暁は薄い紙の裏側で擦れる音から始まった。
 東の空の端で、雲と雲がこすれ、氷の表面に細い皺が走る。氷海は眠っているふりをやめ、たわみ、軋み、音を溜めたまま呼吸を深くした。港の太鼓が三度、間隔を空けて叩かれる。三は長い合図――人はそれを知っている。靴紐を結ぶ手が速くなり、祈りの言葉は短くなる。

 氷上の船団は、夜のあいだに身支度を済ませていた。
 船というより、刃だ。船腹は低く、底に鉄の歯を噛ませ、氷を割りながら進む仕様に改めてある。帆は縮め、代わりに人の腕と風の弓が動力になる。王都ノルドレイムの船とヴァルドの艦。二つの群れは鏡のような遠さで向き合い、鏡の中で互いの企みを読む。

 セイグリムは最前の舳先に立った。
 外套の襟は風に遊ばせず、青は薄めない。彼の足は氷の筋を読み、裂け目の気配を拾い、滑走に向いた角度を選ぶ。地図は机の上に取り残してきた。ここで使えるのは、目と耳と足裏の細かな記憶だけだ。
 「合図を――砕く」
 声は短い。短さの裏で、長い冬の思考がゆっくりとほどけていく。

 号砲の代わりに、氷を叩く音が起きた。
 王は両手を開く。氷は彼の手の中で鉱物ではなく水に近い性質を取り戻し、亀裂が走り、瞬時に凍り直す。壊すのに作る、作るのに壊す。その反復が、氷の上に白い道の文字を刻む。
 砕走――砕いて、走る。
 王の船団は、前に伸びる滑走路を得て鋭い角度で進路を変え、ヴァルドの艦列の中央を楔のように割り込んでいった。艦列は二つに裂ける。裂け目は、敵の悲鳴よりも早く凍る。凍る前に、こちらは走り抜ける。

 「右舷、刃を伏せよ。左、漕ぎ出せ。――いま」
 近衛長の声が風を切り、人の力が刃を押し、刃が氷を噛む。氷は抵抗し、そして従う。従わせたあとに氷は必ず復讐を企てるが、それはあとでいい。あとにまわす技術が、冬の戦の最初の剣だ。

 灯璃(あかり)は、港の後背に設けられた大きな天幕で、第二戦線を開いた。
 火は燃やさない。輪だけを置く。
 輪番の少年たちが列を捌き、老水夫が手を引き、女たちが布を渡す。灯璃は掌の丘で傷の縁を温め、凍傷と切り傷の順番を見極め、息の浅い兵に蜂蜜湯を一口だけ含ませる。
 「喉が動くなら、まだ戻れる」
 言葉は短く、手は長い。
 火の精が胸の奥で尾を振る。
 “代価は常に等価とは限らない。ここは、君の時間がいちばん高い”
 「分ける」
 “分けすぎると、君が薄くなる”
 「薄くなると、光が通る」

 天幕の奥、臨時の補給庫では、乾いた薪と布と塩が積まれ、蜂蜜が箱の中で眠っている。灯璃はそこに輪をひとつ置き、融けない温度を保っていた。蜂蜜屋の老婆は前線にはいないが、瓶の蓋に彼女の癖の指跡が残っている。甘いものは戦の言語に訳せないが、戦を人間の場所に引き戻す。

 氷の上、王の楔はさらに深く入った。
 ヴァルドの旗が風に噛まれ、三隻目の舷が遅れる。遅れた舷に王は白い道を滑らせ、後方の二隻を切り離す。切り離された二隻は本能的に合流を試みるが、そこに凍りの縁ができ、縁が小さな堤となり、堤が舵を鈍らせる。
 「矢、来るぞ!」
 近衛の叫び。空に黒い点が生まれ、点が筋になる。氷上戦の矢は風の教えをよく守る。王は舳先を五尺だけずらす。矢はその“ずれ”を嫌い、海へ落ちる。海は凍っているが、矢の頭だけはしばらく泳ぐ。

 将軍ルオは、遠くの舳先で笑っていた。
 彼の笑いは、目に宿らない。唇だけが短く持ち上がる。
 「礼儀を保て、と評議は言う」
 彼は白旗を上げさせた。
 半身の白が、薄い光を返す。
 「礼儀は便利だ、と俺は思う」
 次の瞬間、白旗の影に隠れた炎矢が、港の後背――補給の列をめがけて弧を描いた。白旗の下で放たれた矢は、礼儀の外側にある。礼儀の外側のものは、たいてい効果が高い。

 炎矢はひとつではなかった。
 遅れて二筋、三筋。天幕の外れ、蜂蜜の箱の上、布の山のふち、油を浸した縄の端。矢尻はわずかに薬を含んでいる。火は早く、広がりたがる。
 「水!」
 叫びは遅い。
 灯璃は天幕の外へ踏み出し、息を飲んだ。火が立ち上がる。火は呼ばれれば来る。呼ばれなくても来る。
 ――呼ぶな。
 胸の奥で、火の精が低く言った。
 “呼べば、君が削れる”
 呼ばなければ、燃えるのは人だ。

 灯璃は走った。
 輪では足りない。輪は渡す温度として最良でも、奪う火に対する盾には薄い。
 「灯璃!」天幕の中から宰相の声、「下がれ。兵に任せろ」
 宰相のいう「兵」は、布を叩く手であり、水を運ぶ背であり、叫びの列だ。間に合わない――時間の計算は、冬には厳しい。
 灯璃は足を止めず、矢が刺さった箱の列と人の列の間に身を滑らせた。火が息を吸う。膨らむ。爆ぜる予兆が、耳ではなく骨に来る。
 呼ぶ。
 呼ぶしかない。
 けれど、ただ呼んだのでは、周囲の空気ごと巻き込む。天幕と、傷兵と、蜂蜜と、名簿の白まで。

 灯璃は掌を合わせ、胸の火床の蓋をいつもの場所ではなく、逆側から開けた。
 火の精が、驚いたように尾を振る。
 “逆炎(ぎゃくえん)――飲む火だ。君はまだ、それを”
 「やる」
 言葉の前に、身体が決めていた。

 火が吸われた。
 爆ぜ広がろうとする炎の輪郭が、一瞬で内へ巻き戻る。灯璃の掌と胸の間に、目には見えない穴が開き、火はそこへ落ちていく。落ちる火は、色を失い、音を失い、しかし熱だけは彼女の中を焼き、彼女の時間を食う。
 輪番の少年が悲鳴を飲み、宰相が駆け寄ろうとして足を止める。足を止めることは、勇気の形のひとつだ。触れてはいけない瞬間が、戦にはある。

 「灯璃!」
 誰かが呼び、誰かが呼ばない。呼ばない人は、呼べないからではなく、呼んでも届かない高さがあるのを知っているからだ。
 灯璃の視界に、白が滲んだ。
 白は雪の白ではない。紙の白でもない。
 寿命の白――古い神話にだけ出てくる色で、実際には人の内側を淡く塗っていく。指先の煤が熱で滲み、指の輪郭が少し崩れる。
 彼女はそれでも腕を広げ、逆炎の穴を閉じた。閉じ方を体が覚える。覚えた途端に、穴は彼女を置いて消える。消えたあとに、熱の残像と、時間の欠損が残る。

 爆炎は、呑み込まれていた。
 蜂蜜の箱は焦げを免れ、布の山の端だけが炭化している。油の縄は黒くなって、燃えない。ただ煙が上がり、煙は甘い匂いに溶けていく。
 輪番の少年が尻もちをついたまま、手で顔を覆って泣き、次の瞬間には立って桶を持ち直す。泣き直す暇は、戦にはない。泣き方を後に回すのも、いまは技術だ。

 灯璃は片膝をついた。
 膝は冷たく、同時に熱い。冷たさと熱さが同じ場所に同居すると、人は自分の輪郭を失う。
 “代価は常に等価とは限らない。君はいま、等価より高い代価を払った”
 火の精の声が、遠くなる。
 “離れろ。離れ方を思い出せ”
 離れる――自分から、火から、世界から。
 灯璃は頷いたつもりだったが、首は動かない。視界の白が濃くなる。白は端を持たず、中心を持たず、ただ広がる。
 遠くで、太鼓が一度鳴った。

 その太鼓は、王の船で鳴らされた合図だった。
 砕走の楔は、ヴァルドの艦列の心臓に届いている。
 セイグリムは舵の角度を半分だけ内へ切り、氷の上に走路を二本、素早く描く。二本は交差せず、互いにほとんど触れない距離で平行する。平行は、敵を焦らせる。どちらを追えば良いかを迷わせる。迷いは速度を削る。速度を削られた艦は、刃を鈍らせる。
 「王、正面――!」
 近衛の叫び。
 ルオの旗艦の舳先が、一直線にこちらへ乗り上げてくる。
 彼は白旗を引きちぎり、短い刃を抜いた。
 刃は氷の青ではない。人間の青だ。
 セイグリムは一歩前へ出る。
 「将軍」
 「王」
 挨拶はここまでだ。
 二人は互いの船が寄る刹那、舷から舷へ短い板を渡し、その上で一度だけ足を鳴らした。氷の上の決闘は、足音が約束になる。逃げない、という約束。

 ルオの踏み込みは浅く、速い。
 浅さは油断ではない。王の氷の読みを信用していないだけだ。深く踏み込めば、足元を抜かれる。
 斬撃が一度、二度。王は受けず、空を少しずらしてやり過ごす。ずれは距離だ。距離は臆病に見える。臆病は、戦において、しばしば正確さと同義である。
 「王。――巫女は、どこだ」
 斬り合いの間に、ルオが問う。
 「ここにはいない」
 「賢い。賢いが、弱みだ」
 「君の白旗よりは強い」
 ルオの目がわずかに笑い、次の瞬間、刃が深く入ってきた。
 王は受け、滑らせ、叩いた。
 音は鈍く、刃は根元で折れた。折れた刃の先が氷の上に跳ね、短い音を二度鳴らして静まる。
 ルオは倒れない。倒れない訓練を積んだ身体が、重心をすばやく拾う。
 「――撤く」
 彼は短く言い、背後の旗が動いた。十七の艦のうち、進める艦が進み、遅れる艦が引き、合図は簡潔で、迷いがない。
 勝敗は、一度の折れ目で決まることがある。
 王は追わない。追えば、氷が復讐する。復讐の穴に自分が落ちる。

 港のほうから、勝ち太鼓が遅れて響いた。
 響きは短く、二度。勝利の報せは、たいてい短い。長い勝利は、あとで高くつく。
 セイグリムは舳先を返し、港へ向けて走路を作る。足裏で氷の状態を読みながら、心は別の場所へ走っていた。
 ――灯璃。
 彼は自分の心が、彼女の名を呼ぶ速度に追い付けないのを知っている。
 勝利の報せより先に、胸の奥に冷たい針が立つ。

 天幕の前に人の輪が出来ていた。
 輪は、祈りの輪ではない。戸惑いと、感謝と、恐怖と、興奮と、無言の列が混ざった形。輪の中心に空白。空白は悪い兆しであることが多い。
 セイグリムは人を押し分けなかった。押し分ければ、誰かが倒れる。倒れる人を踏まずに前へ出る方法は、冬には少ない。
 「陛下」宰相が現れ、息を整えずに言った。「補給庫、守りました。――灯璃殿が」
 声の端で、宰相が言葉を飲み込む。飲み込まれた言葉は、白になって喉に残る。
 王は頷き、天幕の中へ入った。

 灯璃は、崩れ落ちる寸前だった。
 椅子も、寝台もない。布の上、膝を折った姿勢のまま、上体が傾く。
 目は開いている。開いているのに、見えていない目だ。
 頬は薄く、冷たい。冷たいが、凍っていない。
 彼女の指先の煤は、今まで見たことのない濃さで、指の節の谷を黒く沈めている。
 「灯璃」
 王は名を呼び、距離を計算した。
 計算は短い。
 彼は手袋を――外す。
 外すことは、前夜の延長線だ。延長線は、戦の最中でも、折れずに残っている。

 セイグリムは膝をつき、素手で彼女の頬に触れた。
 冷たい。
 けれど、凍らない。
 彼の中の冬が、外へ出た。彼女の中の炎が、外へ出ずにそこにいた。境目は、輪のように滑らかで、柵のように確かだった。
 「――戻ってこい」
 言葉は命令ではない。祈りでもない。呼びかけだ。呼びかけは、相手を引っ張らない。立ち上がれる場所を声で示すだけだ。

 火の精が、廊下の風の音に紛れて囁く。
 “代価は常に等価とは限らない。君がさっき払った分は、ここで返らない。――だが、別のところで、形を変えて返る”
 灯璃の睫毛が、わずかに震えた。
 「セイ」
 彼女は口を動かしたつもりだったが、音は出ない。出ない音は、距離の内側だけで聴こえる。
 王は頷き、もう一度だけ頬を撫でた。
 外では、勝ち太鼓が三度目を鳴らした。鈍い、短い音。
 勝利の報せは遅れてくる。遅れてくるあいだに、人は勝利のふりをして倒れる。

 宰相が控えめに近づき、状況を短く報告した。
 「補給の列、維持。火薬庫、被害軽微。蜂蜜、温存。――逆炎で爆発を呑み込みました」
 「逆炎」
 王は繰り返す。
 「代価は」
 「大きい」
 宰相の声は低く、事実だけを置いた。
 王は灯璃の額に手を移し、輪がある位置に自分の掌の呼吸を重ねた。
 「輪を――君の輪を、ここへ」
 灯璃は目を閉じ、わずかに頷いた。指先の煤が、彼女の頬の白に小さな影を落とす。
 「助かった数を、あとで数えましょう」
 王の声は、彼自身を叱る穏やかさを持っていた。
 「助けられなかった数も、あとで数える。今日は、数えない」

 天幕の外で、輪番の少年が次の列を呼ぶ声がする。
 「次――右手、深い切り傷。左、指の先」
 少年の声は震えていない。震えていないのは、震えがまだ彼の順番ではないからだ。
 蜂蜜の香りが薄く漂い、遠くの氷は夜の方へわずかに傾いた。
 ルオの艦は撤いている。撤いた艦が氷上で仄かな引き跡を残し、明日には風がその跡を埋めるだろう。跡が消える前に、人は記録を作る。記録は刃にも盾にもなる。
 ヴァルナーの白い袖は、きょう露台には現れなかった。彼は奥で何かを織っているだろう。冬の奥で織られたものは、春に姿を現す。良いものも、悪いものも。

 灯璃の呼吸が整い、整いきらない。
 吸う長さと吐く長さの差が、彼女の“今”を教える。
 王は頬から額へ、額からこめかみへ、触れ方を変えた。凍らないことは、奇跡ではなく、学習の結果だと――今夜、彼ははっきり理解した。
 「灯璃。――門を開けてくれ。外へ出なくていい。内側の門を」
彼女は目を閉じたまま、微かに笑った。
 「門番、交代制でしょう」
 「今夜は、私が起きている」
 「じゃあ、少しだけ寝ます」
 言いながら、彼女の肩から力が抜けた。抜けた力は床へ落ちず、王の手と、輪の温度に受け止められる。

 外で、太鼓が最後の一度を鳴らし、夜が来た。
 氷は、戦をひとまず受け入れ、音を内側にしまい込む。
 港の灯は増えず、減らず、一定の間隔で揺れ続ける。
 勝利は、長く言わない。
 長く言わない勝利だけが、明日のために残る。

 宰相は静かに天幕の片側を閉じ、近衛は入口から少し離れた位置に立ち、輪番の少年は列の途切れ目を見計らって自分の手の甲を温めた。
 王は灯璃の額に額を寄せることはせず、距離の内側に座った。
 「きょう、私は刃を折った」
 誰にともなく言い、灯璃は答えない。
 「君は火を呑んだ。――代価は、あとで私が数える」
 灯璃の睫毛が、もう一度だけ震えた。
 火の精が、ひどく遠くから言う。
 “代価は常に等価とは限らない。だが、君たちは、代価の片割れを必ず言葉にする。言葉は輪になる。輪は、燃えない”

 夜は深くなり、氷は硬くなり、息は白くなる。
 明日、氷海はまた別の顔を見せるだろう。
 今日、砕いて走った跡は、明日の路になる。
 今日、呑み込んだ火は、明日の温度になる。
 今日、折った刃は、明日の選択になる。
 そして今日、凍らなかった頬は――前夜から続く誓いの、確かな更新だった。
 王はその確かさを、記録にも祈りにも置かず、ただ、手の中に置いた。
 灯璃は、眠りの浅いところで、ゆっくりと呼吸を数えた。
 数えることは、野蛮で、文明だ。
 数え終えたとき、朝は、まだ来ない。
 ――それでいい。
 前夜は、長いほうがいい。
 長い前夜だけが、砕いて走った者の心を、少しだけ人間の場所へ戻すから。