璃の名を呼んだ。
 「灯璃」
 灯璃は、王の名を呼んだ。
 「セイ」
 名は鍵。鍵は輪に通され、輪は二人の掌の間で、音のしない音を立てた。
 詩のように長い文句は必要なかった。短い名が、すべてを繋いだ。
 人々が一斉に息を吐き、太鼓が一度、鐘が一度、鳴った。
 春分の契りは、成った。

 式は進み、形式の文が読み上げられ、捺印の順番が丁寧に繰り返され、贈り物の盆が列を作り、少年たちは輪番の手つきをいつもよりゆっくりにしていた。ゆっくりにするのは、きょうに限って許される贅沢だ。
 王の手は、灯璃の手から離れていた。離れて、それでも温度はわずかに残っていた。残る温度は、言葉の余韻に似て、二人だけが知る高さで揺れていた。
 王は何度も、手の甲を見た。
 氷の紋の一部に、薄い赤が縫い込まれている。赤は、燃える赤ではない。内側で欠伸をする炭火の色だ。
 灯璃は何度も、掌を握った。
 火の紋の外縁に、細い白が沈んでいる。白は、凍る白ではない。雪解け前の氷に差し込む朝の白だ。

 「陛下」
 宰相が近づき、小声で囁いた。「変調を……公に言葉に?」
 王は首を横に振った。
 「まだ、言わない。言葉にするには、確かさが足りない」
 「記録は?」
 「私の胸に」
 宰相は短く息を吐き、それ以上追わなかった。追わないことは、政治の礼儀だ。

 祝宴の準備が進み、露台からは穏やかな祈りが流れ、人々は蜂蜜湯を受け取り、子どもは花飾りの紙を増やし、春の歌の最初の一節だけが幾度も繰り返された。春の歌は長い。長い歌は、最初の一節がいちばん強い。
 灯璃は段から降り、孤児院の子たちに目で挨拶を送った。子らは口を大きく開けて笑い、唇の内側の赤が、雪の上に美しかった。美しさは、白い背景でよく見える。
 歩けるふりは、まだ、保っていた。
 保ち続けるうち、ふりがほんの少しだけ、本物に近づくことがある。近づくぶんを、あとで身体が取り戻しに来る。それを灯璃は分かっていた。分かっていながら、足を運ぶ。今日だけは、運ぶと決めた。

 王は人々の間に声を置き、距離を言葉に換え、笑い過ぎない笑いで受け、握り過ぎない手で応えた。手袋をしていない王に、人々は驚き、そしてすぐに、慣れた。慣れは、人が持つもっとも優しい適応だ。
 近くで、白い袖がこちらを見ている。ヴァルナー自身ではない。彼は祝祭の顔をして、記録を若い神官に任せ、遠くの陰に退いている。影が薄い。薄い影は、季節の端に似て不気味だ。

 将軍ルオは、来ていない。
 国境で風を嗅いでいるらしい、と宰相は耳打ちした。
 「今日は礼儀の番だと、彼は言うでしょう」
 王は頷き、灯璃を一度だけ見た。彼女は視線を受け、蜂蜜湯の器を両手で受ける所作で返した。器の熱が、掌に、ほんのわずかしか伝わらない。分け合う温度で、彼女は今日は自分の中の火を抑えている。

 祝祭の中心が、ゆっくりと解けていく。
 人の流れは春の川のように、曲がりながら速さを変え、石に当たって跳ね、沈黙と笑いを交互に連れて歩く。灯璃はその流れの端に乗り、孤児院の前で一度だけ立ち止まり、子らに紙の花を撫でる手つきを教え、また歩き出した。
 歩くたびに、視界の白が端でちらつく。白は寿命の白。白は「今ではないどこか」の色だ。
 火の精が尾を振る。
 “離れろ。離れどきは、祝祭の音に紛れている”
 「もう少し」
 “もう少しは、いつだって危ない”
 灯璃は笑ってみせた。笑いは配慮であり、嘘ではなかった。嘘は、もっとあとで来る。

 王が近づいた。
 「……疲れが見える」
 「見せました」
 「見せるのは、上手い嘘だ」
 「きょうは、上手い嘘が必要です」
 彼は言葉を飲み込み、指先で空気を少しだけ撫でた。触れない。触れない代わりに、空気の向きを変える。空気の向きが変わると、彼女の髪の一房が頬から離れ、視界が少しだけ晴れた。
 「誓いは、政治ではない」
 「政治は、誓いを使う」
 「使わせる。――使い捨てにはしない」
 うなずき合い、ふたりは、それぞれの位置に戻った。

 春分の儀は、夕刻の鐘で公式に閉じた。
 鐘の音は柔らかく、冬の終わりにしては控えめで、遠慮がちで、人に優しかった。優しさは、時に人をだます。だまされたふりをするのが、今日の礼儀だと灯璃は思った。
 彼女は段から降り、侍女のエルナの袖を軽く握った。
 「……少し、部屋で休むね」
 「お供します」
 「大丈夫。すぐに戻る」
 エルナは一瞬口をつぐみ、頷いた。その頷きには、信頼と、不安と、職責が等分に入っていた。

 王は露台の裏で、宰相と短く言葉を交わしていた。
「刻印の変調――いずれ、誰かが解釈する」
「解釈は、先回りして薄めるのがよろしい」
「薄めすぎると、消える」
「消えると、流言だけが残る」
 そう言いながらも、彼の視線は時折、人の波の向こうの扉へ向かった。灯璃が消えた扉だ。視線だけでは届かない。届かないものがあるとき、王は自分を責める。責めるのは自由だが、役には立たない。役に立つ責め方は、世界に少ない。

 廊は静かで、春の薄紅が窓の縁に小さくしみていた。
 灯璃は角を曲がり、二度ほど呼吸を整え、三度目の呼吸で、足が言うことを聞かなくなった。
 崩れ落ちる。
 床は遠く、近い。近いのに、届かない。
 エルナが駆け寄り、間に合った。
 「灯璃さま!」
 声は小さく、しかし急いでいない。急がないのは、急ぎ方を知っているからだ。
 灯璃は笑ってみせた。笑いは小さく、彼女の顔にしか届かなかった。
 「……大丈夫。少し、嘘をつかせて」

 エルナは彼女を抱え、壁際の椅子まで運んだ。痩せた身体は驚くほど軽く、軽さが重かった。重い軽さは、看取る人だけが知っている種類の重さだ。
 「陛下を――」
 「言わないで」
 灯璃は首を振り、笑いに似た表情をつくった。「心配、させたくない」
 「でも」
 「お願い。王には言わないで。いまは、彼に『勝った』記憶だけを持たせて」
 エルナは口を閉ざした。閉ざすことは、忠誠のかたちのひとつだ。信頼がなければ、ただの怠慢に見える。彼女は信頼されている。信頼は、苦しい。
 火の精が、灯璃の胸の奥で低く言う。
 “その嘘は、長く持つ。――長く持つ嘘は、あとで大きく割れる”
 「分かってる」
 “分かっていても、置くのが恋。置かれるのが絶望”
 灯璃は目を閉じ、輪を胸に当てた。輪は燃えない。燃えないのに、持ち上げられないほど重い瞬間がある。重さは、嘘の重さだ。

 エルナは濡れ布で灯璃のこめかみを拭き、蜂蜜湯を少しだけ唇に触れさせた。
 「ひと息、眠ってください」
 灯璃は頷く代わりに、もう一度だけ言った。
 「……言わないで。お願い」
 「はい」
 その「はい」は、春分の契りと同じくらい重かった。
 そして、同じくらい、後に響くものだった。

 広場では、春の歌の二節目がやっと始まったところだった。
 王は人々に向けた笑いをひとつ減らし、宰相に片眉で合図を送り、露台の陰で一瞬だけ目を閉じた。目を閉じれば、灯璃の掌の白が瞼の裏に浮かぶ。自分の甲に残った赤が、脈と一緒に微かに脈打つ。
 彼は悟りを持て余していた。
 分け合える可能性――それは希望であると同時に、彼にとって新しい責務の形だ。分け合うには、言葉がいる。記録がいる。礼がいる。臆病ではない距離がいる。
 彼は言葉にしようとし、やめた。
 言葉にするのは、今夜ではない。
 今夜は、前夜ではなく、成就の夜だ。
 前夜の勇気ではなく、成就の沈黙を選ぶべき夜。

 ヴァルナーは遠くの陰で、筆を止めていた。
 彼は書く。
 「王、呪いに裂隙を得る。巫女、輪郭を削る。――記録する」
 裂隙は希望でもあるし、侵入路でもある。
 彼はそれを知っている。
 露台の若い神官が「秩序」を繰り返す声を背に、白い袖はわずかにほころび、また整えられた。

 将軍ルオは国境の風の匂いを嗅いでいた。
 「婚姻、成ったか」
 副官が頷く。
 「刻印の変、だと」
 「変は、長続きしにくい」
 「変を、続かせるのが、王と巫女の役割だ」
 彼は笑わず、馬の鼻先を南へ少し向けた。

 灯璃は浅い眠りの端で、夢も見ず、ただ呼吸だけを数えた。
 数えることは野蛮で、文明だ。
 呼吸の合間に、頬の上に残る冷たさ(凍らない冷たさ)と、掌の内に沈む白(凍らない白)と、王の甲に灯った赤(燃えない赤)を、順番に撫で直した。撫でるのは、たしかめるためであり、別れの練習でもあった。
 起き上がれば、ふりはまた始まる。
 ふりは、嘘の手前で止まっている。
 ――まだ。

 夕暮れが遅く、春分の夜は意外に長かった。
 長い夜ほど、人は自分に余白を作り、そこへ嘘を置く。
 嘘は、よく眠る。
 よく眠る嘘は、目覚めると大きい。
 灯璃の嘘は、エルナの胸の中でそっと丸まり、王の部屋の扉の前ではまだ影にもならず、宰相の紙の束の隙間で音を立てず、蜂蜜屋の瓶の底で琥珀の色に紛れ、白い袖の陰で形を測られ、春の風の中で匂いを持たなかった。

 王は夜半、私室で面頬を一度だけ手に取り、また棚に戻した。
 素手の指で、甲の赤に触れる。
 熱はわずかに、まだそこにある。
 「……分け合える」
 ひとりきりで言葉にすると、希望は怖さを連れてくる。
 怖さは、責任の裏を走る。
 彼は窓を開け、薄紅の残り香が消えかけた空気を吸い込んだ。遠く、孤児院の灯が弱く、規則的に揺れている。
 灯璃の部屋の灯は、見えない。
 見えないもののほうが、強く想像される。
想像は、嘘よりも人を傷つけないが、嘘よりも人を救わない。

 扉が軽く叩かれた。
 宰相だ。
 「お休みを」
 「まだ、眠れない」
 「眠れないときは、紙に落とすのがよろしい。言葉は輪になる」
 「輪は、燃えない」
 王は短く笑い、机に向かった。
 ――灯璃へ。
 書き出して、やめた。
 誓いは、書かないから誓いだ。
 書かれた語は、政治に引き寄せられる。
 彼は筆を置き、手の甲の赤に口づけるまねをした。触れない。触れないのに、温度が残る。

 春分の夜は、静かに終わっていった。
 翌朝、蜂蜜屋は飴を増やし、輪番の少年は手袋の糸を繕い、露台の若い神官は記録を読み、ヴァルナーは白い袖を整え、宰相は数字に薄い塩を振った。
 そして、王は自分の手の甲の赤を見て、灯璃の掌の白を思い、微かな笑いを、誰にも見せなかった。
 灯璃は起き上がり、ふりを再開し、エルナは胸の中の嘘を撫でて静かにした。
 嘘は、まだ、良い顔をして眠っている。
 ――まだ、だ。
 目覚める日付は、誰の紙にも書かれていない。
 ただ、春分の契りの奥で、絶望へ向かう細い路が、すでに敷かれ始めていた。
 路は、路の名を持たず、誰の靴音も求めない。
 それでもいつか、人はそこを歩く。

 火の精が、最後にもういちど尾を振った。
 “代価は常に等価とは限らない。きょう置かれた嘘は、君たちの温度を守り、あとで温度を奪う。――それでも、きょうは必要だった”
 灯璃は、胸の輪に触れるふりをした。
 ふりは、嘘ではなかった。
 まだ、嘘ではなかった。
 春は来た。
 春は、来たふりをするのが上手い。
 その上手さに、人は救われ、傷つく。
 そういう春が、今年も始まった。